Twitterなんかで大人気の「迷惑をかけている人にスカっとすることを言った」系の武勇伝。最近はテレビでも特集なんかされていて正直あまりいい気分ではない。どっちみち創作実話のようなものでそれを聞いて「ああスッキリした」なんて本気で思っている人がいるのであれば、相当ストレスがたまっている生活を送っているに違いない。
しかし全部を「創作実話だ」と決めつけるのもよくない。実際にあった話もいくつかはあるに違いない。ただ、そこで「スカっとする一言」を無関係の人がズバリと言えるかという話はまた別だ。「迷惑な人を見かけたけど、何も出来なかった」「本当はこうしていればよかったのに」という思いがこういった武勇伝を生んでいるのではないかと思う。あっちゃんは滅多にこの世の中には存在しない。
では、「迷惑な人」は実際に存在するのだろうか。電車の中で赤ん坊を抱いた母親に説教をかます老人、スーパーのレジで図々しく割引をせまる中年女性、ところかまわずポイ捨てをする若者、などなど。残念ながらこういった人は作り話ではなく実際に存在する人ではないかと思う。
このエピソードを読んで、この花泥棒は認知症なんじゃないかって気がした。どう考えても筋が通らない論理に会話にならない会話、しかし花泥棒の中では決定事項の何かがある。この人は昔このあたりに住んでいて、今は住んでいない友達を訪ねてきて、花を貰う約束を何十年も前にしたのを思い出しているのではないか。そんなことを考えた。
おそらく、これと似たようなことはたくさん起こっているのだと思う。やたらと店員に向かって怒鳴っている人は、言いたいことがうまく伝えられなくてイライラしているだけなのではないだろうか。頓珍漢なクレームをつける人は、何かと記憶が混同しておかしなことになっているのではないか。ルールを守れなくなっている人は、我慢をするということを忘れているのではないか。
こういうことを書くと「認知症を差別するのか」と言われそうで少し怖い。しかし、認知症に限らず鬱病や統合失調症、発達障害による認知の違いなどいわゆる「普通の人」には感じることのできない煩わしさを抱えている人がその特性(得意なことという意味じゃないよ)によってトラブルを起こしているのであれば、何らかの対処はできるのではないだろうか。
自分は割と突発的なトラブルが起こったらどうしようと考えながら暮らしているほうだと思う。子どもが公園で遊んでいるところを通る時は「もしあの中の子供が遊具から転落したら、まず駆け寄ってその場にいる子供にその子の家へ行って家の人を連れてきてもらい、スマホで救急車を呼び、頭を打っていると危ないから子供が触れないように見張っていよう」とか真剣に考える。交通事故を見たらどうしようとか電車で隣の赤ちゃんが急に嘔吐したらこうしようとかいろいろ考える。
その中に「迷惑行為をする人に絡まれる」というのもあって、その場合はとにかく話を聞くしかできない。何故なら、向こうは大体「俺正しい、お前間違い」という信念でもって話しかけてきているからだ。下手に言い返すと逆効果になる場合が多い。もし駅や公共機関があるならそのまま係りの人に引き渡すか、あるいは警察を誰かに頼んで呼んでもらうかになるだろう。
ただ、「迷惑をかけたくてかけている」という人はあまりいない。一生懸命行動した結果、どうしようもなく迷惑なことになっているだけなのではないだろうか。そういった人を勝手に断罪するのはよくないし、それこそ冒頭で紹介した「スカっとする武勇伝」みたいなのはまるで解決になっていない。誰かが痛い目を見て何もかもが解決するのはおとぎ話の中だけだ。
結局、こういった人に細やかな支援をしていくことが今後望まれることなのだと思う。前から「いじめを根本からなくすためにはいじめ加害者側に厚いケアが必要」と言っているけれど、なかなか難しい。迷惑をかけられた人の支援をするのは勿論として、その原因になっている「迷惑をかける人」の原因を取り除いてあげることは、やはり難しいのだろうか。認知症あたりは大分周知が進んできているけれど、その他の精神疾患系の「生きづらさ」を抱える人の支援はどうしたらできるのだろうとかいろいろ考えるけれど、やっぱりなかなか難しい。究極は「生きづらい人の生きづらさがなくなれば迷惑なことをする人も減る」と考えているんだけど、なかなか難しいよね。とりあえず「加害者を罰すればそれでいいだろ」みたいな考えは好きではないです。お腹が空いて盗みをする子には鞭をやる前にパンを上げるべきなんですよ、物理的にも心理的にも。
そういう風に考えたら、みんなもっと他人に優しくすることができるようになるかな? ならないかな。難しいね。