あのにますトライバル

ぶっちゃけ増田とかのことしかもう書いていない。

そこつはてな長屋

文章を書くって何なんだろうな。しかもそれをネットに流して、一体私たちは何をしたかったんだろうな。そんな話です。昼飯食ったあとで眠い状態でガーッと書いているので寝ぼけています。でも多分ちゃんと書こうと思うと一生公開できない自信があるのでこのまま行きます。すんげーふわふわしてます。すみません。

 

p-shirokuma.hatenadiary.com

 

【他人などわからん】

シロクマ先生の記事の中に「シャチやホオジロザメ」という表現があったのでそこを起点にするのですが、個人的にそんなものの実態は無いんじゃないのかって思ってるんです。Twitterでフォロワー何万というやべぇアカウントも、中身はただのおっさんとか大人気企業アカウントもやらかしたら一瞬で灰にされる世界では「何か影響力が強そうなもの」というものでも安定して権力を得ているものはなくて、フォロワーという砂上の楼閣に成り立っている不安定なものなんじゃないかなーと思っているのです。


それとは逆に、ローマの休日よろしくどこぞの国のお姫様が「刀剣乱舞最高!」と言いながら一番くじの転売に怒っているかもしれないし、政治家の公式アカウントを持ちながら非公式で趣味のラーメン批評アカウントでのほほんとラーメン食べてる人もいるかもしれない。こんな感じでネットに文章を書く、何かを発信するって言うのは大変自由なことだし自分自身と合致していれば非常に楽しいのだけど、裏返すと「自由になれない人には非常に不自由な世界」なのだと思う。

 

anond.hatelabo.jp

 

先日こんな増田があったのだけど、実はこのブログ、ほぼ毎回「こんな内容の記事を書くよ、気に入らない奴はブコメすんなコメントすんな、反論があるならブログでやれコルァ」みたいな文言を載せている。何故かと言うと、本当にそんな感じのコメントが多いからです。「俺はこう思うのにこいつはそんなふうに思わないからバカなんだろうな」とか「私の知ってるあのことをこんなふうに感じるなんてなんて野蛮な人なんでしょう」みたいなコメント、マジであるんだよ。それが事実レベルの話ではなく、完全に感想レベルの話なのね。「桃太郎は鬼にやっつけられた」という話をしていれば「それは違う」と言われても仕方ないけど、「桃太郎に出てくる雉は可愛いよね」と言って「は?桃太郎は猿が一番に決まってんだろ寝言は死んでから言え」みたいな感じ。そんなん知らんがな。「私は猿が好き!」でいいのに、なんでおいらをそんなに攻撃するのかと不思議で不思議でたまらないんだけど、多分その人からすれば「私は雉が好き」という言葉が既に攻撃に感じるものであり、正当性を感じてコメントしているんだろうと思う。おでんはつみれが一番好き、寿司ははまちといくら。よろしく頼むぜ。


そんでさあ、結局書き手と読み手っていうのは一種の共犯関係にあって、読み手がいるから書き手がいるし、書き手がいるから読み手が発生する。読み手が攻撃しようと思って書き手を攻撃すれば書き手は萎縮するし、書き手が意図せず攻撃する文面を載せれば読み手はメロスになる。そんな不毛なやりとりがインターネットっていう世界になったんじゃないかなって思う。


そういう価値観でいうとさ、はてな村っていうシステムを復活させたところですげー微妙だと思うんだよね。多分それはある種の人には救いになるけど、ある種の人には禁断の麻薬になる。自分の頭で考えた結果、みんなと一緒になれて幸せ。それっていわゆる反ワクとか陰謀論とかそういう奴だと思うんだよね。ネットを離れると新興宗教の二世問題みたいなもんになってしまう。


人間っていうのはやっぱり「何者かになりたい」って思うものだから、何者かになったところで何者かになり続けないとあっという間に人は忘れるし、ブログ飯とかそういうのが滅んでいったのは彼らが「何者かになり続けられなかったから」というのが最近の思うところ。年のせいで書けなくなったとか興味の持続がなくなって書けなくなった、というのは正しくて、ただその文章を書くだけの自我が保てなくなっただけなんじゃないかと思う。環境のせいもあるだろうけど、やっぱり一番は己だし、己と向き合うのにはやっぱり己だけで研磨しなくちゃいけないんだけどそんなジャンプでも流行らない孤独で地味な修行を誰がやるんだって思う。


要はこんなことはコスパもタイパも最悪なんだ。誰に向かって書いているかもわからない、己のためと言えばそうかもしれないけどこんなもん書いているなら多分水星の魔女でも見てた方が精神的なコスパはいいんだろうと思う。

 

【己もわからん】

話をちょっと変えてみようか。
そういえばちょいとアタイの話をきいとくれよ。
ところであんたがた、アタイを誰だと思ってんのさ?
言葉を紡いでいる人が誠実であった試しなんてないだろうさ。
こうやってフォロワーを増やしました!という人が月末まであと3000円でどうやって暮らそうかみたいな生活をしているかもしれないし、タワマン文学とか言って自虐的な創作をしている人は広大な戸建ての陽の当たるテラスとかで書いてるかもしれない。


実はこうやって書いている自分自身が一番言葉というものに対して懐疑的というか、結局対面とか肉体とかいうものには言葉は敵わない面があるよなあと思ってて、こうやって文章を書いているあんたは一体誰なのさと言われたら「いや、わっかんねえな」としか言いようがない。まあ、文章で「読んで読んでー」と書くわけなので多少は「他人に認められてえな」という気持ちがないわけではないし、褒められると嬉しい。だけど「読ませるね」とか言われても「いやあ、俺の本質を褒められたわけじゃないしなあ」と思ってしまう。じゃあお前の本質ってなんなんだよって言われると、やっぱり「わっかんねえな」って思う。自分が出来るのは話題の提供であって、自分自身を褒められたいかどうかっていうのは何番目も後の話なんだろうなと思う。


まー、それで思うんだけどさ。


「ネットで文章書いてどうのこうの」っていう人って、リアルでもある程度自分に自信があるというか、ある程度揺るがない地位がある人が多いよなと思う。それかリアルを切り売りしている人。で、さっきも言ったんだけど「文章を書く軸になる自分」がうつり変わったら文章は書けないんじゃね、みたいな話の延長で「文章を書く軸がなかったら存在を許されないのでは?」みたいな焦燥もあるよねっていう感じ。「個人の感想です」の話題で登場する「俺と意見が違うじゃねえか」みたいな人っていうのはそういう「自分の感想を自信をもって発信できない人」なんじゃないかなーとは思っている。そんな人もいてもいいインターネット。シャチの皮を被ったイワシがいてもいいし、ネットネズミをやってるライオンがいてもいいし、彼らはシャチでありネズミである。なんていうか、ネットとリアルの乖離がある意味進んでいる気がする。じゃあここいらで考えなきゃいけないのはネット空間の言説じゃなくて、リアルの体と私の関係性なんじゃね?と高校の現代文みたいな結論をここいらでおいておく。もうすぐ午後の活動時間になっちまう。多分夕方には記事が上げられる、と思う。多分ごちゃごちゃして何が言いたいのかところどころ自分でもよくわかってないんだけど、いいやもう。これは俺のブログだ。てめえの作文でもあんたの頭ん中でもない。紛れもないこの文章書いている奴の思考の整理なんだから。多分文章を書く上で一番大事なのはこの精神だと思う。他人なんか知らねーよばーかばーか。俺は俺の書きたいことを書くだけだ!他者とか井戸とかの前にまずは「何が書きたいか」じゃないかなあ。鏡で自分の顔を見てみようよ。


一回おわり。続かないとは思う。

 

フィクションにおける「都合のいい男」の話

思ったことのメモです。正しい世界を目指しているわけでも間違った世界を生み出そうとしているわけでもありません。

 

おちてよ、ケンさん - 鳥トマト | 少年ジャンプ+

ケンさんが「漫画でフルボッコにするための都合のいい男」として描かれていてこれが「男の性的な消費」なのではと思った。

2022/11/03 19:56

b.hatena.ne.jp

 

ブコメの通り、この漫画に出てくるケンさんは非常に「都合のいい男」だなと思ったのです。以下「都合のいい」についてちょっと考えたことです。


【都合のいい女】

女性はよく「都合のいい女にはなるな」と言われる。具体的に言うと「何でも言うことを聞く」「お金の面倒も身の回りの世話もセックスもなんでもしてくれる」というところだろうか。つまるところ「セックスできるお母さん」になってはいけないということだ。これに金払いが入ると最強になる。「旦那が何もしてくれなくて~」みたいな愚痴をよくよく聞くと「朝ごはんは用意しないと食べてくれない」「言わないとやらないからいちいち小言を言う」など「あなたが甘やかすからでは」という共依存に陥っているようなものもある(個別のケースの所感です)。


また、フィクションでは「セックスを誘う未成年」などの形でも登場する。実在の女性にしたら嫌われるようなことでも受け入れ、性暴力を振るうような主人公に対して好意を持つことで読者に「女はこんなに暴力を受けたがっているぞ!」と勘違いさせると批判が相次ぐ。例えば「お帰りなさい、ご主人様!私のおっぱいを見て癒されてください!」なんていうのはフィクションでも実在の女性に影響を与えるから有害、というわけである。


【都合のいい男】

じゃあ「都合のいい男」っていうのは何なのかっていうと、単純に「性的なものを強調している」ってわけでもないと思うのね。「おっぱいが大きいのは嫌!」「じゃあチンコがでかい男キャラはどうなんだ!」みたいな話が毎回毎回毎回毎回出ていたけど、女性は男性に比べて異性の生殖器に興味はないと思われるのでここは大きな問題ではないのだろうと思う。そこで出てくるのがメッシーアッシーみつぐ君なのだが、要は「尽くす女」と対して変わらないので「男特有の」となるとちょっと違ったりする。


そうすると「フィクションに触れたことで異性を誤解する、記号的に消費する」というのが有害さの本質であって、「女性がフィクションに触れて男性を誤解する、またはフィクションで男性を記号的に消費する」ということがミラーリングとしては相当すると思う。じゃあ「男性が記号的に消費される」ってどういう状況なのかというと、最近思い当たる男性像がある。


簡単に言えば「モラハラDV野郎をスカッと成敗する」みたいな漫画のキャラクターである。例えば例にあげた漫画はケンさんが何故そのような振る舞いをするかというケンさんに向き合ったコンテンツではなく、ただ「有害なケンさんが狂っていく様を更に性格が困ったちゃんの主人公が楽しむ 」という構造になっていて、ケンさんが如何にモラハラDV野郎になったかという言及はない。何故ならケンさんは存在自体が(読者の想定では)害悪であり、彼は断罪されるべきキャラクターとしか存在していない。そこにケンさんの意思はなく、憎まれるためだけに生み出されている。故にケンさんは愛を知らない。「悪人に人権はない」という昔のことわざがあるけど、まさにケンさんは悪人としての象徴であり、彼が転落していくことに意義があり最初から精神的に殺されるためだけのキャラクターに「愛」など教える必要はない。


以前のねほりんぱほりんで「虐待していた人」を取り上げた時、何故虐待をしてしまったのかという思考を珍しく紹介していた。「被害者の心理」はよく取り上げられるが「加害者の心理」は本当に取り上げられにくい。「何故加害に至ったのか」は加害者にしかわからないし、もしかしたら加害者にも何か事情があったのかもしれない(だからと言って被害者に遠慮しろという話では全くない)。


なんていうか、ケンさんからはそういう「人生」を感じない。細川、作者、想定読者のために悪者になるために生まれてきたような、そんなものを感じた。それって「よく揶揄される赤面してる巨乳の女性キャラクター」と何が違うのかと言われると「どっちも作者や読者の欲望を満たすためのキャラなんじゃない?」と思う。


もちろんそれが悪いということもないし、欲望のために生まれ消費されるキャラというのは必要だと思う。ただ「女性キャラに人権を!」というのであればこういう男性を露骨にこき下ろすだけのキャラも同様に不快であると声をあげないとフェアじゃ無いよなと思う。ついでに言うと、細川くんの情報商材あたりの取ってつけた感じも「断罪させるためのキャラ」って感じがして「この子生きてないなー」と思った。別にみんながみんな生き生きしてなくてもいいんですけどね。ついでに言うと、細川くんが男になることについてアレコレ言ってるおじさんもある意味「(物語にとって)都合のいい男」です。


で、こういう「モラハラ野郎殺す漫画」って結構あって類型として「家事育児やらないマザコン旦那」「理解のない中年上司」「時代遅れの昭和親父」みたいな定型悪役はかなり多く転がっている。大体はヒロインを困らせる、あるいは痛い目にあって読者がスっとするだけの役割になっているのではと思う。そこに「父親としての葛藤」「部下を束ねる苦労」「新しい価値観についていけない劣等感」なんてものはない。彼らに人権はないのだから、そんな人間らしい感情を持ち合わせてはいない。何度も言うが、被害者が加害者に配慮しろとかそういう話では無い。物語としては無視してはいけない加害者の感情をないものとして「悪役」という人形のように扱ってはいないかというだけの話だ。


つまり、「都合のいい女をフィクションで摂取してるから現実の女性も都合のいい女だと思う」のであれば「都合のいい男をフィクションで摂取してるから現実の男性もフィクションのように背景のない悪意を持っているに違いない」と思い込む女性がいたっておかしくともなんともないと思う。そのくらい奴らは(物語にとって)都合がいい。


【理解ある彼くん】

そう考えると「理解ある彼くん」も結構「都合のいい男」にカウントされないか?と思ってしまう。この前炎上した「理解ある彼くん現象」は、彼くんだけでなく「敵に設定している人々」にも「よくわからんが主人公に憎悪を向けるだけ」という「(主人公にとって)都合のいい悪役」であった。更に「理解ある彼くん」に至っては存在が示唆されるだけで何がどうなって存在しているのか読者は混乱する。直前のコマが「生きてるだけで嫌われる」というのもポイントで、「嫌われるのに何故結婚できたの?」と読者が混乱する。好意的に捉えれば「発達障害があるとこのような視野で考えてしまうのを表現している」なんだけど、ぶっちゃけ漫画表現として致命的によくないと思うんだよね。

 

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この話だけすると「理解ある彼くん」よりも「生きてるだけで嫌われる」という表現そのものがよくなかったと思ってる。漫画内には書かれていないが、おそらく嫌われる原因がよくわからないまま強い言葉だけ受けたことが印象に残っているからそういう表現になったのだと思う。どうしたって「生きてるだけで嫌われる」になると、もっと強い差別の話になってくる気がする。それこそ生まれながらの属性で入店を拒否されたり道端で唾を吐きかけられたり石をぶつけられたりするような話であり、それと仕事が出来なくて叱られているのを同列に見るのは少しきつい。「どうして私はうまく行かないんだろう」くらいの表現なら少しはマシだったかもしれない。まあ本人が「そう思った」のであれば、「そう思った」まま書くしかないからなぁ……。


【都合のいい話】

とはいえ、都合がよくて何が悪いんだという話は最もである。事実は小説よりも奇なりという言葉にもある通り、実際に起こる出来事なんてランダムもランダムなのでサイコロの出目が1しか出ない時もあれば6ばかり出ることもある。しかし6ばかり出ることを「6ばかりなんですよ」と正直に言っても、あまり信用はされない。こういう話をするとき「道を歩いていたら迷子がいたので一緒にお母さんを探し、お年寄りが重い荷物を持って道路でおろおろしていたので一緒に歩道橋で荷物を持ってあげて、振り向くと産気づいた妊婦がいたので病院まで付き添ってあげたので遅刻しました」という例を毎回出す。ひとつひとつの事象は実際にあってもおかしくないけど、それが連続して起こることが本当に有り得るのかとなると首を傾げたくなる。つまり嘘っぽさが漂う。しかし、絶対有り得ない話かと言われるとそんなことはない。この辺は普段からの信用の蓄積がモノを言うのだと思う。


で、如何にもな遅刻の理由を並べ立てる行為をフィクションでやると嘘くさくなるじゃないですか。よく創作の作法みたいな奴で「キャラクターには弱点を持たせましょう」ってやるじゃん。最初はどうしても「この子はかっこよくてかわいくて強くて優しくてみんなから慕われている」みたいになりがちなんだけど、そうすると「都合のいい」奴になってしまうので「でも〇〇ができない」「〇〇が苦手、嫌い」というバランスをとることで人間らしさを出すということになる*1


逆に「この悪者は汚くてカッコ悪くて意地悪でドン臭くて最悪の奴」とかいうのもアカンよなぁと思うわけで、魅力的な悪役には大体いいところもあったりするのである。凶暴なヤンキーが雨の中子犬拾ってたりするとキュンとくるみたいな、アレです。「めちゃくちゃカッコいいけど意地悪」とか「悪者扱いされがちだけど実は主人公と仲良くしたい」とか、悪役にも背景があるとグッと深くなると思うんだよね。個人の所感です。


で、今回の話に戻ってくるとやっぱりケンさんにそういう人間らしさを感じない。憎悪されるために生み出された藁人形に見える。同じ作者のアッコちゃんが嫁いだ家の住人も同じように、「悪者」というアイコンだけで動いている人形に見える。個人的な感想だけどアッコちゃんもケンさんも「主人公というか作者のモノローグに合わせたアイコンがそれらしく動いて見せるけど最後までキャラクターに昇格せず作者のモノローグで終わる」だと思ってる。それがいいか悪いかは好みの問題として、個人的には箱庭みたいな作品だなあと思っている。ちなみにこの感想はこの前バズった「44歳の処女」でも同じように感じました。作者の箱庭的作品。


もちろん箱庭の作品を楽しむ分には構わないと思うんだけど、箱庭を「リアルだ」という感想を持つのはちょっと危ういなとは思う。要は「6しかない」「1しかない」世界に共感するのはいいとして、じゃあそれが現実に当てはまるかと言われるとどうしても「嘘くせえ」としかならないわけで。お話として楽しむのはいいけど、それを現実に反映するのはある意味作者の箱庭に囚われちゃいないかい?と思うわけで。


【まとめ】

手っ取り早く言うと「フィクションにおいて都合のいい男っていうのは素行の悪いサンドバッグ」ということです。「そんなことないよちゃんと設定してるし」ということならば読者にちゃんと目配せはしといたほうがいいよなあとは思う。クズみたいな奴は実在するけど、フィクションでクズを書く場合に「ただのサンドバッグにしたいのか」「生きた人間として描きたいのか」は考える必要があると思うんだなぁ。ぼかぁ「どうせサンドバッグにするなら人形じゃなくて喋るほうが楽しい」と思うんだな。おわり。

*1:この「弱点出そう」の話は本来「そこからエピソードが生まれやすく、また読者の共感を得られやすい」というものなのですが、それはまあ、それよ。

ディズニー映画雑語り

この前アラジンに怒ってたのでついでに適当にディズニー映画について語っておきます。何かまとめようと思ったけどどうまとめていいかわかんないのでとりとめなく話していきます。マジでまとまってないです。

 

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【コルドロン】

増田、本当はコルドロンの話したかったんだろうな。でもマイナーすぎて誰も話題にしてないのかわいそうなので代わりに「コルドロンやべえ」の話します。

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「ディズニーなんだから面白いんでしょ」と思ったそこの人、本当にこの「コルドロン」はつまらないんだ。この映画を見てない人で「またまたそんなハードルあげちゃって~」とか思ってる人がいたら騙されたと思って見て欲しい。本当につまらないから。


ちなみに簡単なあらすじは「豚飼いの少年が魔法の豚を連れて魔法を使えるお姫様と一緒に悪い魔王をやっつけようとする」というものです。ディズニーフリークなら「シンデレラ城ミステリーツアーのラスボス」といえば「ああ~」ってなってくれると思います。またミステリーツアー行きたいなあ。


どうつまらないんだ、って言うのが難しいくらいこの作品は全方向に褒めるところが見つけにくい。「作画は、まあよく動くんじゃない?」「お姫様が魔法使うところとか、斬新?」という感じです。例えるなら「ジブリって面白いよね!」という人に「ゲド戦記とか……?」という感じです。いや、ゲド戦記ゲド戦記で見どころまあまああるけどさ、「コルドロン」はさあ……本当にどうしちゃったの、という感じ。だいぶ前に見たんだけど「つまらなかった」という強烈な感想だけ覚えてるくらい、つまんなかった。ディズニー作品と比較してとかじゃなくて、本当に普通につまんない。ドラえもん映画で例えると「ドラえもん映画って面白いよね!」という人に「奇跡の島とか……?」という感じです。誰だマジであれにGOサインだした奴。

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美女と野獣

増田の言う通り、美女と野獣なんて当時からしたら最高にポリコレ配慮の塊なんだわ。意志を持って行動するヒロイン、ハンサムだけど女性を救わないヴィラン、そして外見も中身も醜い王子。

美女と野獣について思うところとしては、ガストンって悪人じゃあないんだよね。ベルにアプローチする方法が間違っていたというだけで、何か犯罪を犯したとか明確に誰かを傷つけたということでは無いのよ。最後に野獣と戦うけどさ、ベル視点でなければ「野獣から村を守らなければ」というのは結構自然なことだと思う。まあベルの父を狂人扱いして脅迫するのはちょっと、とは思うけどね。


ガストンの罪深さっていうのは「ベルに好かれるためにベルの話を聞かなかった」ということ以外に特になくて、自惚れ屋だったというのが命取りになったというのでなんか可哀想だなあと思うのです。翻って野獣は狼から守ったり「ベルの好きな物はなんだろう」と図書室をプレゼントしたり、父を心配するベルを解放したりと「彼女のために」という行動をとる。なんとなく、もしガストンの見た目がもう少しよくなかったら多少でも相手を尊重する方法を学べたのではなかろうかとか思うのよ。ガストン惜しい。吹き替えの人めっちゃいい声で好き。


【アラジン】

前の記事で冒頭シーンだけガチガチに怒ってるんだけど、要は「自由」について描きたかったんだと思う。貧困に喘ぐ青年、籠の鳥の王女、そして強大な力を持つがランプに拘束されている魔人。ただ、この作品では「自由」について表現しきれてないと思う。多分このテーマとディズニーの天真爛漫なミュージカルが最高に取り合わせが悪いんだと思う。


ベイマックス

自分のディズニー作品の中で「ポリコレうぜえ」と思ったのは「ベイマックス」かな。ベイマックス単体に恨みは何にもないし、敵の攻撃がかっこよくて大好きだし主人公がウジウジしちゃうところとか最高だしなんだけど、この映画公開時の記憶だと「ベイマックスはポリコレに配慮していて面白い」みたいな感想が割とあったと思う。あと「日本版のプロモーションがダサい」みたいな批判もあった気がする。

個人的に「面白くて正しい」は全然ありだと思う。だけど「正しいから面白い」っていうのはないと思うんだよ。「こういうのを見たかった!」なら分かるんだけど、「私が見たかったからこれは正しくて良いものだ」みたいなのはなぁ。


これらは「ズートピア」でも「モアナ」でも言われていて、「恋愛に発展しないから良い」とか「女の子が活躍するからいい」とか言うのは少し黙ってろと思う。ズトピは主題歌よかったしもふってたし、何より黒幕が最高だった。モアナはモアナかっちょよかったし海の表現マジ綺麗だったしマウイがなかなかいいキャラしてた(後述)し、そういうところは最高だったんだけど「これは正しいから面白いのよ!」と言われると、個人的にはドッチラケなんだわ。

面白いかどうかてめえに決められたくねえんだわ。

面白いとかどうかっていうのに正解作んないでほしいんだわ。

「こうしたら見てくれる人は増えるかな」っていうのは歓迎だしどんどんやればいいと思うんだけどさ。

それは「正しいから」じゃなくて「面白いから」なんだよね。

まずは作品を面白がろうよ。わたしはかなしい。

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リメンバー・ミー

これ、映画館で見て最高に泣いたんだけど多分「ポリコレ」的な人からしたら許し難い映画だと思うんだよね。要は「家族最高!」みたいな映画なので「みんながみんな家族が大切とは思わない」「ママココにとってパパンが地雷だったらどうすんの」みたいに思う人にとっては最高に嫌な映画だろうなと。

ただ、「家族が嫌な人もいるから家族最高という価値観を押し付けるような映画はやめるべきだ」っていう声は目立っていなかった気はする。それが恋愛になると「恋愛は押しつけになるからやめろ」になるのか。それがわからない。例えばアナ雪なんかも「姉が地雷なので姉にキスされるとか気持ち悪い」って人もいるだろうに、そういう声が少なくて「ありのーままのー」一色だったじゃん。

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【弱さを見せる男性像】

これはなんとなくの印象なんだけど、「アナ雪」のクリストフと「モアナ」のマウイって主人公の相手役として描かれているわけなんだけどさ、こいつらなんか心を閉ざしているのかな、と思われるシーンがいくつかある。クリストフは相棒のトナカイに自分の心の声を代弁させるし、マウイに至っては自分の刺青とコミュニケーションしている。これは広く周囲と関わろうというヒロインたちとは対照的な行動だと思っている。自問自答、というより全部自分で完結している世界。それは一種の「弱さ」として浮かび上がってくる。

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アラジンムカつく記事でも書いたんだけどさ、「ラプンツェル」のフリンは途中まで理想的な自分を演じていたんだけど終盤素直に弱い自分を出すところがいいなあと思ったしガストンも見栄ばっかりじゃなくて弱い所をさらけ出せばよかったのにとか思ってしまう(自惚れているところが弱点といえばそうだけどさ)。アナ雪のハンスもヴィランとして「ただの悪者」ではなく「背景のある悪者」になっていたのも印象深い。


昔の作品だと、例えば白雪姫シンデレラなどはもう中身とかどうでも良くて「王子というポジションの肉体」があればよかったんじゃねってくらいのテッテレな描き方だし、コミカルなキャラクターはいても「等身大の生きた男性」というのはあまり見当たらない。まーディズニーはアニメなので、アニメ表現に特化した結果記号的な描き方しちまったところはなくはないと思う。その辺は手塚治虫も話してたなぁとか思うし、そもそも「アニメを現実に近づける」なんていうのは比較的最近のムーブなんだよなと思う。


こうやって並べてみると、「アラジン」にムカついた理由に「アラジンの弱さがイマイチ見えてこない」っていうところがあると思う。一応ドブネズミを呼称してるんだけど、汚くないし這いずり回ってないし惨めであるはずのシーンをミュージカルにして楽しくしてしまったことで「悲惨なアラジンの生活」がクローズアップされてないのね。「お腹が空いてやむにやまれず泥棒を働く」というよりミュージカルで「パンひとつくらいケチケチすんなよ」っていうのは、やっぱりうーんとなる。わかる、わかるよ。アラビアンな盗賊っぽいのやりたかったのはわかるのよ。だけどさぁ(まだ怒ってる)


例えば「ヴィラン主役のスピンオフ」とか結構叩かれるけどさ、「お話の中の悪役にも事情があるよ、弱さがあるよ」と悪役に人権を与えてる感じもある。「マレフィセント」は結構嫌いじゃない。個人的に実写でジャファースピンオフやってほしい。あ、ウィル・スミスがダメか……(未だ実写アラジン未見)。

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ちなみに実写美女と野獣はかなり好きです。コミカル担当の家具たちの内面ガッツリな例のシーンにやられました。あの追加シーン、マジあつい。

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シュガー・ラッシュ

かなり大好きディズニー映画なんだけどさ、これはオッサンほど見て欲しいオッサン映画だと思うの。このブログ書いている人は心がエルサじゃなくてオッサンなのでこの映画見てだーだー泣いたわけですよ。こんなにオッサンに寄り添った映画があっただろうかと。とにかくこの映画は「精神が弱いオッサンが何者かになる」映画なんですよ。

簡単にあらすじを書くと「ゲームセンターにあるレトロゲームの悪役ラルフが悪役ゆえ蔑まれることに耐えきれず、自分のゲームから家出してシュガー・ラッシュというお菓子のレースゲームでバグを起こすため嫌われているヴァネロペというキャラと出会って成長する」っていうところなんだけど、ゲームの小ネタ以前にこの成長ストーリーが痺れるし、ここまで書いてきて「アラジン」でプンプンしてたところが回収されてることに気づいたのね。


冒頭でラルフは悪役ゆえに真面目にゲーム内嫌われてて、寝床もゴミ捨て場みたいなところでひとりぼっち。ゲームの主役のフィリックスは気遣ってくれるけど、全く面白くない。色々あってフィリックスがラルフを探しに来るんだけど、シュガー・ラッシュ内で牢屋に閉じ込められてしまう。「魔法のハンマーでラルフが壊した建物を直す」という設定のフィリックスが魔法のハンマーで格子を壊そうとすると格子が逆に立派なものになってしまって「どうして僕は直すことしか出来ないんだ!」というところに壁を壊して登場するラルフのシーンが大好きで、「自分の役割からは逃れられない」「だから様々な役割と協力することで成し遂げられることがある」みたいなのがもう激アツなんですよ。「アラジン」で漠然と「自由isフリーダム」みたいなこと言ってたけど、まず不自由であることを受け入れることが本当の自由への道だったわけで。


そんでラストも最高だし黒幕の正体もなかなか痺れました。結局ラルフの生活が劇的に改善するとかそういうことはないんだけど、ラルフの心が自由になってるのがよくわかるのがすっごくいい。ちなみに続編は賛否両論なんだけど「パパになったオッサンが娘の自立を見守る」と見るともう泣けて泣けて仕方なかった。パパ映画マジで大好き。

 

【大好きディズニー作品】

最後に取り留めないから好きな作品を適当に上げていく。


オリバー ~ニューヨーク子猫ものがたり~

恋愛要素ほとんどないディズニー映画ですよー!!

ディケンズの「オリバー・ツイスト」を下敷きにしてミュージカルにしちゃった感じの奴。歌がいい。ドジャーという準主役のワンちゃん、本家はビリー・ジョエルで吹替では松崎しげるなんだけどめちゃくちゃ色気ある。あと「完璧なのも楽じゃない」も好き。


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インサイド・ヘッド

これまた恋愛要素ほとんどないディズニー映画ですよー!!!

喜怒哀楽の脳内模様を描いたわっちゃわちゃなんだけど、とあるキーキャラが本当に大好きで、わかってはいたけど映画館で大泣きしてしまった。明かりがついて、高校生カップルの女の子が泣いてるの男の子がよしよししてるのを見たのも良い思い出。


ダンボ

恋愛要素皆無の革新的ディズニー映画!!

もう色んなところで言ってるのですが、この映画は「コンプレックスをバネにした成功映画」などではなく「異形の化け物が有益となって人々に受け入れられるフリークス映画」なんですよ。ダンボが喋れないのも、ダンボの味方をするティモシーが小さいネズミなのも知恵を貸すのがカラスなのも、まーそういうことなんだろうなと。ピンクの象はディズニーファンを名乗るなら絶対見ておいてほしい奴。

 

シリーシンフォニー:クッキーのカーニバル


www.youtube.com

シリーシンフォニーと言えばこれか「音楽の国」。残念ながら恋愛要素があるので革新的とは言えないけど、やりたいことやりきった感じがあって大好き。

 

短編:ドナルドのジレンマ

短編アニメーションだと「ミッキーの大演奏会」「ミッキーのオーケストラ」「ミッキーのグランドオペラ」あたりが大好き。何故か音楽関係ばかりなのは偶然。「ミッキーのオーケストラ」の求人誌見てるドナルド逃走からのミッキーの動きは何度見ても面白い。

 

で、「ドナルドのジレンマ」なんだけどこれは100%恋愛の話なので全く革新的でない話です。表題はドナルドとなっているけれど、実質的な主役はデイジー


デイジーが精神科に一輪の花を持って相談に行く。ある日ドナルドと2人で歩いていると、ドナルドの頭上に鉢植えが落下。そのショックで天才的な歌手になったドナルドは誘拐され、大スターとなることに。スターになったドナルドはデイジーを忘れ、デイジーはドナルドに会うことすら叶わなくなる。どうすれば元の彼に戻るのかと精神科医に尋ねると、「彼を元に戻すと世界的大スターが失われることになる」と世界か彼かの二択を迫る。間髪入れず「彼よ! 」と断言するデイジー精神科医があるアドバイスをする、という話。もうここの「彼よ!」が最高。ヤンデレの走りじゃないかってくらい追い詰められてるデイジーと愛の形が最高。そんでラストも最高。なんかこういう話になるといつも「ドナルドのジレンマ」の話をしている気がする。だって好きなんだもん。


その他

あとそこまで熱く語れないけどムーランとノートルダムの鐘は結構好き。フロロー判事がいいキャラ。あとターザンとロジャーラビットはもっと有名になってもいいと思うんだけどなぁ……プリンセスがいないとダメですかそうですか。


【まとめ】

雑語りなのでまとまってないです。おわり。

ケーキ化に関する超個人的雑感

巷を騒がせている「ケーキ化」について書きたいので書きます。あとこのまとめは何の参考資料もあったもんじゃないのでその辺は先に言っておきます。100%妄言だけで出来ています。 

 

togetter.com


※今回の記事はなるべく全年齢対象でも良さそうな表現をたくさん使いますが、それでも書いてある内容が内容なので性的なものが苦手な人は読まないでください。あとかなりキツめな性の話なので「エッチなのはいけないと思います」「ちょっと気持ち悪い」というコメントはナシでお願いします。


いやちょっとどころではなく人によっては真面目に嫌悪感MAXの話かもしれないので先に概要だけ載せておくと「女体盛りの倒錯性」「モノ化における支配(被支配)願望」「支配と被支配のロールプレイ」みたいな感じです。特殊性癖というより倒錯した性の話です。理解できなかったら安心してもいいと思います。しなくていいです。


全体的感想(個人の見解です)

ケーキ化で無邪気に喜んでる人は多分まだ目覚めてないと思う。モノ化支配的な考えの世界だと「なんてものを白日の下に出しやがって」という考え方になる。よく「巨乳の女の子のイラストがけしからん」とか言うけど、個人的にケーキ化のほうがエロいし文脈的にヤバいのでマジで取り締まってほしいけど、多分大多数の人が「かわいいんじゃない?」とか思ってると思うから多分取り締まられることはない。なんたる猥褻物の陳列。ハレンチにも程がある。であえであえ!!


ケーキ化に対する雑感

まずケーキになったことで泣いているのか、食べられることを恐れて泣いているのかで方向性が変わってくると思う。ケーキになって泣いている、というのは手足をもがれてそれまでの日常生活が送れなくなり、もちろん食事も排泄もそんなものもしなくてよくなってただ飾られるまま過ごすことに対する絶望。食べられるのを恐れているのはそのまんま。実際ケーキ化というか「愛しい貴方、お菓子にして食べちゃいたい」みたいなのはヤンデレ小説みたいなのでよくあるシチュエーション*1だけど、そっちはお菓子にする側がクローズアップされることが多い気がする。「貴方の綺麗なお目目はまるでキャンディーのようね」みたいな。


もしかしたらケーキになっても食事はできるのかもしれないけど、それは人の手を介さないといけないもので、しかも「人と人」ではなく「人とケーキ」なのだから介助というより餌やり感覚になる。命を全部持ち主に委ねられるわけで、これは相当な屈辱になる。


そんでこの子は一体どうしてケーキになっちゃったのかなとか、誰がこのケーキの子を見ているんだろうとか、縁もゆかりも無い悪い組織の人々が女の子をケーキ化して売り飛ばそうとしておうちに帰りたくて泣いてるのかなとか好きな男の子に見られて情けない姿を見られて泣いてるのかなとかその好きな男の子の一部になるしかないとかそれでも食べられるのは怖いとか、売れ残って冷蔵庫の中で徐々に賞味期限が近づいて廃棄されるのを恐れているのかなとか、考えたらキリがない。背景が無限に想像出来るものっていうのはなんか好き。


ものすごい余談なのだけど、たまに食べ物が歩き回って何だかんだってやる幼児用アニメあるじゃん。あれって自分たちが食べられることに関してはどう思っているんだろう。そう考えるとそういうアニメが闇深くしか見えなくて心が拠れているのだなあと感じる。


で、「女の子と食べ物」って言えばあれがあるじゃんとか思ってしまった。女体盛りじゃん。


女体盛りの倒錯性

そんなに女体盛りについて知識はないので「刺身とか体温で温まって食中毒とか大丈夫かな」とかそういう方向でしか考えてなかったんだけど、よく考えると非常に倒錯的な出し物である。


ここでも考えたいのが「皿として見られていることへの背徳」なのか「食されることへの背徳」なのかってこと。「食されることへの背徳」というのはわかりやすい。自身の体を食べ物に見立てられ、まあいろんなところを刺激してもらうわけなので背徳は背徳だろうな。問題は「皿として見られていることへの背徳」のほうで、これは人格とかそういうのを一切無視して「女体」というものだけをクローズアップするという点で非常に背徳的だ。以下こういう「人間の尊厳や人格を排除してただ性的に肉体を消費するという行為にフェティシズムな意味を与えること」を「モノ化」と言っていきます。


モノ化によって女体盛りにされた女性に倒錯があった場合、「皿になりきる」ことが要求される。そこに女性の人生とか尊厳とかそういうのは全く存在しなくて、皿は皿なのだ。食卓に並べられる皿の製造元を気にして食事をする人はほとんどいないだろう。そんな扱いを受けるのである。「それの何が楽しいの?」と思う人の方がほとんどだろう。


この辺自由とか尊厳を大事にする人達には真面目に理解できないだろう。倒錯しているものを理解しようとするだけ無駄である。この辺で「無理」と思う人は本当にこの先読むのやめた方がいいですよ。もう政治的に間違った話しかしないから。


モノ化における支配(被支配)願望

こういう話になると「ロールプレイ」というのが大事になってくる。別にぐるぐる巻にするわけじゃあないですよ。そういうのはマミフィケーションですが、あれはここでのモノ化とは親戚筋だけどまた別のジャンルかもしれない。


例えば「置物」になったら置物は動いてはいけない。だって置物だから。置物である間は1ミリも動いてはいけない。別に拘束とかしている訳じゃないけど、「置物」だから動いてはいけない。もしも動いてしまえば「置物になれ」と命じた主人を裏切ることになるわけで、主人を失望させることになる。信頼を主人に全部預けているから「置物」になれるわけだ。ちなみにこの時主人は「自分に全信頼を預けられている」というまた逃げられないシチュエーションにいて、それが双方を倒錯の道へ進ませているわけなのですねえ。ねえ。これが狭義の「放置プレイ」ですよ。


たぶん上記の例示をみても「やっべ意味わかんね」と思う人の方が多いと思う。意味わかんなくていいんです。世の中わかることばっかりじゃないし。この文章書いてる人も覇弩封神演義の構成は一体なぜそんなことになったのか理解できないし、多分一生できないと思ってる。


とりあえず大事なのは「置物化」というより「主と従の信頼関係」であって、ここが切れるとろくなことにならない。余談だけどこの「信頼関係が切れる」というのもこの文章書いてる人大好きで、「トイストーリー3」とかその辺めちゃくちゃ好きです。デイジーとロッツオとビッグ・ベビーそれぞれの信頼関係がぐちゃぐちゃになるのエモい。


話を戻すと信頼関係が大事であって、そこに身体に影響を及ぼすものがあると特になんかその関係に依存するよねって話。主人のほうも実は従者がいないと主人になれないので従者に依存している面もあって、こういうのって持ちつ持たれつなんだよね。つまり主人と従者っていうロールがしっかりあって、それが破られることがないから出来る世界っていうのかな。


信頼関係が生まれたら主と従をはっきりさせるために尊厳を奪うっていうのもあって「自分で生命活動ができない」とか「肉体のみに注目して人格を排除する」とか「人体から排泄されるのもを掛けられる、摂取させる」とか、とにかく人間扱いしない。そうすると「この人がいないと生きていけない」「こいつは自分がいないとダメだ」となって倒錯ラビューな世界に突入する。


生命活動できない、はケーキ化でも触れたけど食事や排泄の世話を全面的に依存することになる、みたいな感じ。手足切り落とすとかそういう系にもなっていくけど、欠損フェチとはまた別のジャンルかな。人格を排除するっていうのは、さっきの置物の例とか家具化みたいな奴かな。よく変な漫画の広告で半分だけ壁に埋まってるとかそんな感じのシチュエーション出てきて「マイナーな趣味を……」とか思う。排泄物をを掛けられる、っていうのは別に人間便器とかそこまで行かなくても唾を吐き捨てられるみたいなのでも結構人格否定とか屈辱になるから意外とカジュアルなところまでいくよね。あと食べ物以外を食べさせるとか。


余談だけど信頼関係と食べ物以外を食べると言えば逆転裁判3の第1話だよなあとか思う。とあるヤバいもんを食べちゃう行為に対して「信頼しているのであれば、あなたはこれを口に出来ますか?」という返しがめっちゃ好き。


支配と被支配のロールプレイ

モノ化は理解できなくても、「飼育」なら気持ちはわかるよという人もいるんじゃないだろうか。猫を飼っている人がよく「自分は猫の召使い」と表現しているけど、それは結構「召使い」というロールに酔っていると思う。猫がかわいいという感情の他に「自分はこの猫の召使いなんだ」という非支配感情と「でもこいつは俺が命を握っているか弱い生き物なんだ」というアンビバレントな感情が入っていて、それが強くなると「置物」まで行くのかなあと思う。普通は行かないと思うけど。


で、ロールが大事ってさっきから言ってるけど本当に結構ここが大事で、「俺Sなんだよねーだから暴言とか吐いちゃう」とかいうのがいたらそれはただの乱暴者じゃないかなぁとか思うし、「俺Mなんだよねーだからもっとなじって!」とかいうのもMというよりただの気の強い女の子好きじゃないかなあとか思う。主人は従者の追い詰められたい欲望を理解して忠実に蔑むし、従者は主人の期待を全身に受けて主人の「従者の欲望を叶える」という欲望のために頑張るわけで、うーん倒錯!


もうね、そういうのにのめり込むことが目的になってるからささやかであろうと過激であろうとこの支配と被支配の陶酔に囚われるともう二人だけの世界になるから奇跡的なアダムとイブになれるみたいな感じになるんだけど、これどっちも人格を排除した上の倒錯なので究極のロールプレイっていうのはそういうところなんだよね。そういう関係って相手の人生とか人格とかどうでもよくて、ただ役割と肉体があればいいみたいなことになって究極の人格否定みたいになる。


急に真面目な話をすると、尊厳を傷つけて支配しようとすることでしか関係を築けない人っていうのは一定数いて、そういう人がハラスメントしがちっていうところはあるかなと思う。あくまでも「ロールプレイ」っていうのが大事で、その関係を現実に持ち込むのはおバカさんなので現実世界で承認のない相手を支配するのはダメですよと強調しておきます。エスはSLAVE(奴隷)のエス!エムはMASTER(主人)のエム!これ大事!!!!


まとめ

最初にも書いたけど胸がでかいとか顔を赤らめているとかそんなんがなくたってめちゃくちゃ性的なモンは性的なわけですよ。「置物」なんて1ミリも触れてなくても関係性だけでもうヤバい猥褻物じゃないですか、とか思うのはそういうのを大事だと思う奴だけなので別に規制する必要はないと思うんだけどね。でもケーキ化の文脈っていうのはそういうところあるのでうーむ、という感じ。


近況

前回アラジンに怒っていたのですが、結局チェンソーマン既刊全部買いました。第一部おもしろかったですね。なんか全部のせチャーシューメンを流し込まれた気分。おわり。

 

*1:そんなの知らないって?それはそういう世界線を生きていたというだけだ。世の中は広い。

チェンソーマン1話見てたら何故かディズニーのアラジンの悪口になってた

チェンソーマンアニメ1話見たんですよ。


連載1話見て「面白そう!」と思ったけどその後なんか立て込んでゴタゴタしてて結局1話しか読んでない奴だったので楽しみにしてたのですが、楽しみにしてて良かったです。最高でした。洋画オタとかではないので元ネタがよくわからんのですが「オシャレだ」とは思うくらいオシャレだなぁと思いました。お墓のところは「フォレスト・ガンプ」みたい?くらいですね。ああいう非現実的なの楽しいね。あとチェンソーで戦うと言えば「悪魔のいけにえ2」は外せない。あのデニス・ホッパーチェンソーチャンバラめっちゃ大好き。


そんで、デンジがポチタと食パン1枚分け合ってるじゃないですか。そんなところ見てたら「やっぱりアラジンは違うだろ」という気持ちがムクムクと湧いてきまして。


ここから先は人によっては「そんなことでよく長文書けるな」と思うくらい思想的でも実用的でも全くないので、暇な人がデーツでも食べながら見るくらいでいいし、全く個人的な恨み言なので真面目に取り合わないでください。あとアラジンファンは真面目に気分悪くなると思うのでホールニューワールドを結婚式で流すような人は読まないでください。

 


ア ロング ロング アゴ

小さい時のこと。「あのアラジンと魔法のランプがディズニーになるんだって!」とワクワクして多分レンタルビデオで借りてきてもらって鑑賞したときのこと。始まってすぐ「なんやこれ」となり「違う!これは何かが違う!」となりジーニーが登場するまで人生ではじめての「解釈違いで憤慨」という体験をしたものです。多分そんなふうにアラジンを鑑賞するガキというのはディズニーも想定してなかったと思うのですが、存在しちゃったんですよね。もう冒頭からNGとなってしまうと魔法を信じる心が閉店してるもんですから真面目に「アラジン」を鑑賞できなくなっちゃうんですよ。


美女と野獣」「リトル・マーメイド」はまだよかったんですよ。「美女と野獣」はとにかくミュージカルシーンが大好きで、「リトル・マーメイド」も結末には「よしお前表出ろ(ネズミ声)」みたいな気分にはなったけどミュージカルシーンがやっぱりめっちゃ好きなので相殺という形になってたけど、「アラジン」は最初のミュージカルでケチ着いちゃったもんだからジーニー出てくるまで本当に見れないのよ。ジーニーパートはめちゃくちゃ好きなんだけどね。タイトルが「アラジン」じゃなくて「ジーニー」でもいいと思うんだ。


冒頭のシーンとは

具体的に何がNGだったのかという話になるんだけど、簡単に言えば「主人公のアラジンがパンを盗んで逃げていくミュージカルシーン」というところですね。


働けよ


マジで初見から本当にこう思って、その後「いやこれお話だし最初にワイワイしたいだけなのはわかるんだけどさぁ、お前いい年なんだから働けよ」としか思えなかったのよ。特に「パンひとつだけだぜ?生きるためさ~」とか言うの、いやパンひとつだって盗みは盗みだろうし、泥棒は手を切り落とすのがハムラビ法典からの掟だろうさ。というか、よっぽど倫理観崩壊でもしてない限り泥棒するのって後ろめたくならないかな?なにこいつ開き直ってるんだ?というわけ。


見る限りアラジンが働けない理由が本当にないんだよね。その辺でサルーンしてる人々の手伝いするとか、キャラバンに着いてくとか、頑張ってサルーンするとか、やりようはいくらでもありそうなんだけどパンひとつ盗むのに毎回あのミュージカルやる方が絶対コスパ悪いだろと思ってたんだよね。それにこそ泥捕まえるためにあの人数投入する警察平和だし無能だろ、とも思ってた。あと何でこんなこそ泥野郎がさりげなく街の人々に受け入れられてるのかもよくわからんのです。こそ泥だぜ?パン盗んで「ひとつだからいいだろ」みたいな奴ですよ。女性の部屋に飛び込むシーン、なんで歓迎してるのかわからん。ドブネズミなら叩いて追い返さないと何するかわからんぜ。今回冒頭シーンだけ見直して、ジャスミンを目で追うところ「可愛い子だな、素敵だな」というより「マブい女、やりてぇな」みたいな感じだなぁと思ってしまった。ドブネズミだからね。ドブネズミに紳士を求めちゃいけないよ。


いやわかってるんだよこれはディズニーでありおとぎ話であり夢と魔法のファンタジーだってことくらい。だったらそこまで没入させるリアリティくださいよって思うの。アラジンが盗みをしなくちゃいけない理由がミュージカルでは提示されないところが本当にダメで「なんだこいつ」って思ったのよ。終盤でランプ奪い返す所がやりたくて泥棒設定にしたのかもしれないけどさぁ、それならパンである必要なくない?普通に金貨とか盗む泥棒じゃダメだったの?それならちょっと許せる気はするけどさ。


「盗み」の必然性

彼があの生活をするバックボーンをミュージカルシーンだけから考えてみると、天涯孤独で友達が猿だけなのに他人に戦利品を分け与える余裕はある。手を斬られるリスクをとっても生きるために盗んだパンをホイホイ子供に全部あげるのはやはり納得いかない。ここに整合性を与えないといけない。「こころやさしい性格だから」「いやおかしいだろ」で終わってもいいんだけど、今一生懸命考えてみる。


どう考えてもあの街で盗みだけで暮らしていくのは無理がある。小さい子供ならわかるんだけど、どう見ても「働けよ」という年齢のあんちゃんなわけで。つまり「こそ泥」というのはディズニー的な暗喩で、実は別な生活の糧があるのではないか。そう考えるのが自然かなあ。何であの街の連中が「こら!」程度で済ませてるのかもその辺にあるのかもしれない。ヒントは何故か女性たちにも受け入れられていたところ。もしかして、こいつ……いや、でも、うーん……夢と魔法を信じる心が………。


実は今回冒頭シーン見直して強く思ったのが、「アラジン」という作品自体に強烈なルッキズムがあったということ。主人公のアラジンはドブネズミという割にはこざっぱりとしたイケメンとして描かれる一方、悪役の追い回している警官(?)たちやカシム、街のいけ好かない人々は本当に醜男や悪人顔で描かれている。反対に味方や悪と認定されない人々はひょうきんな表情なニュートラルな表現として描かれている。歌舞伎的に悪役を表すサインなのかもしれないけど、それにしてもひどい。


つまり、アラジンって男は「顔」だけの奴なんだ。つまり……アレだ。こいつはアッチでも飯の種を稼いでいる。そんで半分物乞いみたいな感じで糧を得つつ、水商売なので時折こそ泥もする。普段ソッチでお世話になってるから、街の人も多少の泥棒は容認する。だから子供にパンをあげる余裕もあるし、ノミだってついてない。ついてたら商売にならない。これは仮説です。アラジンは人の数だけ解釈がありますからね。すごくどうでもいいのだけど、夢も魔法も見えなくなっちまった世界から見るとホールニューワールド後のジャスミン、完全に事後じゃん。やっぱりソッチでのし上がる話か、僕を信じろ!(←信じちゃいけない奴)


「盗み」の描き方

割とこの辺昔からこだわって作品見てるところなのですが、「生きるために盗みを働くんだぜ」という開き直りをしていても、そういうのってやっぱりどこかで歪みが生じてくるわけですよ。一度開き直った倫理観ってのはぐにゃぐにゃになって、平気で暴力とか詐欺とかそっち方面に流れていくわけで、お腹をすかせた子供にパンを分け与えるとかアンパンマンみたいなことは出来ないわけですよ。アンパンマンジャムおじさんに養ってもらってパンを配ってこいと言われてるからパンを配れるのであって、今自分の命やほかの子供の命がかかってるとなったら少しは躊躇すると思う*1


すごく分かりやすい例を出すと、「火垂るの墓」で清太が一度盗みに手を出してから転げるように盗みまくって痛い目にあって駐在所で泣いてるところあるじゃないですか。「生きるために盗む」っていうのはそういうものだと思うんだよ。清太は自分はもちろん節子のために何か食べさせてやらないとと必死だったわけで、マジで「生きるために」火事場泥棒までやってのける。じゃりン子チエサマーウォーズでも「お腹が空くのが良くない」とよく出てくる通り、空腹は思考力を奪うし倫理観も壊すし人間関係も壊す。せめてデンジみたいに「腹減って眠れねえ」くらいは欲しい。「生きるためにパンを盗む奴」なんだから究極に腹ぺこに決まってるじゃん。ミュージカルとかやってる場合じゃないんだよ。食わねえと死ぬんだよ。さっさと食えよ、分け与えるなよ。お前死ぬんだぞ?みたいな。その辺の悲壮さとか卑屈になる感じとかが全くないのよ。せめてデンジみたいにちゃんと稼いで(?)購入してくれよ。


じゃああの世界の「盗み」に対して異様にヌルい価値観は何なんだ?と思うと、「王宮に住みたい」「金持ちばかりズルい」みたいなところもあるのでもしかしたら「ブルジョワジーからなら多少掠めとってもいいだろう」みたいな思想があるのかもしれないなあと思った。当時の制作にそういう思想の人がいたのかはわからないけど「労働者は搾取されているので資本家から多少分けてもらうくらいでないといけない」みたいな考え方なら、わからないでもない。しかしアラジン、働いてないのである。働けよ。最後に大団円というのも、実は「権力を持つ君主から弱者男性が権力を奪った」ということの暗喩かもしれない。しかもクーデターとか革命とかじゃなくてソッチ方面で。うーん、下衆!


もしかしたら何か働けない事情があるのかもしれない。実は明示されてないだけで不可触民である可能性とかもあるかもしれないし。いやそれならいろんな人が受け入れているのは何故なんだいとなるし……。


いやわかってるのよ。「アラジン」でやりたかったことは「自由」であって、アラジンの起きて腹が減ったら食べ物盗んで暮らすドブネズミというか獣みたいな世界と、王宮という鳥籠に囚われた姫と、そんですごい魔力は持ってるけどランプに閉じ込められた精霊と、権力はそれなりにあるけどそれに満足できない大臣の話でしょう。ぶっちゃけアラジンの世界で一番まともな人はジャファーだと思うのね。あんな本当に風船みたいな王様いたらぶっ飛ばしてえくらいには思うもんな。ジャファーが王様のほうがなんかよく治まりそうだもん。個人的にジーニーを自由にするの、なんか前半からウザいくらい伏線があってなんか「自由自由自由うっせえよ!」とか思うわけ。


何度も言うけどジーニーのミュージカルパートとか本当に好きなのよ。ああいうコミカルなところは本当にディズニーの独壇場だし、ホールニューワールドもいい曲だし映像もキレイだなって思う。だけど、もう主人公の気持ちが迷子なのがついていけない。え、お前なにしたいん?貧乏だから王宮に住んでみたい?働けよ!となるわけで。デンジくんなんかちゃんと(?)働いていてそれでもパンにジャム塗るのが夢なんだぞ!お前ふざけんなよマジで、となるわけ。


ヒーローの描き方

まあもう30年前の作品に対して文句つけてるのも野暮なんですけどね。「塔の上のラプンツェル」は個人的に「ラプンツェルが姫とか改変マジでキツいわ!」というところもあるのですが、「姫をさらって結ばれる盗賊」という点ではフリンはアラジンに比べて100点満点なのでは、と思うのです。盗みをする理由もコンプレックスもちゃんと内包した生きた人間、という感じがして好きです。ただしラプンツェルを(ry


そう考えるとディズニーちゃんと進化してるなと思います。どうしてもプリンセスで語りたくなるのですが、プリンセスだけでなくプリンセスの相手方も昔はプリンセス以上にテンプレのテッテレ王子だったわけで。多分テッテレ王子の最終形態がアラジンで、そこから脱却できたのがフリンなんじゃないかと思うとなんか感慨深いです。そんでプリンセスじゃなくてヒーローという意味で「シュガーラッシュ」のラルフは結構完成されたヒーローだと思うのね。真面目に等身大の誰かを守りたいだけの存在。パパは素敵なヒーローさみたいなところあるよね。シュガーラッシュめちゃくちゃ好き。


そういえば最近実写版になったね。ウィル・スミスのジーニーだけの出オチっぽさがあったから見てないんだけど、その辺含めてじっくり見てみようかな。現代のアラジンはちゃんとしてるだろうか。


何の話してたんだっけ?

チェンソーマンの話だった。やっぱり連載ちゃんと追えばよかったなぁ。いやよくあんなのアニメでやりきったね。面白いね、おしまい。

 

*1:しかしアンパンマンは最大限の自己犠牲の具現化なので最終的には喜んで子供たちに全部たべられるだろうなと思うけど。

常識というマイルール

すごく語れる部位が多い増田なので、つらつらやってく。牛肉みたいにいろんな味が楽しめそう。

 

b.hatena.ne.jp

 

増田の所感

なんで消すんだよ。消されたので概要を残しておくと、「増田の母親の葬式で家族葬と言ってるのに妻実家が供花を送ってきて迷惑だとキレた増田妹が増田妻の参列を認めなかった」という感じだろうか。以下追記読んで以降に書いたものです。

 

最初に書いておくと、この増田が伸びたのは内容以前に「俺悪くないよなメソッド」が発動しているからというのが一番の理由だと思う。要約すると「親死んで気持ち動転してたからテキトーこいたらみんな怒ってるんだけどなんで?」ということであり、「妻の実家が余計なことしたから悪い」と言ってるように読める。ちなみにこれ、多分男女入れ替えても増田ぶっ叩きになると思う。要は「家族葬だから配偶者は来るな」だから。妻の親が亡くなったけど、妻の兄がなんか嫌ってるから参列するなと言っているという内容でも妻の兄総叩きだろうなとは思う。


まだ増田は若いのかなとか思うと酷な話になってしまうのだけど、すごくぶっちゃけると結婚してこれから共に暮らしていくという人が人生の一大事に判断ミスを連発するのはやっぱり頼りないなと思ってしまう。そりゃ親が急死したら気も動転するしよくわからない行動をとってしまうものだと思う。ただ、そこで本性が出るということもある。よく結婚式や新婚旅行で「こんな人だとは思わなかった!」みたいな話と一緒だと思う。


供花の件については、個人的に増田の説明不足だと思った。本当に迷惑であるなら辞退なんていうモンじゃなくて拒否するべきであるし、そんでそこにキレる妹もロクなもんじゃねえと思うし「妹旦那が参列できないから増田妻も参列するな」はコピペを疑うレベルで完全にめちゃくちゃ。正直「気が動転していた」でも済ませたくない大失敗だと思う。気が動転していても人のものを盗んではいけないし、原則人を殴ってもいけない。

 

「増田の中では血縁者のみが常識」と書いてあるように思ったけど「血縁者のみと決めたんだから他の人は余計なことしないのが常識」ということなのかというのは気になった。ブコメで突っ込まれてたけど「葬式経験したことないのになんで自分の葬式観が全てと思うんだろうな」ということだと思う。常識というのでそういう配偶者は葬式に含めない国とか地域があるんだと思ったので……。


人を見送ることについて

供花の話になるんだけど、妻側実家の感覚としては「参列したいけど出来ないということであれば、せめてお花だけでも」というのが割と一般的な感覚であると思う。ここで増田との常識の差が出てくる。「え、あったことない人なのにお花贈るの?」と。


ここからは個人的な感覚で書いていくのでこの考えが一般的なものだとは思わないし、「俺は違うと思うな」だったらそれはそれで構わないし、その違う感覚をブログに書いて欲しい。間違ってもブコメなどで「あんたがおかしい」とかやるのはやめて欲しい。おかしいとやるなら、とりあえず1000字は書いてくれ。


よく有名人の訃報で「よく知らない人なのに弔意を強制されてるみたいでムカつく」みたいなのを見かける。まあ自分も「隣の家の旦那さんのお母さんの親戚の孫の犬が死んだから香典出せ」と言われれば「知らねえよ」とはなるけど、なんとなく「手を合わせましょう」くらいの気持ちはある。死は悲しいし、家族は悲しみの中にいる。悲しい気持ちに寄り添うことも弔意のひとつだし、その悲しさは生きている人の中で癒されていくものだと思う。


この辺、最近だと「おかえりモネ」でクローズアップされてたなと思う。津波で行方不明になった家族の死亡届を書くシーンは日本全国に「死」を届けたと思う。ただ、これを「朝から重すぎる」という声もあった。実際、本当にすごくすごく重たいシーンで、しかし東日本大震災の被災地としてはよくある話で「だれさんとこはながされたからさー」みたいな話、本当によくある。死とか喪失のカジュアルさが違う。この辺の温度差も元増田から少し感じる。


あまり知られていない話なのだけど、震災当時演劇コンクールで被災地としての「被災地のナマの話」を上演したが、審査員などに「重すぎる」「言いたいことはわかるが疲れる」など散々な講評をされたという話がありまして*1。当時自分はいわゆる被災地に住んでいたので「うるせーてめーらの日常の尺度でこっちの日常を勝手に重いだの疲れるだの言うなよ」とは思った。これはかなり生々しい感情として残っている。今でも思う。ふざけんな審査員。


何が言いたいかと言うと、「喪失」という事象に対して我々は意外と理解してないし、「喪失」との向き合い方はかなりの数があるということじゃないかってことです。生きてりゃいつか死ぬし、モノは必ず壊れるし、関係だっていつか切れる時もある。だから一般的に今を一生懸命に生きるし、思い出は大事にしようとなる。


2回しかあったことのない義母でも、妻からすれば「これからあったかもしれない未来という喪失」「夫となる人にとっての大きな喪失」であり、一緒に悼む気持ちになるということは何もおかしなことではないし、不自然でもなんでもない。「君らの常識で物事を測るな」というのは、そのまま増田にも返ってくる。逆に言うと「会ったことないのに葬式にいかないと行けないの?」という価値観を増田は常識だと思ってるわけで、これを無邪気に持ち続けたまま妻側の葬式に出なくてよかったねとは思う。


まあ、最大の敗因は「妹の都合で参列予定をキャンセルさせた」というところだと思う。最初から一貫して参列を断っていればここまでこじれなかったと思う。そこで「俺も一生懸命やってんだよ」と思うなら、夫婦として家庭を営むにあたり不安はあるかもしれない。よその家のしきたりとか常識とかそれ以前の話だからなぁ、これ。


胸糞悪い思い出(読み飛ばし可)

ここの話はこの件について考えているときに思い出したことです。なかなか強烈なエピソードなのでナーバスな方はスルー推奨です。ひとことで言うと、増田妻側的な体験ですね。


前の記事でカレー作ってくれた親戚のばあちゃんの話をしたのですが、私が小学生のときに急死しました。本当の本当に突然で、遺された人達は本当に動揺してました。私は初めて本当に身近な人がなくなったことがショックで、わんわん泣いてました。多分火葬場かその辺だったと思うのですが、親族はみんな泣いてました。実の孫は取り乱していました。とにかく本当に突然だったので。もちろん孫同様に可愛がってもらっていた私(一応血縁者ではある)も泣いていました。そしたら、とあるばあちゃんの実子がこう言うんですよ。「あなたは本当の孫じゃないんだからそんなに泣かないの(泣くのは本当の孫の権利であってあなたには悲しむ資格がない)」と。当時何を思ったのかは覚えてないけど、今同じ状況になったら、キレて何をするかわからないくらい怒るだろうなと思う。まあ普段からアレな言動のアレ*2だったので当時は多分全員スルー推奨だったのですが、今考えても「全人生クソだなと思う発言グランプリ」を開催したらノミネート余裕なエピソードです。もう随分と昔の話なのですが、異様にくっきりと覚えているものですね。ちなみにカレーの話でも書きましたが、ばあちゃんはかなりの人格者でした。ばあちゃんみたいな人になりたい。


まあ何が言いたいかと言うと「親が死んで気が動転していたとはいえ、やっちゃなんねえことはやっちゃなんねえぞ?あ?」ということです。


常識非常識

で、今回増田がこんなにぶっ叩かれたのは「常識 」という言葉を使ったからだろうと思う。てめえの数だけ常識はあるわけで、自分の常識を振りかざして相手を押さえつけるのはハラスメントなわけです。むかし偉い人が「花束を送り付けるのもハラスメント」と言ってましたが、そういうことですね。ハラスメントっていう人もハラスメントみたいになってきました。


また「全人生クソだなと思う発言グランプリ」を開催することになるのですが、このブログでは何度か出てきているかもしれないあの言葉がここで登場します。初登場だったらごめん。


それは九州出身の人と世間話をしている時のことでした。
九州「東京のラーメンはまずい。豚骨だけがラーメンだ」
私「豚骨ラーメンが好きなんですね」
九州「九州にはうまい豚骨ラーメンがたくさんある」
私「逆に私は豚骨苦手で、あっさりラーメンが好きですね」
九州「そんなまずいものよく食えるな」


……???


そのあと、如何に東京のラーメンがまずいかという話をされました。今考えると「ああ、あの人は会話をする気がなかったんだな」と思います。単に「東京のラーメンがまずいという演説」がしたくて、こっちは合いの手を入れるモブくらいに考えていたのかなあと。


でも実際九州では豚骨ラーメンをラーメンというらしいし、おいしい豚骨ラーメンのお店がたくさんあるということですね。そんな人には信じられないかもしれないけど、マルタイの棒ラーメンに苦手意識を持つ人もいるんです。私です。お店の豚骨は食べられるけど、棒ラーメンはなんか無理なんだよな。なんでだろう。


だからといって「棒ラーメン食べてる奴は〇〇」とかは思わないし、「おいしいんだろうけど自分とは合わないよな」と思うわけ。だけど「は?ラーメンといえば豚骨だろ?おまえ常識ある?」とか言われたら「××××」くらいは言うと思う。まあつまり、「お前の常識で云々するならどうのこうの」というのは「東京のラーメンはまずいに決まってるだろ」という感じだよなあと思っている。うるせえな坂内食堂ぶつけんぞ。来夢食いたい。


まとめ

人が死んだら悲しいし、身近な人であれば多少の気の迷いはあっても仕方ないけど、とりあえず葬式の運営はしっかりしたほうがいいと思う。ここがふにゃふにゃだと本当に後で禍根を残す。個人的に元増田は夫婦として相当やばい局面だと思う。


あと意外と「全人生クソだなと思う発言グランプリ」が汎用性高かったので皆さんも開催してみましょう。あとノミネートされてて単品でパンチ効いてる奴だと、社会人になってからわざわざ昼休みに上司に呼び出されて「あなたの机の隣の人と仲良くなっちゃいけないわよ、あの人酷い人(完全に上司主観の偏見)なんだから~(以下昼休み潰れる)」と言われたのが心に残っています。常識というマイルールや偏見と戦っていきたい。おわり。

*1:気になる人は各自調べてみてください。

*2:その他興味深いエピソードはたくさんありますが本当に誰も喜ばない話なのでしない。

ドラえもんのび太の新宇宙小戦争2021を見たので予想通りの反応をする

覚悟を決めて見たよ!

 

以下この感想を読みたい人は「ああこの人はこんな変な人なんだなあ」というのを確認してから読んでください。できれば全部読んでくれると嬉しいね。そして多分一連のドラえもん記事を読んでくれたみんなの期待は裏切らない記事になってると思う。いちいちやることがオーバーだな。

 

 

nogreenplace.hateblo.jp

nogreenplace.hateblo.jp

 

結論

おれのパピとドラコルルをかえせ

 

評価

ドラえもん映画全感想的には「ワンニャン時空伝」に近いです。映画としては成り立ってるし面白いほうではあるけど、個人的にどうしても譲れない点で解釈不一致が起こっていて君を殺して僕も死ぬみたいになってる。

 

愚痴

いやさあ、ドラえもんの映画とかいうとゴールデンヘラクレスとか変なクレムとかトラウマ級の変なのぶっこんできたりそうじゃなくても「令和のママも気に入るようなの作ってますよチラチラ」みたいなの練りこんできたりするじゃん。するじゃん。だからもう最初から期待も何もしていないのよ。でも見ないで「最近のドラえもんはクソじゃ」とかは言いたくないので頑張って見たわけじゃん。見たわけじゃん。

 

うん。

 

映画としてはよかったぞ。

 

ちゃんと映画してたし、特に破綻なかったし、令和ならではの特殊効果があったし、特に気にしないなら普通に面白いと思うんだよね。だから見てない人は見たほうがいいと思うんだよね。うんうん。

 

へ?

 

うんうん……

 

とりあえず落ち着こうかなと思って……

 

まずは新作の発表ということで新パピのビジュアルが公開されたときのこと。もう吐血するレベルで「これはもうだめだ。世界が終わる」と絶望したわけ。俺の世界は俺の世界であって、お前の世界はお前の世界レベルの断絶があったのよ。もう死んじゃうみたいな感じでうおおおおんと思った。

 

これはどんなに脚本が良くてもだめだ。わたしのこころがしんでしまう。

 

そんな思いを抱えて時間が過ぎていくわけで。

ヒゲダンの主題歌すらしゃらくせえとか思ってたわけで。

 

もう見るしかないだろう。

 

そんで見たんだけどさあ。

 

パピがなんか人間ちっちゃくなってるし

ロコロコ喋んねえし

なんかストーリー変わってるし

ドラコルルがキャラ変してるし(死)

 

映画の撮影

宇宙小戦争の醍醐味って、やっぱり「映画」ってところだと思うんだよね。そもそもが「スターウォーズの小規模版」がコンセプトで、スターウォーズを真似して映画の撮影をしていたところ、小さいものだけど本物の戦争に巻き込まれていくというのがこの映画の醍醐味であって、それを大幅にカットするというのはどないやねんというところではある。

 

そして原作の意図を汲んでなのか旧作のオープニングとエンディングは「映画パロディ」なわけ。個人的にETパロは「スピルバーグが日本に来てたまたまのび太の恐竜を見て、そこから月の前を横切るシーンなどの着想を得た」という都市伝説を彷彿させていいですね。それに作品内にも細かなパロディが多く、旧作を改めて見ると「しずかさんをはにゃせのところ、未知との遭遇かな?」「ギルモアの肖像の目は1984だよな」とか内容にもパロディが多いことに気がつく。そう、パロディなのだよパロディ。わかる?パロディ!!

 

パピくん

パピって旧作だと10歳ながら大統領であって毅然としてるみたいな感じだったんだけど、新作ではすっごく人間臭いというか、「本当は怖いんです」とか「姉さん!」とか、まあ令和的にはすっごくいいんだろうけど、こちとらそういう「弱い心を出せばなんかみんな深く考察してくれますよね!!!!」みたいな奴には反吐が出るわけで。パピは宇宙人の大統領なんだからもう少し神秘的にやって欲しいなって思うの!旧作での人間くさい部分は全部ロコロコの仕事だったの!

 

いや新キャラの姉さんは割と嫌いではないのだけど、おれのなかのパピは「ねえさん」とか言わない孤高の存在なのよ。なんだよその髪の毛は毟るぞコノヤロウ。等身大の弱い人間なんてこちとらドラえもんには求めてないんだよそういうのはこの映画では全部スネ夫に乗っかってくるんだよ。パピに怖いとか言わせたらあのスネ夫の神シーンが台無しじゃないか。宇宙小戦争の醍醐味はあのスネ夫としずかちゃんのシーンじゃねえか。ピリカ星に潜入してガチンコで戦争に巻き込まれているドラえもん一行と対比して「戦う」モードに入れなくて怖くて震えてるスネ夫がいいんじゃねえかよ!そこでしずかちゃんが泣きながら「みじめじゃない」と言って「女の子だけを危険な目に合わせるわけにはいかない」って飛び出していくスネ夫。マジこれがいいんじゃん。遠い国の戦争じゃなくて女の子のピンチという自分事になったスネ夫がかっこいいんじゃん。なんで前半で「僕も怖い」とかってパピに言わせんの。そういうのはスネ夫の役目なの。パピは大統領なんだからそういうのはしないの。「でも実は怖かった」とか、そういうのはいらないのよ求めてないのよ二次創作でやってよ。もう公式が二次創作レベルじゃん。ゴールデンヘラクレスの事故から何にも学んでないんじゃん。

 

あと個人的にパピを戦艦で連れ帰らなかったのは相当なマイナスポイント。あれでしずかちゃんの「パピさんを助ける」の動機が少し失われたわけで。そうすると「あんまりじゃない」の気持ちも半減しちゃうのよ。このまま公式にやられちゃうなんてあんまりじゃない。でもパピは新ビジュアルの時点で死んだと思っていたのでここまでは致命傷で済んでます。

 

ロコロコ

喋れよ。喋ってくれよ。映画に迎合した一個人の感情なんかどうでもいいから無駄口を叩きまくってくれよ。旧作のウザさが完全に塗りつぶされてんじゃんか。喋る前にロコロコの口を封じるのはセーラームーンで変身中に攻撃するみたいなもんだよ。三ツ矢さんは偉大だった、マジで。ロコロコの口を塞がれたリトルスターウォーズなんてただの宇宙戦争じゃねーか。お手おまわりちんちんロケットの操縦をするロコロコが好きなんだよ。

 

ギルモア

なんで出番少ないの?もっと登場して小物感を出して欲しかった、とは思いつつ演じてる人が忙しかったのかもしれないなとか思う。出番が少なかったからなのかもしれないけど、旧作と一番違和感のないキャラクターだったと思う、というか演じてる人がガチでうまい人だからなぁ……ゲド戦記は嫌いだけどウサギだけはすげえって思ったんだよ、思ったんだよ。畜生め。

 

自由同盟とゲンブ

自由同盟周りはほどよく令和にブラッシュアップされてたんじゃないかなあ。ゲンブさんは解釈の余地とか一切いじることの出来ないキャラクターだからあまり心配はしてなかった。自由同盟の構成員に女性っぽい人がいたりアジトのリーダーが割と存在感あったりしたのはよかったんじゃないですかね。ただちょっと暴動のシーンは旧作のほうが好きですね。あんなデモ行進みたいな暴動、ちょっと……やるなら催涙ガスとかそういうのでもう少しいろいろやろうよ。改めて大長編と旧作と比べてみて、旧作の「アニメーションとしての落とし込み」がすげえなと思った。ぶっちゃけほぼ背景でしか表現していないし今思うと手抜きに見えちゃうかもしれないけど、中央に自由同盟がいてその周辺にすごい数の群衆がいるっていう構図が見えて結構好きなんだよね。描いてないものを描ききる、みたいな。それを帽子が落ちることで表現するのもいいよね。

 

ドラコルル

パピ「悪知恵の働く悪魔のような男です」

 

?????

 

パピ「悪知恵の働く悪魔のような男です」

 

ちがくね?

 

確かに大長編でも「悪魔のように悪知恵が働き」って言ってるけどさ、そのあとに「情けようしゃのない男」って続くんだよ。ちなみに旧作だと「目的のためにはどんな汚い手でも使う、冷酷で残忍な男」なんだよね。ドラコルルは頭の回転がよくてドラえもんの動きの何手も先を読んでくるけど、決してゴリゴリの悪人ではないと思うんだよ。悪人っていうのは恐竜ハンターとか熊虎鬼五郎とか宇宙英雄記の海賊みたいな奴らで、ドラコルルとそいつらが並ぶかって言うとそんなわけないじゃんと。特に戦争物なんだから、相手を悪者と決めつけるのはいかがなものかと。彼は彼の正義のもとで動いているわけであって、「悪魔のような男」では絶対ないと思うんだよな(個人的な見解です)。

 

これは声優とかそういう問題じゃなくて脚本チームと自分の解釈が余りにも不一致すぎるところから生じている齟齬であり、いちドラコルルファンとしてお気持ち長文を書きなぐる勢いで「コレジャナイ」感がものすごく強いのよ。

 

ひとことで言うなら旧ドラコルルは狡猾で、新ドラコルルは冷徹。いや冷徹なドラコルルを公式がそう解釈して新しく作り上げたというのはわかるんだけど、旧ドラコルルの魅力がゴリゴリに削られているとしか思えないんだよね。

 

個人的な解釈だけど、旧ドラコルルの一番の魅力はその頭脳プレイというよりギルモア将軍すら完全に信用していないところだと思ってるんだよね。ぶっちゃけ今はギルモアに従っている振りをしているだけで、実際はギルモア将軍すら下に見ている。「自分の人気がないのをご存じだ」が大事だし、その上で打算でその時最善の方法を選択している。やっぱり無人機の探知機とかラジコンのアンテナとか、そういうところで戦ってほしかったのよ。それに「泳がせておきましょう」が大事なのであって、今回は令和っぽく大統領を利用しているみたいな感じになってるけど、やっぱりそれは元のドラコルルじゃなくて二次創作のドラコルルだわ。そもそもなんでドラコルルが水泳大会をしなかったのかと言うとパピが大人しく地球で捕まらなかったせいなのでパピ、てめえのせいだ。本当に何で助けたんだろう。なんでそれを良いと思ったんだろう。誰だろう、それがいいと思ったのは。何が令和だ畜生が。

 

あと新作のドラコルル、悪魔のような男を目指してしまったから情緒があんまり出てなくて「コレジャナイ感」がすごい。これは悪魔のような男を目指してしまった脚本の問題で、演技の問題じゃないと思う。

 

あとさあ、新ドラコルルの最大の問題点は「悪魔のような男」のはずなのに、「乗組員の安全は保証してくれ」って言うところだと思う。旧作の「信じるものは己だけ」みたいなキャラ設定なら百歩譲って「悪魔のような男」でもいいと思うんだよ。でもさあ、「乗組員の安全を求める」ってさ、そいつは悪魔じゃねーだろ。何潔く降参してるんだよ自分だけ「早く出せ」って逃げようとしようよ。おい脚本チーム、結局ドラコルルってどんなキャラだったの???シブかっこいい名悪役?それとも一本筋の通った情報局の長官?そもそも情報局の長官って一本筋なんか通しているの?一本筋どころか一筋縄ではいかない、みたいな雰囲気はないの?

 

あとコメディ役の副官が超いらない。新ドラのこういうところは心底軽蔑できる。誰ですかこれが面白いと思っているのは。

 

その他

なんかあとほかにいうことあったっけ。戦車が変形するところか。

 

そもそもさ、「宇宙小戦争」のコンセプトってさ、「スターウォーズのパロディ」なわけよ。だから規模も小さいし戦うのは戦艦なんかじゃなくて地球のラジコン戦車なわけ。その地球の戦車がトランスフォームするのはいかがなものかと思うのですよ。コンセプトから外れても「令和だからかっこよくしたいじゃないですか」って、それはリメイクじゃなくてやっぱり二次創作だよ。公式で二次創作をするな。というか、リメイクするなら大魔境くらいちゃんとやってほしい。唯一安心して見られるリメイクだから、あれは。

 

あとおニューのクジラ戦艦、全体的にのぺーっとしてて個人的に好きじゃない。リアリティ出したいのかドラえもんの世界にしたいのかどっちかなのかはっきりせえよ。

 

おまけ

旧作を改めて見返して、ドラえもんの「スモールライトがない!」の顔がめちゃくちゃかわいいなと思いました。今では考えられない効果の付け方もかわいい。ドラえもんの作画はこの辺が本当に大好き。

 

余談

実は「映画ドラえもんの悪役について」というよくわからんノリの記事を書いていたのだけど、あまりにも書くことが多すぎてぶん投げていたんだけどドラコルルを殺されたことでなんかモチベーションが上がってきたのでいつになるかわかんないけど完遂させようかなという気分にはなっています。主に「宇宙英雄記の悪役がヤバい」ということが言いたいだけです。ちなみに個人的に見直して悪人度が高いのは「個人で」「えげつないことする」という意味でアブジル(withカシムたち)、熊虎鬼五郎が強いです。

 

あと手元にてんコミだけでも全部来たのでなんか特集できたらしたいです。もう記憶に頼らなくていいのはいいですね。おしまい。