なんかお笑いの話で笑えないと言うのが盛り上がっているのですが、PCも大事だけど「笑い」というものそのものについての問題提起でもある気がしたので少しだけ。よくまとまっていないので誰か続きを書いてくれると嬉しい。
最近では「涙活」「笑活」なんて何でも揚げりゃいいってもんじゃないよって思うようなことが増えました。それって感情のアウトプットまで外部委託しないといけなくなったんじゃないかなあと思うのです。つまり自分の感情を見失っていて、「これって泣いていいんだよね」「笑っていいんだよね」と確認し合って、それで周囲の合意を得たうえでカタルシスを得ると言う何だか変な話になってくるなあと思うのです。
泣くことに関してケチをつける人はそれほどいないけれど(「こんな低レベルな映画で泣けるとは」なんて言う人もいるけどね)、笑うことに関してはかなりケチがつけやすい。「この笑いが理解できないとは(笑)」という見方もあれば「こんなのを笑っていて情けない(笑)」という見方もあり、もうそこまで含めて「笑う」という感情がこもっている。
実は「笑う」という感情ひとつとってもさまざまなニュアンスがあって、赤ちゃんが初めてつかまり立ちができたときの笑いと上島竜平が「押すなよ!」と言っているにも関わらず熱湯風呂に落とされたときの笑いでは感情の方向が全く違う。また臨時収入で不意に3万円ほどもらったときもどうしようもない借金で首が回らないときも「笑い」が生じる。それを「笑い」という同一言語で表現しているから今回のようなことになったのかなぁと思います。
常に話題にはコンテクストが付与されています。上島竜平の例を挙げると、まず彼が「リアクション芸人」という属性を持っていることを知っていることが大前提になります。さらに「押すなよ!」と言いながら「押してくれ」と言わんばかりの体勢をとり、言っていることと行動が違うと言うギャップでおかしみを表現し、更に実際に熱湯風呂に落とされた時に大げさな表現をするというところまで含めての「笑い」が生じます。ここで「リアクション芸人」というコンテクストを共有できない人には肥後とジモンが竜平をいじめているようにしか見えない。そして「これの何がおもしろいの?」となる。
これと逆の現象が「日本エレキテル連合」の「ダメよ~ダメダメ」だと思っている。「ダメよ~ダメダメ」のコントを見ると、朱美ちゃんは壊れたダッチワイフで彼女を抱こうとしている男とのズレっぷりを楽しむというブラックジョークとしか言いようのないものだ。正直このコントで笑ってしまうとどこかに後ろめたいものを感じてしまう。特に「仮出所妻さゆりちゃん」のほうはそのリアルなアクティブさが更に面白さを出している。だけど、おそらく「ダッチワイフ」というコンテクストがなくても「ダメよ~ダメダメ」という強烈なリフレインだけで面白さが出てしまい、流行語にまで選ばれてしまった。コンテクストの欠落が純粋な笑いにつながったのだと思う。
で、例の件の個人的な見解は「コンテクストが共有できなかった」「別のコンテクストを採用した結果、笑いではない感情が発生した」というものだと思うのです。つまりはコンテクストの取り違えですね。大勢に向けて発信する人はコンテクストを明確にしておいてもらいたいし、受けてもなるべくコンテクストを理解してほしい。「ああ、これはこの文脈なんだ」と一人一人が理解できれば発信する方も楽なんだろうけど、現実は全くそんな風には出来ていないどころか、明確なコンテクストも理解しないで取り違える人が「このアレは間違っている!」と突っかかってくる場合もある*1。大勢に向けて発信するメディアは近いうちにそれ自体が誰かを傷つけ続ける装置と認定されるのではないかと最近思うのです。テレビが終わったら次はインターネットが終わる。
この辺について見世物の観点から考えてみたいけど、自分の知識では太刀打ちできそうにないから誰か代わりに考えてほしいなぁ。近代まで身体障害者を見世物として扱っていた代わりに「見世物」というアイデンティティを付与していたという出来事を2017年の現在で当てはめたらどうなるんだろうか。エレファントマンは理解のない群衆に「僕だって人間だ!」と言った。現在のエレファントマンは姿こそ我々と同一だけれど、様々な点において「見られる」立場にある。ダンボになれなかった彼らは一体どうすればよいのか。あと、宮廷お抱えの道化師っていうのは現代だとネットの匿名掲示板がその役目を果たしているのかなぁとか、そんなことを考える。
本当にとっちらかっているけど、まとめると「笑う」という行為にはコンテクストが非常に重要ということと、「見る(笑う)」「見られる(笑われる)」の関係はメディアの変容によって質が変わるではないかと言うことです。全然中身がないなあ。おわり。
*1:今回の事例ではありません。