さよならドルバッキー

この世の裏を知ったドルバッキーは世を儚んだ。

ネットで賞賛された図書館ツイートについての雑感

 死にたいほどつらい子は図書館に来ればいい、というツイートが「感動しました」とか「参考になりました」と言って拡散されている。正直これはあまりいいことではないと思う。図書館の取り組みを否定するわけではないし、「図書館は誰でもいていいとろこ」というのは原則なのですが安易に「図書館に逃げればいい」とだけ言っている人にわかってもらいたいことがあるので書きます。

 

 

【サボりの推奨が招くこと】

 発端のツイートは簡単に言うと「死ぬくらいならサボれ」ってことで、確かに死にたいほど辛い人は自殺するよりサボるほうがいい。ここで問題なのが「死にたいほど辛い」という線引きの曖昧な事象であって、更に問題を引き起こしているのが「未成年の責任保護」というところにある。

 

 このツイートを見て一番最初に思ったのが「死ぬほどつらい子が無断欠席なんてしたら学校は大慌てだろうな」っていうことです。学校は生徒の出欠をとって、欠席には理由を書きます。そこで朝から姿を見ない子がいる。家に電話を掛けると「朝普通に学校に行きましたよ」と保護者から言われる。近所の子に「〇〇を朝見かけなかったか?」と調査を開始する。目撃者がいてもいなくても手の空いている先生で付近の捜索が始まる。保護者がすっ飛んできて「警察に届ける」「学校の責任は」とか言い始めて教頭や担任がなだめる。やっと「図書館で発見しました」という連絡が入る。その後は、もう考えるのも面倒くさいのでやめます。どうせろくなことにならない。

 

 そんなちょっとくらいで大げさな、と思うかもしれないのですが大げさでもなんでもなく、「未成年が所在をくらませる」ということは非常に危険なのです。例えば今回は図書館で発見されたので大事にはならなかったのですが、たとえば同じような気持ちでゲームセンターなど盛り場に逃げ込んで犯罪に巻き込まれたら? 誰も見ていない場所で倒れていて助けを求められなくなっていたら? ひき逃げされて崖下に落ちていたら? それこそ自殺をしようとしていたら? いろんな心配は尽きません。だから学校の先生は総出で探すことになります。「教員の負担を軽く」なんていう言葉が嘘のようです。

 

 「ぼくのかんがえるさいきょうの」支援体制の枠組みとして、図書館が学校側に「今日はこちらで責任をもってお預かりします」と連絡を入れる以外考えられません。今まで突発的にイレギュラーを受け入れてきたからなあなあで済んでいたのですが、こうやってインターネットの世界に「広報」してしまった以上、責任を持って子供を預からなければいけないのです。別に指導をするとか何か言うとかそういうのだけが責任ではなく、「危険が及ばないように管理、監視する」というのも大事です。そういったシステムも連携もなくただ「おいで」とだけ言うのは、公共施設と言う意味では非常に正しいのですが「子供を預かる」という立場になると大変無責任だと思うのです。

 

 もちろん子供はその「無責任さ」を求めて図書館に行くわけなのですが、図書館が「おいで」と言ってしまった以上、「図書館は子供を預かってくれる」という責任を明確にしてしまったわけでこれまでのような体制は望めないと思うのです。下手をすると「うちの子が学校に行かないから」と言って図書館に子供を放牧する無責任な親が出かねない。そしてこの広報がきっかけで「不登校の子は図書館に出入りする」という認識をしたお花畑な大人たちが無責任に何をしでかすかわかったものではないし、中には犯罪目的で子供に近づく大人が出てくるかもしれません。そういうときに図書館の職員に子供をグレーゾーンな危険から守る義務があるのかと言えば、現状ではありません。中学生が学校のある日に図書館に来て延々とスマホを開いてソシャゲで何十万と課金を続けていても、止めることができないのです。

 

【シェルターとしての学校図書館や保健室】

 こういう駆け込み寺のような施設が公共の図書館ではなく、学校図書館や保健室だったらどうなるかっていう話もしておきます。もちろん学校図書館も保健室も上記のようなシェルターの役割があります。誰でも来てもいい、死にたいほど辛いならサボってもいいというのは大前提なのですが、その「大前提」が強すぎると更なる問題が生まれます。「シェルター」の役割が強くなりすぎると本来の役割を浸蝕し始めるのです。

 

 例えば保健室は「シェルター」としてわかりやすいのですが、「シェルター」を必要とする子供が多ければ多いほど本来の「病人の救護」という役割での安定感がなくなります。ちょっと辛い話になるのですが、保健室登校の子は居場所を求めています。保健室の中だけは必要とされたいあまり、養護教諭の手伝いをしたり保健室にやってくる生徒の世話をしたがります。本人にとってそれは必死な社会参加なのですが、怪我をしたり具合の悪い生徒にとってみれば「保健室でサボっているくせに馴れ馴れしい奴だ」という印象を与えてしまいます。

 

 保健室登校についての個人的な経験談をひとつあげます。中学の時急に体調不良になり保健室で寝ていたことがあります。その時、「保健室登校」の生徒がいました。その子は担任に「何故教室に来ないのか」「誰にいじめられているんだ」「お前の態度が悪いからいじめなんかに会うんだ」みたいな話をされていました。もちろん保健室登校の生徒が悪いわけでもないのですが、寒気と頭痛で横になっているのにカーテン越しにそんな話を聞かせられたらたまったものではありません。「体調の悪い人が安心して休めない保健室とは一体何だろう」とその時は真剣に考えてしまったものです。

 

 もちろんこの経験は担任の対応が非常に悪いということで終わりなのですが、こういう話はしばしば聞きます。「保健の先生にいろいろ相談したいけど、ギャルの子がいっぱいいて保健室は怖い」とか「不良が寝ているから保健室に行きたくない」とか、シェルターの意味が強くなると能動的にシェルターにやってくる子の面倒でいっぱいいっぱいになって、緊急避難で駆け込んだ時に居場所がないという可能性もあるのです。

 

 更に学校図書館も、似たような問題が起こりやすいです。図書館に先に逃げ込んだ人のコミュニティが生まれ、逃げ込む目的で図書館を利用していない利用者にとって居心地の悪いものになっては本末転倒です。どうしても人間は弱い方を庇いたくなります。そうすると弱くないものが放っておかれます。それはやはり「誰でも安心して利用できる」という名目は果たせないのです。

 

【死にたい子にコストをかける覚悟】

 それでは死にたい子はいざというとき、どこへ行けば助けてもらえるのでしょうか? 究極の答えを出すならば「信頼できる大人」のところでしょうか。隣の家のおばちゃんでもいい、個人商店のおじちゃんでもいい、交番のおまわりさんだって誰だっていいのです。子供が「死にたい、助けて」と言ったときに、または「死にたい」という気持ちがうまく言葉に出来ない時に「ここにいてもいいよ」と居場所を提供できる大人のそばにいくべきなんだと思います。

 

 ところで、「見守る」という行為が非常に疲れる行為であることを知っているでしょうか。幼児が一人でパンツをはきたいというからパンツをはくのを見守るが、これに数十分かかる。親がはかせてしまえばすぐに終わる動作も非常に時間がかかる。もちろんイライラするしハラハラする。そんな思いをするくらいなら親がはかせたほうがいいのだけれど、それでは幼児の「ひとりでやりたい」という意識を削いでしまう……と、こんな風に子供に関わる人はこんな思いを多かれ少なかれ持っています。

 

 子供に対して「こうしたほうが絶対うまくいくよ」という答えを与えるのは簡単ですが、まず子供は納得しません。「いじめっ子はぶんなぐればいい」とか「毎日勉強したら成績があがる」とか、そういうのは頭では理解していても「ひとりでパンツをはきたい」という幼児のようにもがいて必死でパンツをはこうとしているわけです。その結果ひとつの穴から二本の足が出ていたり、転んでしまったりしても大人は安易に手を出してはいけないのです。例えば転んで机の角に頭をぶつけそうになっているとか、そういう時は手を出さなければなりませんが、それ以外は黙っていることしかできません。もちろケースバイケースで、手伝いがあったほうがやりやすい子もいれば、パンツをはくのを嫌がる子もいます。それでパンツがうまくはけなくておしり丸出しの子がいても、もちろん構わないのです。そういう子でもそのうちパンツがひとりではけるようになります。

 

 例のツイートで危惧したのが、「見守り」の段階に入る前に短絡的に「図書館にいる子は皆パンツがはけない子」って思われることです。「パンツがはけないならパンツはかせ名人の私に任せなさい」という自称名人が出てくることや、「パンツがないならズボンをはけばいいじゃない」というズボン売りが押し寄せることです。その人たちにとって子供にパンツをはかせることが目的ではなく、「名人の名前やズボンを売ること」が優先事項なのです。そういう人に「見守り」はできません。ましてや「死にたい」と思う気持ちを受け止めきることも難しいです。

 

 簡単に言うと、「見守る」ってものすごいコストのかかることなのです。しかも手間暇かけた割に、見返りはゼロだと思った方がいいです。更に安易に「救ってやろう」というのが一番子供を傷つけます。「お前はどうせパンツがはけないんだろう」という劣等感を再確認させます。「死にたい子は図書館へツイート」が広まったことで「図書館に行く子はパンツのはけない子」というレッテルも広まってしまいました。パンツがひとりではけないことを隠している子は、もう図書館へ行けません。でも、そういう場所があるということを多くの人に知ってもらいたい。何とも言えないジレンマです。

 

【問題を抱えた子供の面倒を最後まで見れますか】

 もうね、正直な気持ちがコレ。正直片手間では無理なのよ。パンツをはかせることが最終目標ではなく、パンツをひとりではけるようにするのが本来の目標。辛かった思い出を延々と聞いていたり、無表情で喋らない子供と1対1で会話を試みたり、全て「でも」「だって」「どうせ」と否定する子供を元気づけたり、親から暴力を受けている話を聞いても何もできなかったり。パンツをはかせる支援とは、そういう地道なものなんだよね。そういう覚悟がないのであれば、「見なかったことにする」に越したことはない。夜の10時以降うろうろしている子供に直接注意をするのもかなり覚悟が必要だ。出来れば警察とか児童相談所とか、その道のプロにお願いするのが一番だ。

 

 面倒を見ると言うことは、かなり覚悟の必要なことだ。人一人の人生を変える決断をしなくてはいけない。「ねぇちゃんと世話をするから買って」と駄々をこねて最後までペットの面倒を見ない子供と一緒で、一時のテンションに身を任せてしまうと後々後悔することになるかもしれないのである。そういう支援が誰でも気軽にできるようになればいいのだけれど、システム的にも心情的にも「誰でも参加」になるのはまだまだいろんな整備が必要だと思う。

 

 パンツがはけないから疲れた子供がたまに休むのは構わないけれど、おしり丸出しでその辺をうろうろされたら親も学校の先生もたまったものではない。おしりを出していてもゆっくり休めるスペースが必要で、できればそれは子供を支援する大人も安心して子供を任せられる場所でないといけない。そんな理想郷があればいいんだけど、なかなか見えにくいし、上記の理由で大々的な広報もしないほうがいいだろうし、本当に解決は難しい。そういう案件だからこそ、慎重な態度で取り扱わなければならないし、まして「ネットで賞賛の嵐」なんて言葉で煽られるのは非常に心苦しいということでした。無邪気な善意は時に悪意より性質が悪いということで長いけれどおわり。