あのにますトライバル

君の気持ちは君の中でだけ育てていけ。

「こんなクラスがいいな」への雑な切り分け

余りにも問題が雑然としているので整理してみるよ。

 

note.com

この記事のスタンスは「元の張り紙自体はよくある一般論で、張り紙の存在を責められるものではない」「張り紙にすることの思想の押しつけとは何か」です。元ツイが消えているのでなんともですが……。

 

絶対ダメなこと

当該アカウントの特定、攻撃行為

→論外。

 

ムカつくこと

いらすとやでそれっぽい画像でドヤってる

→図解系クラスタにゾワゾワするのはわかるが、張り紙自体が何かを誹謗中傷しているわけではないので攻撃されるほどでは全くない。

 

だから教師は陽キャの人の心がわからないクズ

→この人はあなたに悪意はありません。落ち着きましょう。

 

話し合えそうなこと

担任の思想の強制になる

→これは非常に微妙。「貼り紙を貼ることで息苦しさが増す」生徒が出ることは予想できるが、それを指摘すると掲示物全部が否定される。図画の展示も「上手な人と比べられて嫌だ」とか時間割や年間計画表も「嫌な科目や行事があると思うと憂鬱になる」と本当にキリがない。張り紙の内容を毎日復唱させて一日で一回も笑わせられなかった奴を帰りの会で立たせて「〇〇くんは一笑が達成できなかったので一発ギャグをやってください」とかやってるならその限りではないけどさ……。よくわからんけど、この張り紙を使って1984年をやってるわけじゃないでしょ……?

 

指示が抽象的で何をしていいか分からない

→実はこれは指示ではない。張り紙から読み取れることはあくまでも「こうなればいいな」でしかない。これを具体的にするなら「私将来ケーキ屋さんになりたいの」という小学生に「それじゃ製菓の専門学校に行って技術を学んだ後に経営学も学びつつどこに店を構えるか考えているかい?」と詰める大人みたいなものである。具体的視点も大事だけど、全体像をふわっと掴むのも同時に大事である。「ルールを守ろう」と言う標語が目に入ると脅迫されている気持ちになって過呼吸になるとか反発心を覚えてつい隣の子を蹴っちゃうとかなら、かなり個別の対応が必要だと思う。

 

達成出来ないと叱られる

→そもそも目標は必ず達成されるものではないということは経験させるべきではないかと個人的に思う。出来ない人もいるという経験こそ大事。目標があると萎縮する子もいるけれど、その為に全体の目標自体の設定をしないのはナンセンス。それでいじめが発生するなら、目標のせいではなくいじめを行うひとの問題。いや、「他人のアラを探しましょう」とかなら別だけどね。

 

個人に寄り添ってない

→そもそも、全体の理想を個人に寄せたらダメでしょ。体育祭の目標を「総合優勝!」にしないで「〇〇君がいるから絶対優勝はできない。三位になれば良しとしよう」とかやらないでしょ。かと言って勝負事なのに「負けても仕方ないし楽しめばよし!」にするのも教育的には違うよね。「プレッシャーに思う子もいるんです!」はわかるけど、それで全体目標を消すならもう体育祭なんかやる必要ないよね。運動会不要論の話ではありませんのでその話は自分のブログなどでやってください。今はその話してないからね。コメントで運動会とか行事の是非の話するんじゃないぞ、自分のブログでやれよ?大事なことだから何度も言うぞ、行事不要論は自分のブログでやれ。

 

いじめの要因になる

→これで指導されるべきは「張り紙ごときを根拠に他者を排斥する輩」であり、張り紙なんかなくてもいじめは起こるので張り紙を躍起になって否定するほうがちょっと心配になる。運動会や修学旅行の班わけがいじめのきっかけになるから運動会や修学旅行を中止しろみたいな印象。殺人と包丁の関係。

 

劣悪な家庭環境の子には酷

→それはそれ、これはこれ。一口に劣悪と言っても「両親不倫してて帰らない」とか「保護者が認知症入ったおばあちゃんしかいない」とか「毎日満足に食べてない」とか「お兄ちゃんが警察の世話になりまくってる」とか「妹が難病で余命幾ばくない」とか、本当にいろいろ。ただ、個人への配慮とクラス経営は別の視点。ここでその視点で話をするのは「この子は手がないからみんな鉄棒の授業をやめましょう」というのに近いと思う。

 

子供のためにならない

→実際に子供からヒアリングがあってトラウマを受けるような何かがあるならともかく、張り紙単体が明確な他害に繋がるとはとても思えない。もしこの張り紙を見て「全て僕が責められている」と息苦しく感じる子供がいるなら、その子は個別の対応が必要かもしれない。

 

 

現実的に検討の余地がある

視覚過敏の生徒は貼り紙が苦手

→これは工夫の余地があるが、あくまでも現状では個別の対応になる。

 

忘れ物ゼロは息苦しい

→外国では学習道具は学校の備品であるため、忘れ物はないそうだ。日本の学校もそうするか。システムから変更になるね。大変だ。多分「忘れ物は報告」というのは「叱るから吊し上げ」じゃなくて「忘れ物を隠すな、報告して指示をもらえ」という意味だと思うけど……。

 

クラス目標の意義を理解させる

→落とし所はここだと思う。「出来る人はやる」「出来なくても出来るように頑張る」「出来る人が出来ない人に理解やフォローを」が一番。それって安心できるクラスと何も変わらなくない?

 

全体主義はダメ

→これはその通り。張り紙を元にした連帯責任などはよくない。しかし一般論の張り紙まで規制するのは逆の全体主義なんじゃないかと思う。もしこの張り紙の主がそんなクラス経営をしているならアウトだけど、この張り紙だけだと何ともねえ。Twitter(X)だと似たような声が多く聞こえるから「自分の味方が大勢いる!」と気が大きくなる人は見受けられるけどさ……。

 

指示を聞きたくない見たくない人の配慮

→某少年革命家も言っていたけど、指示を聞いて行動することを「ロボットみたい」と感じる人は結構多いのかもしれないと思った。「管理されたくない」というのはこの場合「指示通りに動きたくない」なんじゃないかな。もちろん「生意気に振る舞いたい」から「指示が理解できないのを誤魔化している」までグラデーションのある話だから一概にどうこう言えないけど、この辺ケーキの切れないとか闇バイトとかに繋がっていきそうだなと思った。

 

「正しい息苦しさ」は攻撃に転じる

→今回の騒ぎで一番の論点はここかもしれない。正直、張り紙だけなら「そんなんだね」位にしか思わない。ただそれを脅迫的に思い込んで「正しくないからクラスにいれない」「指示通りに振る舞えない自分は最悪(そもそも指示を出していない)」と思い詰めるとよくない方向へ転がる。そこから「こいつは他人を管理して悦に入るサイコパスだ」まで一直線だ。

 

個人的所感

これ、教育現場の問題というより陰謀論とかに近いと思う。何かに脅迫的に追い詰められているところに「そう思わなくてもいいよ、あなたはそのままで素晴らしい」となるとコロっと怪しい思想に転がっていく。「ちゃんと正しく子育てしなきゃ」が「添加物毒物まみれの世の中から我が子を守る」になるし、「ちゃんと感染症対策しなきゃ」が「コロナは〇〇の陰謀で世界を滅ぼすために〇〇!」になる。

 

たかが一般論の域を出ない張り紙ひとつに「教員が子供をコントロールしたがっているに違いない」「出来ない子供を排除しようとしている」とあるのかどうかわからない物語が付属して、張り紙の内容よりも「自分が如何に惨めだったのか」がクローズアップされると一気に張り紙の主に怒りの矛先がいく。「子供を管理しようとしているに違いない!」そりゃ小学校の先生なら、子供の管理しなきゃじゃない……?

 

 

もちろんこの張り紙を毎朝復唱させて「達成出来ない奴は給食抜きな!」とかやってるなら非難も致し方ないけど……元アカウントの雑巾の干し方を問題視している人もいるけど、実際のところがわからないからそこを問題視しても、と思う。それをあげつらって「こうに違いない!」と叩くことこそ安心できる社会にはほど遠い気がする。

 

もちろん「個人的に性にあわないなあ」と思うのは構わないけど、そこから自己否定に陥ったり他害的な思想に行くのは恐ろしい。じゃあ正しいことへの呼びかけを止めるべきなのかと言えば、そうでもない。

 

これが生活全般の張り紙だから反発もあるかもしれないけど、例えば差別撤廃やLGBTへの啓発だったら?掛け算九九暗記のポスターだったら?避妊具使用の啓発に「正しい教員の言うことなんか聞きたくないですよ、僕はナマでやることしか意義を感じないんです」など、色んなパターンを考えた時に何故この張り紙を攻撃したいのか考えるべきなんじゃないかなと思った。

 

子供を管理しようとしているのが気に入らない、という声が多かったけれど集団生活ならある程度規則やマナーの提示は必要なんじゃないかな……ものは片付けるとか、あいさつをするとか、親切にするとか……。

 

「正しさを強要されて傷ついたから学校へ行かない」はあるかもしれないけど、「〇〇くんが傷つくのであいさつは禁止です」「〇〇さんが学校に来れなくなったのでみなさん〇〇さんより楽しく明るくしてはいけません」とか、やってほしい?

 

そもそも、張り紙にして張り出す行為そのものが他人を支配して攻撃していると感じるならSNSなど支配と懐柔の温床じゃないかと思う。要は「子供のためにならない」と言いつつ「私が傷ついたから謝れ消せ!」のムーブメントに近いと思う。

 

繰り返すけれど、この張り紙に反発を覚える生徒児童には個別的な支援が必要かもしれない。張り紙は全体に向かって張り出すもの。その中で個別の支援がある。個と全体の折り合いについてクラス経営は常に心をすり減らす部分である。本当にこの元の張り紙の教員がろくでもない指導をしているならとんでもないけどさ。

 

ちなみにすごく経験とキャパシティと能力があれば、ルール無用のクラス経営もできるかもしれない。しかしルールを守る以前の子供が増えているなら、ルールを撤廃するのではなく余計ルールで縛るしかクラスを守ることはできなくなる。スーパーの「〇〇しないでください」の張り紙が日に日に増えているのを見ると「ああ守れない人がいるんだな」と思う。買い物かごを持っていくなとか、ちゃんと並べとか、自転車ここに止めるなとか……。

 

この前「値引きシールを貼った惣菜の取り合いはやめてください」みたいな張り紙あって、その現場大変だっただろうなと思った。でも他人の買い物かごに手を突っ込んで商品を取っていく人はこんな張り紙見ないだろうし、真面目に読む人はそんなことしないだろう。じゃあ張り紙に効果はないのかと言えば、そんなこともないとは思うけどね。張り紙って何だろうね。この記事自体も思想の押しつけなんだよ。ブコメも押しつけ。言及はみんな押しつけ。おしまい。