さよならドルバッキー

この世の裏を知ったドルバッキーは世を儚んだ。

最近の教育に関する雑感

 数日前からわかる人はわかると思うのですが、かなり荒ぶってます。

 

www3.nhk.or.jp

 

 もうさ、事件の続報聞くだけで呆れる。意味がわからない。この辺の事情が分からない人のために別の職業に当てはめてこの学校のやったミスを表現するなら、「スーパーの店員が陳列棚に物をメチャクチャにぶち込んだり客に向かって放り投げてよこした結果商品が壊れる」レベルのいい加減な対応なんだよ。「たかだか行き違いで」とか「人間なんだから間違う」とか、そういうレベルを超えてヤバイ案件。ヒューマンエラーなんてもんじゃない。完全に人災だと思う。生徒が自殺していなくても、全国で報道されるくらいひどい不祥事。

 

 何がひどいって、進路指導っていうのはそれこそ生徒の一生を決める大事な指導だから、ミスがないように細心の注意を払って進めるもの。学校のミスで進学できるものが出来ませんでした、なんて言ったら裁判沙汰もあり得るところ。通常であれば面談の時間を設けて生徒と教員が一対一で話をするのが基本。そういう特別な空間を作ることで生徒も自分自身の大事な話なんだ、ということを意識することが出来る。教員もきちんとメモを取って、前回と今回で希望が変わっていないかを確認することが必要だ。

 

 いわば進路指導っていうのは生徒のニーズに合わせて教員が選択肢を提示するのが一般的なもの。「こういう進路を望んでいます」と生徒が言うのに対して教員が「それならこういう学校や会社がありますよ」と提示したり「それならもう少し勉強をする必要がある」「こんな本を読んだりあの人に会うといい」と指示をすることが大前提。そういう情報を重ねることで生徒は進路を意識して、自分に合った選択をするというのが大体の理想。そして大まかな流れは大体の学校でやってるはずです。

 

 最初にこの報道を聞いたときに自分のイメージした「面談」は上記のとおりのものだったので、何故生徒が反論しなかったのかがわからなかったのですが、続報で「廊下で立話をしたのが面談」ということを聞いて「わけがわからないよ」状態になりました。

 

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 まず一番良くないと思ったのが、他の生徒が介入できる場所でプライベートなことを話させることです。生徒によっては「貧乏だから私立には行けない」「親と意見が対立している」など人には言いにくい悩みを持っていることがあります。そこで教員は「あなたの悩みは個人的なものとして共有する」という立場で個々に解決にあたるわけで、そこで信頼関係が生まれる。だけど今回の学校の「面談」はどう見ても「ちょっとした隙間時間の有効活用」でしかない。これでは生徒全体も自分の悩みを整理できないし、当該生徒も「自分の進路に関わる話題」とわかっていればはっきり否定をしたと思う。

 

教員の指導法を巡る学校内のトラブルに詳しい広島大学の吉中信人教授は「ありえない事態で、あぜんとしたというのが第一印象だ。学校組織の中で生徒に対する情報の共有化、確認作業が十分できなかったことを想像させる出来事だ」と述べました。
そのうえで「思春期の子どもは本当は自分がやっていなくても言い出せなかったり、ほかの子のことを考えたら自分から言えないこともあると思うので、教師は裏付けを取る作業をしないといけない。また、過去の過ちがあったとしても、直ちに進路を閉ざすのは機械的、短絡的な進路指導で大きな間違いだ」と述べ、学校はもっと丁寧な進路指導を行うべきだと指摘しました。

中3生徒自殺 面談は「立ち話」 書類記録残さず NHKニュース

 

 そもそも「万引きがありましたね」という声かけがひどい。いきなり生徒を犯人扱いしている。「一年の時、先生に怒られたことはある?」とかもっとソフトな聞き方をしないと大抵「は?」という返答になると思う。多分いきなり知らない容疑をかけられて当該生徒も混乱したと思う。そこで答えた曖昧な返答を「万引きがあった」と確定して話が進むのが上の吉中教授の指摘通り、かなりおかしい。そして現行犯でない限り「万引きをしましたね」なんて言って素直に認めるような子は大体万引きなどしない。曖昧な返答を「是」にしたこともかなりよくわからない。

 

 正常な過程をたどるなら、まずは生徒に確認ではなく当時の万引き事案を指導した担当に話を聞きに行くべきところだ。そうでなくても学年主任や1年から担任を持っていた教員なら事情を知っているだろう。職員室で「えっこの子が万引きしたんですか?」と話題にすれば「いや、それは間違いだ」ってすぐに誰かから訂正が入るはず、なんだけど……。

 

学年主任が万引きをしたという誤った資料に基づいて、11月30日までに確認をするよう担任に指示を出していたということです。

中3生徒自殺 担任と5回の面談 その内容は NHKニュース

 

 学年主任! (もう何も言えねえ)

 

 多分生徒と教員の信頼関係以前に、学校の組織としての運営がかなり厳しいものになっていたんじゃないかって思ってる。「毎年そのつど検討」ってなんだよ。基準がコロコロ変わるものを信じろって言うほうが無理だ。

 

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 どうにも少し調べるとこの中学校自体の治安がかなり悪いものらしく、SNSが全盛期になる直前の裏サイト的な掲示板に「あそこは荒れているから」という表記が目立つ。教員もそっちの対応で忙しかったんだろうとは思う。だけど、だからと言って上記のようなミスとも何ともつかない対応をしていいわけではない。ここまで杜撰な取扱いをしていたら商品が壊れてしまうのは明確だったはずだ。

 

 せめて進路を決める大事な話題だったら、落ち着いた場所で生徒の話を聞いてあげて欲しかった。学年主任も担任も当時の資料をもう一度洗いなおせば、すぐ誤記であったことに気が付いたはずだ。すぐに「推薦は出せない」ではなく、何度か空白の話し合いを設けて事実関係を明確にしてからでも、推薦の可否は出せたはずだ。学年団の連携はできていなかったのか? 進路指導部の役割は機能していたのか? これらが機能していなくて死んだ組織が稼働していたことによるエラーだとしたら、何ともやりきれない。

 

 それから少し殴っておく。

 

nemurenai-same.hatenadiary.jp

 

 気持ちはわかるよ。連日、自殺報道をしまくる方がどうかと思っているし、そう考えるのもわかる。だけどさ、根本的に「そんなことで死ぬな」っていうのはやっぱり傲慢なんだよ。

 

 今回の件は完全に学校の組織としての運営の不手際で、この文章を書いている人は当該生徒が自殺をしなくても全国ニュースで取り上げるレベルの不祥事だと思っている。それを「そんなこと」って思うのは、やっぱり違う。この事件は知れば知るほど闇が深くて、とても「短絡的」な理由で死を選ぶとは思えない。何かもっともっと深い闇があると思う。親にも先生にも信じてもらえないで急に「万引き犯」の汚名を被せられたとしたら、絶望もするだろう。それを「短絡的」と言うのは、完全に個人の価値観だ。

 

  「そんなことで死ぬなよ」というのは簡単だ。だけど、死ぬほど辛い目に合っている人に対してカジュアルに言っていい言葉でもない。自死を考えるということは、他に逃げ場がないということだ。逃げ場がない人に「逃げるな」というのはかなりきっかけを与える言葉になる。真剣に悩んでいるのに「そんなことで悩むとかバカらしい」なんて言われた日には、もうこれは死ぬしかない。

 

 今ブログ主は自分の言いたいことが伝わらなくてブコメに殴られまくってて辛い思いをしていると思う。だけど自分も炎上は何度かしているし「頭が悪い」「死んだ方がいい」「愚かな魂は救われない」「人の気持ちの分からない差別主義者」とまで罵られたこともある。そんな自分からすればそのブログ主の辛い気持ちこそ「そんなこと」以上のなにものでもない。そんなことで弱音を吐くなよ! 

 

 そういうわけで「そんなことで死ぬな」というのは死にたがっている人に対して絶対かけるべき言葉ではない。自死した当人には絶対「そんなこと」レベルのものではないのだから。どんなに良い事を言っていても、その一言で全部「こいつわかってねえなあ」って印象になる。せめて「何があっても死ぬな!」にすればまだ救われたと思っている。

 

子供たちがなぜ、そんなにも短絡的に

自分の命を投げ打ってしまうのかの方が

直接的な学校のミスよりも

はるかに大きな問題だと私は思う。

 

 なんで言及しているかって言うと、このワードが自分の危惧していたことそのまんま書いてあったから。「自殺」というセンセーショナルなところばかりに注目がいって、肝心の学校の運営体制の追求がなぁなぁになる可能性があると思っていた矢先の記事だったわけです。校長が「命は大切です、どんなことがあっても絶対自殺してはいけません」なんて生徒に話して、それでおしまいになったらどんなに当該生徒は浮かばれないことか。

 

 確かに自殺はよくないことだ。それは覆ることのない真理なんだけど、そっちをメインに考えたらこの手の事件は絶対また起こる。「そんなことで傷つくな死ぬな」と言っても人は傷つくし、死ぬ。傷つかない人間なんて存在しないし、死なない人間だっていない。そしてそこを逆手にとって「君は死んではいけないし私から逃れてはいけない。私以外の人間の言うことを聞いたら死ぬよ」と暗示をかけてわざと苦しい思いをさせる人もいる。これはブラック企業系の新人研修の理論です。

 

 死にたがっている人間に対してかける言葉に、正解はない。「こう声をかければ死なないってネットに書いてありました」なんて感じで声をかけられた日にはもう死にたいよね。ただ、死にたいと言う気持ちを今回の事件のようにロクに話も聞かずに否定するのはやめてほしい。死にたい人は死にたいと思っているから死にたいのであって、もう生きることなんて視野に入っていないからこそ「生きていればいいことあるぞ」って選択肢を与えるしかない。何でもそうなんだけど、選択肢がないということは苦痛につながるので「死ぬな」ではなく「死ぬと生きるの、どっちがいい?」と選ばせることが大事になる。

 

 できれば短絡的に「生きろ」ではなく「布団に入って寝ようぜ」とか「今度出来たうまいラーメン屋に行こう」とか「こち亀の最終回を見届けようぜ」とか、そういう具体的な何かがいい。そうやって人生は廻っている。辛いことがあっても、楽しいことを目標に生きていけば何とかなる。特に小さい子供たちにはそういう小さな喜びと成功体験が「いのちの授業」とやらより何倍も大切だと思っている。ただ人の話を聞いただけじゃわからないのです。「生きててよかった」って思ってもらわないと。

 

 だから今回の事件でもそうなんだけど、まずしなくちゃいけないのは信頼関係をもう一度築くこと。子供が言うことを聞かないのは、親が子供を信頼していないからかもしれない。学校と子供と親の意見、全部違うのはどこかで誰かが嘘をついているからかもしれない。そしてできれば子供の嘘には寛大に、大人の嘘には真剣に向き合っていきたい。

 

 自分は命なんてどうでもいいと思っている。人の生き死にに関してアレコレ理想を並べたり「誰かの命を救おう」なんて、そんな考えで日々を過ごしているとしたら傲慢だ。ただ目の前にいる人を大事にしていきたい。その気持ちがあれば十分なんじゃないかと思っている。だからこそ、どう見ても目の前の生徒を大切にしなかった学校に不信しかないのです。以上。