はてなインターネット文学賞が開催されるそうだ。
「インターネットでシェアされやすい」が評価の基準ということで、思うところを少し並べていく前に、「インターネットで物事を語るという虚構性」について考えていきたい。グダグダしてるので急いでる人は結論だけ読んでください。
結論
文学も即効性が求められる。出会って三秒で合体するスピードが今はエモい。おわり。
インターネット文学とは?
そもそも「インターネットで拡散されやすい」とはどういうことだろうか。個人的な感覚で話をすると、インターネットで拡散されやすい、またはバズりやすいコンテンツはこんな感じだ。
・何らかのネタ(例:クソデカ羅生門など)
・炎上系(例:男女、地域、子育て論など)
・婚活系(例:結婚物語さんのブログなど)
・毒親系
・料理などライフハック系
ネタやライフハック系、炎上系が拡散されやすいのはわかる。婚活系や毒親系が拡散される時、反応の多くに「目から鱗が落ちました」というワードが散見される。実はよく考えると当たり前のことを言っているのだが、環境などのせいで視野が狭くなっている人が「そういう考え方もあるのか!」と気づけるコンテンツが実は強い。このようなコンテンツを最近「ウロコ系」と勝手に呼んでいる。ウロコ系は他にも子育て系や仕事系のコンテンツにたくさん現れる。以前「掃除したら部屋がキレイになりました!」「無駄遣いやめたら貯金が溜まりました!」みたいなコンテンツはなんなんだろうと思っていたのだけど、多分ここに分類されるのだと思う。最近だと「顔を洗う時ビショビショになる」の奴。
インターネット文学の話に戻ると、この「ウロコ系」が実は鍵になってるのではないかと思っている。ウロコが剥がれやすい人は、書いてあることをそのまま素直に信じる。そういう層に向けて書いていくことが作品の善し悪し以前に、一番バズるのではないかと思う。
あぶくま君の事例
あぶくま君に関して端的に説明すると「震災の実録風エッセイを装ったトンデモ異世界漫画」である。東日本大震災で家族を亡くし、中学生でホームレスになったというセンセーショナルなあらすじだが、話が進めば進むほど当時の出来事との矛盾やおかしな描写が目立つ。津波の来なかったはずの地域で家が更地になり何故か家族に連絡を取らずに死んだものとして東京に避難するも適当に嘘をついてひとりになり、ホームレス生活を半年送ったあとに反社会的な人に拾われて住民票を取得し反社会的な活動をしながらタコ部屋で過ごしているらしい。明らかにおかしい点は漫画を読めばわかるし、詳しいまとめもあるのでそちらを読んでほしい。
当初から避難所の様子やホームレスの環境などから「嘘では」と囁かれていた。特に半年経ってからネットで原発事故のことを知るという展開は明らかにおかしい。当時を生きている人なら「福島第一原発事故」のことを知らないというのは現在において新型コロナウィルスのことを知らないというのと同じくらい有り得ない。いくらあぶくま君がおマヌケな子だとしても、相当周到な説明がない限りこの話は真実と認識されない。先にあぶくま君に関して結論を出しておくと、おそろしくストーリーを考えるのが下手な人物が背景にいるということは間違いないだろう。
とりあえず話の虚構性はおいておいて、あぶくま君の話を100%フィクションだとしてもかなり話の作り方がおかしい。どこの誰が企画をしているのか知らないけど、「お話」というものを作ったことがないのではないかと思う。「耳をすませば」で雫が物語を書くのに図書館で参考資料を読み漁り、完成してからもっと勉強をしないといけないと嘆く場面がある。「あぶくま君」という作品も描くに当たって当時の資料を相当読み込まないといけないと思うのだが、原作者はかなりその辺を舐めているとしか思えない。個人的にまとめの指摘でなるほどと思ったのは、「ところどころ福島弁でなく関西弁らしき言語が登場する」というところ。確かに福島弁が皆無なのだが、意識的に標準語にしているかというとそんな感じもないし、何より実録エッセイなのだから福島弁で書くところを書かないと信憑性というか、物語の細かい部分すら信用してもらえない。そういう野暮以前のツッコミがこの作品には無数にある。物語を作るという意味でとてもよい反面教師になるのでそういう意味では存在意義があるのかもしれない。
そんなあぶくま君の最大の問題点は「明らかにボケた虚構でも実話であると前置きがあると信じてしまう人がいる」だと思う。今でもたまに「大変な思いをされたのですね!」というリプライに「これは嘘ですよ」というフォローが入る光景が見られる。なお矛盾は被災地の地理とか避難所の様子とか以前に「連絡を試みたり必死に探す素振りもなく勝手に家族は死んだものと思ってる」「避難所で体調を崩したので親友と付き合ってる彼女のことを半年忘れていた」など物語の根幹から発生しているため*1、「嘘を嘘と見抜ける人(ry」の言葉が重々しく感じる。
つまり「これは本当にあった話です」という前書きがあればその内容がいくら荒唐無稽であろうと信じてしまう人は一定数存在し、彼らが荒唐無稽を支えていいくことになる。さらに「本当にあったらしい、もっともらしい」という点はバズにおいては重要な要素だと思う。「1杯のかけそば」「電車男」「ゲーセンで会った女の子」しかり、増田文学の金字塔「Yahooチャット」「自走式彼女」にもそういう要素がある。
デリヘル増田の事例
で、インターネット文学の虚構性について考えさせる出来事が最近あった。言いたいことをズバリといえば「こんなもん面白がるなよ」ということである。
個人的に文章の巧拙を見る時の基準がふたつある。
・本題をすぐ述べているか。
・時系列がバラバラでないか。
このふたつが出来ていないということは、書くことがまとまっていないので散漫に思いついたことをグダグダと述べているスタイルになっている。必然的にいらない情報も多く、「何が言いたいか」がわからないことが多い。もちろんちゃんと読めばいいのだが、読者に負担をかけるような書き方をしている時点で「良い」とは言い難い。
で、文章がヘタクソというのがメインではない。問題はこの文章が「釣り目的」で書かれているということだ*2。馴染みのない方にはないけど、増田では昨今「とある業界の興味深い話を延々とした後オチにデリヘルを持ってくる」という文章がよくウケている。
で、「インターネット文学」を選定するにあたって「あまり上手でない文章」かつ「釣り目的」な増田を選んでよいものかと思うのよ。そりゃ明らかに釣りでも端的に面白い文章だったりヘタクソでも一生懸命書いたのがわかるというくらいならわからないでもないけど、何故この増田が面白いと評判になったのかを考えたところ、「デリヘル増田の文脈を理解出来た」からじゃないかと思ってしまう。
つまり増田の本文そのものより「オチにデリヘルが出てきたという体験」がウケているだけの可能性はあると思う。だからこいつを「文学的に評価している」というのはどうなんだろうと思うのよ。いや、この増田がめちゃくちゃ面白いと思うのは勝手だし面白くないと思うのはこっちの勝手なんだけど、面白いなら面白い理由を教えてほしいなと思うのよ。
個人的にこの増田は「バーボンハウス*3」である。デリヘルの文字が出てきた瞬間にこの話は虚構であり、お前らはこんなものを一生懸命読んできたんだぜという嘲りが含まれるのである。まだ過程が面白ければ釣り神様*4のポジションにいけるのだが、これは文章の構成が下手くそすぎて難しい。キャバクラの内情を知るには面白いけど、もっと他に書きようがあるだろうと思う。あまりにも下手くそすぎる。
途中で書き手が特定されるといえば、過去の「京都の大学で怨嗟を撒き散らす増田」が想起される。彼の書く文章は話題が様々なところにあるのだが、最終的に自分の醜さに言及して周囲に当たり散らすという形になっていて「またお前か」という感じが強かった。個人的に運転免許講習の辺りが好きでした。
彼とデリヘル増田の違いは、京都の増田が「誰かに見せようとして書いている日記ではない」のに対してデリヘル増田は「読者がいることを大前提に書いている」というところだろうか。要はデリヘル増田は「釣り」の文脈で読む必要が出てくるので必然的に中身が虚構であるという文脈がついてしまう。つまりはデリヘル増田である時点で「あぶくま君」と同じなのである。
インターネット文学の難しさ
長くなってきたのでこの辺でまとめにかかる。インターネットでバズる要素には「実際にあった出来事、本当にあったらしい出来事」という触れ込みが大事になってくる。「インターネット文学」として増田でバズるならその要素はかなり大事である。
本当にあったことらしい、という箔がついて拡散のスピードはあがる。似たような文章を書いてもそれが小説として発表されるとあまり閲覧数は増えない。ギャラリーが求めているのは生の感情であり、当世風に言うと「クソデカ感情」なのである。
そこで「本当にあったことらしい」という装置として働くのが増田であり個人ブログであり、連ツイやTwitterのスクショ長文なのである。そこで大仰なエピソードを消費し、勝手に憤ったり感動したりするのだ。文学も今や消費の時代。一時のエモは他人に30秒くらいで忘れられる。そんな中で傑作が生まれるのは難しい。数秒のために身を削って作品を書くことはなくなり、数秒で思いつくような話が数秒で消費されていく。その筆頭があぶくま君のような気がする。
ちなみに「恋空」ブームのとき、面白かった理由に「最後まで読んだから」と言うものがあった。本なんか読んだことない私でも最後まで読めたから面白かった、という理屈である。個人的にこの理屈は上のデリヘル増田にも当てはまると思う。この理屈を適用すると長い物語風の文章は何でも「面白い」と思うのである。最近の「家族が溶けた増田」もその類だと思う。
個人的に色々当てこすりまくりで家族が溶けるシーンのインパクト不足と蛇足のオリンピックの記述が寒くて作品としてまとまりはないと思うんだけど、「面白かった!」という感想が結構あった。数秒勝負の文学では「ある程度文量のある物語」という時点で面白さが保証されるのかもしれない。
まとめ
そう考えていくと「文学」そのものが変節していっているのかもしれない。この流れはケータイ小説が登場した辺りから観測され始め、長い文章を読むスキルが高度なものになってきている。これはテキスト主体だったころは必然的に文章のスキルが必要だったけど、色んな媒体で様々な層の人が使用することで文章の読み書きスキルが必須でなくなったということかもしれない。まあつまり、とりあえずエモけりゃなんでもいいよ。エモって言葉随分市民権得たよね。おわり。
追記
ブコメで「文章の質が良い作品例がない」とあったのですが、「好きな増田文学」に関してはアーカイブからお読みください。また、現在「作品発掘タグ増田について」という記事を作成していますのでお待ち下さい。