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菅原孝標女さんのお言葉の詳細の話

 昨日の記事が400ブクマ越えしてちょっと嬉しい限りですが、意外な反応に驚いています。

 ちなみにそんな源氏物語の大ファンだった菅原孝標女さんは「二次元にのめり込んで青春時代に勉強も婚活もしないでいたら、人生後半めっちゃ空しい」と『更級日記』で語っております。現実は、見ておきましょうという千年前からのありがたいお言葉です。(光源氏はロリコンじゃないと言う話 - 価値のない話

 この話を〆る部分にいろんな方が注目してくださったようなので、いくらなんでもこれだけでは身もふたもないので「どうしてそういうことになったのか」をまたゆるーく話します。今日の記事もあくまでも昨日の話などで興味をもった方対象です。学問的に断言したり論じたりそういうことではありません。更に興味がわいた方はご自分で調べられるとよろしいでしょう。

 

 

菅原孝標女さんとは?

 高校の教科書などでは「夢見がちで物語の世界にふけった少女時代」などカッコよく紹介されていますが、ぶっちゃけ千年前のオタクです。ただ、彼女は菅原道真の血を引き、叔母に『蜻蛉日記』の藤原道綱母*1を持つ学問一家です。彼女にも学問の才能があったのでしょう。(参考:菅原孝標女 - Wikipedia

 

 そんなエリートな血筋の彼女ですが、受領階級の父に連れられて、上総国(千葉県)や常陸国茨城県)など都から離れた当時のド田舎で育ちました。そして彼女は都で流行っている物語の噂を聞きます。自分の住んでいる何もない場所からは想像もできない華やかできらびやかな世界に彼女は憧れます。そして「物語が読みたい、物語が読みたい、どうしても読みたい」と念じるようになります。その様子はよく高校の古典の教科書に取り上げられています。

 

 東路の道のはてよりも、なほ奧つかたに生ひいでたる人、いかばかりかはあやしかりけむを、いかに思ひ始めけることにか、世中に物語といふもののあんなるを、いかで見ばやと思ひつゝ、徒然なるひるま、よひゐなどに、姉、繼母などやうの人々の、その物語、かの物語、光源氏のあるやうなど、ところどころ語るを聞くに、いとゞゆかしさまされど、我が思ふまゝに、そらに、いかでか覺え語らむ。いみじく心もとなきまゝに、等身に藥師佛を作りて、手あらひなどしてひとまにみそかに入りつゝ、「京(みやこ)にとくのぼせ給ひて、物語の多くさぶらふなる、あるかぎり見せ給へ」と身を捨てて額(ぬか)をつき、祈り申すほどに、十三になる年、のぼらむとて、九月(ながづき)三日門出して、いまたちといふ所にうつる。(出典:更級日記原典

【かなり意訳(直訳じゃないから学生諸君は注意!)】

 東の果ての超ド田舎で生まれ育って、都の素敵なことも特に知らない私だけれど、この世の中に「物語」というものがあることを知ってしまいました。それを何とかして知りたいと思いながら暮らしていると、たまに暇なときに姉や継母などが光源氏の出てくる物語を、聞いたことのある部分をところどころ語ります。本当は全部を知りたいのですが、彼女たちが全てを暗唱できるわけでもありません。たいそうじれったく思ったので、等身大の薬師仏像を作ってこっそりと「はやく都へ戻って、物語がたくさん読めますように」と全身全霊を込めて祈っていました。私が13歳になったとき、都に行くことになりまして、9月3日に出発して「いまたち」という場所へ来ました。

 

  ちなみに当時の「物語」の背景などもちょっと入れてみると、「そもそも虚構なんてくだらない」というのが一般的見解でした。特に貴族の男性は毎日漢文で日記を書いていて、平仮名で記された女流の物語などは遊びの暇つぶしだと思われていました。この辺は源氏物語でも物語の主人公である光源氏が「物語なんぞくだらない」など言うシーン*2があります。現代で言うと小説や漫画というより、ラノベケータイ小説みたいな扱いだと思ってください。

 

 

 

オタクが「源氏物語」を手に入れた結果

 そして都へ帰ってきたはいいものの、乳母や友人などを疫病などで亡くし、気持ちが沈んでいるところに、物語の断片はあるものの「こんな途中だけじゃなくて全部最初から読みたいの!」とまたも仏様にお願いします。ここで「仏様にお祈りする」の意味が当時と現代ではニュアンスが違うので後で解説します。

 

 いと口惜しく思ひ歎かるゝに、をばなる人のゐなかよりのぼりたる所にわたいたれば、「いとうつくしう、生ひなりにけり」など、あはれがり、めづらしがりて、歸るに、「何をか奉らむ、まめまめしき物は、まさなかりなむ、ゆかしくし給ふなる物を奉らむ」とて、源氏の五十餘卷、櫃に入りながら、ざい中將、とほぎみ、せり河、しらゝ、あさうづなどいふ物語ども、一袋とり入れて、得て歸る心地の嬉しさぞいみじきや。(出典:更級日記原典

【かなり意訳(直訳じゃないから学生諸君は注意!)】

 (物語が思うように読めなくて)大変悔しい思いをしているときに、田舎からやってきたおばさんのところに行って「まあ随分お姉さんになったわねぇ」など気にかけてもらい、帰るときに「何かあげましょう。実用的なものじゃなくて、あなたが欲しがっていたものをあげましょうね」と源氏物語全巻セットを箱に入れて、そしてざい中将、とほぎみ、せり河、しらゝ、あさうづ*3などという物語も袋に入れてもらったときの嬉しさと言ったらもう大変なものだわ。

 

 ついに念願の源氏物語が手に入りました。そしてどうなったか。

 

 はしるはしる、わづかに見つゝ、心も得ず心もとなく思ふ源氏を、一の卷よりして、人もまじらず、几帳の内にうち臥してひき出でつゝ見る心地、后の位も何にかはせむ。晝は日ぐらし、夜は目のさめたるかぎり、火を近くともして、これを見るよりほかの事なければ、おのづからなどは、空におぼえ浮かぶを、いみじきことに思ふに、夢にいと清げなる僧の、黄なる地の袈裟着たるが來て、「法華經五卷をとくならへ」といふと見れど、人にも語らず、習はむとも思ひかけず、物語の事をのみ心にしめて、われはこの頃わろきぞかし、盛りにならば、容貌もかぎりなくよく、髪もいみじく長くなりなむ。光るの源氏の夕顔、宇治の大將の浮舟の女君のやうにこそあらめと思ひける心、まづいとはかなくあさまし。(出典:更級日記原典

【かなり意訳(直訳じゃないから学生諸君は注意!)】

 もう断片ばっかりで話の内容もちゃんとわからなくてじれったいばっかりで、ずーっと最初から読みたかった源氏物語を一巻から誰にも邪魔されずに引きこもって読めるこの幸せ! 今「お后様になれ」って言われたって源氏物語のほうがいいわ! もう朝から晩まで読みっぱなしで他のことはなーんにもしないから、たまに物語のワンシーンが勝手に脳内再生されちゃって、ひとりで妄想がはかどって幸せ! うふふふ! そしたら夢に黄色い服を着た坊さんが出てきて「(物語ばかり読んでいないで)法華経の五巻をはやく勉強しなさい」と言ったけれど、そんなの無視してやったわ。物語のことばかり考えていて、「私はまだ子供だからかわいくないのね。大人になったらつやつやロングヘアーの絶世の美女になるんだわ。源氏物語に出てくる夕顔や浮舟みたいになるんだわ!うふふふふふ!」

 

 とか考えていた時期もありました。(大人になった今思うと)ほんの子供だった私の黒歴史で、本当に呆れるばかりです。

 

 

 実は『更級日記』は回想録で、結婚子育てなどが一通り終わった菅原孝標女さんが昔を思い出して書いているのです。身分はそこそこだったのでそこそこの結婚をして、そこそこの子育てをして、そこそこ功徳も積んでいる晩年なのですが、やっぱり当時夢見た将来像とは大きくかけ離れています。そういうのも思い出して「まづいとはかなくあさまし」と黒歴史に悶えています。

 

 彼女の一番痛々しい部分は実はさりげなく表現されています。源氏物語の登場人物はたくさんいるのに、何故彼女が「夕顔*4」と「浮舟*5」を指名したかというところです。この二人の共通点は「受領階級で、身分がそれほど高くない娘」であり「身分の高い男性に突然好かれる」というところです。つまりこの二人は境遇だけなら受領階級の娘である菅原孝標女少しだけ似ています。「私もある日この二人みたいに白馬の王子様がやってくるの! そして劇的にプリンセスになって素敵な恋愛を繰り広げるの!」とか思っちゃっていた可能性が高いです。いっそ「身分の高いお姫様になりたいなぁ」だったら「夢見がち」ですんだのに、と思わずにはいられない人選なのです。詳しくは「源氏物語」を読んでください。

 

 そんで何回も「仏に祈る」という行為を繰り返しているとおり、この時代は仏教が盛んでした。ただ、今の感覚で「祈る」というのと少し訳が違います。簡単に言うと仏教は生活の一部で、自分の人生をよりよくするものでした。「徳の高い人間になろう」とか「生まれ変わったらもっといい人間になろう」とかそういう動機でみんな仏にお祈りしていたわけです。この辺ちゃんと書くと長くなるので割愛しますが、とにかく「仏に祈る」ということは七夕の短冊にお願い事を書くのと訳が違ったのです。「源氏物語を全巻読みたい」を仏に真剣に祈っていたということは、今風に考えるなら「進路希望のアンケートでみんな進学か就職か答えているところに『プリキュアになりたい』と大真面目に書く」くらいの勢いです。

 

まとめ

 古典を読むうえで大変なのは、現代の感覚と当時の感覚が全然違うのでそれの意図するところをどう現代で解釈するかというところだと思います。源氏にしろ当時の初婚年齢を考えるとロリコンではないなどいろいろ考えるべきところはありますし、女性の扱いも「当たり前」の基準が当時と今では全く違います。そこを踏まえて、普遍的なテーマは何かを読み取るのが面白く、そして興味深いところなのです。

 

 よく「古典の勉強は無意味!」って言うけど、「自分の常識が通用しない」時間を飛び越えた文章の読解って結構大切だと思う。一部の趣味人の遊びにするにはもったいないと思うし、もっとフランクに古典が扱える教員が増えればいいのかな、などと思う。

 

 ※オススメ※

日本人なら知っておきたい日本文学 ヤマトタケルから兼好まで、人物で読む古典

日本人なら知っておきたい日本文学 ヤマトタケルから兼好まで、人物で読む古典

 

  「日本人の知らない日本語」のタッグの著書。この記事の話が漫画で紹介されています。

 

 

 

*1:元祖インテリ女子。浮気性な夫の藤原兼家が自分を大事にしてくれないことに腹を立て、訪問時に扉を開けなかったエピソードは有名。その時の歌が百人一首に選ばれている。

*2:一応反論もありますのでご安心を。

*3:ざい中将は伊勢物語のことか。他の作品は現存しない

*4:源氏が中流の女として入れ込んだけど、何故か突然死してしまう悲劇のヒロイン。

*5:源氏の息子(仮)の薫君と源氏の孫(本物)の匂宮の間で悩んで入水未遂を図るこれまた悲劇のヒロイン。