あのにますトライバル

君の気持ちは君の中でだけ育てていけ。

そこつはてな長屋

文章を書くって何なんだろうな。しかもそれをネットに流して、一体私たちは何をしたかったんだろうな。そんな話です。昼飯食ったあとで眠い状態でガーッと書いているので寝ぼけています。でも多分ちゃんと書こうと思うと一生公開できない自信があるのでこのまま行きます。すんげーふわふわしてます。すみません。

 

p-shirokuma.hatenadiary.com

 

【他人などわからん】

シロクマ先生の記事の中に「シャチやホオジロザメ」という表現があったのでそこを起点にするのですが、個人的にそんなものの実態は無いんじゃないのかって思ってるんです。Twitterでフォロワー何万というやべぇアカウントも、中身はただのおっさんとか大人気企業アカウントもやらかしたら一瞬で灰にされる世界では「何か影響力が強そうなもの」というものでも安定して権力を得ているものはなくて、フォロワーという砂上の楼閣に成り立っている不安定なものなんじゃないかなーと思っているのです。


それとは逆に、ローマの休日よろしくどこぞの国のお姫様が「刀剣乱舞最高!」と言いながら一番くじの転売に怒っているかもしれないし、政治家の公式アカウントを持ちながら非公式で趣味のラーメン批評アカウントでのほほんとラーメン食べてる人もいるかもしれない。こんな感じでネットに文章を書く、何かを発信するって言うのは大変自由なことだし自分自身と合致していれば非常に楽しいのだけど、裏返すと「自由になれない人には非常に不自由な世界」なのだと思う。

 

anond.hatelabo.jp

 

先日こんな増田があったのだけど、実はこのブログ、ほぼ毎回「こんな内容の記事を書くよ、気に入らない奴はブコメすんなコメントすんな、反論があるならブログでやれコルァ」みたいな文言を載せている。何故かと言うと、本当にそんな感じのコメントが多いからです。「俺はこう思うのにこいつはそんなふうに思わないからバカなんだろうな」とか「私の知ってるあのことをこんなふうに感じるなんてなんて野蛮な人なんでしょう」みたいなコメント、マジであるんだよ。それが事実レベルの話ではなく、完全に感想レベルの話なのね。「桃太郎は鬼にやっつけられた」という話をしていれば「それは違う」と言われても仕方ないけど、「桃太郎に出てくる雉は可愛いよね」と言って「は?桃太郎は猿が一番に決まってんだろ寝言は死んでから言え」みたいな感じ。そんなん知らんがな。「私は猿が好き!」でいいのに、なんでおいらをそんなに攻撃するのかと不思議で不思議でたまらないんだけど、多分その人からすれば「私は雉が好き」という言葉が既に攻撃に感じるものであり、正当性を感じてコメントしているんだろうと思う。おでんはつみれが一番好き、寿司ははまちといくら。よろしく頼むぜ。


そんでさあ、結局書き手と読み手っていうのは一種の共犯関係にあって、読み手がいるから書き手がいるし、書き手がいるから読み手が発生する。読み手が攻撃しようと思って書き手を攻撃すれば書き手は萎縮するし、書き手が意図せず攻撃する文面を載せれば読み手はメロスになる。そんな不毛なやりとりがインターネットっていう世界になったんじゃないかなって思う。


そういう価値観でいうとさ、はてな村っていうシステムを復活させたところですげー微妙だと思うんだよね。多分それはある種の人には救いになるけど、ある種の人には禁断の麻薬になる。自分の頭で考えた結果、みんなと一緒になれて幸せ。それっていわゆる反ワクとか陰謀論とかそういう奴だと思うんだよね。ネットを離れると新興宗教の二世問題みたいなもんになってしまう。


人間っていうのはやっぱり「何者かになりたい」って思うものだから、何者かになったところで何者かになり続けないとあっという間に人は忘れるし、ブログ飯とかそういうのが滅んでいったのは彼らが「何者かになり続けられなかったから」というのが最近の思うところ。年のせいで書けなくなったとか興味の持続がなくなって書けなくなった、というのは正しくて、ただその文章を書くだけの自我が保てなくなっただけなんじゃないかと思う。環境のせいもあるだろうけど、やっぱり一番は己だし、己と向き合うのにはやっぱり己だけで研磨しなくちゃいけないんだけどそんなジャンプでも流行らない孤独で地味な修行を誰がやるんだって思う。


要はこんなことはコスパもタイパも最悪なんだ。誰に向かって書いているかもわからない、己のためと言えばそうかもしれないけどこんなもん書いているなら多分水星の魔女でも見てた方が精神的なコスパはいいんだろうと思う。

 

【己もわからん】

話をちょっと変えてみようか。
そういえばちょいとアタイの話をきいとくれよ。
ところであんたがた、アタイを誰だと思ってんのさ?
言葉を紡いでいる人が誠実であった試しなんてないだろうさ。
こうやってフォロワーを増やしました!という人が月末まであと3000円でどうやって暮らそうかみたいな生活をしているかもしれないし、タワマン文学とか言って自虐的な創作をしている人は広大な戸建ての陽の当たるテラスとかで書いてるかもしれない。


実はこうやって書いている自分自身が一番言葉というものに対して懐疑的というか、結局対面とか肉体とかいうものには言葉は敵わない面があるよなあと思ってて、こうやって文章を書いているあんたは一体誰なのさと言われたら「いや、わっかんねえな」としか言いようがない。まあ、文章で「読んで読んでー」と書くわけなので多少は「他人に認められてえな」という気持ちがないわけではないし、褒められると嬉しい。だけど「読ませるね」とか言われても「いやあ、俺の本質を褒められたわけじゃないしなあ」と思ってしまう。じゃあお前の本質ってなんなんだよって言われると、やっぱり「わっかんねえな」って思う。自分が出来るのは話題の提供であって、自分自身を褒められたいかどうかっていうのは何番目も後の話なんだろうなと思う。


まー、それで思うんだけどさ。


「ネットで文章書いてどうのこうの」っていう人って、リアルでもある程度自分に自信があるというか、ある程度揺るがない地位がある人が多いよなと思う。それかリアルを切り売りしている人。で、さっきも言ったんだけど「文章を書く軸になる自分」がうつり変わったら文章は書けないんじゃね、みたいな話の延長で「文章を書く軸がなかったら存在を許されないのでは?」みたいな焦燥もあるよねっていう感じ。「個人の感想です」の話題で登場する「俺と意見が違うじゃねえか」みたいな人っていうのはそういう「自分の感想を自信をもって発信できない人」なんじゃないかなーとは思っている。そんな人もいてもいいインターネット。シャチの皮を被ったイワシがいてもいいし、ネットネズミをやってるライオンがいてもいいし、彼らはシャチでありネズミである。なんていうか、ネットとリアルの乖離がある意味進んでいる気がする。じゃあここいらで考えなきゃいけないのはネット空間の言説じゃなくて、リアルの体と私の関係性なんじゃね?と高校の現代文みたいな結論をここいらでおいておく。もうすぐ午後の活動時間になっちまう。多分夕方には記事が上げられる、と思う。多分ごちゃごちゃして何が言いたいのかところどころ自分でもよくわかってないんだけど、いいやもう。これは俺のブログだ。てめえの作文でもあんたの頭ん中でもない。紛れもないこの文章書いている奴の思考の整理なんだから。多分文章を書く上で一番大事なのはこの精神だと思う。他人なんか知らねーよばーかばーか。俺は俺の書きたいことを書くだけだ!他者とか井戸とかの前にまずは「何が書きたいか」じゃないかなあ。鏡で自分の顔を見てみようよ。


一回おわり。続かないとは思う。