あのにますトライバル

君の気持ちは君の中でだけ育てていけ。

語彙力と暴力

ちょい気になったので書いとこう。

 

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「〇ね」は語彙力不足?

これは絶対違うと思う。何故なら高学歴の多いはてなーがもてはやし、流行語大賞にノミネートもされた言葉に「日本〇ね」というものがあるからですね。言葉を多く知っていれば「〇ね」と言わないかと言えば、そりゃ違うと思うのですよ。


じゃあ何故小学生は「〇ね」と言うのかと言えば、言ってはいけない言葉だと分かっているからだと思うんですよね。それを言うと大人が叱る、だから反応が欲しくてわざと変なことを言う。担任の先生の対応で「〇ね」が消えたのは体制として禁止されたからであって、彼らが根本的に「〇ね」というのはよくないと理解したからではないと思うのね。


家庭という密室とコミュニケーション

いわゆる、本当に語彙のない子供ってまず喋んないんですよ。「ムカつく意味わかんねえし」みたいに喋ってくれる子はまだいいほうで、全ての返答が「別に」「普通」「大丈夫」だけの子とかただひたすらニコニコしてるだけの子とか最悪緘黙でずっと下を向いて指をいじってる子とかいる。まだ「ムカつく」って言ってくれる子のほうがいい。これは経験則です。


こういう語彙がないというか喋んない子って、家庭がぐらぐらの子が多い。例えば発達障害とかで先天的にうまく喋れない子でも家庭がしっかりしていれば「うちの子がご迷惑をおかけしますが」「◎◎くんは喋れないけどちゃんと分かってるって先生が言ってた!」みたいに昨今の事情だと結構フォローが入る印象がある。そうじゃない子の家庭は何かトラブルがあるとか過干渉とか教育虐待のようなことが起こっているとか、そういうところが多かった。


で、こういう「ご家庭」の価値観がそのまま持ち出されるのが小学校でそういう価値観のぶつかり合いが子供同士のトラブルに繋がりかねないよな、と思う。


例えば何か褒める時に「おめえよくやったな!」と背中をバシバシ叩く家庭があったとして、それを友達に同じようなテンションでやったら「叩かれた、暴力だ!」となるかもしれない。毎年家族でハワイ旅行に行くのが当たり前だと思っていたので無邪気にハワイの話をしたら次の日から「金持ちの自慢だ」と遠巻きにされたり、ポケモンは悪魔のシンボルだからと禁止されていたのに学校に行ったらみんな悪魔の話ばかりしているので学校に行きたくないとか……。


Twitterではよく「不登校を家庭のせいにするな!学校のせいに決まってる!」みたいなtweetがバズるんだけど、そんなん個別の案件であって普通に家庭や学業不振が原因で不登校になる子だってたくさんいる。じゃあなんでそういう子が見えないかと言うと、単に発言の場がないからだろうなと思う。前述した通り、そういう子はそもそも喋れない、他人とコミュニケーションができない子が多い。「この子が学校に行けないのは親との不仲のせいでうつ状態になっているのだ」と診断書ついてそう学校で判断しても親は「ああ、私たちのせいでうちの子が不登校に」とはならないだろう。「医者がヤブだ!学校が悪い!私たちは被害者だ!」となりがちである。


もちろん学校がイービルなケースもたくさんあるし、それこそ不登校なんてケースの数だけ事情があるので簡単に「学校が悪い」「家庭が悪い」と断言するのがよくないと思う。いじめがあったのかと思ったら本人の特性で強い被害者意識があったのでカウンセリングで解決したとか、よく調べたら通学路で性被害にあっていたとか、どうしても起きれないので病院に行ったら起立性調節障害だったとか、本当にいろいろある。だからひとつのケースで全体を把握するのは本当に無理。それは「そういうケースだよ」ってだけの話として処理しないといけないと思う。


ショッキングな表現と付き合う

元のブログのケースは、単に「ギャングエイジ」だからっていうだけのような気もする。10歳くらいの子供は徒党を組んで大人に反発する時期ということで、わざと変ないたずらをしたり汚い言葉を使って大人とは違うという意思表示をしたりするのです。だからその位の子供が「〇ね」と言っていても病的かと言えば特段そうでもないと感じます。小学生がうんこうんこ言ってるのと一緒ですね。ただ「その言葉は汚いよ、使うのをやめよう」と言い続けるくらいしか大人には対処法がない。成長と共にそのような言葉遣いは減っていくだろうし、外向きの言葉と仲間内の言葉の違いを学んでいく途中なので実害がなければあったかく見守るくらいでいいと思います。第二次反抗期前哨戦ですね。


多分この記事をこうやって書いているのは、「暴力的な子供」の視点が元の記事から感じられなかったからなんだと思う。要は子供同士のトラブルで、相手がこうやって嫌だったから傷ついたとかやり返したとかそういうことでなくて「暴力的な子供を排除してください」というような書き方が個人的に胸に来たので書いている感じです。つまるところ、語彙力豊富に表現したとしても傷つく人は絶対傷つくってわけですね。表現の問題じゃない、視点の有無の問題。


「暴力的な子供は語る術を持たない」のは上記の通り、そうなんですよ。ブログ筆者は傷ついた子供の母親なのでそういう視点でも仕方ないけど、教育について語るなら「どういう環境で子供は暴力的になるのか」まで少し踏み込んであげて欲しかった。そうすれば「読書が解決するかも」なんて結論にはなりゃせんのよ。暴力をふるう子は気持ちの表現の仕方が未熟だから本を読ませて適切な感情表現を習得させればいいのか?なんだそのけしからんマリー・アントワネットは()。()。()。


もちろん暴力をふるう子もケースバイケースで、家庭でひどい虐待を受けているのかもしれないし、何か特性があってつい体が動いてしまうのかもしれないし、何か酷いトラウマからそのような行為に及んでしまうのかもしれない。ただそういう子を全員救うことなどできないし、深入りして心を痛めてこちらが参ってしまっても仕方ない。


これはこのブログ書いている人の昔話なんだけど、小学生の時いわゆる「非行少年」が近所に引っ越してきて、よく暴れたり問題行動したりしてたのね。そんである日の朝うちにやってきて「朝ごはんをくれ」っていうの。そんでうちのかーちゃんはブログ書いている人のおやつになる予定だったパイをあげちゃって、ブログ書いてる人はちょっと面白くなかったわけよ。食い物の恨みは結構リアルに覚えていて本当に恐ろしい。


ただ大人になってから「あれはなかなか悲しい話だぞ」と思うわけで。近所の友達の家にも現れていたらしいし、家でかなりひどい虐待をされているなんで噂もあったし。数年で引っ越して行ってしまったので彼がどこでどうしているかわからないけど、ここで今彼が幸せならいいなと思わずにはいられないのです。で、彼が本を読んで気持ちを適切に表現出来たとして、それが彼の境遇を改善するか?というとそうはならんでしょ。そういう話がしたいのです。


まとめ

だからさ、ウクライナじゃないけどこの世界って見えないところに暴力がありまくるのよ。悔しいけどさ、まだまだ暴力には敵わない。元首相も銃の前には無力だし、その後ろには経済的問題と支配という暴力に苦しんだ人がいる。せっかく産んだ我が子を殺す人もいるし「なんで俺なんか産んだんだ責任取れ」と親を殺す人もいる。


新年からこんなにムキになんなよと自分でも思うけど、「本当に助けが必要な人は助けたいと思えない」の話の延長で考えてしまった。そうなんだよなあ、実際面倒くさいんだよな。学校の先生だって人間なんだからわけもわからず椅子に座ってずっと下向いて黙って指いじってる子の相手なんかよりニコニコ笑って読書に一生懸命取り組む子供相手にしてるほうが楽だもん。


ただ「かしこい子に育てる」と「そういう子を救う」は本当に全然違う分野の話なのでサンプル自分の子供だけじゃなくて真面目に喋んない子と対面してから語彙力の話はしたほうがいいかなと思った。個人的には暴力の有無は語彙力じゃなくて、信頼関係と安心できる場所だと思う。その辺は長くなるから今回はしない。おしまい。