あのにますトライバル

君の気持ちは君の中でだけ育てていけ。

「こんなクラスがいいな」への雑な切り分け

余りにも問題が雑然としているので整理してみるよ。

 

note.com

この記事のスタンスは「元の張り紙自体はよくある一般論で、張り紙の存在を責められるものではない」「張り紙にすることの思想の押しつけとは何か」です。元ツイが消えているのでなんともですが……。

 

絶対ダメなこと

当該アカウントの特定、攻撃行為

→論外。

 

ムカつくこと

いらすとやでそれっぽい画像でドヤってる

→図解系クラスタにゾワゾワするのはわかるが、張り紙自体が何かを誹謗中傷しているわけではないので攻撃されるほどでは全くない。

 

だから教師は陽キャの人の心がわからないクズ

→この人はあなたに悪意はありません。落ち着きましょう。

 

話し合えそうなこと

担任の思想の強制になる

→これは非常に微妙。「貼り紙を貼ることで息苦しさが増す」生徒が出ることは予想できるが、それを指摘すると掲示物全部が否定される。図画の展示も「上手な人と比べられて嫌だ」とか時間割や年間計画表も「嫌な科目や行事があると思うと憂鬱になる」と本当にキリがない。張り紙の内容を毎日復唱させて一日で一回も笑わせられなかった奴を帰りの会で立たせて「〇〇くんは一笑が達成できなかったので一発ギャグをやってください」とかやってるならその限りではないけどさ……。よくわからんけど、この張り紙を使って1984年をやってるわけじゃないでしょ……?

 

指示が抽象的で何をしていいか分からない

→実はこれは指示ではない。張り紙から読み取れることはあくまでも「こうなればいいな」でしかない。これを具体的にするなら「私将来ケーキ屋さんになりたいの」という小学生に「それじゃ製菓の専門学校に行って技術を学んだ後に経営学も学びつつどこに店を構えるか考えているかい?」と詰める大人みたいなものである。具体的視点も大事だけど、全体像をふわっと掴むのも同時に大事である。「ルールを守ろう」と言う標語が目に入ると脅迫されている気持ちになって過呼吸になるとか反発心を覚えてつい隣の子を蹴っちゃうとかなら、かなり個別の対応が必要だと思う。

 

達成出来ないと叱られる

→そもそも目標は必ず達成されるものではないということは経験させるべきではないかと個人的に思う。出来ない人もいるという経験こそ大事。目標があると萎縮する子もいるけれど、その為に全体の目標自体の設定をしないのはナンセンス。それでいじめが発生するなら、目標のせいではなくいじめを行うひとの問題。いや、「他人のアラを探しましょう」とかなら別だけどね。

 

個人に寄り添ってない

→そもそも、全体の理想を個人に寄せたらダメでしょ。体育祭の目標を「総合優勝!」にしないで「〇〇君がいるから絶対優勝はできない。三位になれば良しとしよう」とかやらないでしょ。かと言って勝負事なのに「負けても仕方ないし楽しめばよし!」にするのも教育的には違うよね。「プレッシャーに思う子もいるんです!」はわかるけど、それで全体目標を消すならもう体育祭なんかやる必要ないよね。運動会不要論の話ではありませんのでその話は自分のブログなどでやってください。今はその話してないからね。コメントで運動会とか行事の是非の話するんじゃないぞ、自分のブログでやれよ?大事なことだから何度も言うぞ、行事不要論は自分のブログでやれ。

 

いじめの要因になる

→これで指導されるべきは「張り紙ごときを根拠に他者を排斥する輩」であり、張り紙なんかなくてもいじめは起こるので張り紙を躍起になって否定するほうがちょっと心配になる。運動会や修学旅行の班わけがいじめのきっかけになるから運動会や修学旅行を中止しろみたいな印象。殺人と包丁の関係。

 

劣悪な家庭環境の子には酷

→それはそれ、これはこれ。一口に劣悪と言っても「両親不倫してて帰らない」とか「保護者が認知症入ったおばあちゃんしかいない」とか「毎日満足に食べてない」とか「お兄ちゃんが警察の世話になりまくってる」とか「妹が難病で余命幾ばくない」とか、本当にいろいろ。ただ、個人への配慮とクラス経営は別の視点。ここでその視点で話をするのは「この子は手がないからみんな鉄棒の授業をやめましょう」というのに近いと思う。

 

子供のためにならない

→実際に子供からヒアリングがあってトラウマを受けるような何かがあるならともかく、張り紙単体が明確な他害に繋がるとはとても思えない。もしこの張り紙を見て「全て僕が責められている」と息苦しく感じる子供がいるなら、その子は個別の対応が必要かもしれない。

 

 

現実的に検討の余地がある

視覚過敏の生徒は貼り紙が苦手

→これは工夫の余地があるが、あくまでも現状では個別の対応になる。

 

忘れ物ゼロは息苦しい

→外国では学習道具は学校の備品であるため、忘れ物はないそうだ。日本の学校もそうするか。システムから変更になるね。大変だ。多分「忘れ物は報告」というのは「叱るから吊し上げ」じゃなくて「忘れ物を隠すな、報告して指示をもらえ」という意味だと思うけど……。

 

クラス目標の意義を理解させる

→落とし所はここだと思う。「出来る人はやる」「出来なくても出来るように頑張る」「出来る人が出来ない人に理解やフォローを」が一番。それって安心できるクラスと何も変わらなくない?

 

全体主義はダメ

→これはその通り。張り紙を元にした連帯責任などはよくない。しかし一般論の張り紙まで規制するのは逆の全体主義なんじゃないかと思う。もしこの張り紙の主がそんなクラス経営をしているならアウトだけど、この張り紙だけだと何ともねえ。Twitter(X)だと似たような声が多く聞こえるから「自分の味方が大勢いる!」と気が大きくなる人は見受けられるけどさ……。

 

指示を聞きたくない見たくない人の配慮

→某少年革命家も言っていたけど、指示を聞いて行動することを「ロボットみたい」と感じる人は結構多いのかもしれないと思った。「管理されたくない」というのはこの場合「指示通りに動きたくない」なんじゃないかな。もちろん「生意気に振る舞いたい」から「指示が理解できないのを誤魔化している」までグラデーションのある話だから一概にどうこう言えないけど、この辺ケーキの切れないとか闇バイトとかに繋がっていきそうだなと思った。

 

「正しい息苦しさ」は攻撃に転じる

→今回の騒ぎで一番の論点はここかもしれない。正直、張り紙だけなら「そんなんだね」位にしか思わない。ただそれを脅迫的に思い込んで「正しくないからクラスにいれない」「指示通りに振る舞えない自分は最悪(そもそも指示を出していない)」と思い詰めるとよくない方向へ転がる。そこから「こいつは他人を管理して悦に入るサイコパスだ」まで一直線だ。

 

個人的所感

これ、教育現場の問題というより陰謀論とかに近いと思う。何かに脅迫的に追い詰められているところに「そう思わなくてもいいよ、あなたはそのままで素晴らしい」となるとコロっと怪しい思想に転がっていく。「ちゃんと正しく子育てしなきゃ」が「添加物毒物まみれの世の中から我が子を守る」になるし、「ちゃんと感染症対策しなきゃ」が「コロナは〇〇の陰謀で世界を滅ぼすために〇〇!」になる。

 

たかが一般論の域を出ない張り紙ひとつに「教員が子供をコントロールしたがっているに違いない」「出来ない子供を排除しようとしている」とあるのかどうかわからない物語が付属して、張り紙の内容よりも「自分が如何に惨めだったのか」がクローズアップされると一気に張り紙の主に怒りの矛先がいく。「子供を管理しようとしているに違いない!」そりゃ小学校の先生なら、子供の管理しなきゃじゃない……?

 

 

もちろんこの張り紙を毎朝復唱させて「達成出来ない奴は給食抜きな!」とかやってるなら非難も致し方ないけど……元アカウントの雑巾の干し方を問題視している人もいるけど、実際のところがわからないからそこを問題視しても、と思う。それをあげつらって「こうに違いない!」と叩くことこそ安心できる社会にはほど遠い気がする。

 

もちろん「個人的に性にあわないなあ」と思うのは構わないけど、そこから自己否定に陥ったり他害的な思想に行くのは恐ろしい。じゃあ正しいことへの呼びかけを止めるべきなのかと言えば、そうでもない。

 

これが生活全般の張り紙だから反発もあるかもしれないけど、例えば差別撤廃やLGBTへの啓発だったら?掛け算九九暗記のポスターだったら?避妊具使用の啓発に「正しい教員の言うことなんか聞きたくないですよ、僕はナマでやることしか意義を感じないんです」など、色んなパターンを考えた時に何故この張り紙を攻撃したいのか考えるべきなんじゃないかなと思った。

 

子供を管理しようとしているのが気に入らない、という声が多かったけれど集団生活ならある程度規則やマナーの提示は必要なんじゃないかな……ものは片付けるとか、あいさつをするとか、親切にするとか……。

 

「正しさを強要されて傷ついたから学校へ行かない」はあるかもしれないけど、「〇〇くんが傷つくのであいさつは禁止です」「〇〇さんが学校に来れなくなったのでみなさん〇〇さんより楽しく明るくしてはいけません」とか、やってほしい?

 

そもそも、張り紙にして張り出す行為そのものが他人を支配して攻撃していると感じるならSNSなど支配と懐柔の温床じゃないかと思う。要は「子供のためにならない」と言いつつ「私が傷ついたから謝れ消せ!」のムーブメントに近いと思う。

 

繰り返すけれど、この張り紙に反発を覚える生徒児童には個別的な支援が必要かもしれない。張り紙は全体に向かって張り出すもの。その中で個別の支援がある。個と全体の折り合いについてクラス経営は常に心をすり減らす部分である。本当にこの元の張り紙の教員がろくでもない指導をしているならとんでもないけどさ。

 

ちなみにすごく経験とキャパシティと能力があれば、ルール無用のクラス経営もできるかもしれない。しかしルールを守る以前の子供が増えているなら、ルールを撤廃するのではなく余計ルールで縛るしかクラスを守ることはできなくなる。スーパーの「〇〇しないでください」の張り紙が日に日に増えているのを見ると「ああ守れない人がいるんだな」と思う。買い物かごを持っていくなとか、ちゃんと並べとか、自転車ここに止めるなとか……。

 

この前「値引きシールを貼った惣菜の取り合いはやめてください」みたいな張り紙あって、その現場大変だっただろうなと思った。でも他人の買い物かごに手を突っ込んで商品を取っていく人はこんな張り紙見ないだろうし、真面目に読む人はそんなことしないだろう。じゃあ張り紙に効果はないのかと言えば、そんなこともないとは思うけどね。張り紙って何だろうね。この記事自体も思想の押しつけなんだよ。ブコメも押しつけ。言及はみんな押しつけ。おしまい。

ちょっと小説の話

 ちょっと思いついたことを書きなぐります。

 

anond.hatelabo.jp

 

 そもそも小説って何なのかって話なんだけど、文字で他人を楽しませることが第一なんだよね。「うわーおかしいな!」「ああ、なんて悲しいんだろう!」「こいつめ!許さないぞ!」「幸せになってよかったなあ」「なるほど、そういうことだったか!!」「自分の身に置き換えると考えさせらえるな」みたいな、そういう素朴な感情を引き出したら勝ち。単純な勝ち負けとは違うんだけど、それが到達目標、みたいな。

 

 それで、小説っていうのは面白いことを連ねていくだけじゃダメなんだよね。「犬がとっても怖いお化けの勇者」「ネズミがとっても怖いロボット魔王」「コロッケが大好きなヒロイン」「ラーメン大好きな魔法使い」とキャラを思いつくけれど、じゃあそれらをどう配置するかが大事になってくる。つまりは、構造が大事になってくる。

 

 だから、小説を書き写すだけだと構造は見えてこない。小説を書くなら、まずは構造に気を配るのが大事になってくる。ただべたべた写経するより、登場人物の一覧と各章のプロットを自分なりに作ってみるとかなり練習になると思う。例えばこんな感じ。

 

「ごんぎつね」

登場人物:ごんぎつね、兵十、村人

あらすじ

一、ごんぎつねは兵十の釣り上げたうなぎを奪ってしまう(いたずら心)。

二、その後兵十の母が死んだことを知って、ごんぎつねは兵十の家に食べ物を運ぶ(贖罪)。

三、兵十はごんぎつねの正体に気づかない(不満)。

四、再びごんぎつねの姿を見て兵十はごんぎつねを殺す。そして食べ物を運んできたのがごんぎつねだと知る(後悔)。

 

 最初は出来事だけ抜き出して、ついでに登場人物の心境がどう変化するのかも書いておくといいですね。長編小説の場合、場面がどこで変わるのかを見極めるのも大事です。これを小説以外、映画でもアニメでもなんでもやっているとそのうち「話の構造」っていうのが見えてきます。これのストックを作る。大体展開なんて決まっている。恋愛小説ならくっつくか別れるかのどっちかだし、悪者をやっつける話なら最後には悪者はやっつけられるに決まっている。そこに行くまでの過程も、大体は決まっている。この引き出しをどれだけ組み合わせるかというのが現代の小説には大事になってくる。

 

 細かい話をするなら、小説はただあったことを書けばいいってものではない。適当に例文を書きなぐる。これはあったことだけの要素を抜き出したもの。

「遅刻遅刻ー」

 花山英恵は走っていた。急いでいたので前方不注意だった。

 どっしん

「いたたたた」

 交差点で花山英恵は転校生にぶつかってしまった。

「大丈夫ですか」

「はい、いけない、遅刻遅刻」

 英恵は急いで学校へ向かった。

 ひとつのテクニックとして、情景描写ってのがある。小説っていうのは地の文で主人公の置かれている状況や心情を表せるっていう便利な機能がある。例えば上の文を使うなら、「急いでいたので」と書くよりも「花山英恵はスカートの裾を翻し走っていた」と急いでいそうな表現をしていなくても急いでいる雰囲気が伝わってくる。さらに前方不注意と書くより、何か別のことを考えていたほうが今後の展開を読者に想像しやすい。例えば「今日やってくる転校生のことを考えていた」なんて書いておけば、彼女が転校生が来るのを楽しみにしていると読者に伝わる。そんなことをひとつひとつ細かく考えていく。

 

 そう考えると情景描写ってすごく面倒くさいんだけど、小説っていうのはそういう情景描写の塊なわけで。せっかく書き写しをするなら、この文はどんな効果があるのかっていうのを考えながら書き写すといいと思うな。例えばごんぎつねの冒頭の「これは私の村の茂平というおじいさんから聞いた話です」というような文、これだけで「ああ、昔にあった話なのだな」とわかる。別に「昔々あるところに」と書く必要はない。ついでに「これは茂平さんのつくり話かもしれない」「茂平さんが実は兵十なのではないだろうか」など様々な想像の余地を残すことができる。「昔々あるところに」ではできない詩情なのである。

 

 例文に戻ると、他にも考える余地はたくさんある。例えばどのようにぶつかったのか、ちょっと掠る程度なのか、おもいっきり正面衝突なのか、自転車で飛び出してしまったのか。そもそも彼女は遅刻寸前なのにどうして転校生は悠々と歩いているのかという疑問もあるので、「主人公は朝練に遅刻寸前である」という設定をつければいい。そうすればこの話は部活モノにできるかもしれない。そんな風に文章をぐちゃぐちゃとカスタマイズしていくことが小説を書くひとつの楽しみかもしれない。

 

 実はこれ、中学校の国語あたりで「小説の効果」みたいな感じで勉強していることなのだ。小説の勉強するとき、センター試験の国語の小説問題って結構そういう効果を聞いてくるので、小説の構造が見えてくるとしっかり解けるようになったりする。高校入試くらいの国語の問題集を一冊やるだけでも結構違ったりする。漢字とか文法なんかも勉強できるので何から手をつけていいかわからない人には結構おすすめかもしれない。

 

 この情景描写を覚えると、なんでもかんでも情景描写を使わないと気が済まなくなってくる。悲しいシーンは雨が降るし、事件が解決すると晴れてきて虹が出る。ちなみに行間の心情を推測するなら詩を読むのがいいかもしれない。昭和歌謡のヒットソングとか延々と聞いていると「え、それってそういう意味だったの」ということは結構ある。言葉と言葉が結びついて別の意味が生まれるのは小説よりも短歌や詩の領分かもしれない。

 

nogreenplace.hateblo.jp

 

 あとアレっすね。小説家は何もしないと孤独。コメントなんか来ないのが当たり前。この辺のメンタル調節かなり大事。あとカクヨムとかは自分から絡みにいかないとみんな読んでくれない。ツイッターとかで「#RTされた小説読む」みたいなタグでほかの人と絡みまくったり、カクヨムだと自主企画に参加したりして初めて読者ついてくれる。そういうところ。ぶっちゃけカクヨムは投稿サイト風のSNS。読んでほしかったらほかの人の小説に応援つけるとかダンジョン配信か異世界恋愛書かないと読んでもらえない。ちなみにカクヨムならファンタジーとかラブコメ系のジャンルで一人から星もらえるだけでランキング載っちゃうぞ。「小説の勉強しています必ずレビュー書きます」系の自主企画が一番勉強になる気がする。それが無理なら、もうあきらめて自分の好きな表現を追求する、みたいな世界だと思う。あとは投稿サイトを変えてみるとか。今ならハーメルンとかアルファポリス、ノベプラあたりも大人気だし。その辺投稿したことないからわかんないけど。

 

 あとプロットらしきものがあるなら、それを実際に短編で書いてみるといいんじゃないかなあと思いました。300字以内小説みたいに。これ意外と面倒くさいし、すごく辞書使うし勉強になる。人が読みたいのはあらすじじゃなくて、心の変わりようじゃないかなあというのがとある感想です。

 

 まあ小説を書くなんて釣りみたいなもので、どれだけ上等な餌をひっかけてもポイントを絞ったとしても釣れないときは釣れない。だから、小説家は読者が好きそうな餌を仕込む。どれだけ自分の体験を書きつらねても、それが読者に重ならないと読んでもらえない。釣りもそうだけど、最後は経験がものをいうと思う。だからやっぱり先行研究は大事で、それはどれだけ物語体験があるかなんだと思う。そうでないと本格ファンタ、いやなんでもないです。ああ、これは引っかかってしまったかもしれない。おしまい。

スーパーの推しの子

すごくどうでもいい話なのだけど

 

スーパーに行くと流行りの曲がインストで流れてることあるじゃない。あれで今日YOASOBIのアイドルが流れていたの。そんで思ったの。

 

この曲スーパーのインストに合うなーって。

 

スーパーのインストと言えばヨーカドーでサザエさんとかポパイとかビートルズのHELPとかの印象が強い。HELPが流れるとレジが混んでいるというのは本当なんだろうか。

 

ちょっと前、スーパーの有線で物凄く嫌な歌詞の曲があって客として滞在しているだけでも嫌なのに店員として1日中聞いてなきゃいけないのは大変だなぁと思ったことがある。誰が好きとか卒業寂しいとかそういうのじゃなくて、天国の親に送る歌とか犬が死んじゃったとか、そういう奴。しかもがなって歌う系。正直スーパーで聞きたくない。

 

その点インストはいい。曲そのものを知らなければ上記のような悲劇は防げる。「チープな音源の方が売れ行きが良くなる」というのは本当だろうか。

 

話をYOASOBIのアイドルに戻すと、この曲はスーパーのインストにちょうどいい。音に特徴があってキャッチーだから「あ、YOASOBIの曲だ」とすぐわかる。サザエさんとかポパイみたいなものなんだろう。

 

そうすると、やっぱり世の中キャッチーなのがウケるんだろうな。はてなーもキャッチーになろう。アイコンをピンクにしてみるとか、決めゼリフを考えてみるとか、爆発してみるとか……今日は眠いからおしまい。

 

私たちの求めるものは「所属」なんだろうな

ここ最近のTwitterの没落、推し活の隆盛、社会全体に広がる「寂しさ」みたいなのを見ていくと、私たちが本当に必要なのはTwitterでも推しでもなくて「何者なのか」ということなのかな、と思う。

 

アルコール依存症がどうこうという話があったけど、「星の王子さま」には大人の象徴として呑み助が出てくる。彼は酒を飲み続け、酒を飲んでいることを忘れたくて酒を飲むという。子供の頃「じゃあ飲まなきゃいいのに」と心底思った。そして子供の自分にその疑問をぶつけられたら、今でも答えられる自信はない。「何故呑み助は酒を飲むのを止められないのか」。

 

答えは「アルコール依存症だから」なんだけど、子供の頃の自分に依存症の概念が理解できるとは思わない。「そういう病気だから」と言っても「じゃあ病院で治してもらえばいい」くらいにしか思わないだろう。それ以上の絶望や焦燥感、薬物で塗りつぶさないといけない黒い感情の正体を子供の自分にはあまり教えたくない。そして言葉で説明したところで、子供は真の意味で理解できない。目の前が真っ暗で目が覚める度に「寝ている間に死んでいればよかったのに」と思うような気持ちは、知らなくてもいい。

 

とはいえ、我々は大人になって、白い感情も黒い感情も灰色だとして、ずるい汚い人間になってしまっている。あの頃「上から塗りつぶせば真っ白になるのに」と思っていた心の黒ずみはトイレの黄ばみより強力にこびりついて剥がれない。だけど、心が黒ずむことこそがやはり大人の特権で、ただ白いだけのやつには理解できないこともたくさんある。

 

Twitterがなくなったらどこに行けばいいのか。推しが性被害を受けていて、それがずっと組織ぐるみで行われていたら*1。我々は何者かであろうとしてネットでアカウントを作り、ネットでのキャラを作り、ネットで理想の自分を演じる。

 

本当に欲しいのはTwitterの代替のサービスでも推しでもなく、Twitterでフォロワーの投稿を見ていてもいいと思える瞬間や推しについて語っても許される空間なんじゃないかなと思う。呑み助が本当に欲しいのは酒じゃなくて、酒を呑まなくても受け入れてくれる誰か、みたいなものだと思う。

 

自分が常に何者かを証明し続けないといけない時代になったんだろうなと思う。キャラを作り、その通りに振る舞うことを周囲が望む。タレントでなくても、Webでの振る舞いはタレントのそれと酷似する。

 

私たちが本当に欲しいのは、多分情けない部分もまるごと受け入れてくれる誰か。寂しさを忘れさせてくれる何か。黒を塗りつぶしたと錯覚させてくれるような白い何か。フェミとか陰謀論もそうだと思う。

 

みんな寂しいんだろうな。寂しいよね。

寂しいに根本的な解決策なんかないし。

じゃあね。

*1:正直そういうのはJだけじゃなくて他の事務所でもあるんじゃないのと思っているので私はアイドルという存在自体が苦手なんだと思う。

食洗機の話

ブコメでよく食洗機の話が出るので、食洗機について思うことなど。

 

食洗機のすごいところ

最近食洗機を導入したんだけど、やっぱり便利だね。1番いいなと思ったことが「洗った食器をしまう場所が増えた」というところ。

 

食洗機の導入前は洗いカゴに食器をどう積むかのパズルゲームを毎回やっているような気分になっていた。「ここに平たい皿だから先にお椀を洗って次にコップで……」みたいなことをやるのがいちいち手間だった。個人的に食器洗いで一番面倒なところだと思う。

 

それを食洗機は解決してくれる。何しろ洗っておける食器の量が食洗機にいれる分増えるんだぜ?今までコンロに置くしか無かった鍋も洗いカゴに突っ込めるんだぜ?すごいだろう?

 

ついでに食器洗いにかける時間も減った。皿さえ入れられれば数分で終わる。すごいぜ食洗機。

 

食洗機の大してすごくないところ

まず時間がかかる。人間なら10分くらいで終わるところが1時間とかかかる。その分丁寧にやってくれてるので文句は言わないけど。

 

それから、これはどうしようもないけど結局皿を入れるのが面倒くさいし洗った皿をしまうのも面倒くさい。疲れ果てている時には食洗機に入れることすらしたくない。もう食卓の上から自動で皿がキレイになればいいのに。

 

更に食器を買う時に食洗機対応かどうかいちいち見ないといけなくなったのも新しいコストかな。食洗機の恩恵を考えれば大したことはないコストではあるけど。

 

要は家事って管理だよね

結局食洗機があっても皿を出したりしまったりするのは最終的に人力なわけで、皿の収納は人類がやるしかない。

 

コンピュータ食器棚とかで「OKグーグル、28番の小皿を3枚」とか言ってピーっと排出されるみたいなのが普及しないとこれは解決しない。くら寿司のテーブルみたいに皿を回収する穴に入れると自動で洗浄してくれるみたいなの、できないかなぁ。

 

そんなことを考えてて思ったのが、結局何でも一番面倒なのは「管理」なんだよなぁということ。洗濯も干したり畳んだりよりも何処に何を干すとかどうしまうかとかの方が面倒くさいし、衣替えも面倒くさい。よく「名も無き家事」として挙げられる消耗品の管理も意外と面倒くさい。シャンプーの詰め替え用がもうすぐないとか、ティッシュが残り数枚だとか、柔軟剤は来月安くなるとか、そういうのは果てしなくて面倒くさい。何より終わりがない。毎日着る服の管理。衛生用品のストックの有無。散らかしたものの片付け。冷蔵庫の中身の把握。ああ畜生面倒くせえよお家事じゃねえよ家庭管理だよ畜生が!!!

 

だから

「家事を手伝ってるのに妻が不機嫌だ!」という奴、多分「管理」はやってないんじゃないかという視点の提示をしたい。家事は作業じゃないんだよ、家庭の管理職なんだよ。

 

そんなことを食洗機見てると思う。食洗機はお利口さんだなあ。あとうちの15年ものの炊飯器と洗濯機がそろそろ……洗濯機が先かな……なんかベルトきゅるきゅる鳴ってるし……おわり。

 

文学部出身が文学部の文章について書く

初手で「ながい」のタグをつけたけど、ここまで文章についてみんなどうこう言うと思っていなかったのでこの増田の文章について書いていきます。

 

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文章が下手と言われていますが、残念ながらそう見えるポイントが明確に3つ存在しています。

 

一文が長く、読点(、)が少ない

これは見た目の問題。一文が長い割に読点が少ない。読んでいる人は一文が長いとストレスになるので、文の長さを短くするか読点をもっと打つかしたほうがいい。

 

論旨がわかりにくい

おそらく元増田は「文学部は就職がないぞ!」ということが言いたいのだと思う。それなら就活の話に論点を絞るべきで、元増田の自己紹介とか文学部のいいところとかいらない。

 

あとやたら「~な人向けです」「読みにくいかも」みたいなエクスキューズ入れてるけど、入れるくらいならもっとわかりやすい文章に推敲しろ!「字書き初心者なんですー」と言いながらウザ絡みしてくる同人作家じゃないんだから。ついでに「読みにくいかも」と言いながら「文章書くのうまくなったよ!」というのは皮肉以外の何物でもないよ。自己矛盾だよ。

 

言葉選びがひとりよがり

特に印象に残ったのが「ガクチカ」。「ガクチカ」は就活用語で「学生時代に特に力を入れたこと」なんだけど、これはここ最近の就活用語であって特に年配の方には馴染みのない言葉。対象を文学部生の親御さんにしているならこう言った言葉は避けるべき、または注釈を入れるべき。あと自分語りならまだしも、対象読者を設定して特定の主張がしたいのであれば(笑)や(涙)はちょっとお行儀悪い印象があるのでやめた方が無難。

 

添削例

例えば以下の部分。

 

文学部で就活に成功するのは基本スポ薦でゴリゴリ体育会ウェイか授業最低限で長期インターンハマり奴か公務員になろうという意思を持って1年から公務員就職に関する勉強や情報収集をしている奴です。何も考えずに大手受けても普通に落ちます(笑)パンフレットに載っている大手や勝者で活躍している先輩の紹介はマジのマジで一握りです。各大学が出している学部別の「就職先企業データ」をみましょう。何も考えず王手を受けるのはMARCHの文学部では心もとなさすぎます。運動部全国大会系ガクチカ、長期インターンガクチカなどが作れない(作る気ない)けど文学部で趣味の延長線上みたいなことがしたいならとにかく上位の文学部に入りましょう。

 

まずこれだけの文章で読点ゼロ。更に「ウェイ」「ガクチカ」などの専門用語や俗語の使用、そして「文学部の悪口」のはずなのに「上位の文学部に入りましょう」という主張。それから似た意味の文の連続や独りよがりな記述を改めてみると、こんな感じですかね。

 

文学部で就活に成功するのは、入学時からスポーツ推薦か長期インターンを狙う学生か、公務員試験に向けて情報収集をしている学生です。パンフレットに載っている成功した先輩の紹介はほんの一握りで、実態は「就職先企業データ」を参考にしましょう。何も考えず大手を受けるのはMARCHの文学部でも心もとなさすぎます。スポーツ推薦や長期インターンなどの学部外の活動がないと、文学部では就活でのアピールが稼げません。就活で不利にならずに趣味の延長線上みたいな勉強がしたいなら、とにかく偏差値の高い大学に入りましょう。

 

ちなみにこの部分だけでも「それは他の学部でも一緒じゃないかい?」「文学部でも英文科で趣味の現代英語を極めて通訳とか翻訳者になるパターンもあるよ?」「学芸員になるため考古学専攻するのは?」などツッコミが多い。

 

改善案

以上のように、主張そのものより文章の構造に問題点が多くなかなかイライラする作りになっている。そこでいくつかの改善案を提案します。

 

文は短く、簡潔に。

もうこれ。主語述語だけでいいくらい文を短くしろ。特に誰かに見せたい文なら、しっかり推敲してパラグラフきちんと整えましょう。それから()はなるべく使わないようにしよう。それは(別にどうでもいいけど)このように(そのようにではない)何書いてるか(描くじゃダメなの?)わからなくなるからだね。誰かに見せる文章ならしっかり言い切ろう。

 

先に論点を箇条書きにする。

この文章の最大の難点は論点があっちこっちに飛ぶこと。これを防ぐために、まずは書きたいことを箇条書きに書き出す。この文章には三つの内容が混在しているので、分けてみます。

 

「文学部は就活に不利である」

「失敗した経験談

「成功した学生の例」

「以上のように文学部は就活で不利である」

 

「歴史は大学で勉強するな」

「文学部の勉強は実生活で役に立たない」「歴史を学ぶ意義とは」

「今はネットで調べられるからわざわざ大学に行くな」

 

「MARCHとか下流

「スポーツウェイや意識高いインターンうざい」

「ぼっちに就活はキツい」

「もっと偏差値高い大学行けばよかった」

 

さて、元増田はどの主張がしたかったのだろうか。この方向性が見えるだけで断然読みやすい文章になると思う。

 

余計な話はするな。

これは個人的な印象ですが、雰囲気で教職について語ってるのはブッブーですね。せめて途中まで教職科目とってたとか、教育実習まで言った友人から聞いた話などがないと説得力皆無の悪口でしかないです。あのね、教職は偏差値よりも現状は「理不尽を楽しめるかどうか」なのよ。

 

この部分がなければこの記事は書いてないと思うので、元増田は普段から言わなくていい余計なこと言って誰かを怒らせてないか気になります。

 

そもそも教職と文学部関係ないし、一体何のためにこの下りが出てきたのかと推測すると、やはり元増田が書くこと決めないで書いてるからだろうな。「文学部の悪口書くぜ!俺はダメなやつだ!就活最悪だぜ!そうだ、ついでに教職についても書いたろ!」という感じだったのではないだろうか。文章は構成と計画性大事よ。

 

最後に元増田へ

広告やるなら様々な人がいることを想定しないといけない。特にこういう文章を書くなら対象を絞ってその対象が必要とする情報のみを削ぎ落としたものを掲載するべき。もちろん自分の好きな文章を書いてもいいけど、タイトルは「自分語りです」にしておくべき。この増田が燃えた一番の原因はそこで、タイトルで「お、文学部の悪口が書いてあるのかな」と思ったら文学部は全く関係ない増田の自虐風自分語りだったことが判明して「なんだいなんだい!」となったのが大きい。

 

あと個人的な所見なんだけど、全体的に真面目に歴史を学んでいる学生に対して超失礼。おそらく元増田は自虐癖があって「実は俺最低な奴なんですよ~」というような言い回しをする癖でもあるんじゃないかと思うくらい、自分を悪く言いながら学問そのものをdisってる。この自虐風周辺disは最後にエクスキューズ入れればいいというものでもない。

 

とは言え

「ナァ」「ロム専」あたりのワードチョイスが絶対就活生じゃないだろうというあたり、追記が「爆釣り乙」にしか見えないのも事実。釣りならオメェやるな。よくこんな中身のない絶妙にイライラする長文書けるなーマジで。特に似たような文を連続させる所とか「王手(これはおうてなので大手でタイプミスは考えにくい)」とか。MARCHでうんたら、という学歴コンプを狙ってたんだろうけどMARCHとかどうでもいい文章の前にみんなMARCHを忘れているよ。何か元ネタでもあったのだろうか。爆釣りおめでとう。おしまい。