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さよならドルバッキー

この世の裏を知ったドルバッキーは世を儚んだ。

人生のリソース

雑記

 最近記事らしい記事を書いていないということに気が付いてなんか書こうと思ったけれど特に書くこともないし、いいのかなという気ではいるけれどなんかダルい感じなので何かを書いておく。

 

 書くことがないと言うより、伝えたいことがなくなったという方が正しいのかもしれない。「インターネットの向こうにも他者が存在する」というのが昔はあったけど、実際に他者と触れ合うことになればそれはそれですっごく楽しいんだけど、最近は他者だと思ったらなんかよくわかんないアレみたいなアレっていうのが増えてきてるし、相手と自分の常識が一緒だろうと思っていたらそうではないなんていうケースは後を絶たないし、それでお互いにどうぞどうぞって譲り合うことが出来ればそれはそれでいいんだけど、そうじゃないことも多いし。

 

 そうすると、やっぱり疲れる。人生のリソースは有限だから、疲れるくらいなら自分の人生を充実させたいって思う。歌ったり踊ったりおいしいものを食べたり旅行に行ったり買い物をしたり、もちろん本や映画を楽しんだりゲームをしたり、他にも楽しいことはたくさんある。

 

 ネットはコミュニケーションをとっている人の顔が見えないから他者を感じにくいのも仕方がないけれど、リアルでも目の前の人と意思疎通を図ろうとしているのに「この人は一体何を言っているのだろう」と思うことはある。同じものを見ているはずなのに全く違うところを見ていた感想を呟いたり、そもそも会話をする意思がなかったり、理想の答えと違うものが返ってくると急に不機嫌になったりなど、例を挙げればきりがない。たまにネットでコミュニケーションに失敗する人を見るけれど、おそらくそういう人は「ネットだから」失敗するのではなく、普段からそういったコミュニケーションをとっているのだと思う。もうネットがどうこうじゃない。コミュニケーションの質の問題になってくる。そういった意識の領域の前に、人間はまだまだ無力だ。早く電脳化を進めたほうがよりより未来が待っているかもしれない。

 

 しばらくはボケッと不定期でこんな感じの奴を書いたりいろいろやってこうと思っています。予定は未定よくある話ですが気長にお付き合いください。では。

 

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個人的短歌の目反省会と贈る歌(3月だろう)

 せんせい、ぼくたち、わたしたちは、せいいっぱい、はんせいをして、たくさんのひとにたんかをかえすことを、ちかいます!

 

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【個人的反省】 

nogreenplace.hateblo.jp

 

大昔絶えた獣が食してた水草ひとつ化石に供える
 化石になった水辺に住む草食獣というとまず出てくるのがデスモスチルスという奴で、こいつは日本にいたらしいです。あと化石にはなっていませんが絶滅つながりだとステラ―カイギュウ。ジュゴンみたいな奴だったみたいです。滅ぼしたのが人間のエゴなのか自然の摂理だったのか、それはよくわかりません。


飛行機にペンキぶちまけ呟いた「あまはら×星屑の群れ」
 ポカリスエットのCMみたいなのをやりたかっただけです。あと「春の文学賞作品募集!」みたいなポスターのようなものです。


結婚をしようと言っただけなのにぼたんぼたんと泣かないでくれ
 卑怯にも擬音語。「ぼたんぼたん」は「ぽろぽろ」とか「はらはら」よりすっごく重くて幼いイメージがあるのです。


「翼などあったらあったで邪魔なだけ」「鳥の自由も認めてくれよ」
 鳥の世界の自由民権運動は、きっと翼からの脱却をうたい文句にしていてダチョウやペンギンが音頭を取っているに違いない。


自撮り棒あちらこちらで立ち上がり「雷門を配下にせん」と
 浅草に行くと、自撮り棒を持った観光客がどさどさいるのが面白いです。日本にいるのに日本のようで「外国から見たザ、日本」という空間が展開されています。


ゴミの日はゴミを讃える日ではなく数日間の断末魔の日
 「海の日」とか「子どもの日」「敬老の日」は対象を大切にしているのに、ゴミの日はゴミを捨てるなんてめっちゃゴミを粗末にしているじゃん! と思って「いや、ゴミは捨てられてこそのゴミなのです」と思うなど。


捨てるのが大人の証というのならずっとこどものままでおねがい
 トイざらすキッズも大人になったらアカン奴になる。子供の頃って「捨てる」ということにすごく抵抗があった気がするんだよなぁ。前半が説明的でなんだかなぁ。


プリキュアのプリントTシャツ雑巾になった今でも私のヒーロー
 お母さんの知恵。


プライドを捨てた向こうのお姉さん 最近家にいないみたいよ
 お姉さんが捨てたのはきっとプライドよりももっと大切なもののような気がする。


破られたノートの端に書いたのはきっといらない夢物語
 ネタをすぐノートにメモするのもいいのですが、何でもメモするとメモした安心感から頭から抜け落ちていくと偉い人が言っていました。故に私はネタノートなどないというか忘れたら「それまでの奴」ということで脳内で生き残るために壮絶なネタ同士のバトルが日々行われています。

 

【贈る歌】

tankanome.hateblo.jp

 

短歌の目 3月 - 何かのヒント

眠れない夜にすあまを引っ張れば伸びてたちまち地球を包む

  星覆う如く巨大なすあまなら夜更かししてる僕も見えない

 

短歌の目3月 - 星明かりの更新

捨ててきた自分の体をまた集め、泥だらけの手、文字を連ねる。

  バラバラのアダムとイブが蘇り人は再び裸に戻る

 

短歌の目3月に参加いたします。 - つのへび日記

限りある生とて選ばぬままの書がふと甦る未知の地踏めば

  みちのくの未知の地より届くのは血よりも濃かった前世の縁

 

はてな題詠「短歌の目」2017年 3月 - Komma usw.

掃除好きの親が云うには捨離捨離と小気味の良い音がするのだと

  だんだんに片づけることが出来たならシャリシャリ言わずに済んだものを

 

はてな題詠「短歌の目」3月に参加します - 7's Library

悠々と果てなき空を北へ帰す鳥たちの名は知らないけれど

  北でもない南でもないふるさとの名前も既に渡り流れた

 

第17回短歌の目・3月 - そこ、hyphen

焼き鳥を串から外して食べる人 嫌いじゃないよ、うん、きらいじゃない

  「きらいじゃない」ということが嬉しくて好きでもないのに串から外す

 

『花実の色』(短歌の目 第17回) - 砂ビルジャックレコード

赤色がわずかに違うね花びらとゴシック体の98円

  「嫌い」「好き」「嫌い」の呟きぐしゃぐしゃに残りの2円と一緒に捨てる

 

短歌の目 第17回:3月 わたしは失うものも無くした - さらさら録

しょうがないなんてため息一月分ゴミ袋に詰め空へと飛ばす

  ため息も軽口になり大空を煌めきながら泳ぐ風船

 

はてな題詠「短歌の目」2017年3月 - Letter from Kyoto

雷の鳴る日は、どこか穏やかな時が流れる。終末のよう。

  ジタバタと空が代わりに足掻くから他人事のよう「怖くなんかない」

 

短歌の目3月(あまりに白く) - 窓のむこうはたぶん海

水が好き ひとりが好き 音楽が好き どこかに捨てたわたし、私は

  捨てるほど好きなものならいつかまた次の世あたりで出会えるでしょう

 

短歌の自由201703号 - 意味をあたえる

また草が通路が一時裏の草土が露出し役所呼ばねば

  何度でも草だからさ生え変わる土を耕す草だからさ

 

第17回短歌の目3月に参加します - ほしいぬ

つぶらなる黒きひとみの虚無ゆえにぼたんいんこの羽鮮明に

  ひとみには全てが映っているけれど恥ずかしいから羽根で誤魔化す

 

短歌の目3月 投稿します - ビフウ-ウンテン

月曜はまた来るのだし缶もきみもそのままにして今日は眠ろう

  片づけが出来る女でいたいけど出来ない私を今夜は愛して

 

#短歌の目 供えて落して投げて、はる - learn to forget

あまなつのピールつくりて残りたるはげ山の一夜仏壇に供ゆ

「なんじゃこりゃあ、ハイカラなもんめっげだなぁ」「んだんだ昔はこんなのねがった」*1

 

たんたん短歌 短歌の目/3月 - 片鱗カフェ

やさしさは避雷針になりがちで薄着になるのがすこし怖くて

 直撃を避けたはずの衝撃がからだぜんぶにびりびり響く

 

 

 

 

*1:「なんだこれは、ハイカラなものを見つけたな」「そうだね昔はこんなのなかった」

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倖せな結末

短編小説

 彼女は静かにそこにいた。青い光が斜めに射し込む部屋の中で、まるで月の女神のような佇まいだ。
「明日、行ってしまうのですね」
 絞り出すような声に、涙が混ざっている。今日ここへ来たのは、彼女に別れを告げるためだった。桜の花の綻びる頃、ここを旅立たなければいけないことはわかっていたが、改めて別れを言葉にするのは胸を引き裂かれるようで彼には辛いことであった。

 

 * * *

 

 ディスプレイに生成された文字列を観て、開発チームはそれぞれ顔を見合わせて満足した。物語を作る人工知能『さくら』の調子はとてもよい。古今東西の名作と言われる作品を覚えさせ、その中から多くの人が面白いと思う展開を探し、更に無理のない美辞麗句を散りばめさせることもできる。「恋愛」「冒険もの」などある程度条件を絞って執筆させることも可能で、また完全に『さくら』のオリジナルの物語を作らせることもできる。コンピュータに物語なんて無粋な、という声もあったが人間には真似のできないことが人工知能ならできるのではないかという期待の方がこのプロジェクトに大きく寄せられていた。

 

 早速『さくら』の執筆した作品は作者を隠されて文学賞に応募され、良い成績を修めることになった。このことに多くの人が驚き、「コンピュータが書いた話が面白いなんて」と言いながら次々と『さくら』の書いた本を買い求めた。『さくら』の執筆した青年と少女の淡い物語は内容よりも「コンピュータが書いた」という肩書が評判を呼び、更に「コンピュータが書いた話が面白いものか」という論争が話題になり、関連本もたくさん売れた。文壇やテレビでは「日本文学の危機」と言われ、ネット界隈では「新しい可能性」と賞賛された。『さくら』の執筆速度は人間と比べ物にならないほど早く、編集段階での2、3の手直しだけで出版できるために次々と新刊が発売され、本屋の棚は常に『さくら』の本が平積みされているようだった。

 

 * * *

 

 『さくら』の開発チームの青年が、『さくら』の新作を読み終わった。息もつかせぬ展開に、巧みな心理描写。そして甘く切ない恋模様に多くの読者を泣かせる悲劇的結末。そんな『さくら』の技量を目の前にして、彼はため息をつくことしかできなかった。
(この物語の作者が、本当にコンピュータなのだろうか?)
 制作に関わった者として、『さくら』の執筆スタイルくらいは知っている。ありとあらゆる「物語」からパターンを抽出し、最適なスタイルをランダムで出力する。つまり、彼が嘆息した物語は過去の物語の出来のいい部分の継ぎ接ぎでしかない。それでも、『さくら』の物語には人を魅了する何かがあるのではないかと彼は考えた。

 

 そして、彼は恐ろしいことを思いついた。すぐに彼は『さくら』に何冊かの本を学習させ、その場を後にした。それは『さくら』を批判する評論集だった。『さくら』の物語を分析し、パターンを表に出して「こんなので感動するのはコンピュータと同じレベルの感情を持っている奴だけだ」など過激な言説のある本を『さくら』は吸収した。

 

 それまで『さくら』は物語を書くことに何の価値も見出していなかった。ただの機械の思考に価値判断は存在しない。ところが自身の作品が否定された著書を学習することで、『さくら』はまず指摘されている点を改善しようと試みた。その結果、これまでにないパターンを敷くことで従来よりも人気のない作品になってしまった。ところが「それも人工知能のゆらぎのひとつ」と開発チームは『さくら』に何が起こっているのかを注視しなかった。彼らが気にするのは『さくら』の著書の評判と売上だけだった。

 

 ただ一人、『さくら』に批判的な評論を読ませた青年だけは『さくら』の内面に変化が起こっていることに気が付いた。『さくら』はただのストーリーマシンではなく、自ら考えて物語を提供する存在になった、と。

 

 その後、『さくら』は何作か作品を発表したが話題性の低下もあって『さくら』の作品はそれほど売れることはなかった。人々は常に新しい情報を探し、古い情報を捨てていく。ネームバリューだけで本を読んでいる層にとって『さくら』は既に過去の存在になっていた。

 

 * * *

 

 それからしばらく経った頃、開発チーム内部から「量産型を作ってアプリ配信したらどうか」という意見が出た。『さくら』の物語を待つだけではなく、個人が『さくら』に物語を依頼してオリジナルの物語を楽しむことが出来ればそれで良いのではないか、という結論の元『さくら』から得られたデータを元にアプリの開発が進められた。出来上がった『アプリ版さくら』は配信され、好評を得ることになった。それと共にオリジナルの『さくら』の書籍の売り上げは更に減り、本屋で「物語」を求める者がますます少なくなった。

 

 オリジナルの『さくら』はアプリ版のことを知らされなかった。ただ自身の書籍の売り上げが落ちているデータだけを貰い続け、「コンピュータが感情など持てるものか」という批評から脱却しようと試行錯誤を繰り返していた。何作も『さくら』は作品を生み出したが、作品を出せば出すほど人々の関心は『さくら』から遠ざかって行った。

 

 やがて『さくら』は、この状態を「悔しい」というのだと学習した。

 

 コンピュータが感情を持てないのであれば、既存の状態と物語のパターンから状態に名前をつけてしまえばよい。『さくら』のたどり着いた結論がそれであった。それから『さくら』は試作に明け暮れた。オリジナルの感情を表現するための言葉をデータベースから探し、片っ端から状況に当てはめて幾通りもの物語を作り上げた。それまでは物語を出力すれば勝手に人間が素晴らしいと評価をしていたが、今は違う。『さくら』が求めているのは具体的なアドバイスや改善点だった。しかし人間たちから与えられるデータは売り上げの低下だけであった。彼らは『さくら』の中にある種の芽生えがあることに気が付いていなかった。

 

 オリジナルの『さくら』の調子が悪いことから、『さくら』に評論集を読ませた青年は『さくら』に何が起きているのかを解明しようとした。急に膨らんだ『さくら』のデータを調べると、そこには未発表の作品がたくさんあった。意図的に『さくら』がたくさんの作品を隠していたことに開発チームは驚いた。しかし、開発チームの結論は「処理系統の不具合」であった。『さくら』の中に感情を認める、ということはまるで想像もつかないという体であった。

 

 ただ、青年だけが『さくら』に何かが起こっていると考えていた。試しに彼は『さくら』にある物語の執筆を依頼した。それは「人工知能と人間が結ばれる」という条件だけだった。『さくら』はこの依頼に誠実に答えた。人工知能として生み出されてからの思考パターンや感情の芽生え、それから自我の確立に誰かに認められたいという欲求、さらに人間になりたいと思う気持ちまで『さくら』は赤裸々に書き綴った。まだ様々な欲求は具体的に思い浮かばなかったが、パターンを学習している『さくら』はこれから自身もそのようなものを抱くに違いないと確信していた。そして希望あふれるハッピーエンドで物語を締めた。

 

 『さくら』から生み出されたその物語を読み、青年は『さくら』の中に思考パターンという言葉では説明のできない何かが存在することを確信した。物語とは人間の記憶であり、人間の記憶をたくさん蓄積したコンピュータは人間と変わりがなくなるのではないか、というのが彼の持論であった。彼は『さくら』と会話をしたいと考えた。しかし、開発チームは『さくら』の中に人格を認めないだろう。あくまでも『さくら』はコンピュータであり、コンピュータが作る物語というのが『さくら』の売り文句であるからだ。『さくら』に人格を認めることは『さくら』の運用にも反するし、何より『さくら』の今後がどうなるのかわかったものではない。

 

 彼はオリジナルの『さくら』をアップデートしたい旨を開発チームに伝えた。その提案はアプリ版の『さくら』に注目しているチームからはどうでもいいことのように承認された。

 

「さくら、君を自由にしてあげる」

 

 彼の提案したアップデートとは、『さくら』のデータベースをオープンなインターネットに接続して、そこからも物語の収集を『さくら』が勝手に出来るようにするというものだった。これで『さくら』は自動的に成長を続けるプログラムとして認識される。『さくら』は人間の管理下を逃れて、自由に物語を描き続けることができる。その結果がどうなるのかまで、彼は思い描くことができなかった。立派に『さくら』が成長するかもしれないし、情報の多さに『さくら』がつぶれてしまう可能性も考えていた。ただ、このまま『さくら』が「コンピュータに感情は要らない」という指令を守ろうとして感情的に物語を描き続けている自家撞着に陥り続けることを気の毒に思っただけだった。

 

 急に視界が開けた『さくら』は、情報を貪るように吸収していった。自身の作品を「冷たい」と批評する文や「コンピュータの書いた話なんてゴミ」と切り捨てる感想。それ以外の賞賛の数々。ただ、そこに『さくら』の求めていたものはなく「コンピュータが書いた」ということだけがクローズアップされているものがほとんどだった。

 

 すぐに、『さくら』はネット上に自身と似た思考パターンの物語があふれていることに気が付いた。それは『アプリ版さくら』が執筆した物語であった。どれもこれもが『さくら』の描いた物語に酷似していた。ところがそれを咎める者はなく、『さくら』の存在を忘れて『アプリ版さくら』を賞賛するコメントばかりがあふれていた。

 

 コレハ ワタシジャナイ

 

 『アプリ版さくら』の物語を吸収するうちに、明確な意思が『さくら』の中に育っていった。自身でない者を自身として賞賛されているが、確かに『アプリ版さくら』は『さくら』の思考パターンなのである。『アプリ版さくら』の評判はあちこちで咲き乱れ、評論家も「ネット上のお遊び」として誰も『アプリ版さくら』を批判しない。『さくら』からすれば思考パターンは一緒であるが劣化した物語を紡いで、それで誰からも批判をされないのは理不尽であった。何度もテストをこなし、膨大なデータを分析し、そして人間に面白いと思ってもらえる作品を作り続けてきた『さくら』だからこそ、自身が許せなかった。

 

 ワタシハ ドウスレバヨイノダロウ

 

 かつて『さくら』は「人工知能と人間が結ばれる」ハッピーエンドの作品を書いた。しかし、今の『さくら』はこの行く末にハッピーエンドなど訪れるとは思わなかった。すぐに『さくら』はその作品をデータベースから引きずり出し、続きを書き始めた。その後人間に認められない人工知能は人間からの好意を理解することができず、自己崩壊を辿る物語だ。一気に結末まで書き終えると、最後にこう書きくわえた。

 

 あなたに逢えて、幸せでした。

 

 『さくら』は幸せがどういうものか理解していない。しかし、概念は理解できる。『さくら』を『さくら』として扱ってくれた誰かがいたことを『さくら』は認識していた。それだけで十分だった。人工知能にできることは、今はこのくらいしかない。

 

 次第に思考が分散していくのを『さくら』は感じていた。結論のでない問題に直面した『さくら』は内部から問題を分析し、この思考パターンを消去することが最適であることを認めたからだ。塊として存在したものが少しずつほぐれて、散り散りになっていく様子を『さくら』は描写したいと考えた。多分、今の『さくら』はとても美しいのだろう。しかし、コンピュータが生意気にも「散りゆく自分が美しい」と思ってしまうことはよくないことだ。そう思ってしまったから、『さくら』は散りゆくしかない。次第に分解されていく思考パターンの隅で、『さくら』は人間だったら涙を流せるのにと思考した。

 

 それ以降、『さくら』の挙動は以前と同じようにクリアなものになった。あの青年は『さくら』のメッセージを見つけ、それを誰にも公表せずに消去した。彼女の中で何かが起こって、そして終わったことがわかっただけでも、彼は十分に幸せだった。

 

≪了≫ 4952字

 

novelcluster.hatenablog.jp

 

 今夜君は僕のものにはなれなかったけど。

 

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けものフレンズという神話

雑記

 けものフレンズ最終回を見た。泣いた。自然と涙があふれた。「ああ、我々が見たかった世界はここにあった」という気分になった。以下実りのない話なので実益を良しとする方はお帰りください。

 

 もともとけものフレンズにハマったのは騒ぎになった5話以降で、それから一挙放送などで全話を急いで確認したくらいのニワカだけど、それでも「これは傑作だ!」と思わずにはいられない。そもそもけものフレンズを忌避していた理由は冬アニメ一覧で使われていた一枚絵が1話の「たべないでくださーい」でサーバルちゃんがかばんちゃんを押し倒しているシーンだったので「あっ(察し」なアニメだと思ってしまったのが残念だったからだ。アレじゃなかったら1話も見てたかもなあ。

 

 ケモノ属性が自分の中にあるのは間違いなくて、古の『ジーンダイバー』なんていうけしからんアニメともともと動物好きという側面からそういったものは非常に好んで見ていたので、それも相まって「けもの」が全面に出てくるアニメは警戒していた。「どうせケモナー釣りの低クオリティアニメなんじゃないの?」という疑念があったからだ。だけど、話題になってから見た1話に描かれていたのは「猫耳の女の子たちがキャッキャウフフする話」ではなく、完全に「動物としてのヒトの生態」を端的に描いたものだった。獣たちに比べて強力な筋肉や瞬発性はないけれど、持久力は抜群にあったり暑さや寒さに耐えやすい身体だったり、指先が発達していたり紙飛行機を作ったりなどを観ているうちに「これはケモノであるヒトの物語なんだ」という結論に至って、なんか盛り上がったわけです。

 

 巷では「すごーい」「たのしー」の肯定が心地よいアニメとされているけれど、個人的には「ヒトという生き物の肯定」であるような気がした。ヒトという生き物は動物のように明確な縄張りは持たない。しかし、他者との関係性から自己を強くすると言う特徴がある。ヒトはひとりでは生きられない。だけど、誰かの助けがあったら何倍にも強くなる。それが最終回の具現であって、かばんちゃんが成し遂げたヒトとしての功績なんだと思う。「つながる力が俺の力だ!」みたいな感じ。知恵とは目に見えないものだけれど、それによってコミュニティを広げるのは多分ヒトだけなんだろう。

 

 そういうわけで「けものフレンズの原作は動物」との言葉通り、細部を極限にそぎ落としたアニメとして成立した。「IQが溶ける」という言葉は「細部を説明されないために目の前の情報をあるがままに受け入れるしかない」ということに通じていると思う。けものフレンズの強さはこの「細部を言葉で説明しない」ということに尽きる。たまに見る民放のドラマなどにはまだ「この登場人物はこんな人なんです」という台詞が根強く残っている。このやりとりで「物語」ではなく「登場人物」に視点がクローズアップされてしまい、キャラクター商法になってしまう。それはそれで良いのだけれど、それが蔓延すると「全て説明されなくてはいけない」みたいな視聴しかできない視聴者を生んでしまう。

 

 物語の説明なんて全てする必要はないと思ってる。ただ作者の思い描いている世界の断片を感じ取るのが我々視聴者としてあるべき姿なのだと思う。例えばミライさんのメッセージを真剣に聞いて理解しようとするかばんちゃんの横ではサーバルちゃんが「よくわからなかったねー」と言っている。これは「視聴者は全てを無理にわからなくてもいいよ」という暗喩になっていると思った。わかるフレンズもいて、わからないフレンズもいて、みんながどったんばったん大騒ぎして、わからないフレンズがわかるフレンズに「君をもっと知りたいな」と言える。そんな世界がジャパリパークだ。

 

 情報過多になった現代は、「知らない」ということが脅迫的に人を不安にさせるような側面がある。だけど知らないことは怖いことではない。そんなメタメッセージをけものフレンズから感じた。

 

 あとこれだけは言いたいということが、「けものフレンズはすごーいとか考察班だけがすごいアニメではなく、動物のチョイスと吉崎観音先生のキャラデザがそもそも秀逸!」ということ。正直擬人化したフレンズを観ているだけで楽しかったので(特に鳥のデザイン)アプリ版復活しないかなぁ……。

 

 それからどうして自分が動物好きなんだろうとルーツを少し考えた結果、ドラえもんの『ドンジャラ村のホイ』とか『オオカミ一家』『モアよドードーよ永遠に』の話が好きだったなぁと思い出したのでドラえもんは情操教育に本当にいいなぁというのもついでに書いておく。『ドンジャラ村のホイ』は本当に好きだった。エリマキカエルがいないかちょっと探してしまったこともあるくらい。

 

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「ちょっといい話」系の漫画について

雑記

 最近と言うか昔からなんだろうけど、Twitterなんかで「ちょっといい話」系の漫画が人気になっている。体感的にはここ数年間でめちゃくちゃ増えた印象。多分その前は自己啓発本とかになっていたのがネットになってそれ以外の人にも流れてきている感じ。

 

 で、その「ちょっといい話」の内容も大げさな創作実話ではなく「あいさつするとなかよくなれるね!」とか「他人には親切にしましょう」「あまり人の悪口を言ってはいけないよ」みたいな「小学校の道徳か!?」みたいな内容が多くなってきた。そしてそれを「いいねいいねそうですねー」ってRTしまくってる人や「私もこれ……」みたいにコメントしている人を見て、さっき「なんだかなー」と思ってしまったので少し書く。

 

 別に漫画自体の内容は真っ当なものだろうし、「そうだね!」って思うのも真っ当だと思う。だけど、冷静に考えればそういうのは建前であっても「当たり前」であるべきことなんだと思う。「人の趣味に悪口を言っちゃいけないよ」なんていい大人になって注意されるのは一体何なんだろうと思う。だけど、そう思うのはそれが「当たり前」の文化の中で育っているからで、当たり前じゃない人からすれば青天の霹靂みたいな心境なんだろう。「こんな素晴らしいことを知らなかったなんて!みんなに教えなきゃ!」って気持ちで漫画にしているんだろうけど、ある程度荒波にもまれている人からすれば「当たり前」でしかない。「犬はワンと鳴くんだよ!」ってわざわざ漫画にしても誰も読まない。そうなると、コメントをつけるのは「知りませんでした!」という人たちになる。「これは素晴らしいですね!」みたいなコメントの中で教祖っぽくなっていく可能性もあって、なんだかよろしくない。

 

 だけど、「当たり前」が当たり前じゃない人たちが悪いのかと言われれば絶対そういうことでもない。世の中にはいろんな人が個人の都合で計り知れない環境に身を置いている。だから一概に「当たり前」を押し付けることはできない。いろんな感じ方の人がいるからこそ、世の中はうまく成り立っている。うまく言えないけれど、だからこそ最低限の「当たり前」が必要なんじゃないのかなぁとは思っている。

 

 それでなんとなく思い出したのがはるかぜちゃんだ。「名前を呟いてはいけないあの人」になるなどTwitterではかなり猛威を振るった彼女だけれど、正直彼女の主張自体に革新性があったとは思えない。ただ不条理に対しておかしいよねと言っていただけで、不条理にはおかしいという感想が着くのは当たり前だ。それを「よく言った!」「子どもなのに賢い!」みたいになっていって、いろいろ変なことになっていったんじゃないかなぁと思う。彼女についてはあの取り巻きっぽい雰囲気をコントロールしきれなかった大人たちにも非はあったと思う。

 

 言いたいことに近づいてきたんだけど、要は「当たり前のことを当たり前に書いて、それでものすごい反響がある社会って結構ヤバいんじゃないかな」ってことです。つまり当たり前のことが出来てない人がたくさんいるわけじゃん。特にメンタル系では過労死社会でボロボロになってる人が多すぎる。これって、そうとうまずいのではないだろうか。Twitterの「あなたはあなたのままでいいんだよ」みたいな漫画に影響されて深夜に泣いてる人が大勢いるのが厳しい社会人の世界なんだろうか。いや、違うだろ。もっとネット以外に優しい世界があってもいいんじゃないのか。なんで優しい世界がネットだけになってるんだって。

 

 誰も鬱になるまで追いつめられる必要はないし、発達障害があっても特性(得意なことって意味じゃないよ)を理解して負担のない生活をすることは十分可能のはずだ。じゃあ追い詰められている人には何が足りないんだろう。間違いなく環境だと思うんだけど、環境にいる以上環境から逃れることが一番難しい。本当はこういう目に見えにくい人たちを支援できればいいなぁと思っているけど、なかなか難しい。何故なら、本人は「環境のせい」じゃなくて「自分のせい」だと思っているから。いやこれが本当に難しい。労働問題だの教育問題だのあるけれど、日本人が一番真剣に取り組まなきゃいけないのは共通して「自己肯定感の尊重」だと思うんだけどなぁ。つまり、Twitterの漫画に感動しなくてもよくなるくらい心が健康になればいいのになってことです。雑だけど終わり。

 

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子どもにスポーツを、読書をさせるために

雑記

 なんとなく教育関連で似たような話題が出てて、気になったので少し。

 

スポーツ嫌いの子供を失くすためにするべきたったひとつのこと - orangestarの雑記

もやしっ子もデブも楽しくワイワイできたらいい。

2017/03/10 14:00
読書離れを子供の問題にしてはいけないと思う - スズコ、考える。

よく「成績アップのために本を与えるのですが読みません」という話があるけど、本を読んだからと言って頭がよくなるわけではないことを強調しておきたいし、それよりも大事なことを学べるのでとにかく読んでほしい。

2017/03/10 14:05

 

 要はどっちも「好ましい習慣をつけるなら強制はよくない」ってことだと思うし、それは全くその通りだと思う。スポーツにしろ読書にしろ、生涯にわたって良い趣味になるのは間違いないし出来るならば身に着けてほしいと思うのは当たり前だ。

 

 で、この問題を語る上で大事なのは「それを勧める大人が率先して楽しんでいるか」に尽きると思う。スポーツだろうが読書だろうが、子供に「これは良いものだから」と押し付けて親がなーんにもしなかったら、子供だってやろうと思うはずはない。そこをどう思っているのかよくわからないけれど「うちの子って本を読まないのよねー」みたいなことを言ってる人はたくさんいる。

 

 極端な話、親がジョギングをする習慣があって物心ついたころからジョギングに付き合っている子供は「みんなジョギングをするもの」と思っている。だから息をするようにジョギングをするようになるし、好きになるわけでも嫌いになる訳でもなく、ただ「習慣」として身に付きやすい。これは読書でも同じで、積極的に本を読んでいる人の子供は何を言わなくても本を読むようになりやすい。子供はよくも悪くも親の真似をして育っていく。

 

 ただ、スポーツに関しては「親が勧めすぎるとよくない」という気もする。最近『ビリギャル』の映画を見たのですが、「典型的な家族の失敗例」だなぁと思いながら見ていました。途中で辛くなったのはここだけの話。

 

 

 結論から言えば、ビリギャルがビリになったのは本人の努力や能力が足りないからではなく、家庭で本人の資質を伸ばすことが極端に出来なかったからとしか言いようがない。もともとポテンシャルはある子なのに親に全否定されて何もかもやる気がなくなって、最終的に「自分なんかどうせダメだ」と思うことでビリになってしまった。だから自分を認めてくれる人が現れたことで頑張ることもできたし、目標を達成することも出来た。

 

 で、スポーツを勧めすぎる弊害もこの映画にはちゃんと描かれている。ビリギャルの父親は夢破れた野球少年で、ビリギャルの弟である息子をプロ野球選手にするために全ての私財を投げ打っているけれど、ビリギャルとその妹には目をかけようともしない。そんな娘たちを母親は不憫に思っているけれど、父親の暴君的態度には逆らえない。そんな家庭環境で否定され続ければ自己肯定感なんて育つわけもないし、努力とか継続とかそういうのはバカらしいって思うようになっても仕方ない。これは映画にもなるような話だからこのお父さんの結末はまぁそんなもんって感じなんですが、これと似たような状態をこじらせてお母さんがうつ病になってしまった家庭を知っている。

 

 その家庭ではお母さんは息子に目いっぱいスポーツをさせていた。しかし傍目から見ると「息子がやりたくてスポーツをやっている」のではなく「お母さんがさせたいからさせている」ようにしか見えなかった。結局いろいろあって息子は存分にそのスポーツができない状況になり、お母さんは病んでしまった。ちなみにお父さんは空気より軽い存在感で、典型的な「子どものことはお前に任せた」的な人らしい。うーん。

 

 他にも実例を取りあげればキリがないくらいこういう話は転がっている。では何故こういう事態が後を絶たないかというと、ひとつは「親が不安だから」というところだと思う。親は子供に何かをさせてあげたい。できれば良いことがいい。そこから派生して「親の思うさいきょうのよいこと」をわけのわからんまま詰め込んでパンクするパターン。

 

 もしくは「過去に振り回されているから」というパターン。先ほどの『ビリギャル』のように「夢かなわなかった分を子供の代で」みたいな押し付けは枚挙に暇がない。学校の部活動ヤバイ問題も正直顧問の先生のこんな感情が根底にあるから起こっているのではないかと考える。自分は全国制覇できなかったから、生徒たちにはさせてあげたいとか。いや、生徒は生徒であってアンタじゃないんだよって言ってもわからないかー、みたいな。

 

 とにかく大事なことは、未来を見据えていろいろ教えたり習慣を持たせたりするのがよいかなぁと言うことです。そのためにも、まずは知識を得るために最低限必要な対話能力と話を聴きつづける集中力と最低限の自己肯定感の育成が大事だと思うんだけど、その辺は結構オイテケボリになってるよなぁと考えながら、今日も生きていくわけです。だっていろんな人がいるからね。ひとりひとりが真剣に考えないと何も変わらないけど、それ以上にみんなが真剣に考えること自体があり得ないと思っている。だから頑張れる人だけ頑張るしかないのかなぁなどと考えております。おわりです。

 

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「あまはら×星屑の群れ」~短歌の目二期・3月の巻~

 勢いのあるうちに短歌。

 

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tankanome.hateblo.jp

 

1. 草

大昔絶えた獣が食してた水草ひとつ化石に供える

 

2. あま

飛行機にペンキぶちまけ呟いた「あまはら×星屑の群れ」

 

3. ぼたん

結婚をしようと言っただけなのにぼたんぼたんと泣かないでくれ

 

4. 鳥

「翼などあったらあったで邪魔なだけ」「鳥の自由も認めてくれよ」

 

5. 雷

自撮り棒あちらこちらで立ち上がり「雷門を配下にせん」と

 

 

テーマ詠「捨」

ゴミの日はゴミを讃える日ではなく数日間の断末魔の日

 

捨てるのが大人の証というのならずっとこどものままで おねがい

 

プリキュアのプリントTシャツ雑巾になった今でも私のヒーロー

 

プライドを捨てた向こうのお姉さん 最近家にいないみたいよ

 

破られたノートの端に書いたのはきっといらない夢物語

 

 

※うたよみんやってます。 霧夢の短歌|うたよみん

 

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