あのにますトライバル

君の気持ちは君の中でだけ育てていけ。

美味しんぼのアニメを見ている

再放送で美味しんぼをやっているのでぼちぼち見ている。あらすじとか有名なシーンしか知らなかったので、改めてこういう話なのかと思いながら結構楽しく見ている。

 

面白いのが当時の時代性に加えて、お話の組まれ方。このブログ書いてる人が父子ものに対して何らかの何かの感情を強く持っていることは大前提として、この美味しんぼに登場する父子は本当にわけがわからない。

 

わけがわからないというか、登場人物全体に人の情ってもんが見えない。全てのロジックが「より美味いもんを食う」になっていて、そこに至る過程でキャラが踏み台になっている。主役はあくまでも食べ物で、登場人物はその引き立て役。だから山岡がサイコパス行動をしても雄山が悪者チックに振舞っても、特に問題はないし周囲も介入しようとしない。

 

いや、普通にこんな奴ら実際にいたら嫌だろ……まあ、山岡という装置を使って基本的に「メシ美味ざまぁ!」をする話なのでこの漫画の中ではこれは正解なんだと思うのですが。

 

つまるところ、美味しんぼとは「食通の父親をざまぁさせるために俺も究極のメニューを追いかけながら周りの人間ざまぁさせていく」であり、「弱い立場が知恵で目上の者をギャフンと言わせる」といういわゆる吉四六さん的な面白さがある。それで、これを異世界でワーワーやるのがいわゆる「なろう系ざまぁ」なのかなぁ、とアニメを見ながらぼんやりと思った。

 

そんなことを考えながらブコメ書いたら思いの外ヒットしてたので世の中何が起こるかわかんねえなと思う次第です。余った唐揚げを巡って起こる激しい親子喧嘩漫画「いやしんぼ」、あんまり見たくないなぁ。

 

ミスター端っ子「どんな食べ物でも端っこがうまい!」

いやしんぼ「この余った唐揚げを食べるのは誰だァ!?」

2024/03/03 20:25

b.hatena.ne.jp

 

ホラーと小説は相性が悪い騒動の背景

 先日、突如としてホラー小説家の大御所たちが「けしからん(ニヤニヤ)」というポストを次々と投稿して賑わっていた「ホラーと小説は相性が悪い」の騒動なのですが、この炎上に関して背景を理解すると更に違う景色が見えるかと思いますので、ちょっと解説します。

 

togetter.comso

 

【概要】

 発端のコピーライター氏が「ホラーと小説は相性が悪い、何故なら絵や音がないからだ」という主旨の投稿をする。これに「じゃあスティーブン・キングは何なんだ」「想像で補完するから怖いんだろ」というような反論が殺到。そこにホラー小説家の大御所たちが「そんなことないと思いますよ~(基本激おこ」というコメントを続々発表。ついにカクヨム公式が「最近ホラージャンル賑わってます!」というポストをする事態に。

 

 これに対し発端の氏は「ホラー小説の否定ではなく、初心者が小説を書くにはホラーは難しいジャンルだということが言いたかった」「相性が悪いとは難易度が高いという意味である」と弁明。更に長文で弁明を書くとコメント。発端のポストは削除。更に「重い創作を持て囃す老人が軽い娯楽小説を好む若者を攻撃する」との発言が波紋を呼ぶ(現在ここ)。

 

【背景1:小説とは何か】

 これは発端の人の元のポストだけでは追えない文脈なのだけど、ここで言う小説というのは「主に小説家になろうなどの投稿サイトですぐに読者数を増やしてランキングに載って人気になり、それから出版社に声をかけられて書籍化する小説」のみを指すという事情を読み解けないと「じゃあ小野不由美は何だったんだ」になります。この人は小野不由美の話をしていないんです。

 

 それで、この人の理屈で言えば「ホラーはのめり込ませないといけないので、毎日片手間にささっと読めるようなものを求められてる場所にはふさわしくない」とのこと。つまり「隙間時間に手軽に怖がらせるには音や絵が必須。だから映像やゲームはいいけど小説は不向き」ということが言いたかったのです。この理屈自体は真っ当ではないでしょうか。

 

 つまりこの人は「小説」というものを「隙間時間に流し読みできるもの」と認識して、そこを軸に「なろうで売れたければこんなことをしろ」という話をしているわけです。ちなみにこういう「ランキング主義的創作論」を語る人は界隈にまあまあいて、毎度毎度喧嘩しています。トムとジェリーみたいなものです。

 

 そういうわけで、この「流し読みできないものは相性悪い」という理屈は一冊の本とじっくり向き合う読書体験の否定として、作家のみならず一般の読書家からかなり反発を食らったわけです。まあ、せやろなというのがこのブログ書いてる人の感想です。言葉選びが悪いと言うより、喧嘩を売ってるとしか思えない。


【背景2:テンプレとランキング主義】

 しかし、この人はおそらくインプレ稼ぎではなく本気でそう言ってるわけです。そこにも背景があって、特になろうにおいては「テンプレとランキング主義」が横行しています。その中でもホラーやミステリー、SFなどと言ったジャンルは過疎ジャンルとされています。

 

 その要因のひとつは氏の指摘の通り、ホラーというジャンルが連載小説に向かず、投稿サイトとして盛り上げが難しいというところに「ホラー要素があればホラーを名乗っていいんだ!」という別ジャンルの作品が紛れ込んでくるため訳がわからなくなっているというものがあります。カテゴリーエラー、いわゆるカテエラと呼ばれるもので、意図的にやっているものもあれば初心者がよくわからずにジャンルを選択するものもあります。つまり「幽霊がいるならホラーやな!」と『ゴースト~ニューヨークの幻~』や『ステキな金縛り』がホラーとして提示されている状態です。

 

 ランキング攻略を目的とする人たちは「とにかく奇抜な設定で読者を釣れ」「読者は馬鹿だから異世界転生最強設定とか脳死で読めるのにしろ」「設定さえ思いつけば後は書きながら考えろ」「思いつかなくなったらエタって(未完のこと)次の設定を考えろ」「当たり設定が引けなかったら次々エタればいい、読者はエタ率なぞ気にしない」「要は勝てば何をしてもいいのだ勝てば」ということをまことしやかに語るわけです。ここはだいぶ誇張してあります。

 

 そこで要因のふたつめが「読者層」です。一部で蛇蝎のように嫌われているなろうテンプレですが、これは「素人でもそれなりのストーリーが作れる」という非常に優れた面もあります。ちなみにこのブログ書いている人の見立てだと、なろうテンプレ小説を書いてる人は「面白そうだからやってみるか」という暇つぶしか「これなら出来そうだ!」という物書き志望の学生か「まずはなろうテンプレで売れてから書きたいの書いてやる」という人の3種類くらいに分けられる気がします。レビューや講評などでも「頭空っぽにして読めば楽しい」という文言を多く見かけます。つまり、安易なテンプレを用いる書き手も「頭空っぽ」状態である可能性は高いです。

 

 つまり、頭空っぽで書いたものは頭空っぽで読むことに特化しているのでランキング上位に来るのは頭空っぽ作品になります。ここで言う「頭空っぽ」とは深く考えないで書いたり読んだりするということです。だから極端な話、密室殺人事件の謎を読者が主人公と一緒にうんうん考えるのではなく「てれれてってれータイムマシン! 犯人はなんとボクでしたあ!」みたいな方がウケるわけです。そういうわけで頭を使うミステリーやSFはそうでないのに比べて圧倒的に読まれません。マジで。

 

 ちなみになろうの現状ですが、この「テンプレで深く考えない物語がウケる!」が浸透した結果、ランキングに異世界恋愛で婚約破棄からのざまぁしか見当たらないという現象が発生しました。「せっかく書くなら読まれたい」→「読まれるのは流行のジャンルだ」→「流行のテンプレ小説大氾濫」→「テンプレじゃないとランキングに載らないから仕方ないけどテンプレで書くよ」→「大氾濫」の状態が今なんじゃないかなあと思います。違ったらごめんね。

 

 もちろん真面目に異世界恋愛を歴史や様々な知識を踏まえて書いてる人もいるけど、貴族の婚約破棄を恋人を振る行為くらいの文脈で使ってる*1ものまであるので正直ピンキリです。なんでこんなことになるのかと言えば、「作中世界を創造する」のではなく「読者の気持ち(敵を倒したい、ざまぁしたい)」を優先しているので作中世界のほうが読者のニーズに沿う形になるわけです。

 

 下品な言葉を使うなら「いかに読者を気持ちよくさせるか」が勝負どころなのです。そうでないと「主人公がピンチだ! もうこの作品読まない!」と評価を下げられてしまいます。これは各所で聞く話で「見せ場のために主人公側を劣勢にしただけで読者数が減った」というのはあながち嘘ではないと思います。


【背景3:読者は作者を応援したい】

 つまり、ここで言う「小説」っていうジャンル自体が従来の文芸小説から分離し始めているのがこの世界です。現に様々な投稿サイトで「異世界ファンタジー」と「文芸」を切り離しているところはあります。このムーブメントは「ケータイ小説」の時代にもありました。特に考えず物語を消費して主人公になりきり、一緒に恋愛した気分になるタイプの小説です。主人公の苦悩に共感したり、作品の仕掛けにびっくりするような大がかりな感情の動きは少なく、ただ「ぼくらの物語」が存在すればいい。だから主人公の葛藤表現なんか書いた日には「うだうだ悩んでつまんない」「面白くないから駄作」となるわけです。

 

 そうなると読者も「親しみやすい書き手」を求めます。だから大作家先生みたいな権威よりも「自分と等身大の人間」が書いた物語に人気が出ます。ついでに言えば「こいつ頑張ってるな」という視点も入り、どちらかと言えば流麗で華麗な物語展開よりもたどたどしい文体ながらテンプレに沿ったもののほうがウケはよくなります。

 

 極論を言えば「千年に及ぶ人間と魔女の戦いの歴史を壮大なスケールで描く」とかいうよりも「奴隷の身分に落とされた魔女っ子を手懐けて俺と相思相愛の夜は魔法でトゥギャザー」みたいなほうが喜ばれるわけです。前者は「話がデカくて覚えることが多くて大変そう、戦争とか鬱展開ありそう」となり後者は「夜は魔法でトゥギャザーって何するんだろうワクワク!」となるわけです。

 

 余談ですが、そうなると「異世界ファンタジーで文芸小説を書きたい場合はどないなるんや!!」と主張する勢力が現れます。そう、本格的に書きたいわけでおっと誰か来たようだ*2

 

 で、「ホラーと小説の相性が悪い」に話を戻すと、ランキング至上主義の理屈として「千年戦争の歴史」は×で「トゥギャザー」は○です。そういうわけで作者が本当は「人間と魔女の戦いを書きたいんだ!」となっても「それだけだと読者は来ないから夜のトゥギャザーを書くしかない」とそういうタイトルになります。要はいい意味での釣りタイトルです。

 

   そのジャンルの軽い小説が存在するのはいいと思うのですが、それ以外の文芸小説を「老人の好む重い小説」と評するのはプロとして創作論を語るなら個人的にはちょっとどうかなとは思います。

 

【この件のおとしどころ】

 つまり「ランキング至上主義小説(決してなろう小説ではない)」と「文芸小説」の違いが見えないとこの問題は「なんかアホなこと言ってらぁ」となります。

 

 しかし、この「ランキング至上主義小説」と同じような構文で人気になったホラー小説がありましてね……みなさん『リアル鬼ごっこ』を覚えているでしょうか? 奇抜な設定、過激なシーン、そして人称も視点も日本語もごちゃごちゃとしてるのに愛された怪作。実際、このホラー小説騒動において「じゃあ山田悠介はどうなんだよ」と反証されている方もいました。

 

 以上を踏まえて騒動の結論を言えば、発端の人のホラーというジャンルの理解度が非常に足りないことが問題だと強く思います。ちなみに「ツリーを全部読めば妥当なことも言っている」のは間違いでないですが、最初に掲げた命題の「ホラーと小説は相性が悪い、何故なら絵や音がないからだ」が明確に間違いであるため、その後なんか読んでもらえるはずがありません。これは創作とかホラーとか読者層とかリーチ範囲以前に、文章の書き方とリテラシーの問題です。

 

   そういうわけで一度ホラーに言及しまったのだからこの際「怖いの無理」とか言わないで、ホラー小説とホラー映画、更にお化け屋敷や怖い民間伝承に絶叫マシンや怖いフラッシュなどで「ホラー」というジャンルの知識と教養を深めるのが一番の信頼回復になるのではないでしょうか。

 

 とりあえずホラー小説を数冊読んで、小説で恐怖させるポイントを抜き出して解説すりゃいいんじゃないかなと思うんだよね。それが角川ホラー文庫のアカウントも「ホラー面白いですよ!」と動かしてしまった一番の禊ぎになると思うんだ。

 

 つまり、わけのわからないものに安易に近づくと怖い目に合うってっこった。おおこわいこわい。


【創作論の是非】

 以上が「ホラーと小説の相性が悪い」の背景です。つまるところ、ロック音楽批評家(自称)が「お行儀良く黙って座って聞くなんて音楽として間違ってるぜ!」と公言したところ「何だと!」とクラシックファンが反応、それを機にクラシックガチ勢がどんどん反論したという形です。それでぶち切れたガチ勢が「これだから批評家って奴にろくなものはいないんだ!」という流れです。

 

 確かに件の批評家はろくでもないことを言ったかもしれないけれど、そのせいでロック音楽の批評全部が間違っていることにはならない。批評家全体にヘイトが向かってしまうのは残念なことだと思う。界隈では「創作論を語るのは間違いではないのか」と言ったナーバスな意見まで飛び出しているけれど、創作論自体が悪いのではなく「プロとして間違ったことを浅学で語る行為」が悪いことだと思うので創作論自体は盛んに交わされるべきだと思う。

 

 しかし、上記したランキング主義に基づく創作論を「小説の書き方」として語るのはやっぱり乱暴だと思うのでせめて「Web小説の書き方」くらいにしたほうがいいと思う。そのくらい文芸的な「小説の書き方」と乖離したものになっている。その乖離に気がつかないのであれば、そこは無学とされても仕方ないのでは、と思う。

 

小説家になろう

 

 こういう流れを踏まえてか、小説家になろうのランキング形式が先日変更になりました。ランキングの変更自体は事前に告知があり、この騒動のせいではありません。変更の是非はともかく、こういう現状を打破したいのではないかという印象を受けました。今後どのように文芸、Web小説が発展していくのかを見守っていきたいです。

 


【余談】

 このブログ書いてる人はこの「ランキング至上主義小説を推進する界隈で起こること」を見てると思い出すことがあります。以下たまに見かける文言の例です。

 

「ランキング上位でPVさえ稼げれば何を言ってもいいのだ」
「アンチでも作品見てくれればそれでOK」
「作品批判しかしないあいつらは頭が悪い」
「俺たちは理想の作品を書いているからそれでいいのだ、批判は受け付けない」
「アンチはみんな童貞キモ男だから何を言ってもOK」
「むしろアンチが養分w」

 

 ……おお! 古に存在したミニマリストミニマリスト*3じゃないか! お前らみんなweb小説書いてたんか!!

 

 そういうわけで、歴史は繰り返すみたいなことを思っています。おしまい。

*1:政略結婚の白紙化なんて下手すればお家断絶とか国家滅亡レベルだと思うのだけど、そこは異世界なんでなんでもありです。

*2:この辺の事情に関しては『本格ファンタジー』で検索してください。わしゃ知らん。

*3:物を持たないことで生活を豊かにする暮らしを実践している人、ではなく流行のワードに乗っかって他人を煽り散らすことでヘイトを生みブログのPVを稼いだ民族。

新年明けましておめでとうございます

今年もよろしくお願いします。

 

とりあえず昨年末スマホがぶっ壊れた影響で数ヶ月代用機使わされてることになったのが非常に腹立たしい出来事だったのですが、昨年のことは忘れて今年のことを考えましょう。

 

結局このブログの目的も何もあったものではないので、書きたい時に何かを書き散らかすものというスタンスは忘れずにいたいと思います。ブランディングというとカッコイイですが、自分で自分にレッテル貼り付けるのは自分の首を絞める行為にもなりかねないなと思っている年初です。

 

要は「何者かになりたい」というのは「何者かから降りることは出来ない」ということであり、何者にもならなければ何者かに縛られることもないよなと思うのです。別に何かになんてなる必要ないと思うんだよな。もう十分「何者か」なわけで、それに必要以上に付加価値つける必要もない。

 

私という事象を売り出すのがアイドルでありタレント、YouTuberというものだと思う。どこまで「私」を売り出すか、というのは線を引かないと「私」を全て売り尽くすんじゃないかというのはいつも思ってる。ジャニーズの件も松本人志の件も、そういう「私」の大安売りが根底にあると思う。被害者が悪いという話ではなく、構造の話。

 

また、応援される「私」であるために、「私」は常に発展途上でないといけない。完成された「私」はそこでおしまい。いつまでも伸び代を期待されるし、そのためにわざと「私じゃない私」の振りをし続けている「私」も存在してるんじゃないかな。

 

話は変わって今年の目標。今年はインプットを増やしたいな。映画に小説に増田、いろんな話を摂取したい。いろんな表現の発露を見ていきたい。そんで、気軽にブログを書きたい。おしまい。

 

増田が難しい

最近ずっと増田に行けてない

 

増田読もうとすると必ずなんかしらのヘイトが注目エントリにある

 

脳内で除去できる範囲を超えてるので増田巡回は控えることにする

 

またくだらない増田ばかりになればいいのに

 

※なるべくくだらない増田を見かけたらブクマしていきたい。

青春よ再び漫画かと思ったら物凄いモラハラ野郎を見て書かずにはいられない

 読み切り漫画を読みました。面白かったです。

 

comic-days.com

 

 それで、面白かったついでに「このシーンだけ抜いてもかなりすごいな」と思うところをちょっと書いていきます。

 

 読み切りなので読んで貰いたいのですが、一番気になった箇所は「母親とフットサルで対戦することになった少年が母親に勝つために家を(わざと?)散らかして家事の量を増やして嫌がらせをするところ」です。このシーンだけでこの家庭の問題点がガーっと浮き上がるの、何て言うかすごいなあと思いました。以下家族のそれぞれの視点でこの行為を中心に見ていきます。

 

○息子(圭人)

 彼はなかなか性悪に描かれてますが、10歳という年齢ということもあり第二次反抗期なんだろうと思います。要は親離れの時期なのです。この作品のテーマのひとつが「子離れ」でもあるので、こう言った強烈なギャングエイジ全開の子供が出てくるのはアリかなあと思います。それに弟がいるので、より兄貴っぽく振る舞いたかったのかな。そういうわけで彼自身は成長の一環であるため、この文章書いてる人はあまり憎たらしくは思いませんでした。「ああ、かなりリアルな子供だなあ」って思いますね。すごく上手い。こういういきなりイキる子いる。大体高校生くらいになると落ち着く。


 しかし、例の「おっかあを疲れさせる作戦」は完全に母親に甘えた甘ったれです。すっごい甘えてます。何故こんなになったのかと言えば、それはこれまでの積み重ねもあると思うのです。全体的な描写を見る限り、スポ少ママという存在の悪いところが濃厚に出ているなあとも思いました。


 だって、大体の家庭なら「なんじゃこりゃふざけんなママは片付けないぞワリャこのクソ坊主が悔しかったら自分で飯作れや!」で終わりだもの。そこまで口汚くなくても「自分で出したものは自分で片付けなさい。ママは知りません」で終わり。それがママへの攻撃になるってことはつまり、そこから先をママが「やってしまっていた」ことがここでぐーっと浮き出てくるのね。スポ少ママっておそらく何でもかんでも先回りして子供がスポーツを出来ることに専念していると思うのだけど、あまりにも何でもかんでもやってあげるとそれが当たり前になって、「自分で自分のことをやる」ってことに意識が向かなくなる。成功したスポーツ選手なんかは「僕を支えてくれた皆さんのおかげです」って言えるんだけど、ここで圭人くんは完全にママを下に見ているわけですね。


 じゃあなんでママを下に見てしまったのか、というのは後で書くとして圭人君自体は本当にただの親離れの時期なんだろうなって思った。周囲に引かれてるのに頑として俺は正しいんだムードを出すところとか、本当に思春期入りたて少年で可愛い。キャラの描き方がすごく上手だと思った。すごい。


○母親(成美)

 典型的なスポ少ママだったのだろうなと思う。息子の応援にのめり込んで我を忘れた結果息子にマウントを取られる形を作ってしまい、その挽回のための話がこの作品だったのかな。最終的に息子と和解できてよかった。

 
 犬の躾でよく言われるのが「犬は序列の生き物なので、家族の序列を非常に気にする」ってものがあります。「家族間に序列なんて!!」とアレルギー起こす人もいるかもしれませんが、まあ落ち着いて聞いてください。犬は序列の生き物なので、飼い主の下につけば従順に言うことを聞きます。しかし、自分が一番上だと認識すると人間を馬鹿にして全く言うことを聞かなくなります。そのため、犬の躾は順位をわからせることなんていうのがよくある話です。


 実はこれ、人間でも起きる話です。自分より下の人間には錯覚すると何をしてもいいと思う人間が一定数存在します。そういう人に対処するためには、もうマウント返ししかないのです。「誰がご飯作ってると思ってるの!!」に嫌な気持ちを持つ人もいると思うけど、こうなった時の最適解は多分これなんだと思う。息子がマウントを仕掛けてきたら、ママも絶対的に折れないマウントを取り返す。「ママはサッカーが出来ないバカ」と言われたら「ハァあんたは合気道出来ないでしょうがバーカ」と返すしかない。


 こんな風に書くと「なんて乱暴な」と思われそうだけど、要はママの中にある折れない軸を見せつけて、「自分の身体の延長上に存在する便利な道具」扱いから1人の人間としてママを認識させることが大事になってくると思うって話。主人公サイドの元バレー部のママのボールさばきを見て改めてママのすごさを知る息子っていうシーンと対になるところだと思います。ママも1人の人間なんだって思わせないと。家の片付けさせてる場合じゃないんだよ。片付けは自分でやれ。ママは頑として片付けるな。この仕打ちは「あーそー敵ならママは外で1人で食べてくるから、もう家に帰ってこないから、じゃあね!」くらい言ってもいいんじゃないかなあ。


 いつだか話題になってたけど、こういうとき瞬発的に怒るのって大事かもしれないなと思う。おそらく日々の積み重ねで怒るべきところで怒らなかった結果、ここまで相手を舐め腐った関係まで悪化してしまったのかもしれない。それに気がついて、奮起してここまで関係を改善できたのはすごくよかった。最終的に彼女が頑張ったから、ここまでいいお話にまとまったのだと思う。現実はそうじゃないから。


○父親(圭太郎)

 小物。わかりやすい悪として登場するのですがおそらくこの人全然悪気がありません。だからきっと何が悪かったのか自分ではわからないと思います。今回のことで子供含めてドン引きした周囲が間に入ってくれることで、自分が何をやっていたのかをわからせる必要はあるかと思います。途中でシングルマザーに「ぶっちゃけ離婚案件よ」と言われているところ、これ本人は焼き肉の席で言われたりしているのかな……?


 それに「テスト前だから息子の気持ちをアゲないといけない」っていうのがよくわからなかった。ほぼエキシビジョンマッチのような試合で母親チームに負けたことを引きずるメンタルならそれはそれでプロとしてやっていきたい人ならどうなんだろう……? シビアな人なら最初から「テスト前だろうと現実を見せてやれ」って言いそう。少年スポーツの世界では実際どうなんだろう?


 つまり、テスト云々は口実で単にこの人が母親に負けたくないからメンタルを折るような真似をしても勝ちにいくってことですね。多分この人学生時代からそういうこと繰り返しやってるんだろうな。うーん、小物!


 ここからはこの作品には書かれていない作者の個人的な読みですが、おそらくこの人は寂しかったのだと思います。何故なら、父親ってある一点において母親には絶対勝てないんですよ。だから息子に構って貰いたくてママを共通の敵にしたてることで息子を独占していたのではないでしょうか。つまり、この人も妻にすごく甘えている。


 これ、男親でやるとすごく生々しいのですが女親はそういうこと平気でやりますよね……だからこの人が一概に悪者かっていうとそうでもないよなと思います。みんな、相手にはリスペクトを持ちましょう。


○最後に

 個人的に序盤の「人んちの子供の習い事なんてどーでもいいんですけど正直」っていうのがかなり面白かったです。そりゃそーですよ、ぶっちゃけ人の家の話なんてどうでもいい。どうでもいいのですが……。


 それじゃあ、その人の話を一体誰が聞くというのだね?


 ぶっちゃけ、現代って他人の話を聞く余裕ってないと思うんですよ。娯楽のない昔だったら旅人の話なんかを聞きに囲炉裏端に集まる、なんてこともあったかもしれないのですが娯楽が飽和している今、人の家の愚痴なんてものは聞いても意味がないって思うと思うのです。


 芦原家の問題は、お母さんが一歩を踏み出すことで表面化して救済の道が見えてきました。圭人も今回の件で「君の態度は一般的なものではないし大変格好の悪いことだ」と認識できたと思います。そこで「いや、家庭の問題は家庭で解決してよ」ってなったらそれはそれで彼らは自滅の道しか見えないですよね。やっぱり「人に相談する」っていうのはすごく大事だと思うのですよ。他人に話を聞いて貰えたことで承認してもらうっていのがすごく大事。自分の承認は満たされたいけど他人の話なんか聞きたくないよって人は多いのではないだろうか……?


 母親世代の頑張りや親離れ子離れがテーマに見えて、実はそういう「家庭の悩みを地域で共有する」みたいなのもテーマに入ってるよなあと思いました。他人と関わるのもコストがかかって大変な時代ですが、何とかうまく共有できるといいですね。おしまい。

この記事が面白かった人は高評価・ブックマークよろしくお願いします

 すごくどうでもいい話。

 

 最近何を読んでも何を見てもこのタイトルの文言がついてまわる。いや、わかるのよ。この言葉がないと誰も評価してくれないから機械的に入れているってことくらいは。そして評価がないと人間先に進めないことも知っている。

 

 さて、ネットはともかく私たちってみんなのことちゃんと「高評価」しているんだろうか。リアルだって高評価がないと動かなくなっていく。おいしいお店には定期的に通って「いいね!」を送らないといけないし友人関係も適切な評価の結果がなければ離れていく一方だ。

 

 その一方で、「自分なんかが評価をしてはいけない」と思い込んでいる人もいる。そういう人は他人から遠ざかり、他人を評価する行為を「くだらない」と冷めた目で見る。評価とは世間話などの精神的グルーミングだったり、飲み会などのレクリエーションだったりする。そういうものを遠ざけるとき、多分性に合わないという他に「自分なんかに価値はない」という諦めも付属されている気がする。意外と他人はそこまで気にしていたりなんかしないけど、なんか怖いんだ。他人から低評価を受けるかもしれないと思うだけで、評価の場に入っていくのが息苦しい。

 

 そもそも適切に他人から評価をされてこなかった人は他人に評価をつけるのが難しくなっている。なんでも低評価、もちろん自分が最低の点数。自分よりマシでしょうと相手を低く見積もって人間関係のトラブルに発展。ろくなことがない。

 

 さて、結論はないし絶対的な評価基準なんかないけど、ひとつだけ間違いなく言えることがあって、この記事を高評価・ブックマークしてください! と自分で言ったらいろんなところから怒られるということだ。うーん、ネット難しい! おしまい!

 

 

 

 

「こんなクラスがいいな」への雑な切り分け

余りにも問題が雑然としているので整理してみるよ。

 

note.com

この記事のスタンスは「元の張り紙自体はよくある一般論で、張り紙の存在を責められるものではない」「張り紙にすることの思想の押しつけとは何か」です。元ツイが消えているのでなんともですが……。

 

絶対ダメなこと

当該アカウントの特定、攻撃行為

→論外。

 

ムカつくこと

いらすとやでそれっぽい画像でドヤってる

→図解系クラスタにゾワゾワするのはわかるが、張り紙自体が何かを誹謗中傷しているわけではないので攻撃されるほどでは全くない。

 

だから教師は陽キャの人の心がわからないクズ

→この人はあなたに悪意はありません。落ち着きましょう。

 

話し合えそうなこと

担任の思想の強制になる

→これは非常に微妙。「貼り紙を貼ることで息苦しさが増す」生徒が出ることは予想できるが、それを指摘すると掲示物全部が否定される。図画の展示も「上手な人と比べられて嫌だ」とか時間割や年間計画表も「嫌な科目や行事があると思うと憂鬱になる」と本当にキリがない。張り紙の内容を毎日復唱させて一日で一回も笑わせられなかった奴を帰りの会で立たせて「〇〇くんは一笑が達成できなかったので一発ギャグをやってください」とかやってるならその限りではないけどさ……。よくわからんけど、この張り紙を使って1984年をやってるわけじゃないでしょ……?

 

指示が抽象的で何をしていいか分からない

→実はこれは指示ではない。張り紙から読み取れることはあくまでも「こうなればいいな」でしかない。これを具体的にするなら「私将来ケーキ屋さんになりたいの」という小学生に「それじゃ製菓の専門学校に行って技術を学んだ後に経営学も学びつつどこに店を構えるか考えているかい?」と詰める大人みたいなものである。具体的視点も大事だけど、全体像をふわっと掴むのも同時に大事である。「ルールを守ろう」と言う標語が目に入ると脅迫されている気持ちになって過呼吸になるとか反発心を覚えてつい隣の子を蹴っちゃうとかなら、かなり個別の対応が必要だと思う。

 

達成出来ないと叱られる

→そもそも目標は必ず達成されるものではないということは経験させるべきではないかと個人的に思う。出来ない人もいるという経験こそ大事。目標があると萎縮する子もいるけれど、その為に全体の目標自体の設定をしないのはナンセンス。それでいじめが発生するなら、目標のせいではなくいじめを行うひとの問題。いや、「他人のアラを探しましょう」とかなら別だけどね。

 

個人に寄り添ってない

→そもそも、全体の理想を個人に寄せたらダメでしょ。体育祭の目標を「総合優勝!」にしないで「〇〇君がいるから絶対優勝はできない。三位になれば良しとしよう」とかやらないでしょ。かと言って勝負事なのに「負けても仕方ないし楽しめばよし!」にするのも教育的には違うよね。「プレッシャーに思う子もいるんです!」はわかるけど、それで全体目標を消すならもう体育祭なんかやる必要ないよね。運動会不要論の話ではありませんのでその話は自分のブログなどでやってください。今はその話してないからね。コメントで運動会とか行事の是非の話するんじゃないぞ、自分のブログでやれよ?大事なことだから何度も言うぞ、行事不要論は自分のブログでやれ。

 

いじめの要因になる

→これで指導されるべきは「張り紙ごときを根拠に他者を排斥する輩」であり、張り紙なんかなくてもいじめは起こるので張り紙を躍起になって否定するほうがちょっと心配になる。運動会や修学旅行の班わけがいじめのきっかけになるから運動会や修学旅行を中止しろみたいな印象。殺人と包丁の関係。

 

劣悪な家庭環境の子には酷

→それはそれ、これはこれ。一口に劣悪と言っても「両親不倫してて帰らない」とか「保護者が認知症入ったおばあちゃんしかいない」とか「毎日満足に食べてない」とか「お兄ちゃんが警察の世話になりまくってる」とか「妹が難病で余命幾ばくない」とか、本当にいろいろ。ただ、個人への配慮とクラス経営は別の視点。ここでその視点で話をするのは「この子は手がないからみんな鉄棒の授業をやめましょう」というのに近いと思う。

 

子供のためにならない

→実際に子供からヒアリングがあってトラウマを受けるような何かがあるならともかく、張り紙単体が明確な他害に繋がるとはとても思えない。もしこの張り紙を見て「全て僕が責められている」と息苦しく感じる子供がいるなら、その子は個別の対応が必要かもしれない。

 

 

現実的に検討の余地がある

視覚過敏の生徒は貼り紙が苦手

→これは工夫の余地があるが、あくまでも現状では個別の対応になる。

 

忘れ物ゼロは息苦しい

→外国では学習道具は学校の備品であるため、忘れ物はないそうだ。日本の学校もそうするか。システムから変更になるね。大変だ。多分「忘れ物は報告」というのは「叱るから吊し上げ」じゃなくて「忘れ物を隠すな、報告して指示をもらえ」という意味だと思うけど……。

 

クラス目標の意義を理解させる

→落とし所はここだと思う。「出来る人はやる」「出来なくても出来るように頑張る」「出来る人が出来ない人に理解やフォローを」が一番。それって安心できるクラスと何も変わらなくない?

 

全体主義はダメ

→これはその通り。張り紙を元にした連帯責任などはよくない。しかし一般論の張り紙まで規制するのは逆の全体主義なんじゃないかと思う。もしこの張り紙の主がそんなクラス経営をしているならアウトだけど、この張り紙だけだと何ともねえ。Twitter(X)だと似たような声が多く聞こえるから「自分の味方が大勢いる!」と気が大きくなる人は見受けられるけどさ……。

 

指示を聞きたくない見たくない人の配慮

→某少年革命家も言っていたけど、指示を聞いて行動することを「ロボットみたい」と感じる人は結構多いのかもしれないと思った。「管理されたくない」というのはこの場合「指示通りに動きたくない」なんじゃないかな。もちろん「生意気に振る舞いたい」から「指示が理解できないのを誤魔化している」までグラデーションのある話だから一概にどうこう言えないけど、この辺ケーキの切れないとか闇バイトとかに繋がっていきそうだなと思った。

 

「正しい息苦しさ」は攻撃に転じる

→今回の騒ぎで一番の論点はここかもしれない。正直、張り紙だけなら「そんなんだね」位にしか思わない。ただそれを脅迫的に思い込んで「正しくないからクラスにいれない」「指示通りに振る舞えない自分は最悪(そもそも指示を出していない)」と思い詰めるとよくない方向へ転がる。そこから「こいつは他人を管理して悦に入るサイコパスだ」まで一直線だ。

 

個人的所感

これ、教育現場の問題というより陰謀論とかに近いと思う。何かに脅迫的に追い詰められているところに「そう思わなくてもいいよ、あなたはそのままで素晴らしい」となるとコロっと怪しい思想に転がっていく。「ちゃんと正しく子育てしなきゃ」が「添加物毒物まみれの世の中から我が子を守る」になるし、「ちゃんと感染症対策しなきゃ」が「コロナは〇〇の陰謀で世界を滅ぼすために〇〇!」になる。

 

たかが一般論の域を出ない張り紙ひとつに「教員が子供をコントロールしたがっているに違いない」「出来ない子供を排除しようとしている」とあるのかどうかわからない物語が付属して、張り紙の内容よりも「自分が如何に惨めだったのか」がクローズアップされると一気に張り紙の主に怒りの矛先がいく。「子供を管理しようとしているに違いない!」そりゃ小学校の先生なら、子供の管理しなきゃじゃない……?

 

 

もちろんこの張り紙を毎朝復唱させて「達成出来ない奴は給食抜きな!」とかやってるなら非難も致し方ないけど……元アカウントの雑巾の干し方を問題視している人もいるけど、実際のところがわからないからそこを問題視しても、と思う。それをあげつらって「こうに違いない!」と叩くことこそ安心できる社会にはほど遠い気がする。

 

もちろん「個人的に性にあわないなあ」と思うのは構わないけど、そこから自己否定に陥ったり他害的な思想に行くのは恐ろしい。じゃあ正しいことへの呼びかけを止めるべきなのかと言えば、そうでもない。

 

これが生活全般の張り紙だから反発もあるかもしれないけど、例えば差別撤廃やLGBTへの啓発だったら?掛け算九九暗記のポスターだったら?避妊具使用の啓発に「正しい教員の言うことなんか聞きたくないですよ、僕はナマでやることしか意義を感じないんです」など、色んなパターンを考えた時に何故この張り紙を攻撃したいのか考えるべきなんじゃないかなと思った。

 

子供を管理しようとしているのが気に入らない、という声が多かったけれど集団生活ならある程度規則やマナーの提示は必要なんじゃないかな……ものは片付けるとか、あいさつをするとか、親切にするとか……。

 

「正しさを強要されて傷ついたから学校へ行かない」はあるかもしれないけど、「〇〇くんが傷つくのであいさつは禁止です」「〇〇さんが学校に来れなくなったのでみなさん〇〇さんより楽しく明るくしてはいけません」とか、やってほしい?

 

そもそも、張り紙にして張り出す行為そのものが他人を支配して攻撃していると感じるならSNSなど支配と懐柔の温床じゃないかと思う。要は「子供のためにならない」と言いつつ「私が傷ついたから謝れ消せ!」のムーブメントに近いと思う。

 

繰り返すけれど、この張り紙に反発を覚える生徒児童には個別的な支援が必要かもしれない。張り紙は全体に向かって張り出すもの。その中で個別の支援がある。個と全体の折り合いについてクラス経営は常に心をすり減らす部分である。本当にこの元の張り紙の教員がろくでもない指導をしているならとんでもないけどさ。

 

ちなみにすごく経験とキャパシティと能力があれば、ルール無用のクラス経営もできるかもしれない。しかしルールを守る以前の子供が増えているなら、ルールを撤廃するのではなく余計ルールで縛るしかクラスを守ることはできなくなる。スーパーの「〇〇しないでください」の張り紙が日に日に増えているのを見ると「ああ守れない人がいるんだな」と思う。買い物かごを持っていくなとか、ちゃんと並べとか、自転車ここに止めるなとか……。

 

この前「値引きシールを貼った惣菜の取り合いはやめてください」みたいな張り紙あって、その現場大変だっただろうなと思った。でも他人の買い物かごに手を突っ込んで商品を取っていく人はこんな張り紙見ないだろうし、真面目に読む人はそんなことしないだろう。じゃあ張り紙に効果はないのかと言えば、そんなこともないとは思うけどね。張り紙って何だろうね。この記事自体も思想の押しつけなんだよ。ブコメも押しつけ。言及はみんな押しつけ。おしまい。