あのにますトライバル

君の気持ちは君の中でだけ育てていけ。

ぽきたwの文法的考察、ねぇ

 ネットスラングを文法的に考察する、という方向は悪くないと思うんだけどネタに走っていて、そしてそれを真に受けている人が多いのが怖いと言うことです。以下例の怪文書をこのブログなりに考察しるでつ。

 

ぽきたw 魔剤ンゴ!?
ありえん良さみが深いw
二郎からのセイクで優勝せえへん?
そり!そりすぎてソリになったw
や、漏れのモタクと化したことのNASA
そりでわ、無限に練りをしまつ
ぽやしみ〜😇

 

ぽきた/ぽやしみ

 それぞれ「起きた」「おやすみ」のことだと思われる。「お」が「ぽ」に変わることは「お前ら→おまいら→ぽまいら」と変化した太古のネットスラングからの流れもあり、「O」の隣の「P」を誤って触った誤変換から生じたものと思われる。他に「ぽ」と言えば2ちゃんでは「だめぽ」など終助詞として扱われていた時期もあり、「ぽ」が含まれているだけでネットスラングらしくなるという一面もある。また、「ぬるぽ」は「NullPointerException*1」が元ネタであり「寝るよの誤変換」という説は誤りである。

 

 魔剤ンゴ!?

 おそらく「マジ」が「魔剤」に変化したものと思われる。「ンゴ」は「ドミンゴ・グスマン選手*2」から生まれた蔑称が発祥であるとされるが、現在では意味が広まりすぎて強意の終助詞のような使われ方をしている*3。また「魔剤」には「モンスターエナジードリンク」の意味もある。

 

ありえん良さみが深い

 形容詞を名詞にする「さ」と「み」の違いについてはいろいろ言われてきているので簡単に「さは客観、みは主観」でいいかなとも思う。で、何故その「さ」と「み」を同時に使っているのかというのが今回のポイント。多分そこに特に意味はなくて、ただ並べたほうが何だか意味が強くなる気がしたからというのが真相なのではないかと思っている。炎系のわざと氷系のわざと覚えさせたら強くなると思ったみたいな、そんな感じ。ネットスラング考察に品詞分解はいらない。この言葉を作った背景に何があるのかを感じるのがコツだ。

 

 ちなみに古文で「形容詞語幹+み」は原因・理由を表し「~ので」と訳すことが多い。つまり最近よく見る「つらみ」は「辛いので」になり、これを見かけると北の国から的な余韻を持っているなあと思うことにしています。

 

二郎からのセイクで優勝せえへん?

 二郎はラーメンが大盛りの店。セイクは「SAKE」を無理矢理英語風に読んだものか。「優勝」は「優勝したくらいテンションがあがる」のことか。この怪文書のベースがおそらくなんJ語ということもあり、「優勝」は喜ばしい事なのだろう。つまり「二郎を食べてから酒を飲んで盛り上がらないか」ということらしい。

 

そり!そりすぎてソリになったw

 「そり」は「それ」の変化と思われる。この場合「それ」ただの指示語ではなく「それな*4」の「それ」と思われる。「そりすぎてソリになったw」は「それなすぎてソレナになったw」と置き換えることも可能で、ここでカタカナにすることでより強い賛同を示したかったと言うことなのだろう。たぶん古い言葉で一番近いのは「禿同」などではないだろうか。

 

や、漏れのモタクと化したことのNASA

 「や、」には2種類あり、「いや」の「い」が抜け落ちたものと「やあ」の「あ」が抜け落ちたものがある。ここでは前者と考えるのがいいと思われる。「漏れ」「モタク」は共に「お」が「も」に変化したもの。「漏れ」が「俺も俺も」の誤変換から生まれた*5ことは有名だけれど、「モタク」が気になる。ネットスラングにおいて「も」と言えば「モテない」の略であって「喪男」「喪女」などと2ちゃんで専用板があるくらいなのだが、「モタク」で検索するとどうやら「モテるオタク」の略で使っている場合もあるようだ。「オタク」についての蔑称は「ヲタ」であったが、まさか「モテない」「オタク」が組み合わさって「モてるオタク」になるとは時代も変化したのだなあ。ちなみに「モタ男」で検索するととんでもねえグロ画像を見ることになるのでオススメしない。

 

モタク モテるオタクになる恋愛ガイド

モタク モテるオタクになる恋愛ガイド

 

 

 ちなみに2016年6月現在「モタク」で検索すると、一番上にスマホからタクシーを呼べるアプリが出てくる。

 

モタク

 

 つまり、この「漏れのモタクと化したことのNASA✋」には「俺がモテないオタクになったということの無さ=俺はモテる」なのか「俺がモテるオタクになったということの無さ=俺はモテない」なのかによって全く違う文意になる。単に「オタク」の変化である可能性も高いけれど、「俺がオタクになったことがない」という謎の文脈になってしまう。元の文からかなり意味不明なのだけれど、文脈判断によってどちらにもとれる不思議な言葉が「モタク」なのだと思った。「優勝」しているので「俺はモテる」というようにとってもいいし、「二郎からの酒」では「モテないことに喜びを感じる」ととることもできるだろう。

 

 そりでわ、無限に練りをしまつ

 「そりでわ」は「それでは」の変化。「練りをする」はおそらく次に「ぽやしみ=おやすみ」と言っているので「寝る」だろう。それでは「無限に」とは一体なんなのか? 仮説として「このまま眠り続けて死ぬ*6」という自動ツイートサービスからの流れを汲んでいるものを挙げておく。

 

 

 

 つまり、無理矢理意訳するとこんな感じになる。

 

起きた。本当!?

マジあり得ないんだけどヤバイスゴイ。

二郎からの酒の流れみたいなテンションみたいにならね?

それな、それすぎてソレになるわ。

いやあ、俺がモタクになったことの無さ。

それでは、寝るわ。

おやすみ~。

 

 それにしても文頭が「起きた」なのに文末が「寝るわ」になるのは一体何なんだろう。考えられるのは夜中に来たメッセージに一言返信してまた寝たのだろうかということ。よく状況が分からない中でひとつだけ言えるのは、この文章が何かを伝えたいのではなく、何か非常に同意ができる事柄に対しての熱情的な肯定の返答だったということ。それ以外考えられない。よくわからない。そもそもほぼ出自不明というところが恐ろしい。一体何なんだコレ。初出らしいツイートはあるけれど、何故ここまで広まっているのかはわからない。謎だ。

 

 「激おこぷんぷん丸」のときもそうだったけど、こういうネットスラングをまともに分解してどうのこうのするときはネットスラング全体からの派生も調べないといけないので非常に大変。毎年ネット流行語大賞にケータイ流行語大賞をチェックしたりまとめサイトの扇情的なタイトルを流し見したりしないとこういうの掴むの難しいと思うのです、はい。

 

 

題詠短歌企画『仮置き倉庫に閉じ込められた』 071-080

 もう少しなのでお付き合いください。

 

お題リスト - 題詠blog2014

 

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071:側

 側溝に落としたクマのウーちゃんを持ち上げたけどウーちゃんじゃない


072:銘

 手土産に銘菓ひと箱携えて山を越えれば戻れぬ空き地

 

073:谷

 「ホームから路上に向けてフルコーラス歌っている人」鶯谷にて

 

074:焼

  黄緑の絨毯踏み分け種をまき 焼かれた土には手向けの花を

 

075:盆

 ぼんぼりと提灯並んだ真ん中の盆の上にオレンジひとつ


076:ほのか

 お砂糖をほのかにそっとおとしてるつもりのコーヒー 未だ冷めずに

 

077:聡

 死んでから聡いと言われるくらいなら生まれ変わるよ来世もバカで

 

078:棚 

 背伸びして手探りをして探してる見えない棚の見えないジュース

 

079:絶対

 「このコード絶対破れないですよ」「破るんじゃねえ引っこ抜くんだ」

 

080:議

 「悲しいをあなたが定義してください」「決めることが一番悲しい」

 

ざらざらとした感情

 野崎まどの『know』を読んでいる。

 

 読んでいると言っても、冒頭の数ページを開いたに過ぎない。だけど、そこで既に心がざわざわと動いて仕方がないので非常にどうでもいいことだけれど今の気持ちを書いておく。

 

 冒頭のシーン。一夜だけの関係の男女が目覚めるところから物語は始まるらしい。先に女の部屋で目が覚めた男が、女のために朝食を作る。もうこの状況だけで「この野郎」という感情が暴れてどうしようもない。一夜だけの関係とか、そういうのが嫌だというわけではない。問題は「よく知らない他人の台所に勝手に入る」というところだ。

 

 台所は女の聖域、という言葉があったけれど、やはり普段から台所を使っていない人にいじられるのはどうにも気分がよくない。何故だろう、食事を作る段階にプライベートもプライバシーもないはずなんだけれど、使いかけの調味料や食材のストックを見られるのは、何だか非常に恥ずかしい。下着の棚を覗かれるような、そんな感覚に近い。

 

 そんなわけで、「一夜だけの関係の女のキッチンに入って勝手に朝食を作る」という行為にただならぬ無神経さを感じてしまい、数ページで「けしからんけしからん」と思ってしまっているわけです。もちろん話の筋としてその後に関係があるなら全く問題はないし、そもそも話は何も始まっていないので「この本は面白くない」とは全く思っていない。ただ、冒頭の掴みは個人的に最悪で、逆に「この後どうなるんだろう」とは思っている。

 

 もちろん「朝起きて朝食が出来ていたら嬉しい」なんて思う人もいると思うし、「そんなことくらいで腹を立てるとは心の狭い奴め」と思われても仕方がないと思う。ただ各個人に「許せない」というラインがどこかに存在していて、それを突破すると周囲からは何故怒っているかわからないけれど何だか怒っているという現象が発生する。だからなるべく周囲の怒りには敏感でありたいと思うし、鈍感さゆえに怒りを生産している人には不安を覚えて近づきたくなくなる。

 

 とにかく、一夜限りの朝に台所には立ち入ってほしくないし、もし相手の家だとしても絶対に立ち入らない。許せるのは勝手に冷蔵庫を開けるところまでだ。勝手にフライパンを使うな勝手に調味料をいじるな。誰が使った器具や皿を洗うと思ってるんだ。

 

 で、この『know』なんだけどまだここまでしか読んでいないので全体の感想も何もないので機会があればどこかで全体の感想も書けたらいいかなと思っています。それとは別に、この本はamazonの欲しい物リストに入っていたので中古で購入したのですがいつ欲しい物リストに入れたのかさっぱり覚えていないと言う微妙にもやもやする出会いをしています。普段はヨドバシでお買い物するのでamazonはたまに覗く程度なので欲しい物リストは活用していなかったのですが、何故かこれだけポンと入っていたのです。もしかしたら数年前に入れておいてそのまま、という可能性もあるのですが何故これだけが入っていたのか本当にわからないのです。それもこれも本を読んだら何かわかるかもしれないので、ちゃんと最後まで読もうと思いました。おわり。

 

know (ハヤカワ文庫JA)

know (ハヤカワ文庫JA)

 

 

砂糖つぼの話からの雑感

 昔、実家にアリが発生したことがある。駆除が大変だったのを覚えている。それからしばらくして最近のこと。世間話で虫の害についての話題になったとき、この話をした。そこで「砂糖つぼにたかられて~」「それはイヤだね」というようなことを言った。

 

 で、さっき砂糖を入れるケースを洗っていて「これは砂糖つぼというよりケースだよな」ということを思った。つぼ、というとどうしても陶器の重いものを想像してしまう。こんなに軽いプラスチックのものを「つぼ」と表現するのは違う気がする。

 

 だけど、だからと言って「これからは砂糖ケースです」というのもまた違う。砂糖ケースになると、夏休みの自由研究で砂糖の研究をしているような感じだ。砂糖をすぐ取り出せるように台所に置いておく入れ物はやはり「砂糖つぼ」がいい。「砂糖入れ」というのも考えたけど、それだと喫茶店に置いてあるグラニュー糖が入ったおしゃれな容器になる気がする。やっぱり台所は「砂糖つぼ」がいい。

 

 そんな風に「もう今では使っていないものでも記号や名称として残っている」ものが他にもある。例えばフロッピーディスクのマーク。これは「保存」を表すわけなんだけど、現在フロッピーディスクを現役で使っているところはほとんどない。2000年以降に生まれた子供たちにとって「何このペラいの?」というところだろう。小学生にビデオテープについて尋ねると「おばあちゃんちで見たことある」というような答えが返ってくる。そんな子でも「巻き戻し」の意味はわからず言葉だけ使っている。一体何を巻き取っているのか、多分よく考えていない。カセットテープを炎天下の車の中に置いておいて、びろんびろんにした経験のある人なら「巻き取る」の意味を心底理解しているだろう。

 

 似たようなところで最近「針を落とす」の意味が分からない、というものがある。プリンセスプリンセスの『Diamonds』に「針がおりる瞬間の胸の鼓動焼きつけろ」という歌詞があって、「針ってなあに?」というわけだ。もちろんこれはレコードの針のことである。他にも『Diamonds』には「ブラウン管じゃわからない景色が見たい」「初めて電話するときにはいつも震える」など、現代では見かけないものや光景が歌われている。初めて電話するときの気持ちに年代は関係ないだろうけど、それが固定電話なのかスマートフォンなのかでは見ている景色が随分と変わってくる。

 

 世代だから仕方がないというのもあるかもしれないけれど、この辺の問題は「他者に共感する」というのも関わってくると思う。例えば最新のスマホアプリでしか遊んだことがない子供たちがメンコ遊びを知って「それの何が楽しいのか」と問うのであれば、それは知識のあるなし以前の問題になってくる。そうは言っても「それがなかった時代」のことを想像することは大人でも難しい。まして経験が少なくて、「今現在」しか世界がないと思う時期の子供ならなおさらだ。最近は「昔は友達同士でCDの貸し借りをしていた」「自動改札機のない頃は駅員さんにスタンプを貰っていた」あたりも想像できない子もいる。彼らは「なんでわざわざCDなんて買っていたのか」と真剣に疑問に思うのだ。わからないものは仕方ない。

 

 そんなわけでジェネレーションギャップというのはここ10年くらいで以前よりも急速に進んだわけです。テレビでも「90年代の暮らし特集」なんてやらないですからね。知りようがないんですよ。まぁ知らなくても死にはしないだろうけど。それよりも最近のファッションが80年代風に戻ってきているのは気のせいだろうか。気のせいなんだろうな。

 

 そんなことを「砂糖つぼ」からつらつらと考えました。結論が何かあるわけじゃないけど、時代って感覚を掴むのは難しいよねってことです。そういえば「砂糖つぼ」はあるけれど、「塩つぼ」とか「塩入れ」とはあまり言わない気がする。「塩ケース」になると「塩キャラメル」になんとなく似ている。塩は単に「おしお」とだけ言うかもしれない。「醤油さし」「こしょうびん」はアリ。「みそ」も「みそ入れ」とはあまり言わない。何だろうこの差は。特に意義のないことを考えて終わり。

 

「ズルい」との距離感についての雑感

 この「ズルい」っていう言葉、なかなかに業が深いと思っている。

 

合理的配慮は「ずるい」のか  - うちの子流~発達障害と生きる

個人の人生経験上、「ずるい」をよく使う人は自他の区別がついていなくて規律を逸脱するような人が多かった。今思えば寂しかったのかもしれない。

2016/05/21 17:31

 

 多分自分は相当に育ちが悪くて、人をだましたり不必要に貶めたりするような人が多い中で育ちました。そんなわけでよくこの「ズルい」を使う人に出会いました。で、この「ズルい」を使う人は上記のとおり規律を逸脱していることが多かったなぁという個人的経験則を持っています。

 

 一番強烈だったのが、前にいた会社に高卒入社で入ってきた女の子。初任給を貰った時に「見せて見せて」と周りの人と比べたがり、同じ高卒入社の女の子には「同じでよかったー」などと言いながら短大卒や大卒の明細を覗きこんで憤慨してこんなことを言っていました。

 

「大卒は4年間遊んでばかりで就職しても高卒より給料が高くてズルい! 高卒は大卒が遊んでいる間にも働いて税金を納めているから大卒よりも偉いに決まっている!」

 

 でまぁ、その後は妻子持ちの職場の先輩にアタックするだの何だのと人間関係をかき乱して、最終的に規律違反を犯してその後を知るものなしになってしまったのですが。エピソードだけ切り取るとかなり強烈ですが、今になって思えばそれは彼女の言葉ではなくて、彼女の親が日常的に吹き込んでいた言葉だったのではないかと思うのです。彼女のしてくれた身の上話から察するに、かなり機能不全な家庭で育ったようでした。機能不全家庭出身者が全て悪いというわけではないけれど、そこを起点にしてよろしくない人間関係の負の再生産を行ってしまう人もいる。彼女がまさにそうだったのではないかとずいぶん経ってから振り返ると思うのです。

 

 日常的に「ズルい」を使う人は、自分だけが惨めであるとを認識している人だと思っている。その惨めさを受け入れてどうすれば周囲とうまくやれるかということをほとんどの人は無意識で行っている。ところが「ズルい」の思考回路には「周囲と折り合いをつける」のではなく、「周囲が私と同じになればいい」と足を引っ張るよう仕向ける仕組みになっている。

 

 いじめ問題も大体がこの辺からの出発が多くて、「惨めな私を見たくない」から「もっと惨めな奴を作ろう」となる。幸せな奴は人を見下したりちょっかいをかけたりしない。現段階ではそこまで現場も手が回らないだろうし被害者の感情との折り合いの面でも難しい問題だけれど、いじめの再発防止にはいじめの加害者にも手厚いケアが必要だと思っている。この「もっと惨めな奴を作ろう」ではなく「あなたは惨めでもいいんだよ」と丸ごと受け入れられるような仕組みがあればいいんじゃないかなぁと常々思っている。

 

 そんなわけで、「ズルい」は何らかのSOSなのかもしれないと最近思うようになった。まだ自他の境界がうまく掴めていない子供ならいざ知らず、いい年になっても「ズルい」を使い続ける人は他人の領域にずかずかと足を踏み入れがちだ。

 

seramayo.hatenablog.com

 

 税金だ社会貢献だといろんな視点はあるけれど、結局この記事も「ズルい」の文脈になるんじゃないかと思っている。「私は(私の子供は)惨めになってしまう!」と無意識で思っているんじゃないだろうか。多分この人は京大出身じゃなくても「仕事を止める」ということでいろいろ言われるだろうと思うし、そうでなくても「学歴フィルター」で見られてしまう。

 

 多分筆者が何をしてもそういう人は「面白くない」し、「自分が惨めになった」と思ってチクチクと何かを言ってくる。仕事をして子供が生まれたら「仕事と育児の両立がうんたら」と言ってくるし、家族旅行にでも行こうものなら「このご時世に贅沢」と言ってくる。ただ筆者が気に入らないのではなく、「筆者の属性」が気に入らないのだろう。残念だけど、旦那さんの言うとおりだと思う。

 

 程度の低い話をすれば「〇〇高校に行ったのに〇〇大学に行かなかったズルい」とか「親が〇〇なのに〇〇にならないのはズルい」とか、そういうこととあまり変わらない。そして、そういう生産性のない嫉妬はネットでは増幅しやすい傾向にある。

 

 そういうわけで雑に書いてきたけれど、要は「よそはよそ、うちはうち」という言葉は意外と大事なんだよということでおわり。

 

コメホチのジレンマ

「うわ、コメホチ虫だ!」

 台所の片づけをしていると、コメホチ虫が水道から現れた。

「このっこのっ」

 素早く炎上記事をまき散らすコメホチ虫を、僕は叩いて追い出した。

 

「……そんなわけでさぁ、本当にコメホチ虫は迷惑だよな」

 そんなことを行きつけのバーのカウンターで愚痴った。コメホチ虫は急に目の前に現れて、不快な記事を残していく虫のことだ。コメホチ虫は人々の不快な感情をエサにしているので、わざと不快になるようなタイミングで現れるという話もある。

「お若いの、コメホチ虫の話をするのはいけないと聞いたことはないか」

 隣に座っているじーさんが声をかけてきた。そう言えば母からも「コメホチ虫の名前を出すと、またコメホチ虫が出るから呼んではいけない」と教わったことがある。しかしただの迷信だと思っていた。このじーさんもそれを信じているのだろうか。

「あるけれど、それが何か?」

 じーさんはグラスを傾けた。

「あれはただの迷信ではない。コメホチ虫は、非常に恐ろしい虫だ」

 そんな、大げさな。

「コメホチ虫は生存本能で不快な記事をまき散らす。これはコメホチ虫が生きる上では仕方のないことでの。問題はそれを受け取る我々にある。コメホチ虫が出たことによって我々は不快感を得、それを共有したがる。そこで生まれた新たな不快感にも、コメホチ虫は寄ってくる」

「それじゃあ、コメホチ虫がどんどんやってくるじゃないですか」

「その通り。『コメホチ虫が出た』と言うことで既に『コメホチ虫』という言葉が不快そのもの。だからコメホチ虫が出たことを知らない人にコメホチ虫について注意を促したくても促すことができない。促したら最後、またコメホチ虫がやってくるからの」

「コメホチ虫を根絶やしにすることはできないんですか?」

「それは我々が不快感を一切出さないようにすることくらいしかない。コメホチ虫の生態をよく理解して、コメホチ虫を見ても不快感をあらわにしなければ彼らはいなくなる。ところがそれを知らない人に広めると先に不快感が生じて、そこにコメホチ虫が食いつく隙が出来る。このやるせなさを『コメホチのジレンマ』と言っての」

「そんな……ところで、じーさん何者なんだ?」

 気が付くと、じーさんの姿はなくなっていた。バーテンにじーさんのことを聞いても、最初からそこには誰も座っていなかったと言う。酔いが回ったのかもしれない。グラスの残りを飲み干して会計を済ませ、帰路についた。

 

 じーさんは「コメホチ虫は不快感を見せなければいなくなる」と言っていた。退治するのではなく、「いなくなる」というところに奇妙なズレを感じる。そういえば、コメホチ虫を殺したという話を聞いたことがない。試しに殺してみるとどうなるのだろうか。

 

 家に帰るとコメホチ虫がいた。俺はコメホチ虫を捕まえると、そいつのIPアドレスを引っこ抜いた。するとコメホチ虫は中の個人情報をばらまき、消滅した。

「なんだ、簡単に死ぬじゃないか」

 ところが周囲がざわざわとしているのを感じた。見ると、どこから出てきたのか背後にコメホチ虫が大量にやってきていた。炎上記事は具現化し、家に火の手が回る。

「なんだ、こいつらどこからやってきた!?」

 火の勢いは強く、コメホチ虫が何匹か焼け死んだ。するとまた新たなコメホチ虫がわく。

「こいつら、断末魔の不快感を食っているのか……!?」

 何とかコメホチ虫をかき分け、家の外に出る。消防隊が駆けつけてなんとか鎮火した後に焼跡を覗くと、たくさんのコメホチ虫の死骸が転がっていた。

「それには触らないでください」

 消防隊の人が注意をする。

「最近の火事は大体そいつらが原因で、イタズラに殺すとこうなるんですよ」

 コメホチ虫の死骸は専門家によって集められ、どこかに持っていかれた。

「下手に触ると、あなた自身が燃えますからね」

 焼跡を見て、改めてぞっとした。この事実を誰かに広めたい。コメホチ虫を殺すと家が燃えてしまう。ところがその虫の名前を口にすると、また大量のコメホチ虫がやってくる可能性がある。恐ろしい。

 

 これがあのじーさんの言っていた「コメホチのジレンマ」か。足元に嫌な気配を覚えたけれど、見なかったことにする。奴を視界に入れないこと。それだけが自衛策のようだ。

 

「芸事」の世界と「指導法」

 蜷川幸雄さんが亡くなって、その稽古の激しさに改めていろんな反応があるなぁと思いました。

 

fujipon.hatenadiary.jp

 

 訃報のニュースで飛び込んでくる断片的な映像でも、蜷川さんはいつも怒鳴っていて「怖い人」というイメージでしか報道されないなぁと思っていました。実際に怒鳴って指導していたのだから仕方ない。でも何だか「それってどうなんだろ」と思っていたところなので少しだけ書いておきます。

 

 「芸事」の話ですが、演劇とか美術に文学なんかもそうですが「ある程度」まで技術があれば後は己を磨いていくのみなんですよ。そうすると鍛えていくのが「己」になるので、「ある程度に達した者」同士の間で表現の指摘をするとかなりシビアになる。「ちゃんと見て描いてるの?」「ここが下手、伝わらない」「何が言いたいのかわからない」「憧ればかりで中身がない」「題材についてちゃんと調べた?」「やる気が感じられない。添削する価値もない」こんな煽りのような指摘が続いたりする。それは「ある程度」に達した者でないと伝わらないものだし、言葉だけ借りて素人が真似をすると非常に良くない。

 

 で、世に言われる「パワハラ」なのですが、全てを「指導」にすると多分上記の指導も十分パワハラになると思うんです。でも一般的な指導とここでいう「指導」は少し違っていて、「出来ないものを出来るようにする」のと「ある程度出来ているものを更に良いものにする」ではかけるべき言葉が変わってきます。

 

 まず「出来ないものを出来るようにする」ためには、成功体験を積み重ねることが大事です。そのため少しでも出来たのであれば褒めて、出来なかった部分は優しく修正を加えていくことで技術が習得されていきます。しかし「ある程度出来ているものを更に良いものにする」では「成功している点」を褒めても何の解決にもなりません。それどころか「成功している点」を修正しなければいけないので、どうしても現状のレベルを否定する必要が出てきます。更に完成度を高めるために出来ていない部分を徹底的に突かれます。そこで折れるようならそこまでという、結構厳しい世界です。

 

 極端な話、蜷川さんが「初心者の演劇入門講座」を担当することになったとしても流石に灰皿は投げないと思うんですよ。初心者が出来ないのは当たり前で、「出来ないこと」に対して厳しくしても仕方がないのは何だって同じで、「更に良いものを目指す」のであれば己との戦いになるわけです。演劇は己以外にも一緒に表現をする人がいるので、それがぶつかり合うと「その文脈を理解できない人」には一切訳の分からないワガママな人たちがたくさんという世界に突入する。

 

 蜷川さんをパワハラであると思う人は「ただ怒鳴るだけの暴力上司と同じ」と言う。しかし「監督者」と「演出家」は根本的に存在意義が違う。スキルを指導して人材を育てるのか、ある程度放任して現場を管理するのか、それとも芸術の高みにたどり着くために介入するのか。立場が上の者としても下の者をどう扱うのかまたいろいろあって、好きにさせておいて危なくなったら手を出すという介入もあるし、技術が習得できるまで何度も指導をするということもある。あるいは上の者が支配欲を満たすためだけに下の者に恐怖を与えているかもしれない。蜷川さんのような演出家の場合はそういうのを超越したところがあるので、また別の視点で語らなければならない。

 

 つまり「現場の人員を管理する」か「スキルを持った人を育てる」か「職人を育てる」かの違いだと思うんです。システマチックな指導ではやはり「職人」は育たない。しかし誰もが「職人」になれるわけでもないし、世間的にはシステムから乖離した世界は奇妙に見えるわけで。

 

 

 要はこれも「ハイコンテクスト」と同じ問題で、「芸事における師匠と弟子」の関係という文脈を理解しているかいないかの問題だと思う。こればっかりはその筋の世界に入ってみないとなかなか理解するのが難しい。「師匠と弟子なんて前近代的な発想だ!」というところからは単なるパワハラにしか見えないだろうし、芸術に価値を見出さない人にすれば「無駄な労力を使って気持ち悪い」になる。演劇の世界で通用するコンテクストを他の「指導」に当てはめても、そこに意味はない。ちなみにそこでそういうコンテクストを取っ払うと、全体的にいわゆる「互助会」のような雰囲気になる。否定もなければ強い肯定もなく、「表現」が有名無実になる世界。そういう世界を世間が望むなら、時代の流れだ仕方がない。

 

他人の作品や発言に対しておもしろくないとかクズとか言える人はすごいと..

それが行き過ぎると同様に「面白い」も言えなくなって、全ては「人それぞれ」になって、最終的に誰も「面白いことの提示=作品を作る」ことがなくなるわけだけど。

2016/05/18 00:10

 

 ただ、ニュース報道なんかはコンテクストがわからない人が見るのが大半だから、蜷川さんの映像を流す時は「この指導は演劇の指導です、職場などで真似をしないでください」というテロップが必要なのかもしれない。世も末だ、解脱をするしかない。