※この話は「30歳で消える」という設定と勢いだけで出来ているので細かい部分を気にしないで読んでもらえると幸いです。
温泉むすめ。
彼女らは温泉のために生きている。
「あの」
初めて会った彼女は、夕日の中にいた。
「何だか疲れた顔してますね、どうですか、うちの温泉でゆっくり休まれては」
実際仕事で疲れ切っていた僕は彼女に言われるまま温泉に入らされた。行きたくない出張に無理矢理行かされたので、一刻も早く新幹線に乗ってやろうと考えていたときのことだった。そのまま宿に泊まっていけと言うので泊まった。少ない持ち合わせしかなかったのに大いにサービスなどしてもらい、その日の憂鬱がどこかに行ってしまったようだった。
「すっかり元気になってよかったですね、またうちのお風呂にいらしてください」
帰りの新幹線で飲んだビールは最高だった。
それから僕は仕事の休みの度に何度か温泉に訪れた。温泉と宿も楽しみの一つであるが、一番は彼女に会うことだった。何度も通う中で彼女が「温泉むすめ」であることを知った。地域振興のアイドルのようなものだと最初は思っていた。しかし、そのような軽いものでなかったを知るのは随分後であった。
彼女の元へ通うようになっていて何年も経っていた。温泉のおかげで仕事も順調に回っていた。周囲では早く結婚しろという声も上がっていた頃のことだった。その度になんとなく、彼女の顔が思い浮かんだ。
「私、もうすぐ代替わりするんです」
いつものように宿を訪れた僕に彼女がそう言った。
「代替わりって、引退か何かのこと?」
「いえ、神様になるんです」
僕は何かの冗談だと思った。彼女の話によると、温泉むすめは30歳が近くなると神としてより高位の存在となり、人間には姿が見えなくなるそうだ。そして温泉を司る神の一部となり、また新たな温泉むすめが生まれるそうだ。
「つまり、私たちがこうやって温泉を盛り上げているのは神様になる修行みたいなものです」
「へえ、そうなんだ」
いきなり目の前の女性に実は人間ではありませんとカミングアウトされても、どう返事をして良いかわからない。何かの冗談にしては突飛だと思いながらその日は宿を後にした。
それから「温泉むすめ」についてきちんと調べた。調べれば調べるほど、暗澹たる気持ちになった。彼女の言っていることは本当だった。僕はいてもたってもいられず、彼女の元へ行った。
「君が見えなくなってしまったら、一体どうなるの」
「どうにもなりませんよ。私は神様なので、情というものを持たないよう育てられていますので」
「それって、とても寂しいことではないのかい?」
「いずれ訪れる決まった別れを惜しむことのないよう振舞っているだけです」
「そんな、そんなことって!」
「……あの」
気がつくと、僕は彼女の手を握っていた。
「失礼ですけど、お客様とそのようなことは……」
「客でなくなればいいんだろう!」
僕は彼女に包みを渡した。
「君に似合うと思って、ずっと前から渡そうと思っていたんだ」
「……綺麗ですね」
彼女は白鳥のブローチを胸に着けてくれた。
こうして僕は彼女と思いを通じ合わせた。しかし僕たちには時間がなかった。なるべく毎週彼女の元へ足を運んだが、それでも仕事が忙しい時はなかなか会えない。寝る暇も惜しんで僕たちは愛し合った。
「私、何も知らずに神様になるところだった」
ある時、彼女がぽつりと呟いた。
「それは知ってよかったの?」
「知ることが出来てすごく嬉しかった、でも……」
その分別れが惜しいという言葉を遮るように僕は彼女に口付けをした。そんな言葉を言う暇も僕には惜しかった。
「多分、もうすぐ神様になると思う」
その言葉を聞いて、僕は長期の休暇を取得した。出来るだけ長い時間、彼女のそばに居たかった。
「どうしてもうすぐだとわかるの?」
「なんとなく、体が違う感じがする」
そういう彼女の声がどんどん小さくなっている気もする。数日前から彼女は宿に立つことがなくなった。周囲の人にはきちんと挨拶をしてきたらしい。
「不思議と怖くはないの。でも、寂しい」
「大丈夫、最後までそばにいるから」
彼女は僕に何かを渡してきた。
「これ、ありがとう。嬉しかった」
僕の手には白鳥のブローチがあった。
「あっちには持っていけないから、持って行って欲しいの」
「そんな、そんなこと」
僕は彼女の手を握っていた。その手がどんどん熱を失って、空気に溶けていく。
「嫌だよ、神様になんかなりたくないよ……もっと人間として……」
彼女を抱きしめているつもりなのに、どんどん感触がなくなっていく。
「ありがとう……本当にありがとう……これからも、ずっと、ずっと、ずっと………」
そうして、彼女は僕の目の前から消えた。さっきまで抱きしめていたはずだったのに、その彼女はどこにもいない。白鳥のブローチだけが僕に残された。
それから逃げるように僕はこの街を去った。
この街を訪れるのは十数年ぶりだ。あの日以来、僕は久しぶりにこの地に踏み入れた。どこかで心の整理がついたのかもしれない。あの萩がいないこの世界でも僕はやっていける、そう思えるくらいには立ち直っていると思う。
あの場所に行って一目「彼女」を見よう。現在の「彼女」を見ればもう少し前に進めそうな気がしたからだ。
「あの」
聞き覚えのある声。しかし、「彼女」は彼女ではない。
「何だか疲れた顔してますね、どうですか、うちの温泉でゆっくり休まれては」
変わらない。変わらないのに、そこには彼女がいない。
「ちょっと急いでいますので、そうだ」
懐から白鳥のブローチを取り出して、「彼女」に渡した。
「古いものですが、よかったらどうぞ。気に入らなければ捨てても構いません」
「ありがとうございます、素敵ですね」
「彼女」はにこりと笑う。結婚を前提に付き合いたいという女性に返事をするために、そして明日からも元気でいるために僕はこの街に来たんだ。おそらくどこかで見守ってくれている彼女に向かって手を振った。
「彼女」が手を振っていた。不思議と晴れやかな気持ちだった。
-終-