あのにますトライバル

君の気持ちは君の中でだけ育てていけ。

もう少し心に秘密を持った方がよいのかもしれない

 「父の死をSNSに投稿した夫が許せない」ということで現代人の情報開示とかなんとかについて少しだけ書く。

 

togetter.com

 

 まず、「人の生き死にをSNSで話題にするのはどうなんだ」というところで引っかかる人も多いと思う。個人的には「別に構わない」と思う。要は日常会話で許せる範囲ならSNSでも構わないのではないかということだ。「不幸があって今夜飛行機に乗らなくちゃいけないんだ」「まあ大変ね」くらいのやりとりなら、その辺でどこにでもあるし違和感は全くない。また「葬式の写真を撮るのはどうなんだ」というのもあると思うけれど、あれはイベントの記録としての写真だと思うし、こんなときではないと集まらない親戚の写真を残しておくのは良いと思う。ただ、それをyoutubeにあげているのは「違うだろ」と思う。

 

 この2つの決定的な違いは、「個人の記録のため」か「周囲に見せるため」かだと思う。個人の日記に葬式であったことを書くのは自然だし、逆に記録にしておかないのも変な話だ。ただ、それを「見せる」ことがメインのSNSで公開することはやはりおかしいと思う。「親が死んで悲しい」ということは客観的事実だし、葬式をあげることもごく自然な話だ。だけど、それを「見せなくていい人にも見せる」ということには抵抗がある。

 

 そもそも、身内が死ぬということは人間の感情の中でもかなり根本的なところにあるものだと思う。いくら似たような思いをしたことがあるとしても、その人の悲しみはその人にしかわからない。「子どもが生まれて嬉しい気持ちをシェアしたい/してほしい」というのはわかる。だけど「親が死んで悲しい気持ちをシェアしたい/してほしい」にはならない。せいぜいできるのは「私はいま身内が亡くなった状態です」ということを報告することくらいだ。その先の個人の心情は測りようがない。

 

 やはり「個人の情報をシェアする」ということは、「感情を共有したい」ということに繋がる。身内の嬉しいことをシェアするのはわかる。だけど、傷ついたり悲しかったりする気持ちの詳細をSNSに載せるのはある意味自尊心を削るようなものではないだろうか。簡単に言えば、自分の気持ちを「見世物」にしているわけだ。

 

 こういったSNSに迂闊なことを載せてしまう人は、「見られる」という視点がごっそり欠けているんじゃないかなぁと思う。「見られる」ということは自分を切り売りするということになる。その辺の覚悟があってテレビに出ている芸能人と一般の人の違いがその辺で、自分を切り崩した結果自分がわからなくなる人って多いと思う。その結果面白いことを書きまくっていたブロガーがある日を境にぱったりと更新しなくなったり、自他の境がわからない人が他人の面白いことを自分事のように書いて炎上したりする。

 

 自己というのもリソースで、無限に湧いてくるリソースなんていうものはどこにもないと思う。自分を切り売りして何かを発信している人は、いつかネタが枯渇する。その時に余所にリソースを求めるのか、自己をもう一度育て直すのかはその人次第であるけれど、大体は枯渇したものは元に戻らない。そして枯渇したことに気が付かない人は結構多い。そもそも自己を切り売りしていた自覚すらないのかもしれない。そういう発信が増えることは恐ろしい。要は「どんなことを言っているのかわからないけれど発信している」状態の人が増えるということは情報の相対的な無価値化が進むことに他ならない。既にスパムが蔓延してクソみたいなパクリサイトや貧困商法が大腕を振って跋扈している状況だけれども、この原則は忘れたくない。

 

 そんな自己を守るために、SNSにも書かない「本当に自分だけの秘密の感情」を持つことが大事になってくると思う。SNSには何を書いてもいいけれど、だからと言って何でもあけっぴろげなことでも困る。この辺の「自分のことだから何でも書いていいだろう」精神が悪い方に作用したのが一連の某はてなオフ会騒動の一因だと思っている。思ったことだからと言って正直に言っていいことと悪いことがある。

 

 それに、本当に好きな事象については積極的に「見せる」ところに持っていかないほうがいいんじゃないかと思っている。これはSNSに限った話じゃないけれど、趣味でスポーツをやっていてそのスポーツ=自分だと思い込んでしまうことはよくあると思う。だから身体を壊してスポーツが出来なくなると一気に老け込んだり、あるいはスポーツチームの応援をしていて、贔屓のチームが勝ったり負けたりすることでメンタルの変動がものすごかったりする人はそのチームがなくなったらどうするんだろうとは思う。自己を外付けのハードディスクに移植していると、外付けが壊れたときどうするんだということで、一種の共依存に近いと思っている。

 

 SNSもこれらの趣味との共依存を引き出しやすい。趣味が「ブログやfacebook」になると、上記の「自己を外付けハードディスクに移植」が加速する。ネットでキャラクターを演じて、リアルでもネットと同じように振る舞った結果よろしくない反応をもらうことはこれから先増えていくんじゃないかと思う。やはりネットはネット、リアルはリアル、そしてプライベートな感情はプライベートなまましまっておいてもらいたい。何がプライベートかわからない人は、SNSはやらないほうがいいのかもしれない。

 

 ここまでいろいろ書いてきたけど、上記の「義父が亡くなったときの夫の投稿」で一番ひどいのは「合掌」の部分だと思う。ニュアンスが微妙だけど、この場合「合掌」っていうのは外部からの弔いの気持ちであって、当事者が言うことではないと思う。それにまだ亡くなった義父と対面していない場面で「合掌」はないと思う。やはり手を合わせるのは直接面と向かった時だろうし、死んだことをまだ当事者として確認していないのに先にお悔やみの言葉を述べるのはちょっと不謹慎かなとは思う。「経った今母が亡くなったそうだから帰宅する」と言っている人に「このたびはご愁傷様……」というくらいタイミングが悪い。そういうことを考えれば、「義父が亡くなったそうなので妻の実家の近くの空港に着きました」という文面なら写真つきでもまだわからないでもない。「合掌」はダメだよそのタイミングで、という感じだ。

 

 おそらく今回の不謹慎ポスト以前にそういった細かい言葉遣いからくるトラブルはたくさんあっただろうし、「やめて」と言っても「迷惑をかけているわけではない」となりそうなのでそういう人とは心の中で距離をとるしかないのだと思います。まず、悪気がないので改善させることはかなり難しい。SNS辞めるか家庭を壊すかの二択にするくらいしか道が見えない。やっぱり個人的なことは不用意に呟かないほうがいい。これらは子どもより、これまでネットに触れなかった世代の方が課題だと思ってる。さて、この先どんな地獄がネットに待っていることか。