さよならドルバッキー

この世の裏を知ったドルバッキーは世を儚んだ。

知らないことについて考えてみた

 書くと言っていたので思いついたことを書きます。

 

togetter.com

 

〇内容自体はよくある昔のガジェットを知らない若者に驚く類いのまとめなんですが、後半にいくと知らないことを知らない若者というか現代の風潮という側面があると思う。

 

〇フイルムを知らない子供の是非は置いておくとして、実際に十年前くらいのガジェットを全く知らない若者というのは意外といる。「若者を馬鹿にするな!」というのはそうなんだけど、彼らは「知らなかったです、勉強になりますね、へえー」という態度ではなく何故か「知らないに決まっているし、これからもきっと関わりのないことなんでしょう」という感じになりやすい。これはどういうことなんだろう。

 

〇これはジェネレーションギャップというより、文化資本の格差の問題に近いのではないかと思う。「知る機会の有無が興味の幅を狭める」ってことが端的に見えるのが上のまとめなのではないだろうか。

 

〇例えば十年前の携帯電話事情にしぼって考えると、そういった昔の出来事は当時を生きた人から聞くのが一般的だ。「お父さんの若い頃はダイヤルアップ接続がな」「昔は携帯電話のメールは200文字までだったのよ、他社に絵文字を送れなくてね」みたいな話は、大体親や年の離れた兄弟やその他親戚などから聞くのが多いのではないだろうか。また当時に出版された書籍や映像作品などを見ていれば知識として蓄積されることもあるだろう。

 

〇ところがまとめに出てきた若手は家庭用の固定電話についても想像が及んでいないようだった。ドラえもんちびまる子ちゃんなどで家庭用の電話の存在を認識できていなかったのだろうか。その辺を考えるとこの若手の実在が怪しいみたいな話になるけど、とりあえず若手が「何も知らない」ということを前提に話を進めていく。

 

〇まぁ確かに世の中を見渡せばポケットベルもサービスを終了するしガラケーを持っている人だってあまりいなくなってきたしワープロって何ですかって感じだ。それらの存在を10代の子が「知らない見たことない」っていうのはわかる。しかし話の中に出てくる若手はおそらく教員として就職しているのでそれ相応の年齢であるはず。その辺から考えると、物事を知っているか知らないかには生まれた世代の他に個人の興味の幅が大きく関わってくると考える。

 

〇ここで先ほどの十年前の携帯電話事情に戻る。十年前のことを知ろうにも、まず身近な大人が昔話をする余裕がなければ昔のことを知ろうともしない。そして書物に興味がなければ知識を蓄えようと思わない。テレビを見ていても自分事として見ないので固定電話のような細かいところは全く見ていない。勉強は丸暗記でなんとかやり過ごして、知識を知識として活用しないままに来てしまったのかもしれない。

 

〇他にも学校で「昔」を教えると戦後まもなくくらいで終わっているのもこういった事態を引き起こしているのかもしれない。同時多発テロ事件からもう20年近く経っていて、あの映像を生放送で見ていない世代も増えてきた。あれは全世界にあのショッキングな映像が同時に放映されたということもひとつの衝撃的な出来事だったということも含めて語ることが重要だと思うけど、学校でそこまで教えることは難しいと思う。

 

〇現代は何でもグーグルに聞けばわかることも多いけれど、そもそも検索窓にワードを入れることができなければ何も得ることはできない。それに「大人が勝手に昔話をしてくれる」「テレビで昔のことを当たり前のように放映している」など受動的に情報を得ることができなければ、まとめの若手のような人が現れてもおかしくないとは思う。「ものを知らなすぎでしょう」と思うかもしれないが、知らない人からすれば「そんなことを暗記して何が楽しいの」となってしまう。

 

〇ちなみにこの文章を書いている人は中学生に「昔のゲームは白黒だったの?それの何が面白かったの?」と真面目に言われたことがある。煽ってるわけではなく、本心で言っているんだと思う。ただ彼の中に圧倒的に他者の存在や過去という軸が存在していなかっただけだと思う。思いたい。

 

〇ここから先に行くと話がずれていくけど、そういう人は時間の感覚の中に過去が存在していないような気がする。「ここをこうしたからこういう結果になった」というところの結果しか見ずに過程をないがしろにしている感じ。そういう感覚はどうやって養うんだろう。難しいな。そういうのプログラミング教育でなんとかなりませんかね。

 

〇めちゃくちゃとりとめがない文章になってしまった。過去がない。現在もない。今は未来しか見ない。