さよならドルバッキー

この世の裏を知ったドルバッキーは世を儚んだ。

図書館カフェについての覚書

 くだらない記事を書いてたら急にPCの調子が悪くなって再起動とかしてるうちに「めんどくせえ」とか思っているうちにまた図書館と子供の話題で何やら騒ぎが起きているので一応思うことを書いておきます。

 

 なお、この記事の主旨は「学校図書館でのカフェの是非」ではありません。全体として言いたいことは「クリエイティブスクールと呼ばれるものなどの存在意義」についてです。

 

soar-world.com

 

 この記事だけだと、確かに「図書館で飲食なんてけしからん!」とか「静かな図書館を返して!」って反応が出てもおかしくないなあと思いました。実際、自分もさらっと読んで「保健室と図書館の役割のドッキングかな」と思いました。だから、しんざきさんの記事みたいな反応があってもおかしくないし、それに同調する人もたくさんいて当たり前だと思います。

 

mubou.seesaa.net

 

 しかし、同じことを書いているこちらの記事を読めばまた違う側面が見えてくるわけで。個人的にこちらの記事の方が問題点がわかりやすくてよいと思います。

 

morinooto.jp

 

 前者と後者の記事の違いは、冒頭に楽しそうな生徒の様子を持って来ているかいきなりこのカフェの設立の生々しい話を始めるかと言ったところでしょうか。後者の記事は一貫して「この支援の理由」を全面に出しているのに対して、前者の記事は生徒の困難についてイマイチ踏み込めていない感じがします。この記者の書き方が特別悪いとは思わないのですが、想定外は「こういう支援が必要な子供」に対する世間の無理解について甘く見ていたということでしょうか。

 

nogreenplace.hateblo.jp

 

 貧困JK問題でも書いたけど、困窮家庭についてリアリティたっぷりに報道すると「かねのないおれたちかわいそう」「おまえらのじごうじとく」「かねのないおれたちにめぐめ」「じごうじとくはだまってろ」の地獄しかない。そしてこの問題がお金だけじゃなくて教育機会とか文化資本とかそういう話になると、更に地獄絵図は炎上していく。

 

 すごくビビる話をすると、10歳くらいの子供でも「10円玉が10枚で100円玉と交換できる」「100円玉が10枚で千円札と交換できる」がわかっていて「10×10=100」「100×10=1000」が理解できないということもある。こうなる背景に「勉強=暗記」という脅迫概念があって、彼らは「10円玉が10枚で100円玉と交換できる」ということを覚えることで精いっぱいで「10をかけるとゼロがひとつ増える」というような法則や抽象的なことまで頭に入っていないのです。

 

anond.hatelabo.jp

 

 この増田で語られたことはおそらく誇張でもなんでもなく、この彼氏がそういう計算ができない人だったのだろうと思う。数の大小はわかるので、とりあえず多目に払っておけばいいだろうみたいになって小銭がじゃらじゃらするけど、小銭を管理することができないので頭にきて捨ててしまう。何だかんだと理由をつけていても、彼にとって小銭とは理解不能なもので、目の前にあるだけでも憎たらしい存在だったのではないだろうか。

 

 ちなみにそういう子は九九を「2が3つあるから6」のように理解しているのではなく「にさんがろく」という言葉を丸暗記している可能性もあります。そういう子は文章題がさっぱり出来ないので、不安に思った親御さんは「飴を一人4つずつ5人に配ったらいくつ必要かな」など簡単な文章題を出してみよう。素直に「わからない」と言うより「何で家で算数やらなきゃいけないの」などと逆ギレのような反応をしてくるのが危険なサインです。学校でもそのように先生の話を全部聞き流している可能性があります。本人を叱ることなく、かと言って一人で抱え込まずに学校や相談機関を頼りましょう。

 

 これだけ読むと「なんでそんな簡単なことも理解できないんだろう」と不思議に思う方のほうが多いでしょう。でも「理解できないものは理解できない」のです。逆上がりできない人は逆上がりできないし、泳げない人は泳げないのです。「体育の時間惨めになった」という話はネットでは大人気ですが、このような初歩の学習でつまずいて苦しかったという話はあまり出てきません。そういう人はネットでうまく話をすることも難しいのでしょう。

 

 もっと根本まで行くと、「人と話す時は顔を上げよう」とか「あいさつはきちんとしよう」とか「ご飯を食べたら後片付けをしよう」とか「何かを尋ねられたらハイかイイエを言いましょう」とか「人の悪口を言わないようにしましょう」とか、そういったことも「できない」子が存在します。この辺になってくると発達障害とか知的障害も絡んでくるけれど、ある程度までは家庭のカバーで何とかなります。問題は家庭のカバーが全く期待できない場合で、貧困家庭で忙しくて放置というものや親の根本的な無理解で虐待に発展しているものなど様々なケースで「追わなくていいハンデ」を背負ってしまった子供たちも存在しているのです。

 

 この辺の肌感覚はいわゆる「普通」の感覚を持っていてはわかりにくいだろうけど、例えば東大生の中に一人だけ混ざって学術的な会話に参加しろと言われたりオリンピックの強化合宿に一人だけ参加させられたりというようなシチュエーションを想像してもらえればわかりやすいかと思う。大体は小さくなっておどおどしてしまったり、「おれはどうせバカだ、運動音痴だ」と開き直るかのどちらかではないだろうか。そんなことが日常生活で起きているのが「彼ら」であり、そんな彼らを受け入れているのがクリエイティブスクールというわけです。

 

tsusinsei-guide.net

 

 世間の誤解として「不登校=いじめられた」という図式がありますが、実は不登校になる要因として「いじめ」というのは件数としてはそれほどではありません。ただいじめ自殺や不登校などがセンセーショナルに語られがちなので大きく見えてしまうのでしょう。こう書くと「いじめが矮小な問題だと言うのか!」という意見が出てくると思うので先に書いておくと「いじめの悪質さと不登校の全体の要因はまた別」ということを踏まえてほしいという話です。いじめはダメゼッタイだけど解決には個々のケースの幅があるので一概に語れないということは押さえておいてほしいと思うのです。だから「いじめはいじめられるほうに原因がある」「いじめはいじめる方が絶対悪い」という二元論は一度捨てたほうが様々なものの見方ができると思うんだけどなぁという感じです。かなりケースバイケースだよいじめなんて。

 

平成27年度「児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査」結果(速報値)について

不登校の要因の統計が面白い。不登校の主な要因はいじめではなく「家庭の問題」「学業不振」「いじめではない友人関係」。特に小学生は家庭問題が6割近い。

2017/02/13 10:54

 

 ちなみに「いじめではない友人関係」とは「クラスの明るい子が大声を出すのが怖い」とか「喧嘩して謝るのが気まずいから行かない」とかそういう奴です。担任が無能でいじめにカウントするべきものをカウントしていない可能性もありますが。

 

 ただ、「学校に行けない」の理由として対人関係と同じくらい「己の能力の無さ」に絶望している子供も多いということを忘れないでほしいなあと思うのです。そういった子供の居場所を作るのがクリエイティブスクールであり、ぴっかりカフェであってほしいと思っているのです。

 

 ちなみに「居場所」というのは「全信頼を預けられる関係性」という意味です。常に誰かに否定されるんじゃないか、ここにいてはいけないと言われるのではないかと不安に思っている子に「そんなことないからおいでよ」とにこにこ言えるような存在があって、初めてそこが「居場所」になります。そしてそんな居場所を作るにはかなりの精神力が必要です。

 

nogreenplace.hateblo.jp

 

 ここでも書いたけど、「居場所」を作るには忍耐と覚悟が必要です。見返りが欲しいとか子供が更正しないとか、そういうことを思ってもダメなのがこの活動のポイントでしょう。活動する側が手をかけて、それでよくなってくれたらラッキーくらいの感じで手をかけていかないと真面目な人ほど潰れるのがこういう活動だと思っています。しかし決して不真面目にやろうというわけではないです。念のため。

 

 では、学校図書館を「居場所」にする意義はなんでしょうか。最大の理由は「常に誰かいる」と言うところだと思います。ただカフェをするだけなら特別教室や空き教室でも十分だという意見もあるでしょうが、特設会場ではなく「常駐している大人がいる」という環境がこの場合大切だと思うのです。

 

松田さん:図書館は、いろいろな情報を得るためのメディアをそろえるところでしょう。そのひとつとして「人」があると思っているのね。本を開けばすぐに別の場所につながるように、人との出会いで新しい価値観に出会う。図書館は外部に開く「窓」のようなものだと思って運営しているから、図書館がカフェであることにまったく違和感がないんですよね。

教室に居場所がないなら、図書館カフェにおいで。田奈高校にある「ぴっかりカフェ」は生徒が安心できる校内の居場所 | soar(ソア)

 

 批判意見で挙げられた「本を一人で静かに読みたいのに」というのも、本の中に「全信頼を預けられる関係性」を構築したからそれを邪魔されたくないというもので、人に信頼を預けるか本に信頼を預けるかという違いはあっても「信頼関係を築く」という意味では変わりないものだと思います。

 

 すごくぶっちゃけてしまえば「それでも静かな図書館を望む子だっている」という意見には「そもそもこういう高校でわざわざ読書をしに図書館へ来るという発想の子はあまりいない」というか「図書館で本を読んだり勉強する」という発想すらない子もかなり多いというか。「本を読むスキルのない子」だって小数派ではないと思う。「図書館を居場所にする」という発想のある子はこのカフェの対象とするところではないのだろう。

 

 それに個人的な意見になるけど、「いつも一人で静かにしていたい」というのも確かにわかる。だけど、やはり社会とつながるために様々な人と関わりを持ってもらいたい。逃げ場所が確保されているのを前提として、時にはやはり苦手な人と関わる練習もしなくてはいけないのではないだろうか。それが苦痛であるといっても、自転車に乗る練習をするのに転ぶからイヤだとか泳ぐ練習をするのに苦しいのはイヤだとか言っていてはいつまでも練習にならない。若いうちだからこそ、一通りそういう経験もしておいた方がいいと思う。大人になってもダメなものはダメだったらそれは好きにしてもいいと思うけど、そういう練習の機会を「本人が嫌だと言っているから」で無駄にするのも何だかなあとは思うのです。学校ってそういう意義のあるものだと思ってるんだけど、最近は変なシステムと価値観のアップデートがうまくいっていないところがあって誤作動起こしてるなあとは思っている。

 

 ひとえに「これはダメ」とか「これは絶対」と言えるものはないのがこの世界。線引きできるものと言ったら完全に倫理や法律に関わるもの*1くらいではないだろうか。それ以外はいっぱい練習して、いっぱい転んでもらったらいいと思う。そうしたら起き上がる方法も自分で見つけることが出来るだろうし、周りも転んでいることがわかれば痛みに絶望することもないだろう。

 

図書館カフェはウェーイの侵略じゃないってばよ? - Togetter

鎌倉の図書館ツイートのときもそうだったけど、こういうデリケートな子供の支援らしいものは安易に「絶賛」とか「否定」しないほうがいいし、今回は多分元記事の方の人がよく理解してなかったんだと思う。

2018/01/16 08:55

 

 とりあえずこういう話題のときは安易に「素晴らしい!」とか「ダメだ!」とか言わないでその活動の背景には何があるのかをしっかり見てほしい。否定意見より怖いのはよくわかってないで放たれる絶賛意見だ。理由があって行われていることの「理由」をすっ飛ばして「ウケているから」と外面だけ真似ようという連中が出てこないとも限らない。この活動に関してはそうそう真似のできることではないから大丈夫だとは思うけど、結局「誰のために絶賛or批判をするのか」を考えてほしいなぁとは思う。「私が図書館のお世話になったから」ではなく支援の必要な子供のことを考えて、何が彼らのためになるのかを考えて拡散させてほしいなぁと思う。教育問題って誰でも語れそうだから炎上しやすいみたいな話があったけど、今回の件で本当にそうだなぁと思いました。おしまいです。

 

 

*1:窃盗やあきらかないじめなど