あのにますトライバル

君の気持ちは君の中でだけ育てていけ。

旭川の事件についてなどの雑感

まとまりそうもないので箇条書きで。


旭川の事件がざわざわしてるけど、あの記事を読んで最初に思い浮かべたのは「子供たちが屠殺ごっこをした話」という物騒なタイトルのグリム童話だ。確か話が二つあって、そのうちのひとつはこんな話だ。

 

子供たちが悪意なく屠殺ごっこをして子供を一人殺してしまった。このことに大人たちは困惑し『りんごと金貨を並べて、りんごを取れば分別がついてないとみなし無罪、金貨を取れば判断ができたということで大人と同じように裁く』と決める。子供たちはにこにことりんごを選び、裁かれることはなかった。


この話の後味が悪いのは「本当に子供たちが無邪気であることを証明できない」というところだと思う。金貨を欲するほどの価値判断ができるのであれば、大人の思惑通りの振る舞いをすることで自らの死を回避できるのではないか。また、裁判は形式的なもので大人たちも本気で子供を裁こうとはしていなかったのではないか。そんな気がしてならない。


〇要は「やった結果は邪悪なんだけどそれに至る過程に悪意があったか」というのはすごく証明が難しいのだと思う。だから我々は結果で判断をするのであって、社会のいろんなところで過程を気にするということはしない。どんなに役人が頑張っていても、コロナ患者が増えたのは政府のせいである。そんな感じである。


〇しかし、その過程まで含めて日々ジャッジしなくてはいけないのが学校というものなのだと思う。学校という組織には「過程主義」というものが蔓延しているのではないかと思うくらい「過程」を大事にする、というか「結果」を大事にしないところがあると思う。例えば部活で良い成績を残せなくても「一生懸命頑張ったからヨシ!」であり「今回の反省をして次回に生かそう」とか言うと「頑張った奴らに水を差す気か!」とか言うと怒られる。


〇つまり「いじめられる方にも原因がある」というのは「どういう成行きでいじめが発生したのか言ってごらん」ということなのである。例えば殴り合いがあったとして、殴った殴られたの事実より「どうして殴り合いに至ったのか」ということを非常に重視する。何故ならそこに至った過程を示して、子供たちに過ちがあればそこを正さなければならないからだ。ここで「殴った方が悪いから全面的に殴った方が謝れ!」とかやるともうアウトである。それは警察の理屈であり、教育界の理屈ではないのである。


〇じゃあどう指導すればいいのかとか考えると、いじめについては個人的にずっとケースバイケースだから一概にどうこうというのはやめた方がいいということは主張している。いじめっ子が精神的におかしくなっている場合とか、いじめられっ子が精神的におかしくなっている場合とか、いじめに家庭が密接に絡んでいる場合(あそこの家の子とは遊んじゃいけません的な奴とか虐待とか)とか、あと担任がいじめたりいじめられたりしている場合とか、それぞれ対処法が全然違う。


〇そんなわけで個人的には「いじめ」という言葉を使うのをやめたほうがいいと考えている。いじめがあったかなかったかとかそんな認定をしている暇があるなら、暴力を受けている場合診断書を提出したり落書きがされているなら証拠の写真を撮ったりしてトラブルの改善を求めたほうがいいと思う。「学校は調査してくれない!」ってよく言うけど、冷静に考えると学校が生徒間トラブルを解決させなきゃいけない義理って全くないんだよなぁ。


旭川の件では担任が非難されているけど、見方を変えれば「働き方改革でちゃんと不当な残業をしていない!えらい!」と言えなくもない。担任が初期対応を誤ったのは間違いないけど、個人的には「いじめ対応というものに属人的な対応を求める教育システムがおかしい」と考えている。だからシステム化しちゃえばいいんだよなと思う。校則も肌着の色は白とかそういうのだけじゃなくて「意図的な仲間はずれが発覚しいた場合、仲間外れにしたグループの解散を命じる」とか「触法行為は罰則部屋行き」とか。空き教室を改造して悪いことした奴はそこで少年院の先生とかから講義をみっちり受ける、とか。いや、そうすると罰則部屋が第二の保健室になってしまう。いいのか。


〇そんなわけでいわゆるネットリンチもケースバイケースだと思ってます。なりすましで誹謗中傷を集めた人や自らヘイトを溜めてやってきた批判を「誹謗中傷だ!」という人を一緒にすることはできないと考えている。

 

anond.hatelabo.jp


〇例えばブログでしょーもないこと言ってかなり燃え上がった人がいたとして、そのしょーもなさがギリギリ倫理的にどうかと思うような攻めた発言だったり常に争いの元になるような内容だったりすれば、発言した本人が迂闊だったねえで終わる話だったり、逆に明らかに発言者がギルティな場合全力で叩きのめせで終わる話だったり、炎上と言っても本当にケースバイケースで一概に「誰が悪い」と言うのは非常に難しいと思う。例えば同じ炎上事件でも「長谷川豊」と「宇崎ちゃん献血事件」と「唐澤弁護士」では事件の内容も糾弾されるべき人物も何もかもが違う。事件の内容についてはそれぞれ調べてくださいな。


〇増田で上がってるから少年革命家について語っておくけど、彼自身が本気で全国の不登校児に力を与えたいと思っているならあんなパフォーマンスじみたことはしないと考えている。じゃあ誰のためにあんな挑発じみたことをしているのかと言えば、もちろん叩かれるためだろう。そして狙い通り批判を受けてから「アンチはひどいな!俺は可哀想だな!」という声明を出す。要は某高知の方方式でこういったやり方を選んでいる時点で個人的に擁護はしたくない。何故彼がこんなやり方を選択しているのかは考えたくない。「不登校」の響きでそっち方面の人とか食いついているけど、要は構ってちゃんなので本当に構ったら負けだと思う。学校に行く行かないではなく、人を見下すか見下さないかで考えていきたい。


〇まとめるとケースバイケースを一言で語ることも出来ないし、当事者にしかわからない事情もあると思う。だからあんまりいろんなことをワーワー言うのはよくないと思う。事案と自分を同一視してもいいことはひとつも無い。ネット炎上の多くが「事案と自分の同一視」だと思っている。だから必要以上に傷つくし必要以上に怒るし、必要以上に煽るバカもいる。必要以上のインフレ。なんの話だっけ。旭川の事件については警察と児相仕事しろ。おしまい。