あのにますトライバル

旧さよならドルバッキー。

「なつぞら」とアンチハッシュタグについて

※この記事は途中まで「なつぞら」を一切見ていない人にもわかる内容になっています。


朝ドラ「なつぞら」が佳境に入っている。いろいろあって広瀬すず演じるヒロインなつが「アルプスの少女ハイジ」に相当するような作品を手がける過程が描かれてるんだけど、とにかくすごい。


Twitterハッシュタグで見られるアンチの勢いがすごい。


広瀬すずの演技が下手」「私ならそんなことしない」「チャラチャラした服着て」「天陽の奥さんの演技がすごすぎて広瀬すずの下手が目立つ」「全体的にアニメーターとしての覚悟が見えない」「ヒロインだからって甘やかされすぎ」「母親失格」などなど……。


なんでこんな怖いコメントが湧くのか。そんなことを考えながら「なつぞら」のモヤモヤを振り返ろうと思う。

 

まぁどんなものか見てください

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アンチタグについての考察

内容に入る前にアンチタグの話をする。この項目は「なつぞら」の内容に触れず、何故こんなことになっているのかを考えていく。


朝ドラアンチタグは「半分、青い」のときも見受けられたけど、何故か今作はとにかくヒロイン広瀬すずに対する暴言が見受けられる。「半分、青い」のときは永野芽郁という役者ではなく鈴愛というヒロイン像(その奥にある脚本家)に対してのヘイトが中心だったのと対照的だと感じる。


また、現代を生きる自分と昭和のヒロインを混同して謎の愚痴を展開しているコメントもいくらか見受けられる。例えば「なつ様はみんなに助けてもらって自分では何もしてないくせに自分の手柄のように見せて不快」なんていうツイートが見受けられたけど、放送を見れば恣意的な見方であると断言できるくらい歪んだものもある。


そんなわけで「批判ではなく暴言は嫌だなぁ」と苦言を呈する人もいるわけなのだが、アンチタグを使用している人は自覚なく暴言を吐き続ける。


なんでこんなことになるのかと言えば、ハッシュタグのせいだろうと考える。「2ちゃん(現5ちゃん)」には「アンチスレ」というものがある。人気のあるものに対して不快感を持つものが集まり、愚痴を言い合うスレッドだ。アンチタグとの違いは、アンチスレは「アンチであることを自覚して」「隔離された場所で」愚痴を言うことでアンチの意見が拡散されないようになっているが、Twitterハッシュタグは別だ。


ハッシュタグでアンチの意見が増えると、「この作品には悪口を言っていいんだ」という雰囲気が生まれる。そして上手な難癖を付けるとRTやいいねされることでどれだけ過激な悪口を言えるかという雰囲気が出来てしまう。現在の「なつぞら」のアンチハッシュタグは作品批判というよりただの難癖、悪口、広瀬すずに対する誹謗中傷が見受けられるのも致し方ない。それがどれだけ恐ろしいことかをアンチタグ使用者は自覚しない。


こう書くと「思ったことを発言しちゃいけないんですか!?言論弾圧ですか!!」って怒る人がいるけど、まぁ話は最後まで聞いて欲しい。思ったことを思ったように言うことは大切だ。だけど太ってる人に面と向かって「デブ」とは言わないし、「あの人あなたのことデブって言ってたよ」と本人に伝える人もおかしい。そしてTwitterハッシュタグでの発言は確実に後者そのものだ。「みんな悪口言ってるから私も言っていいでしょ」という感じになっている。これは非常に良くない。「なつぞら」の悪口を言いたいならハッシュタグを付けないで呟くということも十分にできる。たまに公式のハッシュタグと併記してアンチタグを付ける人がいるけれど、作品を楽しんでいる人に悪口を見せて何が楽しいのかわからない。


アンチタグで呟かれる内容を見ていると、多分批判と悪口の区別がついていない人も多いのではないかと思う。「目が死んでいる」とか「コネでヒロインもらったのか、NHKも質が下がった」とか「どうせ現場でちやほやされて自分の実力もわからなくなった」とか、なんかそういうのが辛い。これらは作品批判というより、個人的な恨みつらみとカウントしたほうがよいと考える。また「作品にダメだしすることでNHKの鼻を折ってやる(と言いつつ建設的な批判は一切ない)」という意気込みのものも見受けられる。


彼らの言い分もわからないでもないところもある。しかし、ネットに個人的な悪口を書いてそれが賞賛されるようなことは基本的によくないと思う。そんなことを曖昧にしてしまうのが「アンチタグ」だと思う。


少なくとも「アンチタグ」を使用して集団で広瀬すずを叩いている人達はネットいじめをしている自覚を持って欲しいし、同じ顔で「いじめはいじめる方が悪い!」とか言って欲しくない。炎上というのは意地の悪い人間が示し合わせて行うものではなく、悪意に無自覚な大勢の悪意が結集するのが「炎上」なんだということももっと多くの人に知ってもらいたい。この話題終わり。

 

 


以下、「なつぞら」本編のモヤモヤを自分なりに整理しました。個人的には「脚本が荒いところもあるけど、とりあえず見れるドラマ」ということになっています。その荒い部分や批判が多い部分を取り上げていきます。


なつぞら」見てない人のために簡単なあらすじ

戦災孤児の奥原なつは父の戦友に連れられて十勝で育つ。酪農や十勝の自然や幼なじみの山田天陽に惹かれるが、アニメーターになるという夢を選び上京。東京で生き別れの兄と再開し様々な人と出会って何とかアニメ制作会社に就職する。そこで出会った坂場一久と結婚して娘を授かるが、責任ある立場にいたなつは仕事を休めない。元同僚に娘を預かってもらうことで仕事を続けるが、娘のために仕事を辞めることも考えていた。そんなとき、山田天陽が亡くなったという知らせを受ける。娘と十勝に帰ったなつは彼の死を悼む。

 

なつの母親業について

これは脚本がよくなかったと思う。具体的には、あまりにも「現代の問題を描こう」としすぎて不自然な描写が増えてしまったところだ。「困った働く母親」を描こうとして、「おれのかんがえるさいきょうのこまったははおや」になってしまった。


全体的に、なんつーか、話が出来すぎている。困ったイベントが来ているというより、困らせるためにイベントを起こしているという印象。それもこれもおそらく「保育園落ちた」がやりたかっただけじゃないのだろうか。


乳幼児の保育園問題と言えば思い出すのは「べっぴんさん」なんだけど、あれは赤ん坊の時期は会社勤めしてなかったからなぁ……龍ちゃん問題のあたりのべっぴんさんは本当にすごかった(だから子供たちが大人になってからの失速が本当に残念)。育てにくい子を抱えて孤立する母親の姿と子供を受容する周囲の姿がすごくよかった。現代も続く問題だけど、当時から悩みはあったのだろうと感じさせる説得力があった。


翻って「なつぞら」の子育て問題。どうにもゴールを先に設置してしまったから途中のイベントが消化不良になってしまった。というより、「現代も同じだね!ね!」が鼻につきすぎてキツかった。批判の中にも「昭和の話なのに女性の立場が現代的すぎて辛い」というものがある。


何故こんな脚本になってしまったのかというと、おそらく「朝ドラ」メイン層のご機嫌をとるつもりだったんだろうと思う。おそらく深い意味はなく「子供の預け先がなくて途方にくれる女」を描きたかっただけなんだろう。でもそれでは物語が進まないのでご都合的に茜ちゃんが出てきた、というわけ。ただその「ご機嫌取り」が全面に出てしまった結果、あざとすぎて批判を浴びているのだと思う。


ここから先は「なつぞら」関係なく、育児をする母親をフィクションで描写することは大変困難になることが予想される。完璧な母親像を目指せば「現実はこうじゃない!理想を押し付けるな!」となるし、かと言って雑な母親像にすると「ちゃんと子育てしろ!虐待!」と言われるし、無難な母親にしても「母親の影が薄い!」と怒られる。もう何をやっても怒られるんじゃないかと思う。

 

余談だけど、アンチコメントの中に「避妊をしなかったくせに子供が出来てから預け先がないと騒ぐのは滑稽」というのがあったのには驚いた。典型的な朝ドラを見ている層の発想ではない。確かに臨月に入ってから保育所探すとか赤ちゃん用品揃えるとかのんびりしているなぁと思ったけど、現実の女性にこれを言ったら確実に炎上するよね。


あと「指差し動画」や「ガソリン」の件はそんなに怒らないほうがいいと思う。そうやって怒れば怒るほど、京アニを破壊した憎悪と同質の憎悪が生まれる土壌になるから。そこは今怒るところじゃないと思う。

 

なつと天陽の関係について

なつと天陽は幼なじみで、天陽からすれば十勝で農業をしたいと思ったのはなつがいたからで、なつがアニメーターを目指す決心をしたのは天陽が背中を押したから。お互いに結婚しても心の中では「絵」を通して繋がっていた。天陽が描いた雪月の包装紙の女の子は自分の十勝の「原風景」であり、なつの絵を消した上に自分の自画像を描いたのはなつへの未練を断ち切るためと個人的に解釈した。天陽のなつへの思いは「恋慕」ではなく「憧憬」に近いものがある。


だから「なつと天陽は不誠実だ」という批判がよくわからない。ええ、結婚したら青春時代の初恋の思い出とかそういうの全部捨てないといけないの……? 昔の好きな人のことを1秒でも考えてはいけないの……? 結婚したら異性のクリエイターとして尊敬しちゃいけないの……? 結婚したら過去のことは全て捨てなくちゃいけないとか、そういう価値観こそ現代では炎上すると思うんだけどな。現在も続く不倫関係ではなく青春時代の思い出すら否定していいんだろうか。


勝手に天陽の奥さんに感情移入して「昔の女が亭主の絵と勝手に会話してた! ムカつく!」とコメントしていたり、なつ憎さに奥さんの演技を過剰評価して「だからなつは下手!」と言っていたり、それは返って奥さん役の人にとってもとっても失礼だと思うんだけど、なぁ……。


史実との整合性

いくつかツイート読んでて1番ビビったのは「天陽君が死んだのはなつの都合に合わせてで、なつのために死んだ天陽かわいそう」というもの。元々山田天陽のモデルの神田日勝は夭折していて、絶筆になった半身の馬の絵は有名。それに神田日勝の自画像も有名で、「気持ち悪い」と評判の自画像対話も「元ネタはあの自画像だな」と思えばそんなに気になるものでもない。


これは「まんぷく」や「いだてん」でも話題になるけど、実在の人物をモデルにしたドラマを作るとどうしても「史実をどう折り込むか」が課題となる。しかしきっちり史実を盛り込むと物語が進まなくなるし、放映できないものにもなってしまう。「なつぞら」で言えば史実の奥山玲子はできちゃった結婚で、「なつぞら」で言えば夕見子のように理詰めで労働争議を起こすような人物だったらしい。そんな物語だったらまた変なアンチが湧くこと間違いない。

 

ダラダラ書くと長くなるから今回は書かないけど、「なつぞら」の最大の敗因はこの史実や視聴者の想像力に委ねる部分の多いシーンが多いことだと思う。一言で言えば、かなりハイコンテクストな作りになっている。だから反感を買うのだろう。


あとなつが毎回服装を変えていたのも史実らしいです。そこで史実を取り入れてしまったのもアンチが湧く隙を作ってしまったなぁと思う。女性はオシャレな同性にめちゃくちゃ厳しい。「自由にオシャレを楽しもう!」という人は迫害される。怖いねえ。

 

朝ドラの方向性

ここまで見てくると、もう「朝ドラ」という形のドラマ自体に無理があるのではないかと思う。主婦がながら見できるドラマ、というコンセプトだった気がするけど最近はやたらと「女性が見るから女性問題に寄り添ってみよう」という気持ちばかり感じてしまって肝心の中身がついて行かないものが多い気がする。


個人的に「まんぷく」に目立ったアンチがつかなかったのは安藤サクラの隙のない演技と朝ドラ層に絶大な人気を誇る長谷川博己がずっと出ていたからだと思う。「半分、青い」では佐藤健が途中途切れるところはあっても基本的に画面に映っていた。しかし「なつぞら」は頼みの吉沢亮は十勝編にしか出てこない。岡田将生はクズ演技が上手すぎて朝ドラ民の心には残らなかったらしい。結局広瀬すずが集中砲火を浴びることになってしまったのではないだろうか。


ここまで来ると、既存の形でヒロインを据えた「朝ドラ」は1度解体してもいいんじゃないかと思う。幸いなことに次の次の朝ドラは主人公が男性と内定しているし、もうヒロインにこだわることはないと思う。というか、朝ドラの価値観において「ヒロイン」という言葉には「周囲がなんとかしてくれる甘えん坊」というニュアンスが込められている気がする。広瀬すず永野芽郁もそういう意味では正統派な「ヒロイン」だと思うけど、どうだろう。


余談だけど、アンチでもこれだけドラマの反応があるだけマシかもしれないと思う。民放のドラマのハッシュタグとかもっとすごい。下手したら「〇〇くんかっこいい」だけで誰も物語の感想を呟いていないドラマだってある。「健康で文化的な最低限度の生活」のハッシュタグ、物語の内容じゃなくて8割くらい「田中圭が出てた!」だったからね。ちょっとビビったね。あとアルコール依存性の回で「酒止められないクズは放っておけばいいのに」ってドラマの趣旨全否定しているツイートがあったのにもびっくりした。そういうのが可視化されるのがTwitterなんだと思う。Twitter怖い。


いろいろ書いたけど、「なつぞら」をとりあえず「現代の働く女性へのエール」だとするなら、それに対する酷評は完全に女性全体の立場を下げる行為だと思う。身の回りの人に助けてもらっているお母さんもたくさんいるだろうに、そういう人にも「なんでもやってもらってズルい!」と言うのだろうか。それっていつもTwitterでやってる学級会の内容と何が違うのかな? と思う。とりあえず悪口よくない。おしまい。


おまけ 「半分、青い」の評

nogreenplace.hateblo.jp