最近いろいろあった燃える事件を遠目で見ていて、ちょっと思ったことを少し。
今までいろいろ人並みに生きてきたつもりなんだけど、本当に世の中には口の悪い人がいる。その人自身は口が悪いと思っていなくて、その言葉遣いが誰かを傷つけると思っていなくて、どうしてそれを言うことで自分が責められなければならないのか理解できない人がかなりいる。「あなたの発言で傷ついた」「ごめん、次からは気を付けるよ」がうまく行っていれば、こんな世の中にはなっていない。
もちろんそういう人を許してはいけないのだけれど、注意するにも限界があるし、上記のとおり「何故俺が責められなければならないのか」が理解できないので注意をしても不毛なやりとりが生まれるだけだ。また、都合のいいことばかり聞いて都合の悪いことは全部スルーした結果よくないことが起こっても、何が悪かったのか理解できない人もいる。ここはコミュニケーションでどうにかしていかなければならないところなんだろうけど、かなり心理的負担がかかるし逆に「悪くない人」が体調を崩してしまうおそれがある。
実際にやりとりをして神経を摩耗させるのは仕方がないが、たとえば電車の中で聞こえてきた品のない会話にも心を痛めていたらそれこそきりがない。「(個人名)は意地悪だ」「そうだな、(個人の属性)はダメだな」という会話を聞いて、たままたその(個人の属性)と同じところに属していたからと言って気に病む必要は全くない。それを「誰かが傷つくかもしれないから会話そのものをやめましょう」と会話をする方にだけ負担をかけているのが最近の炎上の遠因になっている気がする。
もちろん何も想定していない脇ががら空きの発言をしてしまうことがあるかもしれない。でも、その時に「何が悪かったのか」をしっかり理解して改めていけばよいのではないだろうかとも思う。ただこれは本当に理想で、「ホント〇〇さんの髪形は素敵ね」という言葉に「髪形以外は大してかわいくない」という意味が含まれていることが理解できない人もいる。これは主に発達障害をもつ人に多いかもしれない。ただ、発達障害のせいにして最低限の努力を怠っている人や発達障害を騙っている人も多いので、柔軟な対応が難しいところだ。
この辺が現代のコミュニケーションの限界ではないかと思う。発信元にばかり責任を求めがちだが、受け手一人一人も自覚をして必要な情報をスルーしてもよい情報と必ずスルーしなければならない情報を見分けていかなければならないのだろう。聖人君子なんていないし、どんな立派な発言にも何らかの穴がある。完璧を求めればそれだけ怒りは増すので、「どうせこいつの言ってることなんか大したことないや、でもたまにいいこと言うぞ」くらいの感覚が炎上対策になるんじゃないかなぁと思っているけれど多分あと1世紀は解決しないだろうなぁ。