さよならドルバッキー

この世の裏を知ったドルバッキーは世を儚んだ。

「私が何で怒ってるかわかる?」のジレンマ

 急にトレンドになった「私が何で怒ってるかわかる?」というワードだけど、これを見て「わかるわけないだろ」「ちゃんと言ってくれないと」「これを連発する人はモラハラ」などいろんな意見が噴出している。「ふーん」と思いながらも「何だか違うなぁ」と思うことを書いてみる。

 

『私がなんで怒ってるかわかる?』はモラハラ(精神的DV)? - Togetterまとめ

こういうの見ると「不機嫌になったときの政治的に正しい処理法」みたいなのを正しい人が早く開発して広めないといけないんじゃないのって思う。

2017/06/21 22:37

 

【必ずしも発語者がギルティではない】

 この記事のスタンスは「私が何で怒ってるかわかる?」という人が必ずしも悪いわけではないという方向で統一する。別に逆張りしたいわけでもなく、そう尋ねたくなるシチュエーションに無頓着な人が「言われなければわからない」と主張している可能性もあるからだ。

 

 先のtogetterにまとめられている発端の出来事は、その擦れ違いを見事に表現している。以前夕食を作っている途中で眠ってしまい喧嘩をしたので「今日は寝てもいいか」と打診をしたところ「私が何で怒ってるかわかる?」と尋ねられて困惑したという内容だ。個人的にこれは不機嫌になっても仕方ないと思うし、そう尋ねたくなるのもわかる。

 

 視点を女性側に移して考える。以前「私が夕食を作っている間に寝てしまうのは不愉快だ」ということを喧嘩を通して伝えた。ところがその後の反応は「夕食を作っている間は寝ない」ではなく「夕食を作っているけれど寝ていいか」という打診だ。「今から君が敢えて不愉快になる行動をとってもいいか」と聞いているわけだ。詳細はわからないが、相手が不愉快になることよりも優先しなければならない事情があるなら相手も納得するだろう。例えば昨夜は一睡もしていないとか、これから夜勤だとか。それで相手が怒るなら理不尽と言っていい。ただしそうでない場合、「相手の不快<自分の快」とみなされてしまえば誰だって機嫌が悪くなっても仕方ない。

 

【「私が何で怒ってるかわかる?」=「私の気持ちをもっと考えて」】

 簡単に置き換えるとこのようになる。この発問をする当事者からすると一番の怒りのポイントは怒りの引き金ではなく、「私が怒ることを知らないはずはないのにその予防を怠った」ということになる。つまり「いや知らない」と返答することそのものが発問者の怒りの根源だ。

 

 そこで、この発問に対して一番やってはいけないことは「その場凌ぎの謝罪」である。相手に対する謝罪はもちろん必要で、その上で再発防止策を当人なりに考えて言うことが発問者の怒りを和らげると思う。「また君を怒らせてすまなかった、このようなことで怒っているなら今度はこのようなことがないようにする」と言うのが適度にベターなのではないかと思う。もちろんケースバイケースなので完全に理不尽な怒りには謝罪する必要はないし、再発防止は理不尽を起こした側の仕事だ。

 

【発問者は何度も同じ説明をしている説】

 それでも「ちゃんと言われないと何が悪いかわからない」という人はいる。実際教育現場ではこのやりとりはしばしば行われる。教員もプロであるためあまり理不尽な説教はしない(はずだ。この辺は自信がない)

 

 時に子供と言うのは善悪の区別もなく悪いことをしてしまう。そこで「これは悪いことだ」と説教をして以降しないのであればよい。しかし、中には「これは悪いことだ」ということを理解しないで何度も同じ過ちを繰り返す子がいる。その子にとって説教とは「一瞬不快な時間だけど終わればチャラになる」と考えている節がある。そういう子には何度話をしてもその場の反省のみになってしまうので、本人の口から再発防止を言わせなければならない。その引き金になるのが「君は何で怒られているかわかるか?」である。まず自分の状況とやってしまったこと、そしてそのようなことを二度と起こさないことを彼の口から言わせることが一種の再発防止になる。

 

 人間は案外自分が何をしているのかを把握していない。特に良くないことをしていても頭で「これはよくないこと」と認識しなければ平気で悪いことも行ってしまう。そんなわけで「自らの行為の過ちを認めて自分が行ったことを口にする」ということは非常なストレスになる。「忘れ物をするな!」と怒鳴ってもヘラヘラしている奴に「何と何を忘れたの?何故?」と具体的に尋ねると顔を青くしてしどろもどろになることがある。「罪状を自分の口で言う」ことはひとつの罰なのである。

 

【まとめ】

 つまり、「私が何で怒ってるかわかる?」には取りざたされている理不尽な問いかけの他に「何度言っても理解しないことへの罰」という面があるということだ。「言われなきゃわからないよ」という人は、本当に相手のことを理解しようとしているのかというところから始めたほうがいいし、逆にこの問いを発する方も理解してもらう努力をするしかない。ただ、この問いが発生したということは「相手を尊重したり理解しようという態度が見られない」ということが根幹にあることだけは押さえておいたほうがいいと思う。実際、最初のtogetterの模範回答もそれに近い。

 

 あとはブコメに書いた通り、各個人が「理不尽な怒りを抱えた時にどうするべきか」を考えてしっかり対処するしかない。理不尽な怒りは誰にだってある。ちなみに我が家では何らかの怒りがあると判断した時に「10段階でどのくらい?」と怒りを数値化することで「それはひどい!」とか「ちょっとむかつくよね」などと相手の共感を得やすくして怒りを共有することで和らげる方向に持っていく。あと関係ないけれど進捗状況を表す時にFF10を引き合いに出すことがある。「今ブリッツボールが終わったあたり(序盤の終わり)」とか「ザナルカンドについた(終盤もう少し)」とか。そしてそのあと「ガガゼドのシーモア強すぎるよね」と言うのが決まり。目の前の仕事の理不尽さを全部ガガゼドシーモアに被せることでそこそこ楽しく生きていける気がするのです、おわり。

 

 

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スプライトの音空に溶けてく ~短歌の目二期・5月の巻~

 言葉がうまく出てこない時こそ短歌。

 

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tankanome.hateblo.jp

 

1. 青葉

風薫る青葉の下で蓋あけるスプライトの音空に溶けてく

 

2. くつ(靴、屈、窟など他の読みかたも可)

歩くのが下手な私に合う靴を求めてずっと裸足で旅する

 

3. カーネーション

店先に並んだ並んだカーネーション奥へ運んで終わる日曜

 

4. 衣

天ぷらの衣がシャクっとしないから明日の朝はおそらく大荒れ

 

5. 夕なぎ

舞い上がるほどの夕なぎ恋焦がれ私の羽根はイカロスになる

 

テーマ「運動会」

ぽんぽんと花火が上がるその前に布団の中から這い出る早朝

 

体操をするのに広がるそれだけで何時間も練習させるな

 

借り物と言って奪った鉢巻の一等賞は未だに返せず

 

赤白帽被っていても肌は焼け石灰交じりの風が吹いてる

 

銃声が殺したのは人でなく後ろを走る奴の人権

 

※うたよみんやってます。 霧夢の短歌|うたよみん

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「日本史つらい」が読みにくい理由

 「文意がとりにくい」ということだけれど何がとりにくいのか。この文章を解析すれば「文意のとりやすい」文章が少しわかるんじゃないか。

 

anond.hatelabo.jp

 

 

原則として、以下の1および2の内容をすべて満たすことが必要である。
「世界史A」「世界史B」から1科目を選択必修
「日本史A」「日本史B」「地理A」「地理B」から1科目を選択必修

地理歴史 - Wikipedia

 

 なお、教科のAとBの違いは「基礎的な学習か、入試対策レベルまでか」の違いです。基本的に入試科目にするのであればBを選択するのが一般的です。以上を踏まえておいてください。

 

 難関大学目指してる高3女子で文系。タイトル通りなんだけど、端的に言うともう日本史したくなさすぎて泣きたい。学校の指導方針?なのかは分からないけど、三年間で世界史AまたはBを選択することになってて。文系で地理選択はなし。社会の科目選択って入学したときにするから、将来やりたいことも特になかったのでなにも考えず一年で世界史Aを選択した。これがすべての始まり。悪夢。

 

 まず、一番のわかりにくさは「日本史がつらい」というタイトルなのに状況説明の最初に「世界史の選択」という話題を持ってきて、日本史がどのように履修されているか書かれていないところ。読者は日本史の話が始まるのだろうと思っているのに「世界史の選択が~」と始まることで混乱する。おそらく語り手は「時系列に正直に書かなくては」と思って世界史の話からしたかったんだろうけれど、そこで最初の混乱が起きている。最初に日本史を履修するようになった理由が端的に書かれていたり、タイトルが「世界史やりたい」だったらここまで文意不明にならなかった気がする。

 

もちろんA科目とB科目の差は分かってるつもりで、だけど自分は世界史好きだし向いてるなーと一年のとき思ってしまって。

 

 この文章の文意を一番わかりにくくしているのがこの文。「A科目とB科目の差は分かってるつもり」が科目選択時であるならば、何故その時点で世界史Bを選択しなかったのか。もし仮に「世界史A」という選択をしたのであれば、その後ろには「日本史B」という教科がセットで来ることも同時に考えていないとおかしい。「日本史をしっかりやりたいから世界史はAをとる」という選択をしていないなら、何も考えていないに等しい。確かに前の段落に「何も考えずに」とあるのでおそらく選択当時は何も考えていなかったのだろう。それであるならば「AとBの違いを知っていた」というのはどういう意味なのだろうか。

 

 おそらく、「A科目とB科目の差は分かってるつもり」というのは「世界史Aは基礎的な学習だけれども世界史は好き」というようなことが言いたかったのではないだろうか。しかし「AとBの差を知っている」ということを出すことで「私はB科目でないと入試に使えないというのは知っていました」ということになってしまう。じゃあ何故世界史のことばかりで日本史のことを考えなかったんだという話になってきまして。つまり「選択時はAとBの違いをわかっていなかった」ということでないとこのような事態は起きにくい。

 

 おそらく語り手は「選択時はAとBの違いを知らなかった」を「何も考えずに」で表現できたと思ったけど、その直後に「実は知っていました」というような文を入れてしまったために語り手の伝えたいことがわからなくなってしまった。結局知っていたの、知らなかったの? どっちなの? こういう事態になっているということは「知らなかった」と考えるのが普通なので多分知らなかったのだろう。

 

2年から今も日本史Bやってるけどクッッッッソつまんなくて泣きたい。文理混合クラスだから少ない文系の中でも日本史選択は2人しかいない。そして恐ろしいことに気づいた。大学に行って外国のこともいろいろ知りたい!と思ったとしても(もともと外国語学部志望ではなかった)、まわりは多分みんな高校で世界史やってるからわたしが大学で一から世界史を学ぶとか不可能。

 

 うーん、愚痴にしても今の時期に難関大志望をしている人の書く文章じゃないなぁという印象。「(もともと外国語学部志望ではなかった)」という文からおそらく外国語学部を志望していると思われるけれど、この情報はこの文章の中では非常に重要なのではないだろうか。カッコ書きではなく最初に「外国語学部志望」とはっきり書いておけばまだ「1年次は何も考えずに世界史Aを選択して後悔している」という文脈で読んでもらえたのではないだろうか。

 

 しかし「大学に行って外国のこともいろいろ知りたい!と思ったとしても」とあるので「大学に行っても外国のこと知りたいと思わなきゃいいんじゃない?」とも思ってしまう。この辺り、大学で何を学ぶのかまだよく決まっていないことが伺える。また「まわりは多分みんな高校で世界史やってるからわたしが大学で一から世界史を学ぶとか不可能」というのも謎。その考えの根拠が「自分のクラスでは日本史選択が少なかったから」であって、サンプル数の少ない決めつけである。しかも「私が学ぶとか不可能」というのも完全な思い込みで、「私が独学で学ぶのは難しい」というくらいなのだろう。ん? 世界史が好きなら独学でも勉強できるんじゃないの? 

 

 もしかしたら「日本史勉強したくない」っていうのは「日本史がつまらない」からではなく「周りが勉強してないから」じゃないだろうか。「大学でもみんな世界史の勉強が終わっているのに自分だけ勉強したくない」から「不可能」って思っているのではないだろうか。そもそも大学っていうのは自分の勉強のために行くものであって、周囲の顔色を伺ってみんなに合わせて学習する場所ではない。「私は日本史勉強しちゃったから世界史よくわからなくてさー」と勉強すればいいだけなのに、それを「不可能」と思っているということは何かすごく高いプライドが語り手の中にあるんじゃないだろうか。そんなことないし大学と言う場所は基本的に寛容であることを前提に勉学に励んでもらいたい。

 

 そして気になるのは、受験科目ですら入学時に決定してしまう高校のカリキュラムで、普通は2年次や3年次に上がる時に志望校の変更などで都度コースを選択したり変更したりが出来る気がする。「文転」「理転」なんて言葉もあるくらいだし、日本史がつまらないと思った時点で担任なり誰かに相談できなかったのであろうか。履修の問題もあるけれど、まずは入試科目が大事だからある程度は配慮があったかもしれない。その辺の背景もわかっていると、読んでいる人も語り手の言いたいことが伝わるのではないだろうか。

 

このへんの方面に詳しい方とか経験したことある方とかいませんかつらいです。

 

 「このへんの方面」という言い方から語り手の中で「問題は何か」がまとまっていないことが見える。「1年次の選択ミスで不本意な履修をしてしまった」なのか「外国語学部で日本史履修は少数派でないのか」という不安なのか単に受験生としての焦りと不安なのか。まぁ増田なんて思ったことを思ったまま書けばいいんだろうけど、最低限「今の状況」と「何に困っているか」を自分なりにまとめないと共感もアドバイスも何も起きない。ただ「何でそう思ったの?」と聞くことしかできない。

 

日本史大っ嫌い。やめたい。でもセンター8割とりたいよーーーーーーー日本史つらい

 

 ここまで「日本史がつらい」がタイトルなのに「日本史の何がつらいのか」という話が一切ない。あるのは「日本史はつまらない」と「世界史Bを履修すればよかった」ということだけ。トラバやブコメで日本史の学習法を書いてくれている人もたくさんいるけれど、そもそも「日本史の何が嫌なのか」がわからなければ学習法も何もないと思う。「世界史が魅力的だったから未練がある」なのか、「日本史の学習法がわからない」なのか、「日本史に興味がもてない」なのか、まずはそこを何とかしないとどうしようもない。不本意な学習ほど身につかないものはないので早急に学校の先生などに相談しておこう。増田に愚痴なんか書いてる場合じゃないだろう。

 

 

 以上を踏まえて、リライトしてみました。「日本史する」などの謎の動詞を直して、語り手の心情を抑えて問題点を「世界史を履修すればよかった」ということに絞ってみると多分ブコメの付き方が変わったんじゃないかと思う。

 

難関大学の外国語学部目指してる高3女子で文系。もう日本史勉強したくない。入学時に三年間で必修の世界史AまたはBどちらかを選択することになってて、文系に進むと地理は選択できない。その時は将来やりたいことも特になかったのでなにも考えず1年で世界史Aと2年から日本史Bを選択した。2年や3年での途中からの履修変更はできない。
だけど自分は世界史好きだし向いてるなーと1年で世界史Aを勉強しながら思ってしまって、2年から日本史Bやってるけど世界史よりつまらなくて泣きたい。うちのクラスは文系の中でも世界史B選択が多くて日本史B選択は少ししかいない。もともと希望していなかったけれど世界史に興味を持ったから外国語学部に行きたいと思ったのに、大学に行って外国語を勉強するのに同級生は多分みんな高校で世界史を勉強してるからわたしだけが知らないことが多くて、大学で一から世界史を学ぶとか恥ずかしい。
履修科目と希望科目のズレが苦しくてつらいです。日本史を選択しなければよかった。
日本史勉強するのやめたい。でも大学には合格したいから日本史でセンター8割とらないと。どうしよう。

 

 リライトして思ったんだけど、この文章を締めているのが「状況の説明」じゃなくて「語り手の叫び」だったということが文意を滅茶苦茶にしている。「泣きたい」とか「クッソつまんない」とか、言いたいことはわかるんだけど主観でしかなくて「何故その感情に至ったのか」がほとんど書かれていない。「世界史履修したかった」とか「日本史の人名覚えにくい」とか、具体的なことが書かれていない上に「大学に行ったら世界史勉強できない」とかかなり焦った心情も書かれていてアドバイスとしては「まずは落ち着け」としか言いようがない。多分語り手は非常に焦っている。焦っているけれど、受験に焦りは禁物だ。まずは落ち着いて、現状を把握して解決策を考えるしかない。つまり先生に相談するしかない。対話でも焦ってしまうなら、この増田をプリントアウトしていくのもいいと思う。

 

 あと、小論文が受験科目であるんだったら今すぐに対策を始めたほうがいいと思う。真面目に、今の語り手の思考力と伝える力では難関大に行くのにちょっとした対策じゃ厳しい。今のうちから天声人語丸写し100字要約とかそういう泥臭いレベルのことやっていかないとセンター終わってからもっと焦ることになると思う。まずは日本史との感情の折り合いをつけるところからだろうけど、よい受験生ライフが送れるといいね。もう増田なんかに書き込んでいる暇はないぞ。

 

 

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男女の仲は君の瞳の底より深い

 最近増田が男女問題系で盛り上がっているので長文で言及しておきたいことをまとめておきます。

 

anond.hatelabo.jp

 

 まずこれ。「増田の気持ちもわかる」という声も多数だけど、この話の本質は結婚観とか家族観なんていうものではない。要は誠意の問題だ。よく読まなくても、この文章の中に「彼女と婚姻関係に準ずる契約を交わしたい」という表現は出てこない。「彼女を幸せにしたい」とは言っても、それが何を指すのかあいまいだ。「彼女を幸せにしたい」と言うのに「私を幸せにしたいなら結婚して」と言うような彼女に「君は好きだけど結婚はしたくない」とはっきりした態度をとっている。それで彼女は泣いているわけで。

 

 増田は「結婚なんて紙切れだけの契約」と思っているけれど、その認識がどこまで本気でそう思っているのかわからない。彼女の視点に立ってみると、今までしていた仕事も辞めて引っ越してきてくれて人生も知り合いもリセット状態にあって、それでも増田と家族になりたくて頑張って来たんだと思う。しかも結婚となればそれまで名乗っていた名前だって変わる(別姓云々はこの際脇に置いておこう)。つまり「増田と結婚」とのために「それまでの人生」を一度おしまいにしてやってきてくれたわけ。その覚悟を「紙切れ一枚」と表現するのは少しかわいそうだと思う。勿論同棲して価値観が合わないなどで双方が「やっぱり結婚は出来ない」というのであれば仕方ない。

 

 「紙切れ一枚」だったら彼女の望むようにしてやればいいじゃん。これから婚姻関係を結ぼうが事実婚だろうが家族であることには変わりないのでどうしても増田が現状の婚姻制度に疑問をもって積極的に婚姻届を出したくないのであれば、それは彼女を説得させればいいし、増田のポリシーなら仕方ない。

 

 だけど、ひとつ見逃せないのが追記した「結婚は別にしたくない」というところ。これがなければ「コミュニケーション不足か言葉の選び方の問題かな」と思えたんだけど、要は「増田が結婚したくない」というところだけが彼女の悲しい理由なんだってこと。増田の場合は「血族としての契約は交わすけど婚姻届は出したくない」というポリシーじゃなくて単純に「結婚したくないのを傷つけないように遠まわしに言っている」ように聞こえる。そりゃ彼女は泣くな。本人は「結婚したくない」というようなことを言っているのに口では「いや、結婚しないとは言ってないよ。君がしたいならすればいい」なんて言っているわけだから。何が問題なのかを理解しようとしない。つまり問題は解決しない。「結婚したい」「結婚したくない」なんだから、もう仕方ないよ。交渉決裂なの。「嫌じゃないからしてもいい」じゃないの。

 

 結婚って言うのは基本的に「したい」か「したくない」かのどっちかで、「できたからする」とか「しないといけないからする」とかになると後々問題になりやすい。理由はブコメでも出ていたけれど、これから先ずっと顔を突き合わせて生きていく間柄で不本意な妥協があるとトラブルのもとになるからだ。お互いの合意が大前提の契約なわけ。事実婚になろうが婚姻届を出そうが、誰に何と言われても彼女を守っていく(彼女も増田を支えていく)関係を築くつもりがないのであれば、早急に話し合いをして彼女のためにもお別れをした方がいいと思う。というか、同棲をしようという時点でそういう話が出ると思うのだけれど、そういう話は出なかったのだろうか。

 

 こういう話を聞いて思うのが「相手の好きにしてあげれば相手は幸せになる」と思っている人がたまにいるんだけど、「適切に意思を伝え合う」ことには敵わないと思うんだよね。何でも「好きにしていいよ」って言われ過ぎるのも人間は孤独を感じるものだから、少しの縛りが欲しいと思うものらしいよ。

 

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 ブコメにはあんまりだから書かなかったけど、「お金と時間にルーズな奴は信用してはいけない」って親からよく言い聞かされていたからこれは本当にヤバイと思う。一事が万事ってことわざもあるし、これと同じようなことを結婚式でも子供が生まれた日でも子供の入園式でも子供の入学式でも子供の受験でも子供の結婚式でも全部やると思った方がいい。それでも彼を支えていこうと思えるならそれでもいいと思う。自分だけなら耐えられるだろうけど、子どもがどう思うかは増田の想像に任せる。

 

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 これは上記の奴の反対バージョンかな。人を信じられない人って、人を信じないと言うより「他人を受け入れる自分」を信じていないと思うので増田が誠意を尽くしているなら後は彼がゆっくり増田の気持ちを消化するのを待ってあげるのがいいと思う。だけど、「そういう風に言われて悲しい」っていう気持ちは表明しておいた方がいいと思う。「それでも一緒にいたい」ということもセットで。あとは時間がかかるから気長に待つしかない。

 

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 男女問題とは少し違うけど「女性は子供を見てかわいいと言わなくてはいけない空気」なんてものがあるとすれば、それは大体そう思っている人の心の中にあるので男とか女とか関係なく本音と建前を適切に表明できる世の中になればいいのにねと思う。基本本音を言ってもいいと思うけど、さすがに子供連れの人に「あたし子供嫌いなんだよね」ってニシンのパイもらったみたいに言われても困ると思うからブコメにあるみたいな無難な受け答えができるといいね。

 

 

anond.hatelabo.jp

 

 最近の増田だとこれが結構好きかも。実際どうなんだろう。

 

 

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自分で考えろについて考える

 この記事読んで思ったことをメモメモ……。

 

anond.hatelabo.jp

 

 記事を要約すると「自分で考えろって言っても右も左もわかんないのに考える事なんかできないんだからさっさと教えろ」という感じで、この主旨自体は本当にその通りだと思うのですがそれでも気になることがありまして。ひとつは「単純なルーチンもできなかったらどうするの?」という場合。もうひとつは「単純なルーチンを回しているけれど意味を理解していなかったら?」という場合。少し極端な例示をしながら考えていきます。

 

【単純なルーチンもできなかったら?】

 これは観測範囲の話になってきそうですが、意外と単純なルーチンを指示通りにこなすことができない人はいます。集中力がなく同じ作業を継続して行うことが出来なかったり、目の前の作業が嫌になって「こんなことやっても意味がない」と難癖をつけたり、あるいは「失敗したらどうしよう」と怯えてしまって何も作業が出来ない人もいます。作業そのものが満足にできない場合、新人を責めるのではなく作業の構造を変えることで解決を図るのがよいと考えられます。この辺突き詰めると発達障害をもつ人の就労みたいな話になるので今回はこのくらいにしておきます。何らかの「指導」をする立場の人にはこういった人もいるということを知っておいてもらいたいものではあります。

 

【ルーチンの意味を理解していなかったら?】

 本題はこちらで、「見かけの仕事はできるけれど、彼らは内容を理解しているのか」というところです。例えば決算書を作るのが非常に素早く有能だと思って決算報告会で発表してもらうと、質問には何も答えられない。「目の前の数字の計算はできるけれど、それが何の数字かなんて知ってどうなるの」みたいなことはたまに見られる現象です。「だって君、簿記検定持ってるよね」と確認すると「今の仕事と検定と関係があるんですか?」みたいな反応が返ってくるかもしれない。これはギャグではない、真面目な話だ。

 

 この辺突き詰めていくと「彼の使っている言葉と私の使っている言葉は果たして同じ意味で使われているのだろうか」と中国語の部屋に迷い込んだような気分になるので適当なところで切り上げて、要は「作業はできるけれど作業の意味を理解しようとしない人はどうするか」っていうこと。こういう人はいくらルーチンをこなしても成長しない。更に「思考する」という概念がないのでその場にとどまり続ける。その状態で「自分で考えろ」と言ってもまるで効果がない。場合によっては「これでも考えてやっているのにひどい」となってしまう。

 

 このような人に何人かあったことがあるのですが、彼らは根本的に「人の話を聞かない」という傾向があるみたいです。それはもしかすると彼ら本人のせいではなく、生育環境など周囲の影響で「話を聞かなくても良い」という思考が設定されているのではないかと思うのです。何でも親が過剰に先回りしてお膳立てしてくれるような環境だったり、逆に何もしてくれなくて学校の先生が何かとせっつかないと全てのことができなかったりと、そんなこんなで何となく生きてきた結果「事象Aがあるから事象Bにつながる」ということに思い至らない人がいます。後天的なサリーとアンみたいな感じです。これらの問題は「機能的非識字者」にも通じています。自分で考える必要がないから、どんどん考えない方向へ向かっていくのです。

 

wired.jp

 

【まとめ】

 つまり、「自分で考えろ」と投げっぱなしにするのもアウトなのですが「適切に指導すれば改善する」と思い過ぎるのも指導者としては辛くなるので頑張りすぎないことが一番じゃないかな。懇切丁寧に、それこそ何度も何度も教えても作業効率の上がらない人に「自分で考えろ」と思わず言ってしまうことはあると思う。それで指導する側が参ってしまうこともあるし、無責任な周囲に「指導する側がなってないから」なんて思われてしまうことを恐れるかもしれない。

 

 本当は「こんな改善策はどうかしら」みたいなことが書ければなあと思ったけどあまりにもケースバイケースなので「全体的にこういう傾向あるよね」っていう話にとどめておく。「出来ない人のためにオリジナルの解決策を用意してやろう」っていう心意気もひとつの新人指導だと思うし、それに最初から出来る人ばかりが仕事を回しているわけではない。やはり最初はみんな出来ないところからスタートしているのだから、何か良い方法があれば前進することは不可能ではない。

 

 とにかく、こういった問題はあまりにもケースバイケースなのでひとつの正論で殴ると「そうじゃねえ」っていう反発がある程度あるので「※あくまでもひとつのケースです参考になればどうぞ」という文言は必ず入れておいた方がいいと思う。そんなことを考えました。おわり。

 

nogreenplace.hateblo.jp

 

 

 

 

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もう少し心に秘密を持った方がよいのかもしれない

 「父の死をSNSに投稿した夫が許せない」ということで現代人の情報開示とかなんとかについて少しだけ書く。

 

togetter.com

 

 まず、「人の生き死にをSNSで話題にするのはどうなんだ」というところで引っかかる人も多いと思う。個人的には「別に構わない」と思う。要は日常会話で許せる範囲ならSNSでも構わないのではないかということだ。「不幸があって今夜飛行機に乗らなくちゃいけないんだ」「まあ大変ね」くらいのやりとりなら、その辺でどこにでもあるし違和感は全くない。また「葬式の写真を撮るのはどうなんだ」というのもあると思うけれど、あれはイベントの記録としての写真だと思うし、こんなときではないと集まらない親戚の写真を残しておくのは良いと思う。ただ、それをyoutubeにあげているのは「違うだろ」と思う。

 

 この2つの決定的な違いは、「個人の記録のため」か「周囲に見せるため」かだと思う。個人の日記に葬式であったことを書くのは自然だし、逆に記録にしておかないのも変な話だ。ただ、それを「見せる」ことがメインのSNSで公開することはやはりおかしいと思う。「親が死んで悲しい」ということは客観的事実だし、葬式をあげることもごく自然な話だ。だけど、それを「見せなくていい人にも見せる」ということには抵抗がある。

 

 そもそも、身内が死ぬということは人間の感情の中でもかなり根本的なところにあるものだと思う。いくら似たような思いをしたことがあるとしても、その人の悲しみはその人にしかわからない。「子どもが生まれて嬉しい気持ちをシェアしたい/してほしい」というのはわかる。だけど「親が死んで悲しい気持ちをシェアしたい/してほしい」にはならない。せいぜいできるのは「私はいま身内が亡くなった状態です」ということを報告することくらいだ。その先の個人の心情は測りようがない。

 

 やはり「個人の情報をシェアする」ということは、「感情を共有したい」ということに繋がる。身内の嬉しいことをシェアするのはわかる。だけど、傷ついたり悲しかったりする気持ちの詳細をSNSに載せるのはある意味自尊心を削るようなものではないだろうか。簡単に言えば、自分の気持ちを「見世物」にしているわけだ。

 

 こういったSNSに迂闊なことを載せてしまう人は、「見られる」という視点がごっそり欠けているんじゃないかなぁと思う。「見られる」ということは自分を切り売りするということになる。その辺の覚悟があってテレビに出ている芸能人と一般の人の違いがその辺で、自分を切り崩した結果自分がわからなくなる人って多いと思う。その結果面白いことを書きまくっていたブロガーがある日を境にぱったりと更新しなくなったり、自他の境がわからない人が他人の面白いことを自分事のように書いて炎上したりする。

 

 自己というのもリソースで、無限に湧いてくるリソースなんていうものはどこにもないと思う。自分を切り売りして何かを発信している人は、いつかネタが枯渇する。その時に余所にリソースを求めるのか、自己をもう一度育て直すのかはその人次第であるけれど、大体は枯渇したものは元に戻らない。そして枯渇したことに気が付かない人は結構多い。そもそも自己を切り売りしていた自覚すらないのかもしれない。そういう発信が増えることは恐ろしい。要は「どんなことを言っているのかわからないけれど発信している」状態の人が増えるということは情報の相対的な無価値化が進むことに他ならない。既にスパムが蔓延してクソみたいなパクリサイトや貧困商法が大腕を振って跋扈している状況だけれども、この原則は忘れたくない。

 

 そんな自己を守るために、SNSにも書かない「本当に自分だけの秘密の感情」を持つことが大事になってくると思う。SNSには何を書いてもいいけれど、だからと言って何でもあけっぴろげなことでも困る。この辺の「自分のことだから何でも書いていいだろう」精神が悪い方に作用したのが一連の某はてなオフ会騒動の一因だと思っている。思ったことだからと言って正直に言っていいことと悪いことがある。

 

 それに、本当に好きな事象については積極的に「見せる」ところに持っていかないほうがいいんじゃないかと思っている。これはSNSに限った話じゃないけれど、趣味でスポーツをやっていてそのスポーツ=自分だと思い込んでしまうことはよくあると思う。だから身体を壊してスポーツが出来なくなると一気に老け込んだり、あるいはスポーツチームの応援をしていて、贔屓のチームが勝ったり負けたりすることでメンタルの変動がものすごかったりする人はそのチームがなくなったらどうするんだろうとは思う。自己を外付けのハードディスクに移植していると、外付けが壊れたときどうするんだということで、一種の共依存に近いと思っている。

 

 SNSもこれらの趣味との共依存を引き出しやすい。趣味が「ブログやfacebook」になると、上記の「自己を外付けハードディスクに移植」が加速する。ネットでキャラクターを演じて、リアルでもネットと同じように振る舞った結果よろしくない反応をもらうことはこれから先増えていくんじゃないかと思う。やはりネットはネット、リアルはリアル、そしてプライベートな感情はプライベートなまましまっておいてもらいたい。何がプライベートかわからない人は、SNSはやらないほうがいいのかもしれない。

 

 ここまでいろいろ書いてきたけど、上記の「義父が亡くなったときの夫の投稿」で一番ひどいのは「合掌」の部分だと思う。ニュアンスが微妙だけど、この場合「合掌」っていうのは外部からの弔いの気持ちであって、当事者が言うことではないと思う。それにまだ亡くなった義父と対面していない場面で「合掌」はないと思う。やはり手を合わせるのは直接面と向かった時だろうし、死んだことをまだ当事者として確認していないのに先にお悔やみの言葉を述べるのはちょっと不謹慎かなとは思う。「経った今母が亡くなったそうだから帰宅する」と言っている人に「このたびはご愁傷様……」というくらいタイミングが悪い。そういうことを考えれば、「義父が亡くなったそうなので妻の実家の近くの空港に着きました」という文面なら写真つきでもまだわからないでもない。「合掌」はダメだよそのタイミングで、という感じだ。

 

 おそらく今回の不謹慎ポスト以前にそういった細かい言葉遣いからくるトラブルはたくさんあっただろうし、「やめて」と言っても「迷惑をかけているわけではない」となりそうなのでそういう人とは心の中で距離をとるしかないのだと思います。まず、悪気がないので改善させることはかなり難しい。SNS辞めるか家庭を壊すかの二択にするくらいしか道が見えない。やっぱり個人的なことは不用意に呟かないほうがいい。これらは子どもより、これまでネットに触れなかった世代の方が課題だと思ってる。さて、この先どんな地獄がネットに待っていることか。

 

 

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「迷惑な人」は実在するのか

 Twitterなんかで大人気の「迷惑をかけている人にスカっとすることを言った」系の武勇伝。最近はテレビでも特集なんかされていて正直あまりいい気分ではない。どっちみち創作実話のようなものでそれを聞いて「ああスッキリした」なんて本気で思っている人がいるのであれば、相当ストレスがたまっている生活を送っているに違いない。

 

 しかし全部を「創作実話だ」と決めつけるのもよくない。実際にあった話もいくつかはあるに違いない。ただ、そこで「スカっとする一言」を無関係の人がズバリと言えるかという話はまた別だ。「迷惑な人を見かけたけど、何も出来なかった」「本当はこうしていればよかったのに」という思いがこういった武勇伝を生んでいるのではないかと思う。あっちゃんは滅多にこの世の中には存在しない。

 

 では、「迷惑な人」は実際に存在するのだろうか。電車の中で赤ん坊を抱いた母親に説教をかます老人、スーパーのレジで図々しく割引をせまる中年女性、ところかまわずポイ捨てをする若者、などなど。残念ながらこういった人は作り話ではなく実際に存在する人ではないかと思う。

 

花泥棒あらわれる - Hagex-day info

 

 このエピソードを読んで、この花泥棒は認知症なんじゃないかって気がした。どう考えても筋が通らない論理に会話にならない会話、しかし花泥棒の中では決定事項の何かがある。この人は昔このあたりに住んでいて、今は住んでいない友達を訪ねてきて、花を貰う約束を何十年も前にしたのを思い出しているのではないか。そんなことを考えた。

 

 おそらく、これと似たようなことはたくさん起こっているのだと思う。やたらと店員に向かって怒鳴っている人は、言いたいことがうまく伝えられなくてイライラしているだけなのではないだろうか。頓珍漢なクレームをつける人は、何かと記憶が混同しておかしなことになっているのではないか。ルールを守れなくなっている人は、我慢をするということを忘れているのではないか。

 

 こういうことを書くと「認知症を差別するのか」と言われそうで少し怖い。しかし、認知症に限らず鬱病統合失調症発達障害による認知の違いなどいわゆる「普通の人」には感じることのできない煩わしさを抱えている人がその特性(得意なことという意味じゃないよ)によってトラブルを起こしているのであれば、何らかの対処はできるのではないだろうか。

 

 自分は割と突発的なトラブルが起こったらどうしようと考えながら暮らしているほうだと思う。子どもが公園で遊んでいるところを通る時は「もしあの中の子供が遊具から転落したら、まず駆け寄ってその場にいる子供にその子の家へ行って家の人を連れてきてもらい、スマホで救急車を呼び、頭を打っていると危ないから子供が触れないように見張っていよう」とか真剣に考える。交通事故を見たらどうしようとか電車で隣の赤ちゃんが急に嘔吐したらこうしようとかいろいろ考える。

 

 その中に「迷惑行為をする人に絡まれる」というのもあって、その場合はとにかく話を聞くしかできない。何故なら、向こうは大体「俺正しい、お前間違い」という信念でもって話しかけてきているからだ。下手に言い返すと逆効果になる場合が多い。もし駅や公共機関があるならそのまま係りの人に引き渡すか、あるいは警察を誰かに頼んで呼んでもらうかになるだろう。

 

 ただ、「迷惑をかけたくてかけている」という人はあまりいない。一生懸命行動した結果、どうしようもなく迷惑なことになっているだけなのではないだろうか。そういった人を勝手に断罪するのはよくないし、それこそ冒頭で紹介した「スカっとする武勇伝」みたいなのはまるで解決になっていない。誰かが痛い目を見て何もかもが解決するのはおとぎ話の中だけだ。

 

 結局、こういった人に細やかな支援をしていくことが今後望まれることなのだと思う。前から「いじめを根本からなくすためにはいじめ加害者側に厚いケアが必要」と言っているけれど、なかなか難しい。迷惑をかけられた人の支援をするのは勿論として、その原因になっている「迷惑をかける人」の原因を取り除いてあげることは、やはり難しいのだろうか。認知症あたりは大分周知が進んできているけれど、その他の精神疾患系の「生きづらさ」を抱える人の支援はどうしたらできるのだろうとかいろいろ考えるけれど、やっぱりなかなか難しい。究極は「生きづらい人の生きづらさがなくなれば迷惑なことをする人も減る」と考えているんだけど、なかなか難しいよね。とりあえず「加害者を罰すればそれでいいだろ」みたいな考えは好きではないです。お腹が空いて盗みをする子には鞭をやる前にパンを上げるべきなんですよ、物理的にも心理的にも。

 

 そういう風に考えたら、みんなもっと他人に優しくすることができるようになるかな? ならないかな。難しいね。

 

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