あのにますトライバル

君の気持ちは君の中でだけ育てていけ。

教育現場とオンラインの雑感

何となく思ったことを書いてみる。

 

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結論を先に言うなら、まあ自分の世界しか人は見たくないよねとは思う。敢えて外の世界の慣習に従って消耗するのも健康面ではちっともよくないと思うのでその辺がごちゃごちゃになる地域とか公立校っていうのはある意味価値観の波をかきわけて行かなきゃならない大変なところだと思う。


本題の前に、最近実家が町内会の持ち回り班長になった話でも。年度末なんでそろそろ引継ぎとかあるのかしらと思っていたらギリギリの日に名簿や資料がやってくる。しかも謎の変更箇所やなんやかんやがあって前の班長に確認したところ「最初からそうだった」ということらしい。なんか気がついたら昔の名簿がいつの間にか紛失していた模様。何で無くなったのかは不明。まあ、いろいろあったから仕方ない。


でね、そんなことを聞きながら思ったのよ。「そんなん共有のUSBメモリかなんか買ってExcelにちゃちゃっと書いといておけば変更点も記録できるし、帳簿なんかも一緒にできるからでっかい箱要らないしペーパーレスだし助かるじゃん」と。そうなれば回すのはUSBメモリと領収書綴りくらいじゃん、いいじゃん、と。


そんなことをとーちゃんに言ったら「そりゃそうだけど、まずうちのかーちゃんがパニックになるべ」と。うちのかーちゃんはやっとスマホは持ったけどPCなどの嫌悪感はかなり半端ないので「ゆーえすびー」という単語を聞いただけで脳がフリーズしかねない。なおLINEは怪しんで使わず、キャリアメールとショートメールと電話とスマートニュースと画像共有アプリで全てが完結する世界に生きている。たまにクックパッドや乗換案内アプリを使って「すごいすごい!できた!」と騒ぐような、そういう世界だ。一応かーちゃん擁護をしておくと、若い頃事務仕事やバイトで鍛えたラッピングや経理の仕事はかなりきちんとこなすし、今も仕事の最前線で活躍している。ただかーちゃんの仕事にPCは必要ない、それだけだ。


それに地方の町内会なんて高齢化がめちゃくちゃ激しいところに一家に1台PCがあるとも思えないし、そもそも全体的に「こーんなちっこいのに名簿とか入るんけ?いやー最近のにはついていけねえべ」っていう話であり、下手に「最新技術」を導入すると何が起こるかまるでわからない。それに大多数が賛成して名簿のデータ化を了承したとして、「ついていけねえべ」という人は絶対いるし、そういう人は疎外感を覚えてしまうだろう。そもそも足が弱って外出が難しい独居老人が多発してて班長が無理な世帯も増えている。空き家も町内にちらほら見られる。そもそもが大丈夫なのか不安だらけだ。


本題に入ると、ツイート通りの会話があったことを前提に考えると「PDFを共有」という言葉がまず良くないと思う。わからない人からしたらいきなり専門用語をまくし立てられても意味がわからない。「ネット上で広報誌の原稿を回し読みできるようにしておくからタップして確認してね」あたりから入った方がいいと思う。


ただ、人というのは自分が知らないことは知らないし、人がわからないことに気づくのも本当に難しい。だからイチから何かをプレゼンするときは「本当に知らない」のカテゴリをかなり低く設定する必要があるし、そこの説明を面倒くさがってはならない。


逆の立場になって考えてみよう。「この増田はメタブも4階までやってるしうんちもついてるしパンティー改変もある」と言われて即座に内容が想像できる人はその道の人であるが、大抵の人は意味がわからないだろう。PDFにも同じことが言えて、意味がわからない人にとってはPDFがパンティーに見えている。だからパンティーではなく「この匿名の記事はコメント欄が非常に荒れていて茶々を入れている返信もある」と書かなければならない。はてな匿名ダイアリーとかうんちとかパンティーの意味を説明するのではなく、わからない人にもわかる言葉に置き換えていくのが一番はやい。用語の説明は後からでもできる。


あと気になったのが「お菓子でも食べながら」の部分。以前の問題もあるのである程度差っ引いて考えるべき発言だと思うんだけど、要は「校正のために集まる」のではなく「集まるから校正する」になってる人がいるってことなんだと思う。つまり目的がバラバラなわけで、これでは組織がまとまらない。もう少し双方が歩み寄れるような施策が望まれる。


ついでにオンライン授業の話になると、今のような非常事態のことはさておき、100%の導入は本当に難しいと思う。ネット環境の有無に関わらずそもそも「授業」が受けられない子も多い。教科書開けない、ノート書けない、話を聞けない、家で勉強するとすぐ気が散って遊び始める……オンリーオンライン授業ではそういう子が可視化できなくなる危険性がある。「教科書開くくらいできるだろバカにすんな」と思う人もいるかもしれないけど、国語の時間に算数の教科書を準備していたり指示を聴き逃してずっと動けなかったりする子は割といるし、書き取りもできない子は本当にできない。学習障害から来る文字の識別の出来なさとはまた別の困難さを持っている子もいる。親が気がつくことが出来て支援に繋げられればよいのだが、大抵はそうそう上手くいかない。結局オンライン授業の100%導入はかなり厳しいと感じている。対面で様子を見ながら授業というのはそういう意味で効率が良いのである。


ちなみに「小学生もみんなスマホタブレット使いこなしてるから大丈夫」という意見には賛同できない。彼らが使いこなしてるのはゲームや動画閲覧アプリであって、全員が高度な学習のためのアプリや全世界に開かれたSNSを利用して学習しているとは思えない(もちろんモチベーション高い子はやっているだろうが)。「使える」と「使いこなす」と「使用して学習する」にはかなり大きな意識の差が存在することは覚えていて欲しいと思う。そこも踏まえての施策が必要なのだけど、誰がそれをやるのかというところまで考えているのかは気になるところ。


個人的に「オンライン授業くらいできるだろ」と言う人は「オンライン授業に困難を見出す層を想定できない」のだと思っている。そして教育の現場ではどちらかというと困難な家庭を相手にすることが多い。ここでギャップが生じていく。「あいつらロートルだ、知的怠惰だ」とバカにする層がある一方で「あいつらインテリぶってバカにしやがって面白くねえ」と感じる層もある。そこをうまく調整するのが「政治」なんだけど、まぁ難しいよね。面倒くせぇ。


まとめると「公立校でのオンライン授業導入やネット上での仕事の管理」はある程度政治力のある人がやらないと厳しいというところだろうか。自分の当たり前は他人の非常識なわけよ。目の前の他人は自転車に乗れないかもしれないし、津波で家族を亡くしてるかもしれない。「PDFは常識!オンライン授業しないのは時代遅れ!」というのは非常に危うい考えだと思う。最後に伝説の「ソニーiPhone」の記事を貼っておくので納得できない人はソニーiPhoneをどうやったら説得できるか考えてみるといいと思いました。おしまい。

 

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