あのにますトライバル

旧さよならドルバッキー。

ジジは何で喋らなくなったのかみたいな話

ボンボンボンジュール。「ブンブンハロー」みたいな挨拶考えたけどクソダサいのでもう使わない。ググッたらもう使用例あったし、安易な挨拶はよくない。こんにちはが最強。


いろいろ忙しいんだけど超気になる記事を見ちゃったから言及しておく。

 

aozjp.work


とりあえず何故ジジは話さなくなったのかという個人的見解をまず書きます。ちなみにこのブログ書いてる人は原作未読で実写版の映画も見ていません。故にアニメ映画からわかることだけの読解になりますので御容赦ください。


結論から言うと「キキが勝手に受け取っていた説」に近いです。「生理が来た説」もなるほどと思うのですが、それなら体調の変化で魔力が消えるというのをキキは風邪を引く度にやらかしているだろうしお母さんもその辺の助言をしているはずだと思うのでイマイチ納得できないのですよ。それに初潮説なら初潮を迎える13歳前後で独り立ちするの相当デメリットだと思うので、その辺もやっぱり納得いかない。


だから魔力が少なくなったのは体調不良でも恋をしたからでもなく*1、「魔女としての自信を無くしたから説」を出しておきたい。トンボと出かけて気晴らしになったけど、その後飛行船を見たりトンボの仲間たちに出会ったりした後に魔力がなくなっていることに気づくので、ニシンのパイの件はきっかけになっているけど決定的なのは飛行船なんじゃないかと思ってる。


キキにとって空を飛ぶことは魔女として唯一のアイデンティティであり、空を飛べなくなるということは自分を見失うことに近い。そうすると空を飛ぶ機械はキキの仕事を奪うし、着飾った少女たちは修行中のキキにとって眩しすぎる。ただでさえメンタルの弱ったキキには辛いものがあったのだろう。そうしたアイデンティティの喪失があって先輩からの助言を得て、最終的に新たなアイデンティティ(デッキブラシ)を得るというのが後半の筋なのだと思う。つまり少女の成長物語ですね。

 

あと最後のジジの鳴き声、あれはテレビにキキが映って社会に承認されたことでキキの視点が客観的なものになって、テレビ越しには猫の鳴き声にしか聞こえていないということだと勝手に解釈していた。あの場で猫と真面目に会話していたらいくら魔女とは言ってもキキは危ない人になってしまう。キキには言葉として聞こえているけど、敢えて最後は猫の鳴き声になったんじゃないか。

 

もちろんこれはただの自論で「これが正しい!」とされるのは非常に不本意なのでそう言った捉え方はせずに「そんな見方もあるのか」と思って頂ければ幸いです。


以下元記事に対しての野暮な話なので野暮が嫌いな人は帰ってください。普通の人がそう思うならそう思うでいいと思うのですが、「元国語教師」を名乗っておいてこの読解力は残念すぎると思った次第であります。真面目に野暮なのでこっから長いです。読む人は早口で読んでください。

 

 

 

Q独り立ちする前のキキを見て、キキが幼いなあと感じる行動はどんな行動ですか?

→父親にラジオをおねだりしたこと。

この時期のキキは、自分の欲しいものは手に入れて当然だという考えを持っているようです。ただただ与えられる存在です。ラジオ、ホウキ、そして多くの愛情を父母から与えられるばかりです。

……???


ちょ待てよ。お前本当に映画ちゃんと見てんのか??


まず「与えられる存在」と「欲しいものは手に入れて当然という考え」はイコール関係にないだろ。そもそもキキは旅立ちの時点で「黒い服は嫌だ」「お母さんのホウキじゃ嫌だ」と与えられるものに対して不満を持っているわけで、「欲しいものは手に入れて当然」であるならスミレ色の服なり自作のホウキなりを持っていかなきゃアカンでしょう。そもそもラジオは「欲しいから与えられた」というより「餞別」に近いものがあるので「おねだりしたから手に入った」と捉えれば、まぁ捉えられないこともないけど、それ以上の意味は含まれてると思うけどな……。

 

Qこのとき何故キキは悲しいのでしょう。

→初めて自分の欲しいものが手に入らないという経験をしたから。

キキはこの町の人に自分は受け入れてもらえる、愛されると信じて疑わなかったのでしょう。自分が望めば何でも手に入った家の中とは異なり、社会は冷たいです。ですがこれが当たり前の社会の姿。この社会の壁をキキはどう乗り越えるのでしょうか。

ちょ待てよ(2回目)。


なんで「悲しい」って断定できるんだ??


映像作品なんだから本当に「悲しい」なんてわかるわけないじゃん。これが文章で書いてあるならその通りなんだろうけど、小説にしても「キキは悲しく思いました」なんて書くわけないじゃん。もしキキの感情を言語化していくなら、「悲しさ」の前に警官に呼び止められて「困惑」したりホテルで保護者の有無を尋ねられて「寂しさ」の感情が芽生えて、お弁当を残したところでやっと「悲しさ」あたりが来るんじゃないかな。


あと「社会の壁」という表現も違和感。キキは故郷の村では友達や近所の人という小さな社会で受け入れられていたはず。比較するなら「家の中と社会」ではなく「田舎と都会」であるべき。板書するなら上下に田舎と都会を分けて「挨拶は返ってくる、返って来ない」「魔女を受け入れる、受け入れない」などとやるようなところ。

 

Qギブアンドテイクで行われる行為の中で最も代表的なものを漢字2字で答えて下さい。大人の誰もが社会の中で行なっている行為です。

→仕事

せんせー、無職の大人は含まれますか!?

 

与えられるばかりで、自分から何も与えようとしなかった昔のキキから成長する転換点がここにあります。この後キキはおソノさんのお店で空飛ぶ宅急便の仕事を始めます。ギブアンドテイクの精神、仕事がキキにこの町での居場所を作ったのです。この後キキは、ほつれた黒猫の人形をウルスラに直してもらう時も、ニシンのパイを焼く老婦人に多額のお礼をもらった時も、その対価としての労働を怠りません。

んー?


前提の「自分から何も与えようとしなかったキキ」というのが変なのでそこを起点に考えていくとどんどん変になっていく。この理屈で言うと「おしゃぶりを届けたからグーチョキパン店に置いてもらえることになった 」みたいな感じだけど、おしゃぶりを届けたのは「配達の仕事をする」きっかけであり、オソノさんに気に入ってもらえたのはおしゃぶりを届けたからではないと思う。これはキキが行動したからというより、オソノさんというとてつもなく懐が広い人と巡り会えたという要因が強いと思っている。これは個人的な感想だけど、臨月の身で知らない女の子を居候させることを決定できるの本当にすごいと思う。「もしかしたら店の手伝いしてくれるかも」くらいの打算も含んでいるとは思うけど、すごいよね。


ちなみにブログ主は「与えられるばかり」みたいなとても幼いキキ像を持っているようだけど、このパン屋に居候決定の序盤からキキは自分の部屋に電話を引こうとしたり生活用品を揃えて住まいを整えたりと自分でやるべきことはしっかりやってるんだよね。薪のオーブンのところでも「お母様の仕込みが良いのね」と褒められていたし、一通りの生き抜く術は身につけているはず。そんな風に仕事が出来る子に対して「与えられるばかりの存在」とレッテルを貼ってよいのかすごく気になる。おしゃぶりを届けたくらいでここまで心境が激変するわけもないし、やはり元から「与えられるばかりの存在」というのは明確に違うと言っていいと思う。


根拠はキキが何度も「魔女は13歳になったら独り立ちをするんです」と繰り返しているところ。つまりキキは13歳になった時点で「与えられるばかりではダメだ」ということがわかってないといけないはず。その覚悟を持っているから旅立ったわけで、意味もわからずあの言葉を何度も繰り返しているなら自分は「魔女の宅急便」という映画の評価を変えなくちゃいけない。めちゃくちゃ不気味だ。


あと野暮なツッコミをすると、ニシンのパイのおばあさんからの高額な対価は出発する寸前に発生していて、薪オーブンと電球の交換はキキの中で「サービス」だったんじゃねーのと思う。だからサービスにおばあさんは多額の謝礼を払って、サービスのつもりだったキキは「こんなに受け取れません」って言ったのだと思ってた。多額の謝礼が発生したから労働をしたとは思えなんだな。

 

Qキキは何故悲しいのでしょう。

→自分は一生懸命仕事をして、ずぶ濡れになってまでニシンのパイを届けたのに、冷たい態度を取られたから。

ここでキキはおかしいぞと思うのです。自分を犠牲にしてまで仕事をしたのに、対価(ありがとうという言葉や嬉しそうな笑顔)がもらえない。ギブアンドテイクの論理が破綻しています。こちらは与えたのに、何故向こうから何も返ってこないのか。キキの知っている処世術では乗り越えられない壁がまたここで出てきます。しかし、これもまた人の世ではよくある場面。相手を思った行動が必ずしも感謝されるとは限りません。恋愛などが顕著な例だと思います。キキはどうやってこの壁を乗り越えていくのでしょうか。

ブコメでもいくつかツッコミあった部分。ここまでのキキは他人に対してめちゃくちゃピュアであり、「真心は受け取るべきもの」という前提があった。おばあさんの真心を届けようとしたのにそれが拒否されて「落ち込んだ」と捉える方が自然だと思う。薪オーブンを使用したりしたところで、キキもおばあさんが孫に対して贈り物をしたい気持ちを追体験していたところもあって余計落ち込んでしまったのだろうと思う。「対価がもらえなくて落ち込んだ」って解釈もなくはないけど、対価なら十分おばあさんからもらってるはずで笑顔や挨拶を「対価」と見なしているとは思えない。むしろ「対価」以上の価値を「真心」に感じていたので孫の冷たい言葉にショックを受けたのではないかと思う。


ただ「贈り物が必ずしも喜ばれるとは限らない」というのはジジがぬいぐるみのフリをしているところから描写が始まっていて、甥っ子くんは誕生日プレゼントのぬいぐるみをそれほど気に入っている様子はなくてポイと床に投げ捨てている。キキはその現場を見ていなかったし「早くぬいぐるみを探さなきゃ」という一心だったのでお客の反応を見ている暇がなかったんだと思う。それが表面化したのがニシンのパイの件だったというだけの話かなと。

 

ウルスラの優しさ溢れる行動は、キキに対価を支払って欲しいから行っていることではありません。その後、町に帰ってきたキキは、おばあさんの家に赴いて、ケーキを貰います。このおばあさんの行動も見返りを求めない無性の愛によって行われるものです。これらの優しさに触れてキキは気づいたはずです。そうか。自分は今までたくさんの人からたくさんのものを与えてもらって今まで生きてきたんだ。自分からは何も与えてないのに。ウルスラ。おばあさん。おソノさんと主人。父。母。トンボ。そしてジジ。今度は自分が与える番だ。ギブアンドテイクを超える無償の愛を知ったキキは、飛行船に吊るされたトンボの元に急いで駆けつけます。もちろん見返りなど求めずに。

何度も書いたけど、キキが与えられるばかりの存在から宅配業を通してギブアンドテイクに固執してるという解釈は前提が違うと思うので最後の解釈もここまでズレて来るんだと思う。いや、無償の愛の前に目の前で知り合いが死にかけているんだから助けに行かなきゃならんでしょうよ。序盤のキキは「トンボを助けてもメリットがないから助けない」という選択肢をとるか、いや知らない男の子だとしても助けに行くでしょう。


飛行船のエピソードは無償の愛とかじゃなくて、キキにとっての「空を飛ぶ」というアイデンティティの確立だと個人的に思ってる。仕事で嫌な思いをして落ち込んで体調も崩した上にお母さんから貰ったホウキも壊してどん底なキキに「自分一人で空を飛べ」という強烈な動機づけをしたということだと解釈している。あと宮崎駿の性癖以上の何物でもないと思ってる。

 

Q会話ができるジジはキキにとってどのような存在だったでしょう。

→仕事のパートナー。いつもアドバイスをくれる存在。

キキはジジに仕事のアドバイスを求めていたのだろうか。それなら「与えられるばかりの存在」だった頃喋っていたジジは何をアドバイスしていたのか。何故こういう解釈になるかと言えば、ブログ主が「仕事のパートナーはアドバイスするべき」という考えを持っているからではないだろうか。キキはブログ主ではないのでもっと多面的に捉えることが必要ではないか。

 

Q会話ができなくなったジジはキキにとってどのような存在だったでしょう。

→側にいてくれるだけでいい存在。一生の友達。

魔法の力を取り戻し、再び空を飛べるようになったキキですが、最後のシーン、ジジはキキの肩に乗って「ニャー」と鳴くだけで、前のように言葉を話しません。言葉を話せないジジはキキに対してもうどんなサポートもできません。キキが仕事でピンチに陥っても、どんなに悲しいことがあっても言葉をかけてあげることはできません。ですが、キキにとってはそれでもいいのです。キキは、何かを与えてくれるジジだから一緒にいるのではなく、ジジのことがただ好きだから一緒にいるのです。何も与えてくれなくてもその存在が愛おしいのです。この作品はトンボとの恋愛話ではなく、ジジとの種を超えた、言葉を超えた友情を描いた作品だと私は思うのです。

この映画の主題は「少女の成長」であって、側面はあっても「猫との友情」では決してない。ましてやミスリードの「トンボとの恋愛」ですらない。そもそも映画の中の話だけならトンボと恋愛関係にあるとは言えないと思う。映画からわかるのはトンボはキキ個人というより全体的に「魔女子さん」という認識だし、キキは都会に来て初めて魔女としてのアイデンティティを認めてくれた人というイメージなんだけど。2人で自転車に乗って出かけるというのも距離が縮まったことを表してはいるけど「恋愛」にするのは早まっているとしか思えない。

 

確かにジジやトンボとの交流は魔女の宅急便という作品において大事な要素なんだけど、やはりメインは「少女の成長」とするのが一般的だしそれを抜きに物語を論じきるのはどうかと思う。ハンバーグランチを頼んでハンバーグについて語った後で「この店のコーヒーはおいしいけどサラダが1番好きです」みたいな締めはどうなんだろう。

 

何でこんなことになったのか考えたけど、それはブログ主が「この作品はこうあるべきだ」みたいな発想から読解をスタートさせてしまっているからだと思った。読解するべき細部を見ないで自分の中のストーリーに当てはめて物語解釈を作ってしまった。それって「元国語教師」としてはどうなんだろうと思ったし世の中の読解屋さんがこんな雑仕事してると思われたくないからこの記事書いた。読解は正解不正解に一喜一憂するんじゃなくて、物語の細部を分析することがキモだと思うんだけど、どうなんだろう。


野暮中の野暮案件

Q人間が成長するとは、具体的に何がどのようになることでしょうか。

知らん。何で「成長する」っていう抽象的な問いに具体的に答えなきゃならんのだ。せめて「アニメ映画魔女の宅急便という作品を通して」とかしなくちゃ答えらんないのに。

 

正解不正解はありません。自分なりの解を持った上でこれから読み進めていただきたいです

これ、本当に国語の教員のセリフかな? 例えば「魔女の宅急便を見て何故ジジは話さなくなったのか、あなたの考えを書きなさい」という設問なら全然問題ないわけなんだけど、これは問いを与える側が前述の通り抽象的な話を具体化しろと無茶ぶりをした挙句「正解は、ありません。あなたは明日から自分なりの答えです」と小須田部長の原田くんみたいな返しをしてくるんだから読んでる方は「なんなんだよ!」となるわけで。


あと全体的に言葉遣いなどから「本当に高校の現文教えてた?」という印象が強い。この調子でセンター対策とか出来たのだろうか。実際に授業を行ったのなら、視聴時間もあるし何コマくらい使ったのだろうとか、「悲しい気持ち」「大人の誰もが」「トンボとの恋愛」あたりから想定するのは小学校高学年か中学生向けの授業なのだけれど……高校と言ってもいろんな高校あるけど。ここから先は本気で野暮なので書かない。


以上、野暮終わり。寝る、おやすみ。

*1:原作では恋をして魔力が減るという話になっているみたいですが、ここの話はアニメ映画限定の話としておいてほしいです。