さよならドルバッキー

この世の裏を知ったドルバッキーは世を儚んだ。

牛乳石鹸について再考

〇再度考えるほどのものでもないと思うけど、話がヘンな方に転がっているのでちょっと。

 

〇「男性は弱音を吐いてはいけないのか」という論点というかそこの議論に至るまでが非常にナンセンスだと思う。もともと「女性だから」「男性だから」ではなく辛い人がいたら「辛いね」で処理しなくてはいけないところを性別を理由に処理されているのが問題と言うわけで、牛乳石鹸のCMからはおそらくそのようなことも言いたかったのかもしれないけれど説明不足すぎて言いたいことがボケてしまっている。だからこの辺をあーだこーだやるのは藁人形にごっすんごっすん5寸釘レベルの場外乱闘だと思う。知らないわそんな論点。あなたとは違うんです

 

〇あと、この作品が映像作品として優れていようが何だろうが「大まかなテーマ」がボケている時点で演出が良かろうが役者の演技がよかろうが全てが失敗していると言ってもいいと思う。この作品だけでは「親子の絆」は読み取れない。ただの「男の葛藤」でしかない。理由は前回も言った通り、肝心の子供の姿がほとんど映っていないから。これは親子の問題ではなく、男が自分自身を慰めているだけだ。個人的に「ケーキ買ってきて」「プレゼント買って」「何で遅くなったの?」を直接子供に言わせれば少しはテーマ性が出たと思うんだけど、対峙するのが子どもでなくて妻の時点で「父親」ではなく「夫」としてしか描かれていない。そして「夫」と「父親」はまた別の役割なわけで、そこで著しくテーマがぼやけてしまった。なにより牛乳石鹸のアピールにはなりにくい。そういうわけでこの視点を欠いて評価することは避けておきたい所存である。

 

〇つーかあのブログ発祥の時点でアウトだと思う。以前も書いたけど、あのブログの人はひどく恣意的な読み方をしてアクセスを稼ぐ人なので見ない触れない近寄らないを徹底しないといけないと思う。極論を言って耳目を集める人を盲目的に信じて救われた気になって苦しんでいる人の心に耳を傾けない人がいるということを忘れずに生きていきたい。

 

〇漠然とした救いの話になるんだけど、救われたい人っていうのは「救われたい」と思う時点で結構救われているんじゃないかと思う。結構世の中には客観的に「この人は救ってあげないとダメな奴だ」っていう人がいるけど、彼らは一切救いを求めていない。救いというものが何だかわからないし、例え救いがあったとしても現状維持を変えることのほうが彼らにとって脅威でしかない。信じられないかもしれないけれど、世の中には過保護のカホコみたいに毎朝お母さんに洋服を選んでもらわないと生活できないような人が結構いて、それが母親だったり配偶者だったり親や子供だったりするわけ。「旦那が言うので何とかかんとか」「でも子供(既に高校生くらい)のことを考えるとうんたらどうたら」と言って自分で意思決定ができない人にとってこういった「救い」は非常に恐ろしい物なんだと思う。

 

〇自分自身の体験だけど、とある人に優しくしたことで「神様」になったことがある。すると一挙手一投足を真似して、「神様のすることだから正しい」と何でも賞賛されるわけ。最終的に「これは相手のためにもならないし、自分の精神衛生上よくない」と距離を置くようになったわけですが、これに近いことというかもっとひどいことをやっている人は意外と多いんだなということを最近感じている。思うに、神様と支配は紙一重で神様呼ばわりしているうちに調子に乗って相手を支配していたり支配されることに生きがいを見出すようになっていないか、ということに我々はもっと敏感になってもいいんじゃないかと思う。牛乳石鹸のCMの主人公は自分自身のことではなく、在りし日の父に「救い」を求めたんじゃないか。だけど、他人から与えられる救いなんていうものは一瞬しか続かない。最終的に救われなくちゃいけないのは、自分自身の力で救われたいと行動したときだけだと思う。

 

〇神様は心の中にいるって小学生の時プロテスタントの人から聞いたことがある。基本的に日本的宗教観を持っている自分にもこの考え方はスーッと心に響いた。神様は自分の心の中にいるから、心の中にいる神様を大切にしなくてはいけない、みたいな。つまりそういう自尊心を「神様」って呼んでいるんだろうなと今では解釈している。結局、自尊心が一番大事ってことだと思う。自分自身を大切にできないで他人を守るなんてできないから。

 

性教育もそうだけど、ジェンダーについて考える前にまずは自尊心を適切に養うことができる環境を作る方が大事だと思っている。優しくされたことがないと他人に優しくすることもできなくなるから、みんな優しくできればいいのになぁ、と思う。痛みを知らない子供が嫌い。心をなくした大人が嫌い。優しい漫画が好き。バイバイ。