あのにますトライバル

君の気持ちは君の中でだけ育てていけ。

チェンソーマン1話見てたら何故かディズニーのアラジンの悪口になってた

チェンソーマンアニメ1話見たんですよ。


連載1話見て「面白そう!」と思ったけどその後なんか立て込んでゴタゴタしてて結局1話しか読んでない奴だったので楽しみにしてたのですが、楽しみにしてて良かったです。最高でした。洋画オタとかではないので元ネタがよくわからんのですが「オシャレだ」とは思うくらいオシャレだなぁと思いました。お墓のところは「フォレスト・ガンプ」みたい?くらいですね。ああいう非現実的なの楽しいね。あとチェンソーで戦うと言えば「悪魔のいけにえ2」は外せない。あのデニス・ホッパーチェンソーチャンバラめっちゃ大好き。


そんで、デンジがポチタと食パン1枚分け合ってるじゃないですか。そんなところ見てたら「やっぱりアラジンは違うだろ」という気持ちがムクムクと湧いてきまして。


ここから先は人によっては「そんなことでよく長文書けるな」と思うくらい思想的でも実用的でも全くないので、暇な人がデーツでも食べながら見るくらいでいいし、全く個人的な恨み言なので真面目に取り合わないでください。あとアラジンファンは真面目に気分悪くなると思うのでホールニューワールドを結婚式で流すような人は読まないでください。

 


ア ロング ロング アゴ

小さい時のこと。「あのアラジンと魔法のランプがディズニーになるんだって!」とワクワクして多分レンタルビデオで借りてきてもらって鑑賞したときのこと。始まってすぐ「なんやこれ」となり「違う!これは何かが違う!」となりジーニーが登場するまで人生ではじめての「解釈違いで憤慨」という体験をしたものです。多分そんなふうにアラジンを鑑賞するガキというのはディズニーも想定してなかったと思うのですが、存在しちゃったんですよね。もう冒頭からNGとなってしまうと魔法を信じる心が閉店してるもんですから真面目に「アラジン」を鑑賞できなくなっちゃうんですよ。


美女と野獣」「リトル・マーメイド」はまだよかったんですよ。「美女と野獣」はとにかくミュージカルシーンが大好きで、「リトル・マーメイド」も結末には「よしお前表出ろ(ネズミ声)」みたいな気分にはなったけどミュージカルシーンがやっぱりめっちゃ好きなので相殺という形になってたけど、「アラジン」は最初のミュージカルでケチ着いちゃったもんだからジーニー出てくるまで本当に見れないのよ。ジーニーパートはめちゃくちゃ好きなんだけどね。タイトルが「アラジン」じゃなくて「ジーニー」でもいいと思うんだ。


冒頭のシーンとは

具体的に何がNGだったのかという話になるんだけど、簡単に言えば「主人公のアラジンがパンを盗んで逃げていくミュージカルシーン」というところですね。


働けよ


マジで初見から本当にこう思って、その後「いやこれお話だし最初にワイワイしたいだけなのはわかるんだけどさぁ、お前いい年なんだから働けよ」としか思えなかったのよ。特に「パンひとつだけだぜ?生きるためさ~」とか言うの、いやパンひとつだって盗みは盗みだろうし、泥棒は手を切り落とすのがハムラビ法典からの掟だろうさ。というか、よっぽど倫理観崩壊でもしてない限り泥棒するのって後ろめたくならないかな?なにこいつ開き直ってるんだ?というわけ。


見る限りアラジンが働けない理由が本当にないんだよね。その辺でサルーンしてる人々の手伝いするとか、キャラバンに着いてくとか、頑張ってサルーンするとか、やりようはいくらでもありそうなんだけどパンひとつ盗むのに毎回あのミュージカルやる方が絶対コスパ悪いだろと思ってたんだよね。それにこそ泥捕まえるためにあの人数投入する警察平和だし無能だろ、とも思ってた。あと何でこんなこそ泥野郎がさりげなく街の人々に受け入れられてるのかもよくわからんのです。こそ泥だぜ?パン盗んで「ひとつだからいいだろ」みたいな奴ですよ。女性の部屋に飛び込むシーン、なんで歓迎してるのかわからん。ドブネズミなら叩いて追い返さないと何するかわからんぜ。今回冒頭シーンだけ見直して、ジャスミンを目で追うところ「可愛い子だな、素敵だな」というより「マブい女、やりてぇな」みたいな感じだなぁと思ってしまった。ドブネズミだからね。ドブネズミに紳士を求めちゃいけないよ。


いやわかってるんだよこれはディズニーでありおとぎ話であり夢と魔法のファンタジーだってことくらい。だったらそこまで没入させるリアリティくださいよって思うの。アラジンが盗みをしなくちゃいけない理由がミュージカルでは提示されないところが本当にダメで「なんだこいつ」って思ったのよ。終盤でランプ奪い返す所がやりたくて泥棒設定にしたのかもしれないけどさぁ、それならパンである必要なくない?普通に金貨とか盗む泥棒じゃダメだったの?それならちょっと許せる気はするけどさ。


「盗み」の必然性

彼があの生活をするバックボーンをミュージカルシーンだけから考えてみると、天涯孤独で友達が猿だけなのに他人に戦利品を分け与える余裕はある。手を斬られるリスクをとっても生きるために盗んだパンをホイホイ子供に全部あげるのはやはり納得いかない。ここに整合性を与えないといけない。「こころやさしい性格だから」「いやおかしいだろ」で終わってもいいんだけど、今一生懸命考えてみる。


どう考えてもあの街で盗みだけで暮らしていくのは無理がある。小さい子供ならわかるんだけど、どう見ても「働けよ」という年齢のあんちゃんなわけで。つまり「こそ泥」というのはディズニー的な暗喩で、実は別な生活の糧があるのではないか。そう考えるのが自然かなあ。何であの街の連中が「こら!」程度で済ませてるのかもその辺にあるのかもしれない。ヒントは何故か女性たちにも受け入れられていたところ。もしかして、こいつ……いや、でも、うーん……夢と魔法を信じる心が………。


実は今回冒頭シーン見直して強く思ったのが、「アラジン」という作品自体に強烈なルッキズムがあったということ。主人公のアラジンはドブネズミという割にはこざっぱりとしたイケメンとして描かれる一方、悪役の追い回している警官(?)たちやカシム、街のいけ好かない人々は本当に醜男や悪人顔で描かれている。反対に味方や悪と認定されない人々はひょうきんな表情なニュートラルな表現として描かれている。歌舞伎的に悪役を表すサインなのかもしれないけど、それにしてもひどい。


つまり、アラジンって男は「顔」だけの奴なんだ。つまり……アレだ。こいつはアッチでも飯の種を稼いでいる。そんで半分物乞いみたいな感じで糧を得つつ、水商売なので時折こそ泥もする。普段ソッチでお世話になってるから、街の人も多少の泥棒は容認する。だから子供にパンをあげる余裕もあるし、ノミだってついてない。ついてたら商売にならない。これは仮説です。アラジンは人の数だけ解釈がありますからね。すごくどうでもいいのだけど、夢も魔法も見えなくなっちまった世界から見るとホールニューワールド後のジャスミン、完全に事後じゃん。やっぱりソッチでのし上がる話か、僕を信じろ!(←信じちゃいけない奴)


「盗み」の描き方

割とこの辺昔からこだわって作品見てるところなのですが、「生きるために盗みを働くんだぜ」という開き直りをしていても、そういうのってやっぱりどこかで歪みが生じてくるわけですよ。一度開き直った倫理観ってのはぐにゃぐにゃになって、平気で暴力とか詐欺とかそっち方面に流れていくわけで、お腹をすかせた子供にパンを分け与えるとかアンパンマンみたいなことは出来ないわけですよ。アンパンマンジャムおじさんに養ってもらってパンを配ってこいと言われてるからパンを配れるのであって、今自分の命やほかの子供の命がかかってるとなったら少しは躊躇すると思う*1


すごく分かりやすい例を出すと、「火垂るの墓」で清太が一度盗みに手を出してから転げるように盗みまくって痛い目にあって駐在所で泣いてるところあるじゃないですか。「生きるために盗む」っていうのはそういうものだと思うんだよ。清太は自分はもちろん節子のために何か食べさせてやらないとと必死だったわけで、マジで「生きるために」火事場泥棒までやってのける。じゃりン子チエサマーウォーズでも「お腹が空くのが良くない」とよく出てくる通り、空腹は思考力を奪うし倫理観も壊すし人間関係も壊す。せめてデンジみたいに「腹減って眠れねえ」くらいは欲しい。「生きるためにパンを盗む奴」なんだから究極に腹ぺこに決まってるじゃん。ミュージカルとかやってる場合じゃないんだよ。食わねえと死ぬんだよ。さっさと食えよ、分け与えるなよ。お前死ぬんだぞ?みたいな。その辺の悲壮さとか卑屈になる感じとかが全くないのよ。せめてデンジみたいにちゃんと稼いで(?)購入してくれよ。


じゃああの世界の「盗み」に対して異様にヌルい価値観は何なんだ?と思うと、「王宮に住みたい」「金持ちばかりズルい」みたいなところもあるのでもしかしたら「ブルジョワジーからなら多少掠めとってもいいだろう」みたいな思想があるのかもしれないなあと思った。当時の制作にそういう思想の人がいたのかはわからないけど「労働者は搾取されているので資本家から多少分けてもらうくらいでないといけない」みたいな考え方なら、わからないでもない。しかしアラジン、働いてないのである。働けよ。最後に大団円というのも、実は「権力を持つ君主から弱者男性が権力を奪った」ということの暗喩かもしれない。しかもクーデターとか革命とかじゃなくてソッチ方面で。うーん、下衆!


もしかしたら何か働けない事情があるのかもしれない。実は明示されてないだけで不可触民である可能性とかもあるかもしれないし。いやそれならいろんな人が受け入れているのは何故なんだいとなるし……。


いやわかってるのよ。「アラジン」でやりたかったことは「自由」であって、アラジンの起きて腹が減ったら食べ物盗んで暮らすドブネズミというか獣みたいな世界と、王宮という鳥籠に囚われた姫と、そんですごい魔力は持ってるけどランプに閉じ込められた精霊と、権力はそれなりにあるけどそれに満足できない大臣の話でしょう。ぶっちゃけアラジンの世界で一番まともな人はジャファーだと思うのね。あんな本当に風船みたいな王様いたらぶっ飛ばしてえくらいには思うもんな。ジャファーが王様のほうがなんかよく治まりそうだもん。個人的にジーニーを自由にするの、なんか前半からウザいくらい伏線があってなんか「自由自由自由うっせえよ!」とか思うわけ。


何度も言うけどジーニーのミュージカルパートとか本当に好きなのよ。ああいうコミカルなところは本当にディズニーの独壇場だし、ホールニューワールドもいい曲だし映像もキレイだなって思う。だけど、もう主人公の気持ちが迷子なのがついていけない。え、お前なにしたいん?貧乏だから王宮に住んでみたい?働けよ!となるわけで。デンジくんなんかちゃんと(?)働いていてそれでもパンにジャム塗るのが夢なんだぞ!お前ふざけんなよマジで、となるわけ。


ヒーローの描き方

まあもう30年前の作品に対して文句つけてるのも野暮なんですけどね。「塔の上のラプンツェル」は個人的に「ラプンツェルが姫とか改変マジでキツいわ!」というところもあるのですが、「姫をさらって結ばれる盗賊」という点ではフリンはアラジンに比べて100点満点なのでは、と思うのです。盗みをする理由もコンプレックスもちゃんと内包した生きた人間、という感じがして好きです。ただしラプンツェルを(ry


そう考えるとディズニーちゃんと進化してるなと思います。どうしてもプリンセスで語りたくなるのですが、プリンセスだけでなくプリンセスの相手方も昔はプリンセス以上にテンプレのテッテレ王子だったわけで。多分テッテレ王子の最終形態がアラジンで、そこから脱却できたのがフリンなんじゃないかと思うとなんか感慨深いです。そんでプリンセスじゃなくてヒーローという意味で「シュガーラッシュ」のラルフは結構完成されたヒーローだと思うのね。真面目に等身大の誰かを守りたいだけの存在。パパは素敵なヒーローさみたいなところあるよね。シュガーラッシュめちゃくちゃ好き。


そういえば最近実写版になったね。ウィル・スミスのジーニーだけの出オチっぽさがあったから見てないんだけど、その辺含めてじっくり見てみようかな。現代のアラジンはちゃんとしてるだろうか。


何の話してたんだっけ?

チェンソーマンの話だった。やっぱり連載ちゃんと追えばよかったなぁ。いやよくあんなのアニメでやりきったね。面白いね、おしまい。

 

*1:しかしアンパンマンは最大限の自己犠牲の具現化なので最終的には喜んで子供たちに全部たべられるだろうなと思うけど。