あのにますトライバル

君の気持ちは君の中でだけ育てていけ。

もっと気楽にアウトプットしよう

 夏休みだし、少し書いてみよう。

 

anond.hatelabo.jp

 

 とても苦しそうな文章だと思った。自分で自分がよくわからなくて必死でもがいているけど、自分自身を形にできていない。そんな印象。

 

 で、増田には残酷な話をするけど「文章を書くことは苦しいことだ」とは思わないんだな、これが。多分今でも文章を書く人たちはそんなことは思わない。文章を書くのは息をするのと一緒だから、別にどうってことなくバーッとなんか書いてる(いまもそう)。

 

 じゃあ増田は何が苦しいのかと言えば、それは増田の中で長々と述べたけど、ひとことで言えば「出来上がった自分の文章を見るのがイヤ」なんだと思う。歌を歌う人って、自分の声を聴いて嫌にならないのかなと思うけど多分歌手の人はそんなこと思わない。ジョギングが趣味の人も「変な走り方してないかな」と思いながら走ってる人はいないと思う。それと同じで、文章を書く人は自分の文章を読み返すことに何の感慨も抱かない。ずいぶん昔の自分のブログを読んで「とんがってるなあ、バーカ」くらいは思うけど、恥ずかしいとは思わない。文章下手だなあとかは思うけどね。

 

 そんで増田は「自分の脳内の思考と文章が乖離していて気持ち悪い」ってことが言いたいんだと思う。こういうことが言いたいのに、うまく書けない! ってこと。そういうわけで、ブコメにも書いたけど増田には「俳句」をお勧めする。短歌でもいいぞ。

 

 なんで「俳句」なのかと言えば、文字数が極端に少ないのにそこに情報をガンガンに乗せなければいけないから「自分の考えは~」とかやってる暇がなくなると思うからなのだ。とにかく現実を描写する、心情を書き留める、17字だから途中で投げ捨てるとかできない。詠んだら詠みっぱなしでもいい。とにかく身の回りのことをガンガン書いていく。歳時記とかはあとでいい。今は17字を淡々と積み重ねていく。

 

 そうやっているうちに、おそらく「表現しやすいこととしにくいこと」が見えてくると思う。それから表現にも型があって、ある程度のパターンがあることに気が付いてくる。それは全部「積み重ね」という膨大な自信に後押しされる。自分が表現できるもの、表現できないもの。少しずつより分けて積み重ねて、自分自身を形作っていく。おそらく増田に足りないものは輪郭で、言葉を嵌める枠(言語化)が機能しにくいから言葉が後から後から零れ落ちているのだと思う。

 

 言葉には言葉を入れるお皿がある。寿司桶にバターチキンカレーを入れてもいいし、醤油皿にフライドポテトを乗せてもいい。でも、それは文脈の違うもの同士の組み合わせで居心地はよくない。ひとりでラーメンを食べるなら鍋から直接食べてもいいけど、友人に振る舞うならどんぶりは必要になる。つまり、誰かに見せる文章であるなら書くものや読む人にあった文脈というのが必要になってくる。

 

 言語化しきれない、というのはおそらくお皿の数や種類が十分ではないのかもしれない。和食を出したいのにケーキ皿しかないとか、大人が集まる席なのに幼児用のメラミンの器しかないとか、逆に小さい子供の会合でバカラのグラスを並べるとか、そういう不具合があるのかもしれない。そこでうんうん唸っているより、新しい皿を買いに行った方がいい。つまりは、インプットをもっとしたほうがいいかもしれないということだ。

 

 インプットは「文章の書き方」という本ではなく、書きたいジャンルの文章をたくさん読むことで習得できる。俳句のようにそれを積み重ねて、言葉遣いに敏感になって、段落構成や展開について読む。文章の裏を読むと作者の主張がよく読める。ここまでできれば、多分増田も少し楽になると思う。

 

 ただ、至らない自分と向き合うというのは往々に苦痛を伴うものである。文章なんて仕事で書かないなら別に上手じゃなくてもいいと思うので、「苦しくない」を目安に少しずつコンプレックスが解消されるとよいな、と思いました。まる。

 

お知らせ

 ここにしばらく置いてあった短編小説や短歌を引き下げることにしました。

 

 現在引き下げ作業中でございます。それに伴って、このアカウントに連なる形で書かれた小説等も順次引き下げていく予定です。

 

 また何かの形で使えたらいいなと思っております。

 いままでありがとうございました。

 

 このブログはたまに書きますのでよろしくお願いします。

県立第一高校なら歴史もあるバキバキ進学校だろうな、田舎なら。

読んだけど、どうにも収まりが悪いので書いていくよ。なお読めばわかるけど「現実にこういうことで苦しんでいる人がいる」ことを否定するものではありません。読んでね。

 

tonarinoyj.jp

 

なお、作中の帝大はおそらく東大であり国立大学というところで話を進めていきます。これが私立になるとまたいろいろガタガタするので……。

 

【書割の毒親

やはり1番はミーカの父親。彼が何故ミーカに逆教育虐待をするのかの理由が本作から全く見えてこないのがひたすら不気味。「そんなの子供はわからない」とあるけれど、それにしても彼のストーリーが全然見えない。

 

そもそも、彼は娘をどうしたかったのだろう。

 

高卒で就職?
女子らしく短大?
地元の偏差値低い大学?
それとも惨めに浪人生活?
会社の取引先のドラ息子に献上?
はてさて夜職でガッポリ?

 

試験日にわざわざ妨害するような親なら、ある程度娘のレールを用意しているのではないだろうか。「俺の言うことが聞けないのか」って。そもそもA判定出てるからバレるという意味がわからない。共通テストの結果が自己採点でも出た時点でそれはわかると思うんだけど、それならそもそも出願なんか出来なくないか???

 

最悪のシナリオとして「母親が直前で裏切った」「学校はミーカの家の事情を知って、父親へ情報を漏らした」というのが考えられる。これはこれで悲しいのだけど、相当レアケースだと思われるのでこれをスルーされるのは物語としてあかんと思う。 

 

以上を踏まえていろいろ考えると「前期日程の願書出願後まで父親は娘の受験を知らなかった」「そこまで娘の進路のビジョンが一切なかった」ということになる。ここが異様に不自然で、娘が学歴つけるのが嫌な親がそもそも模試や共通テスト受けさせるわけないだろうと。その前に、高校ももっとバカな高校に行かせるか高校にすら行かせないと思う。

 

要は、やってることがものすごくちぐはぐなのだ。おそらく地域で一番の高校に進学させておいて、模試や共通テストのときはスルーで何故か前期日程直前に大胆な行動を起こす。この辺が「書割」と呼ばれる所以だと思う。


【作品のおとしどころ】

この作品の良くない点は「テーマを詰め込みすぎて何を伝えたいのかぼやけてる」ところだと思う。ミーカの逆教育虐待がテーマなのか、りっぴよの経済的な点で進学を諦めるところなのか、それとも「勉強いっぱいやっても報われない」というところなのか、はてさて「勉強いっぱいやって青春だね!」なのか、視点がバラバラでぼやけてるところが非常によくない。

 

何も「このような子達がいるわけない」という話がしたいのではなく、話を組み立てる時に主人公は誰でどういう問題があってどのように解決するのか、というのは最低限提示しないといけない。例えばミーカの逆教育虐待をテーマにしたかったら、りっぴよとの馴れ合いではなくもっと父親との対話を増やすべきだし、試験の結果この家はどうなるのかまで書かなきゃフェアじゃない。最後の「なんかいい話にしたろ」感がいろいろつまみ食いした挙句に「おなかいっぱい」とぶん投げてるように感じる。

 

つまり、やるならしっかり問題に向き合ってほしいというか解決まで提示しなくても丁寧にやってほしいと思う。全体的に「雑」なのだ。

 

りっぴよも前期日程当日に出願変更なんか出来ないので、おそらく最初から県大に願書を提出してると思うんだけど……なんでそれをここまで苦楽を共にしたのにミーカと共有しないんだ?

 

理由をつければ「ミーカを動揺させたくない」ということなんだと思うけど、作中でその辺が語られていないのでこちらから想像するしかない。その負荷も胸糞悪さに繋がってる。


【最大の違和感】

塾に行かないと大学には受からない、というのが甚だしく謎。

 

公立高校だろうが、高校の教員であれば模試の添削は全員できないとおかしい。何故サブスク働かせ放題の公立高校の教員を使い倒さないのか。

 

コーヒー入れてるじいちゃんはコーヒー飲んでるだけなのか?
数学の指導はしてるんだよね??
進路指導は一体何をしているんだ??
帝大狙える子がいたらみんな目の色変えて指導すると思うよ??


しかも塾なし、親訳あり、遅くまで自習室。こんなん職員室の机の隣で付きっきりでどーぞどーぞと教える案件じゃないか。

 

とにかく公立高校(おそらく優秀な進学校)であるなら、帝大にA判定出てる生徒がいたら全力で受験させるはず。何故なら高校や塾というのは生徒の明るい未来の他に「難関校に受かった実績」というのが喉から手が出るほど欲しいから。おそらく学業優秀であるはずなので三者面談などで「記念受験だけでもさせてほしい」と保護者に願い出るはず。

 

あと皆が気になる奨学金の話。おそらく東工大を狙える生徒がいるなら進路指導担当はめっちゃりっぴよの保護者を口説くはずだよ。東工大が無理でも県大(おそらく駅弁大学?)なんかじゃなくてそれこそ旧帝くらいは進路に書かせるんじゃないかな。その辺がよーわからん。


【おそらく】

作者は前半の「女の子が二人で勉強してて青春だねえ」がやりたかったのではないだろうか。それを「鳥トマト風に」と言われて急遽鳥トマトっぽくしたのでこのようなちぐはぐが生まれてしまったのではと邪推している。鳥トマトにするなら最初から鳥トマトにしたほうがよいと思いました。それか鳥トマト成分はいらない。

 

あと前期日程受験するのに高速バスで早起きして東京に行けるような場所(関東近辺?)なら東京にこだわる必要なくね?前泊でしないの?とか野暮なこと思いました。

 

最後にもう一度。「こういう女の子の存在を否定している」わけじゃないです。「こういう女の子を書くなら考えたり押さえたりしなければならないところを押さえてない」という話ですし、「こんな登場人物のような人に実際会ったことがあるからこれはリアルだ」というのは「それなら最初からノンフィクションでやろう」という話です。漫画として話がまとまってないという話です。バスケ漫画だったのに途中から主人公の実家の雀荘経営の漫画になってたら嫌でしょう?おしまい。

君たちは『星守る犬』を覚えているか

 一時期とても流行ったのですが、内容が内容だけにすぐに忘れられているんじゃないかって思う漫画があります。

 

 

 ひまわりの中でほほ笑むかわいいワンちゃん。タイトルも相まって「かわいいほのぼのした漫画なのかな」って思って買います。自分も本屋で見かけてそう思って買いました。

 

 結論から言えば、この犬は死にます。

 もう一度言います。この犬は死にます。

 残酷ですが、この犬は死にます。

 

 この漫画は、放置車両から死後1年から1年半と思われる身元不明の男性の遺体が発見されるところから始まります。そしてその側に男性の死後しばらく生きていたと思われる犬の死骸もありました。なぜ彼らはこんなところでこんなことになったのか。そういうお話です。

 

 お話の主人公はみくちゃんの犬ハッピー。ハッピーはみくちゃんとお父さんとお母さんと一緒に暮らしていきますが、時間が経つにつれて家族の形が変わり、家にはハッピーとお父さんが残されました。お父さんは家財道具をまとめ「気ままに南にでも行くか」とハッピーと車で旅に出ることにしました。

 

 この話に悪人は出てきません。ただ誰かが誰かを思いやりすぎていたり、思いやる心を忘れていただけなのだと思います。淡々としている中にぎょっとするような「死」というものが顔を出す瞬間がたまらずぞっとするような漫画です。

 

 おとうさんは、おそらくいくらでもどうにかする選択肢はあったのです。しかし、自分で選択肢を最悪なほう最悪なほうに選んで行ってしまっただけなのだと思います。それはここに登場する人々に少しずつあって、作中で身元不明遺体の調査をする奥津の言葉を借りるなら「もっと恐れずに愛すればよかった」ということなんでしょう。照れくささとか面倒くささとか、そういうので人はいろんなことを後ろに放り投げるけれども後で「もっとこうしていれば」と思っても後悔しか残らないのだろうと思います。でも一生懸命生きている瞬間って、それになかなか気づけないのですよね。うーん、ビター。

 

 愚行権、じゃないけれどもこういった人々に対して「自己責任」という言葉を投げかけるのはなんだか違うよなーとやっぱり思うのです。じゃあ全員救済できるのか、と言えばそんなこともできず。できるのは多分、隣の席に座る人にやさしくするくらいなんだろうなって思います。

 

 なおこの話はハッピーと奥津の話の他に、作中登場する虐待されている少年やハッピーの兄弟の話なども一緒に読むと改めて「生きるってなんだろうな」って思います。

 

 

 ちなみに西田敏行主演で映画にもなっています。

 

 

 これ、原作と違って南ではなく北へ向かって行くことになったのでロケを北海道や東北各地で行っています。特に中村獅童がコンビニ店員を演じた場所のロケ地、福島県の永崎海岸ですが撮影後東日本大震災津波の被害に会い、奇しくも当地の被災前の様子を記録した映画となってしまいました。

 

 ちなみにこのブログ書いている人、この映画に出てくるショップ永崎ではないですがその向かいあたりにあったファミマでよく缶コーヒー買って夜の永崎海岸を眺めるということを震災前にやってました。だからなんかすごくシンパシーなんですね。

 

moviewalker.jp

 

 西田敏行の「お父さん」はもちろん、個人的に原作にはない役割の三浦友和がものすごく印象に残っています。しかし西田敏行が犬を食いすぎていて、犬の扱いがちょっと微妙になってしまったので犬映画としてはおすすめできません。僕のワンダフルライフのほうがいいです。

 

 しかし原作とそこまで相違点はないので、ハンカチは必須です。泣きます。なんか、もっと自分も何かできないかなあ、無力だなあって本当に思うんですよ、こういう映画。

 

 なんていうか、「タコピーっぽい漫画があるっピ」とか「いやプンプンだ」というけれど、個人的に思いついたのはこれだったので(寄る辺ない者が着の身着のまま南へ向かう)ちょっと記事にしてみました。あ、違うな。『真夜中のカーボーイ』かもしれない。なんだかんだ言われているけど、個人的にタコピーは好きだっピ。あのタコピーの無邪気なところが本当にいいキャラだと思うっピ。あとはどうでもいいっピ。おわり。

 

お題「邦画でも洋画でもアニメでも、泣けた!というレベルではなく、号泣した映画を教えてください。」

【追記あり】システムを理解する人しない人

こんな話題を見かけて、思い出したこと。

 

togetter.com

 

老人になるとタブレットでの注文や配膳ロボットがうまく扱えないという話題で、それは老化の問題ではなく「周囲の異文化を理解するか」でないかと思うのです。

 

例えば老人でも、常に外部から情報を入れていれば「これがニュースで見た配膳ロボットか!」くらいのリアクションにはなるわけで、そいつらはタブレット注文も配膳ロボットも最初は戸惑うけど、すぐに慣れる。最初から「そういうもんになったのか」という受け入れ態勢があるから、すんなりと文化の中に入っていける。

 

そしてこれからする話はもう随分の昔のことになるけど、このブログ書いてる人にとって結構印象深い話として残っているファミレスバイト経験記です。

 

ファミレスバイトを始めて日が浅い頃、オーダーを取りに行った老夫婦が「烏龍茶」と注文をした。「烏龍茶はドリンクバーにございますのでドリンクバーのご注文でよろしいですか?」と聞き返すと「は?あたしゃ烏龍茶が飲みたいの!」「ですから烏龍茶はドリンクバーに……」「訳の分からないこと言わないで、さっさと烏龍茶を持ってきてちょうだい!」とのこと。

 

つまり、この老夫婦はドリンクバーの仕組みを理解していないのでそれまでの飲食店で頼むのと同じように単品の飲み物として烏龍茶を注文している。ついでにお水がセルフということもよくわかっていなかった。ちなみに、当時ドリンクバーが画期的だったわけではなく世間一般に広く浸透していたことは記しておきます。

 

ここで自力での対応は無理だと諦め、一緒にフロアにいる先輩に助けを求めた。そこでの先輩の模範解答は「かしこまりました、と引き下がってオーダーはドリンクバーを入れる。それから自分で烏龍茶をドリンクバーから持ってきて、老夫婦卓に配膳する」だった。ついでにお冷も配膳してた。先輩かっこよかった。

 

そこでの教訓は「概念のわからない人に概念を説明して自力でできるようにしてもらうより、概念がわかってる人がお膳立てして辻褄を合わせるほうが誰も傷つかない」だった。それまでは「人類みな話せば分かり合える」と思っていたので、これは衝撃的だった。

 

だから、多分未来というのは老人にとって絶望ではなく絶望を感じる前に「わかる人が代わりにやる」だけだと思う。そして「こいつはわからないんだな」と思われていくだけで、わからない人は何がわからないかわからない。絶望してる人はまだ理解しようとするだけ救いがあるのだ。

 

例えば「ハンバーガーとコーラ」と注文されたときに「セットにしますとお安くなりますよ」と言われて「あら、じゃあそうしてもらおうかしら」となるのか「セットだか何だかしらんが、俺はそんなもん頼んでないんだ、さっさとハンバーガーとコーラを寄越せ!」となるのかの違いだ。前者は得をして、後者は店が気を利かせて勝手にセット価格にするか、本人の言葉通り単品価格で注文して損をするかだ。

 

しかし勝手にセット価格にすると「何で安くなってんだよ詐欺じゃねえか!」と怒られる可能性もあるし、セット価格で購入した人と比べて「何であっちのが同じ商品なのに安いんだよ詐欺じゃねえか!」とやはり怒られる可能性がある。どのみち怒られるので、店は怒りの導線がどれなのか引っ張るあみだくじをやるような事態になる。

 

例の老夫婦が「ドリンクバー」という概念を習得すれば、次回以降注文で手間取ることはないだろう。しかし、またファミレスに行った際に同じような問答を繰り返すかもしれない。それは老夫婦のみならず、社会が背負うコストにもなってしまう。そうして社会も面倒くさいのでタブレットで注文してください一択になってしまう。

 

マイナンバーやペイペイなど、今の世の中は覚えることがたくさんある。それを背負えるかどうかというのは加齢よりも本人の資質によるところが大きく、加齢でより顕著になるというだけのような気がしている。そんなことなどをつらつら思い出しました。おわりです。

 

 

【追記】

こんなに読まれる想定で書いてなかったので、もう少しハンバーガーセット価格について細かく書きます。

 

この話は「システムを理解しない人」という例です。大前提として「ハンバーガーとコーラを同時に注文する際にセット注文にすると安くなる」というのがシステムです。システムを知っている人は最初からセットを注文し、システムを知らなくても理解しようとする人は店員からのススメでセットで注文します。

 

ところが、セットというシステムを受け入れる気がないと「ハンバーガーとコーラ、その他にセットという得体の知れないものを買わされる」と思います。だから「ごちゃごちゃ言ってないではやくハンバーガーとコーラを持ってこい!」となります。彼らの認識では「ハンバーガー、コーラ、セット」なのです。

 

だから、勝手にセット価格にして販売すると「ハンバーガー、コーラ」を注文したはずなのにレシートに「セット」という得体の知れないものがあって、それで何故か単品で買うより安くなっている。システムを理解できないと「なんでハンバーガーとコーラを一緒に買うと安いんだ?」「どうしてハンバーガーとナゲットでは安くならないんだ?」と理解が追いつかず店のせいにしてキレるわけです。

 

ここでキレるのに理解ができない方が大多数だと思いますが、この過程で「恥をかかせやがって」「店員のくせに指図して生意気だ」などキレる理由はそこそこあります。ここから先は違う話になるのでおしまいにしておきます。

 

「そんなヤツいるのかよ」と思うのですが、これは極端な例です。それをどこまでカバーできるかっていうのは、やっぱりAIだけだど無理だと思います、はい。

 

つまるところ、システムで社会を回すならシステムを覚える気がない人のためのコストはある程度必要で、そのコストをいつまでかけられるのかってことかなと思います。ただシステムを理解する気のない人は、応じて他人を理解する気がないのでコミュニケーションのコストが跳ね上がります。ここから先はシロクマ先生とかが詳しい気がするので追記はこのくらいにしておきます。

 

美味しんぼのアニメを見ている

再放送で美味しんぼをやっているのでぼちぼち見ている。あらすじとか有名なシーンしか知らなかったので、改めてこういう話なのかと思いながら結構楽しく見ている。

 

面白いのが当時の時代性に加えて、お話の組まれ方。このブログ書いてる人が父子ものに対して何らかの何かの感情を強く持っていることは大前提として、この美味しんぼに登場する父子は本当にわけがわからない。

 

わけがわからないというか、登場人物全体に人の情ってもんが見えない。全てのロジックが「より美味いもんを食う」になっていて、そこに至る過程でキャラが踏み台になっている。主役はあくまでも食べ物で、登場人物はその引き立て役。だから山岡がサイコパス行動をしても雄山が悪者チックに振舞っても、特に問題はないし周囲も介入しようとしない。

 

いや、普通にこんな奴ら実際にいたら嫌だろ……まあ、山岡という装置を使って基本的に「メシ美味ざまぁ!」をする話なのでこの漫画の中ではこれは正解なんだと思うのですが。

 

つまるところ、美味しんぼとは「食通の父親をざまぁさせるために俺も究極のメニューを追いかけながら周りの人間ざまぁさせていく」であり、「弱い立場が知恵で目上の者をギャフンと言わせる」といういわゆる吉四六さん的な面白さがある。それで、これを異世界でワーワーやるのがいわゆる「なろう系ざまぁ」なのかなぁ、とアニメを見ながらぼんやりと思った。

 

そんなことを考えながらブコメ書いたら思いの外ヒットしてたので世の中何が起こるかわかんねえなと思う次第です。余った唐揚げを巡って起こる激しい親子喧嘩漫画「いやしんぼ」、あんまり見たくないなぁ。

 

ミスター端っ子「どんな食べ物でも端っこがうまい!」

いやしんぼ「この余った唐揚げを食べるのは誰だァ!?」

2024/03/03 20:25

b.hatena.ne.jp

 

ホラーと小説は相性が悪い騒動の背景

 先日、突如としてホラー小説家の大御所たちが「けしからん(ニヤニヤ)」というポストを次々と投稿して賑わっていた「ホラーと小説は相性が悪い」の騒動なのですが、この炎上に関して背景を理解すると更に違う景色が見えるかと思いますので、ちょっと解説します。

 

togetter.comso

 

【概要】

 発端のコピーライター氏が「ホラーと小説は相性が悪い、何故なら絵や音がないからだ」という主旨の投稿をする。これに「じゃあスティーブン・キングは何なんだ」「想像で補完するから怖いんだろ」というような反論が殺到。そこにホラー小説家の大御所たちが「そんなことないと思いますよ~(基本激おこ」というコメントを続々発表。ついにカクヨム公式が「最近ホラージャンル賑わってます!」というポストをする事態に。

 

 これに対し発端の氏は「ホラー小説の否定ではなく、初心者が小説を書くにはホラーは難しいジャンルだということが言いたかった」「相性が悪いとは難易度が高いという意味である」と弁明。更に長文で弁明を書くとコメント。発端のポストは削除。更に「重い創作を持て囃す老人が軽い娯楽小説を好む若者を攻撃する」との発言が波紋を呼ぶ(現在ここ)。

 

【背景1:小説とは何か】

 これは発端の人の元のポストだけでは追えない文脈なのだけど、ここで言う小説というのは「主に小説家になろうなどの投稿サイトですぐに読者数を増やしてランキングに載って人気になり、それから出版社に声をかけられて書籍化する小説」のみを指すという事情を読み解けないと「じゃあ小野不由美は何だったんだ」になります。この人は小野不由美の話をしていないんです。

 

 それで、この人の理屈で言えば「ホラーはのめり込ませないといけないので、毎日片手間にささっと読めるようなものを求められてる場所にはふさわしくない」とのこと。つまり「隙間時間に手軽に怖がらせるには音や絵が必須。だから映像やゲームはいいけど小説は不向き」ということが言いたかったのです。この理屈自体は真っ当ではないでしょうか。

 

 つまりこの人は「小説」というものを「隙間時間に流し読みできるもの」と認識して、そこを軸に「なろうで売れたければこんなことをしろ」という話をしているわけです。ちなみにこういう「ランキング主義的創作論」を語る人は界隈にまあまあいて、毎度毎度喧嘩しています。トムとジェリーみたいなものです。

 

 そういうわけで、この「流し読みできないものは相性悪い」という理屈は一冊の本とじっくり向き合う読書体験の否定として、作家のみならず一般の読書家からかなり反発を食らったわけです。まあ、せやろなというのがこのブログ書いてる人の感想です。言葉選びが悪いと言うより、喧嘩を売ってるとしか思えない。


【背景2:テンプレとランキング主義】

 しかし、この人はおそらくインプレ稼ぎではなく本気でそう言ってるわけです。そこにも背景があって、特になろうにおいては「テンプレとランキング主義」が横行しています。その中でもホラーやミステリー、SFなどと言ったジャンルは過疎ジャンルとされています。

 

 その要因のひとつは氏の指摘の通り、ホラーというジャンルが連載小説に向かず、投稿サイトとして盛り上げが難しいというところに「ホラー要素があればホラーを名乗っていいんだ!」という別ジャンルの作品が紛れ込んでくるため訳がわからなくなっているというものがあります。カテゴリーエラー、いわゆるカテエラと呼ばれるもので、意図的にやっているものもあれば初心者がよくわからずにジャンルを選択するものもあります。つまり「幽霊がいるならホラーやな!」と『ゴースト~ニューヨークの幻~』や『ステキな金縛り』がホラーとして提示されている状態です。

 

 ランキング攻略を目的とする人たちは「とにかく奇抜な設定で読者を釣れ」「読者は馬鹿だから異世界転生最強設定とか脳死で読めるのにしろ」「設定さえ思いつけば後は書きながら考えろ」「思いつかなくなったらエタって(未完のこと)次の設定を考えろ」「当たり設定が引けなかったら次々エタればいい、読者はエタ率なぞ気にしない」「要は勝てば何をしてもいいのだ勝てば」ということをまことしやかに語るわけです。ここはだいぶ誇張してあります。

 

 そこで要因のふたつめが「読者層」です。一部で蛇蝎のように嫌われているなろうテンプレですが、これは「素人でもそれなりのストーリーが作れる」という非常に優れた面もあります。ちなみにこのブログ書いている人の見立てだと、なろうテンプレ小説を書いてる人は「面白そうだからやってみるか」という暇つぶしか「これなら出来そうだ!」という物書き志望の学生か「まずはなろうテンプレで売れてから書きたいの書いてやる」という人の3種類くらいに分けられる気がします。レビューや講評などでも「頭空っぽにして読めば楽しい」という文言を多く見かけます。つまり、安易なテンプレを用いる書き手も「頭空っぽ」状態である可能性は高いです。

 

 つまり、頭空っぽで書いたものは頭空っぽで読むことに特化しているのでランキング上位に来るのは頭空っぽ作品になります。ここで言う「頭空っぽ」とは深く考えないで書いたり読んだりするということです。だから極端な話、密室殺人事件の謎を読者が主人公と一緒にうんうん考えるのではなく「てれれてってれータイムマシン! 犯人はなんとボクでしたあ!」みたいな方がウケるわけです。そういうわけで頭を使うミステリーやSFはそうでないのに比べて圧倒的に読まれません。マジで。

 

 ちなみになろうの現状ですが、この「テンプレで深く考えない物語がウケる!」が浸透した結果、ランキングに異世界恋愛で婚約破棄からのざまぁしか見当たらないという現象が発生しました。「せっかく書くなら読まれたい」→「読まれるのは流行のジャンルだ」→「流行のテンプレ小説大氾濫」→「テンプレじゃないとランキングに載らないから仕方ないけどテンプレで書くよ」→「大氾濫」の状態が今なんじゃないかなあと思います。違ったらごめんね。

 

 もちろん真面目に異世界恋愛を歴史や様々な知識を踏まえて書いてる人もいるけど、貴族の婚約破棄を恋人を振る行為くらいの文脈で使ってる*1ものまであるので正直ピンキリです。なんでこんなことになるのかと言えば、「作中世界を創造する」のではなく「読者の気持ち(敵を倒したい、ざまぁしたい)」を優先しているので作中世界のほうが読者のニーズに沿う形になるわけです。

 

 下品な言葉を使うなら「いかに読者を気持ちよくさせるか」が勝負どころなのです。そうでないと「主人公がピンチだ! もうこの作品読まない!」と評価を下げられてしまいます。これは各所で聞く話で「見せ場のために主人公側を劣勢にしただけで読者数が減った」というのはあながち嘘ではないと思います。


【背景3:読者は作者を応援したい】

 つまり、ここで言う「小説」っていうジャンル自体が従来の文芸小説から分離し始めているのがこの世界です。現に様々な投稿サイトで「異世界ファンタジー」と「文芸」を切り離しているところはあります。このムーブメントは「ケータイ小説」の時代にもありました。特に考えず物語を消費して主人公になりきり、一緒に恋愛した気分になるタイプの小説です。主人公の苦悩に共感したり、作品の仕掛けにびっくりするような大がかりな感情の動きは少なく、ただ「ぼくらの物語」が存在すればいい。だから主人公の葛藤表現なんか書いた日には「うだうだ悩んでつまんない」「面白くないから駄作」となるわけです。

 

 そうなると読者も「親しみやすい書き手」を求めます。だから大作家先生みたいな権威よりも「自分と等身大の人間」が書いた物語に人気が出ます。ついでに言えば「こいつ頑張ってるな」という視点も入り、どちらかと言えば流麗で華麗な物語展開よりもたどたどしい文体ながらテンプレに沿ったもののほうがウケはよくなります。

 

 極論を言えば「千年に及ぶ人間と魔女の戦いの歴史を壮大なスケールで描く」とかいうよりも「奴隷の身分に落とされた魔女っ子を手懐けて俺と相思相愛の夜は魔法でトゥギャザー」みたいなほうが喜ばれるわけです。前者は「話がデカくて覚えることが多くて大変そう、戦争とか鬱展開ありそう」となり後者は「夜は魔法でトゥギャザーって何するんだろうワクワク!」となるわけです。

 

 余談ですが、そうなると「異世界ファンタジーで文芸小説を書きたい場合はどないなるんや!!」と主張する勢力が現れます。そう、本格的に書きたいわけでおっと誰か来たようだ*2

 

 で、「ホラーと小説の相性が悪い」に話を戻すと、ランキング至上主義の理屈として「千年戦争の歴史」は×で「トゥギャザー」は○です。そういうわけで作者が本当は「人間と魔女の戦いを書きたいんだ!」となっても「それだけだと読者は来ないから夜のトゥギャザーを書くしかない」とそういうタイトルになります。要はいい意味での釣りタイトルです。

 

   そのジャンルの軽い小説が存在するのはいいと思うのですが、それ以外の文芸小説を「老人の好む重い小説」と評するのはプロとして創作論を語るなら個人的にはちょっとどうかなとは思います。

 

【この件のおとしどころ】

 つまり「ランキング至上主義小説(決してなろう小説ではない)」と「文芸小説」の違いが見えないとこの問題は「なんかアホなこと言ってらぁ」となります。

 

 しかし、この「ランキング至上主義小説」と同じような構文で人気になったホラー小説がありましてね……みなさん『リアル鬼ごっこ』を覚えているでしょうか? 奇抜な設定、過激なシーン、そして人称も視点も日本語もごちゃごちゃとしてるのに愛された怪作。実際、このホラー小説騒動において「じゃあ山田悠介はどうなんだよ」と反証されている方もいました。

 

 以上を踏まえて騒動の結論を言えば、発端の人のホラーというジャンルの理解度が非常に足りないことが問題だと強く思います。ちなみに「ツリーを全部読めば妥当なことも言っている」のは間違いでないですが、最初に掲げた命題の「ホラーと小説は相性が悪い、何故なら絵や音がないからだ」が明確に間違いであるため、その後なんか読んでもらえるはずがありません。これは創作とかホラーとか読者層とかリーチ範囲以前に、文章の書き方とリテラシーの問題です。

 

   そういうわけで一度ホラーに言及しまったのだからこの際「怖いの無理」とか言わないで、ホラー小説とホラー映画、更にお化け屋敷や怖い民間伝承に絶叫マシンや怖いフラッシュなどで「ホラー」というジャンルの知識と教養を深めるのが一番の信頼回復になるのではないでしょうか。

 

 とりあえずホラー小説を数冊読んで、小説で恐怖させるポイントを抜き出して解説すりゃいいんじゃないかなと思うんだよね。それが角川ホラー文庫のアカウントも「ホラー面白いですよ!」と動かしてしまった一番の禊ぎになると思うんだ。

 

 つまり、わけのわからないものに安易に近づくと怖い目に合うってっこった。おおこわいこわい。


【創作論の是非】

 以上が「ホラーと小説の相性が悪い」の背景です。つまるところ、ロック音楽批評家(自称)が「お行儀良く黙って座って聞くなんて音楽として間違ってるぜ!」と公言したところ「何だと!」とクラシックファンが反応、それを機にクラシックガチ勢がどんどん反論したという形です。それでぶち切れたガチ勢が「これだから批評家って奴にろくなものはいないんだ!」という流れです。

 

 確かに件の批評家はろくでもないことを言ったかもしれないけれど、そのせいでロック音楽の批評全部が間違っていることにはならない。批評家全体にヘイトが向かってしまうのは残念なことだと思う。界隈では「創作論を語るのは間違いではないのか」と言ったナーバスな意見まで飛び出しているけれど、創作論自体が悪いのではなく「プロとして間違ったことを浅学で語る行為」が悪いことだと思うので創作論自体は盛んに交わされるべきだと思う。

 

 しかし、上記したランキング主義に基づく創作論を「小説の書き方」として語るのはやっぱり乱暴だと思うのでせめて「Web小説の書き方」くらいにしたほうがいいと思う。そのくらい文芸的な「小説の書き方」と乖離したものになっている。その乖離に気がつかないのであれば、そこは無学とされても仕方ないのでは、と思う。

 

小説家になろう

 

 こういう流れを踏まえてか、小説家になろうのランキング形式が先日変更になりました。ランキングの変更自体は事前に告知があり、この騒動のせいではありません。変更の是非はともかく、こういう現状を打破したいのではないかという印象を受けました。今後どのように文芸、Web小説が発展していくのかを見守っていきたいです。

 


【余談】

 このブログ書いてる人はこの「ランキング至上主義小説を推進する界隈で起こること」を見てると思い出すことがあります。以下たまに見かける文言の例です。

 

「ランキング上位でPVさえ稼げれば何を言ってもいいのだ」
「アンチでも作品見てくれればそれでOK」
「作品批判しかしないあいつらは頭が悪い」
「俺たちは理想の作品を書いているからそれでいいのだ、批判は受け付けない」
「アンチはみんな童貞キモ男だから何を言ってもOK」
「むしろアンチが養分w」

 

 ……おお! 古に存在したミニマリストミニマリスト*3じゃないか! お前らみんなweb小説書いてたんか!!

 

 そういうわけで、歴史は繰り返すみたいなことを思っています。おしまい。

*1:政略結婚の白紙化なんて下手すればお家断絶とか国家滅亡レベルだと思うのだけど、そこは異世界なんでなんでもありです。

*2:この辺の事情に関しては『本格ファンタジー』で検索してください。わしゃ知らん。

*3:物を持たないことで生活を豊かにする暮らしを実践している人、ではなく流行のワードに乗っかって他人を煽り散らすことでヘイトを生みブログのPVを稼いだ民族。