さよならドルバッキー

この世の裏を知ったドルバッキーは世を儚んだ。

「正しくない」親とかいろいろ思うこと

 最近親子関係のお話が話題になりやすいので思ったことを少しだけ。

 

【加害者を罰するだけでは解決しない】

 まずこの文章を書く人の立場を明確にしておくと、いじめも機能不全家庭の問題も、罰するのではなく加害者側の適切なケアをすることで再発防止を図ることがよいと考えている。ただ庇うのではなく、「なぜいじめをしたのか」「どうしてイライラしてしまうのか」「どうすれば八つ当たりをせずに済むか」など自己肯定感を育むような感情に誘導し、「私は悪いことをしたからもうしないようにしよう」と自覚させるように促すのが最高の解決じゃないのかと。

 

 罰することの何が良くないかと言うと、自覚があって悪いことをしている人ならば罰を与えればいいかもしれないけれど、こういった加害者は自覚がない場合が多い。特に機能不全家庭では「何が良くて何が悪いか」という価値観が逆転していることが多い。だからこそ「良かれ」と思ってやったことが裏目に出て、問題が更にこじれていく。子供も余所で「良かれ」と思ってやったことが世間では歓迎されないことで驚き、そこから人間関係の軋轢、ひいてはいじめに発展することもしばしばだ。

 

 そういうわけでいじめの問題を解決したかったら加害者側の家庭環境に注目しようよということはずっと言ってきているけど、どうしても「加害者に制裁を」という方向ばかりが過熱しがちなのが残念なところだ。

 

いじめがあればすぐ警察へ通報すれば解決という風潮

基本的にいじめ不登校など子供のトラブルは家庭のトラブルに直結してるので、即警察は確かに危険。できれば学問主体の学校より福祉側の児童相談所あたりが仕事するところだけど対応できるキャパがないのが残念。

2017/02/15 16:51

 

 「我が子が殴られた!診断書とって警察だ!」と意気込んだのはいいけれど、殴った友達に話を聞くと我が子が他人に殴る以上の何らかの嫌がらせをして忠告をしても止めなかったため仕方なかったという話かもしれない。もちろん子供の喧嘩のためまずは双方の話をしっかり聞いて事実関係を明らかにすることが大切だ。その上で金銭を要求など悪質なものは警察に相談でもいいと思う。

 

 ただ、加害者がみんな根っこからの悪人で断罪されるべきなのかと言うとそうでもないと思ってる。特に子供は親の育て方で人生がガラリと変わる。弁護士の子供は弁護士の気質を、泥棒の子供は泥棒の気質を備えるようになるわけで、ただ子供を罰して終わると言うものではない。もちろん発達障害や盗癖など子供を起因としたトラブルの場合はケースバイケースになるしかないけれど、この場合根絶するべきはその根っこの家庭の気質で、表面だけ反省した態度をとられても何の意味もない。

 

 こう書くと「加害者を庇うとは何事か」という意見がありそうだけど、庇うわけではない。被害者のケアはそれとは別に行わなくてはいけないし、何らかの落とし前がなければ被害者も前に進みにくい。ただ、それで加害者が「何故よくなかったのか」を気付けなければ全く意味がないというわけだ。家でいつも叩かれている子が学校で友達を叩いたからといって、誰がその子だけを責めることが出来るんだろう。

 

 ちなみに不登校の原因はいじめよりも小学生の場合、「家庭の問題」が6割です。それに次いで「友人関係」「学業不振」です。「友人関係」にいじめが入る可能性もあるけれど、たとえば客観的にいじめとは認められない喧嘩をして気まずくなり、それからズルズルと休む子もいる。また後ろめたさから勝手に恐怖を感じて教室に入れない子もいる。この辺非常に難しいのです。

 

平成27年度「児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査」結果(速報値)について

不登校の要因の統計が面白い。不登校の主な要因はいじめではなく「家庭の問題」「学業不振」「いじめではない友人関係」。特に小学生は家庭問題が6割近い。

2017/02/13 10:54

 

【保護者のケアは誰がする】

あなたは「正しい親」をイメージできますか - シロクマの屑籠

正しい正しくないではなくいろんな意味で困った人なんだと思う。旦那と不仲だったり完璧主義すぎたりする母親を支援するカウンセリングみたいなの必要だと思ってるけど、どうやったら介入できるのか検討がつかない。

2017/02/16 13:23

 

 そういうわけで、「正しくない親」というか「困った親」を誰が面倒見るのかという課題が見えてくる。例えばすぐに子供を殴る蹴る、食事を与えない、清潔にしないなど。後半の場合家庭が貧困であることも考えてのケアが必要で、金銭的に厳しいのか親の自覚がないままそういう状態になっているのかの見極めが大事になる。

 

www.huffingtonpost.jp

 

 現状ではそういう「親のケア」も学校に求められている気がする。自治体の教育相談などもあるのだけれど、やはり気軽に声をかけやすいのが小中学校なのだろう。もう学校に地域の福祉施設入れちゃいなよ! と思わないでもない。

 

 理想を言えばこういう「困った親」はお隣さんなど地域で面倒を見たり、気軽に相談できる施設が自治体にひとつくらいあればいいのではないかと思ってる。ただ現状で「お腹を空かせているというのでおやつをあげたら毎食集るようになってきた」などトラブルの元になりやすいのでこの辺の介入は個人では非常に難しい。「こども食堂」などの取り組みもあるけれど、まだまだメジャーではないし絶対的に数が少ないし、何より個人の資質に頼った運営で公的なものではない。つまり「誰でも」には程遠い状態なのだ。それに「誰でも来ていい子ども食堂に着ていく服がない」という家庭はゴマンとあるだろう。

 

www.catlani.com

 

 そんなことを考える一方で別のベクトルで「困った親」が登場するのが上記の記事です。これを踏まえて最後まで読むと非常に辛くなります。「倫太郎君よかったね」にはならない。逆に倫太郎君は「家の価値観ではない価値観」に中途半端にぶつかって辛くなったかもしれない。だからこそ、その辺の空気を感じていた著者は「現在壊れていないか」と倫太郎君の心配をしている。これは「よかったよかった」という感動の話ではない。

 

 倫太郎君の家庭での様子はわからない。英会話スクールでは他人を舐めた行動をとり続けた彼が最終回になって急に真人間になったところでドラマであれば「講師、親の愛が通じた」となるんだろうけど、残念ながらこれはおそらく実話なのだ。わかるのは倫太郎君が奇行をとらなくなったということだけだ。彼の仮面が剥がれたのかどうかは読者からはわからない。奇行が止んだのは成長したからという可能性もある。彼が最終回で根本的に変わったかどうかはこの話からはよくわからない。

 

 もちろん他人の家庭に口を出すことはできないが、倫太郎君がこのままでは母子関係によってあまりよくない方向に行くだろうということは賢明な人ならば察することが出来る。しかし、それを彼の母親に告げることはできない。何故なら倫太郎君のお母さんは倫太郎君のためを思って英会話スクールに通わせていると言うのは間違いのない事であるから。その愛情を否定することはできない。

 

 しかし愛情にもいろいろあって、倫太郎君はあまり良質の愛情に触れているとは思えない。特に「鉛筆を落としてもいいか」など他人を試すようなことを言うのは非常にまずい。そして描写通りの奇行を繰り返していることに全く気が付かない保護者たちが怖い。

 

「今日は英会話でゲームしたんだって? 楽しかった?」

「うん! バトルカードも交換したんだよ!」

「バトルカード?」

 

 そんな会話を家でしないのだろうか。会話らしい会話があれば教室の異常状態を察することのできる人が一人くらいいそうなのだけれど、それがないということは「家庭での会話がない」「子どもが家族に嘘をついている」という状態になっているのだろう。うーん、しんどい。

 

 おそらく、こういった保護者は子どもとの距離感がないかあるいは人間関係を築くのを放棄している可能性がある。言い方が悪いけれど教育をソシャゲの経験値を積む感覚で習い事をさせているくらいのご家庭もある。もちろん子供が「やってみたい!」と言って生き生きとやっているのはいいとして、子供の意志に関係なくアレコレとお稽古事をさせている保護者がいたら周囲の人は親御さんの様子を気にしてあげて欲しい。子どもが能面のような顔でお稽古や塾に通っていたらもっと危ない。

 

 この時支援が必要なのは能面子供より、おそらく保護者の自意識なのだろう。「誰さんとこの子供に負けたくない」「(自分の)親の期待に応えなきゃ」で自縄自縛に陥っていたり、家庭内の雰囲気が悪いことから逃避するために「習い事に通わせる忙しいママ」を演出したりと子どもをダシにした発散行為をしている場合、誰かが止めないと子供がつぶれるか理想通りに行かないためにママが発狂するかまで追い詰められる事態になる。漫画に登場するサラちゃんもかなり心配だ。パパに人格否定されていないだろうか。

 

 過剰なお稽古事の数はひとつのSOSだと思う。子どもと向き合いたいけど怖い、子供から逃げたいから余所に預ける、子育てに失敗しても自分の責任にならないから外注してしまう……そんな保護者をケアをする仕組みがあれば子供もこんなに辛い思いをしないで済むんじゃないかと思うのですが、「大人の面倒なんて自分で見ろ」っていう感じだし生活保護だって不正受給がどうのから話が進まないし、自分でケツが拭けそうだけど拭けてるフリだけしている感じの人をどうすればいいのか、全く見当がつかない。

 

 

 かなりバーッと書いたけど、言いたいことは「子どもの問題は大体親にも同じことが言えるので子どものケアをするにも親のケアも大前提だけどそんな余裕ないよね!どうしよう!」ということです。子どものケアと同時進行でかつて子供だった今の保護者を抱きしめなきゃいけない。包容力ある人、見返りは全くないけど仕事ならたーっぷりあるから今からでも教育福祉産業で働かない? 人材が多い方がいいし経験も大事だから今なら良質な経験がいっぱいできるだろうし、本当に人手と予算が増えればすっごく嬉しいなあ……こんな世の中で何がアクティブ・ラーニングだ畜生が。

 

ジャパリパークという理想郷と再生の物語

 すっかり脳みそを「すごーい」に乗っ取られてはや数日。「流行ってんなー1話だけ見てみるかー」と見てみたら1話だけで頭がさばんなちほー。まずい、これはまずい。

 

 というか、『けものフレンズ』という作品は闇があるとか奥が深いとか優しい世界とか人間という種族を描いているとか、そういうのも非常に魅力的な要素だと思う。それよりも第1話で感動したのが「ちゃんとサバンナ地方の描写入ってる!」ってところで、後の話でも舞台設定をしっかり表現しているところがこのアニメの魅力のもう一つだと思った。

 

 アニメだろうが小説だろうが「これはいい!」と思う条件のひとつに「製作者側が明確に意図をしてひとつのこだわりやメッセージを入れている」というものを持っていて、このアニメではフレンズの特性を描くためにきちんとそこの風土を描ききっている。それだけでこのアニメは成功したと思ってる。サーバルちゃんとかばんちゃんのコンビを描くためのシナリオや土台が丁寧に作られている。そう、脚本と演出が丁寧なのがウリだ。「移動→難題→知恵を出して解決→また移動」というシナリオを繰り返して、物語全体には「図書館に行ってかばんちゃんの正体を調べる」というミッションが課せられている。ゆえにある程度話を見逃しても理解はできる。途中参戦が可能なのもこのアニメの良いところのひとつだ。

 

 で、もうひとつ面白いなと思ったのが「視聴者はかばんちゃんの正体を知っている」ということだ。子供向けのアニメでいかにもバレバレな悪役の変装を正義の主人公再度が見破れなくて「だめだよー、わるものだよー!」などとテレビやヒーローショーなどで語りかけた経験のある人も多いと思う。その心理を『けものフレンズ』の視聴者は共有している。アニメの中でかばんちゃんは「謎のフレンズ」であるけれど、アニメの外に飛び出せば彼女の正体は一目瞭然である。

 

 つまりタキシード仮面様なのだ。「タキシード仮面=地場守」という図式は視聴者にだけ明かされていた。それから視聴者は「タキシード仮面の正体は誰だろう」から「うさぎちゃんが正体を知ったらどうなるだろう」にドキドキをシフトチェンジさせる。純粋な謎ではなく、「作中の謎」になることで視聴者に余裕が出る。そうなると一層続きが気になる。刑事コロンボ水戸黄門のメソッドであり、視聴者を引き付ける要因になる。

 

 そんな作品の魅力とは他に非常に気になるのが、この「ジャパリパーク」とは一体何なんだと言うことだ。バスが使えるとはいえ、いくらなんでも獣が移動できるくらいの距離にサバンナだの高山だの砂漠だのジャングルだの森林地帯だのを詰め込めるのは並大抵の技術ではない。そして「ジャパリ」というくらいなのだからここはおそらく日本なのだろう。日本のサファリパークでも現代の技術でこれだけ多様な環境を再現できるところはないだろう。そもそも「フレンズ化」という現象が現代日本ではないけれど。

 

 その辺から考えると、かばんちゃんが自分の正体を知るよりも「かばんちゃんが図書館へ着く」というほうが大事なのかもしれない。ここから考えると、おそらくその「図書館」はジャパリパークの成り立ちを知るうえで大事な施設だ。ジャパリバスというものが存在したことから、ここには人間がいて動物を見て楽しむ施設だったのだろう。「図書館」とはフレンズたちの暫定の名称で、フレンズ化や不思議なジャパリパークの秘密がわかる研究施設か何かなのではないだろうか。

 

 この辺から邪推すると、ジャパリパークとは種の保存を行う上での閉鎖された環境なのではないかということだ。一種族につき一人、という不思議なフレンズの構図もジャパリパークが遺伝子の保存を目的にしたことなら何となく納得できる。そこで効率的に生き抜くために「互いを尊重する」などの要素を加えて少しのことでも死なないようになっているのだろう。

 

 だからかばんちゃんという「ヒトのフレンズ」が図書館にたどり着くことで、かばんちゃんの乙女回路が眠っていた人間の遺伝子を呼び覚まして復活するとか、かばんちゃんが保有する汚染されていないネット端末遺伝子によって構造化したジャパリパークが本来のあり方を取り戻すとか、そういう最終回もあるのかなぁなどと思うのです。地球の本来の姿とかばんちゃんとどちらを取るかという段になって、サーバルちゃんが「かばんちゃんが決めることだよ」と泣きながら言う最終回とかいいね。それかもう全部夢オチでかばんちゃんが朝起きると普通に人間の世界で、オープンしたばかりのジャパリパークに連れて行ってもらってサーバルキャットを見て何故か涙が出てくるとか、そういう終わり方も嫌いじゃない。

 

 でも最終回として「図書館にたどり着かない」というものありだと思う。図書館が破壊されている、あるいは道中で最終回を迎えて結局かばんちゃんが何のフレンズかわからないけれど「かばんちゃんはかばんちゃんだよ」というサーバルちゃんで終わってほしいという気もする。

 

 よく考えれば「カバン」という道具自体人間の「握って持つ」というアビリティから生まれたものだよなぁと思い、このアイディアを思いついた人はなかなかすごいなぁと思っている。言語情報が少ないのでこれだけわーわー言うことが出来る。すごいなぁけものフレンズ。すごーい! たのしー!

 

 

おい増田ちょっとツラ貸せや

 なんで消したんやワレ。増田業界なめとんと違うか?あ?

 

この文章を書いた者です。
たくさんの方に読んでいただいて、あれはもう私の手を離れた言葉になりました。
こういった経験は初めてなので、不思議な気持ちです。
ここでは教壇を離れて、少し気楽に書こうと思います。
以下の文章のほとんどは、私の弁明です。
もう目にしたくない方は「最後に」だけお読みいただけたら幸いです。
まず、私は「聖職者」と自負していませんし、「聖職者」であることを他者に求めたことはありません。
女性が仕事を一度辞め、復帰することの困難さを思ったら「つらかったら辞めたほうがいい」とは簡単に言えません。
ましてや子どもを持ったらなおのこと、女性に仕事をさせない仕組みをこの国は持っています。
私の文章の「あるべき大人像を見せる」あたりの表現が、「聖職者であれ」との誤解を生むのかもしれません。
私の見せたい「あるべき大人像」とは、遅刻をしないとかハンカチで手を拭くとかから始まり、健康的に働き、自立している女性という「大人像」です。
私も失敗をしますし、よく間違えます。
そして失敗をしたら都度謝り、次は間違えないようにしようと気を付けます。
そういった姿が「聖職者」と言われたら、じゃあ「普通」の先生って、どういう人ですか。
では、羅列した教員としてのコツが「聖職者」的でしょうか。
あれらのほとんどは出版されている他の先生方の書籍から学んだものです。
試してきた中で効果的だったもの、取り組みやすいものを書きました。
中学高校に勤める教員にとっては一般的な手法も含まれます。
実際私たちが働く中で大事にしている事柄は無数にあります。
実践しているごく一部を例として示したら、生徒を前にしたことがない人から、聖職者だ、そんなの皆に求めるべきでないと言われてしまった。
私たちの仕事を何だと思っているのか。私たちは教員免許を持つ教師です。教育に特化したスキルを持っていて当然です。
あの大学の先生の言葉により「できる人ができない人に向かって聖職者であれと要求する」という構図が出来上がってしまった。
非常にショックでした。
結果的に「できる人」に見えますが、私は長い間「できるようになりたいと努力している人」でした。
教員を目指していなかったので、知識も学力も足らず、人一倍できない教員でした。
教員としての適正がほんとうになかった私と同じように努力しろということではなく、努力したら変わっていくよ、ということも言ってはだめなんでしょうか。
繰り返しになりますが、私たちは教員免許を持つ者です。
資格に相応しい自己研鑽は不可欠です。
学問の世界よりも、目の前の生徒たちが変化していくスピードは速いです。
変わらないものと、変えていくもの、常に2つを抱えています。
できなくてもいいから、教員として向上するための試行錯誤はしなければ、そう思っています。
こう書いたあとに「これは個人の感想です。他者に努力を強いるものではありません」と、これからは但し書きをいれることにします。
最後に。
皆さんが、あの「私」を賞賛してくださるのですが、それは同時に「私」を孤独にする言葉です。
多くの場合、賞賛のあとに続くのは「私/僕はできない」という言葉です。
そうして何もしません。
称えてくださった方たちを傷つけるような物言いをして、ごめんなさい。
私が再度こちらに来たのは、皆さんにお願いしたいことがあったからです。
教員の仕事量に目を向けて、様々な改善策を提案してくだり、労いの言葉をかけてくださるのはとてもありがたいです。
そのまなざしとお気持ちは、つらいと言える教員ではなく、物言えぬ子どもたちに向けていただきたくお願いに参りました。
高校生は、まだ大人になりきれていない子たちです。
彼らは「最近の高校生」と呼ばれ、時に「自己責任」と追いつめられられ、それなのに子どもだからと何も自分たちでは選択できない日々を過ごしています。
どうか「自己責任」という語を高校生に投げつけないでください。
皆さんが思っている以上に子どもたちは周囲にいる人の影響を強く受けています。「自己責任」的に見えても、そうでないことが多いです。
罪を許せ、見逃せということではありません。
失敗をし、間違いを犯した子どもが、自分を変えようとしたときに変われることを信じてあげてください。
同じ失敗を繰り返すこともあります。
それでも、初めて立つ赤ん坊を目の前にするように、きっとできるとの温かいまなざしを切に切にお願い申し上げます。
お読みくださって、ありがとうございました。


ここからは完全な夜中の余談です。
こんなに時間をかけて増田を書いておいて「書いてあることがあなたの心に残ったら嬉しいです」とか、それっぽいブログの締め的なことは全然思ってないです。
教員が見返りや賞賛、感謝を欲しがったら終わりと私は思っています。
他の先生に嫌がられそうだけど、ここは声高に主張したい。
教員が感謝されるのは、すごく簡単なんですよね。
ちょっと生徒に親身になったり、手をかけたりしたら、すぐにありがとうと言ってくれます。
感謝されたがりの先生はすごく多いです。
自分が気持ちよくなりたい先生は適切な判断ができません。
でも、生徒や保護者に感謝はされてるし、特に考察せず、本人としては達成感に満ち溢れています。
そろそろお前はどうなんだ?と言いたいですよね。
ほんとうにすばらしい先生は、はてななんか見ずに日夜寝る間を惜しんで教材研究されてますよ。
私の程度は推して知るべしです。

http://anond.hatelabo.jp/20170211024056(現在削除済み)

 

 増田の言ってることはなーんも間違ってない! せやのになんで消したんや。夜中のテンションで恥ずかしくなったからか? そんなもん電車ん中でウンコ漏らすほうが数百万倍恥ずかしいわ。

 

 一度書いて消したのをこうやってもう一回晒すのはどうかと思ったよ。だけどな、増田の言ってること、こっちのほうが教育困難校の実態より全国区で国会に届けなあかんことと違うか?

 

皆さんが、あの「私」を賞賛してくださるのですが、それは同時に「私」を孤独にする言葉です。
多くの場合、賞賛のあとに続くのは「私/僕はできない」という言葉です。
そうして何もしません。
称えてくださった方たちを傷つけるような物言いをして、ごめんなさい。

 

 だいたいネットやってる奴なんてただの内弁慶で世間のこともなーんも知らんガキの方が多いんや。ネットの反応にいちいち期待したらあかんゆーことは百もしょーちの話や。有象無象のアホンダラの言うことなんかいちいち聞いてたらあかんで。

 

 でもな、増田の言うことはもっとみんな知らないといけないことなんや。教育や介護の業界で頑張ってる人に無意識でこの言葉かける人多いで。でも、それは言っちゃあかんことなんだってもっと周知せなあかん。そのためにも増田は記事を消したらあかんかったんや。反省したら昇給な。

 

 なんで頑張ってる人が「私はこう頑張ってます」ってゆーただけでみんな「僕にはできない」「出来る人だけが頑張ればいい」「私には関係ない」みたいなコメントするんや? なんで「応援します」のひとことで終われないんか? 後ろ暗いことがあるからやろ? 出来ない自分が恨めしくて苦くて、それで自己弁護しとるんやろ? 頑張ってキラキラしている人の足引っ張るようなこと言って、何が楽しい? アホか。

 

 本来は増田みたいに頑張ってる人がノウハウを若い子に伝えていかなアカンところやろ。なんでそれすらも「出来ない人に押しつけ~」になるんかわからん。お前が出来なくても教職関係者はやらなあかんのやボケ。誰のおかげでかけ算九九が言えるようになったんや。

 

 教育困難校の問題はアホにはわからんしアホンダラにはもっとわからん。それやけど保育園落ちた並に国会に出して制度改革やってもらわなあかん問題やってもっと騒がないと本気で日本終わる。やれ考え方教育だのセンター試験の見直しだのアクティブラーニングだの横文字つかっておけばいいみたいな教育改革よりも福祉に直結した教育改革も進めないと日本終わるで。まじで。子どもの貧困とか余裕あるタイトルだからピンと来ないんや。「(教育を受けられないための)アホガキの増産」やで。今の教育現場は出来ない奴を積極的に切り捨てる方向へ向かってる。でもその出来ない奴は環境に恵まれないだけで、勉強する環境が整えばかなりマトモな方向に育っていくんや。それをやるのが義務教育じゃあないのか? あ?

 

 あとベテラン教員が退職して教員の人数が減って、若い教員を教える現場の先生がめっちゃ少ないのも問題やな。だから「教科とかよくわかんないけど部活動やりたいれす」みたいなアホでも採用してきちんとしたフォローがされてなくて授業の質が保てないんや。それで学級崩壊起こしても行政はなーんも責任とってくれんしな。アホか。アホなのか。

 

 もう一度言うと、増田はなーんも悪いことは言ってないし真っ当なことを言ってる。消しちゃったのは悪い子だからその辺の角度に頭ぶつけて反省な。

 

 

 

 

 で、これを読んだ人は教員や介護、その他ボランティアやってる頑張ってる人に「僕には真似できない」とかもう言わないでほしい。もうそれ「僕は切断処理をします」っていう呪いだからね。素直に応援の言葉を口にしてあげてほしい。お願いだから、これ以上頑張ってる人の足を引っ張るようなことを言って頑張ってる人のやる気をくじくようなことを建前でも言うのは辞めてほしい。関西弁は喋れません。おわり。

 

書いてみた 「長年付き合った彼氏と破たんしているのを認められない友人Aが、別の友人Bが前彼と別れてすぐに結婚したのを快く思っていません。AによるBへの悪態をできるだけ想像してもらえますか?」

 タイトルが長い。シチュエーションが面白かったので書いてみた。以下完全にオリジナルで相談内容のAさんBさんとは一切関係がありません。

 

topisyu.hatenablog.com

 

【前提】

Aさん……長年付き合っていた彼氏がいるが、うまくいっていない。

Bさん……前に付き合っていた彼氏と別れた後、縁あってすぐに結婚することに。

 

【想定される会話】

A「結婚おめでとう」

B「ありがとう、何だか先にごめんね」

A「いいのいいの気にしないで。私も後を続くから~」

B「へぇ~ぇ(含)……ところで、最近(彼氏とは)どうなの?」

A「それがね。何だか順調の途中にある乗り越えなければいけない場所っていうか……なんとなく、そんな感じ」

B「そうなんだー」

A「そうなの、私が結婚式場の下見に行こうって言っても忙しいとかまだ早いとかなんか言っちゃってさあ……今度Bちゃんの結婚式でまた勉強させてもらうね」

B「それは彼氏が煮え切らないって感じだね」

A「そうなのよーもう私たちだってイイ年じゃん?それなのに何だか落ち着かないっていうか、オマエもイイ年なんだから落ち着こうよって感じでさ(笑)」

B「そうそう」

A「そうなの、この前もさりげなく指輪売り場の前で買ってよってアピールしたのに素通りとか、マジで女心わかってない」

B「あー、最悪だね」

A「ホント最悪最悪。私以外もらってくれる人いないっしょ、絶対?」

B「(そうかなあ)そうだね」

A「それなのにさあ、なんなのいつも!? また今度とか? 今日だって急に仕事が入ったとか言って伝説のチーズケーキ食べに行く約束なくなったとか、ホント意味わかんない」

B「一回、ちゃんと話し合ったら?」

A「Bちゃんに言われなくても話し合ってるよ」

B「うん」

A「いつも言うんだよ、好きだとか愛してるとか」

B「うん」

A「だけど最近愛を感じないっていうか、私がダメになっているのかも」

B「うん」

A「彼のためにもっと頑張らなきゃって思うんだけど、どうすればいいのかな」

B「うーん、そこは二人で話し合って決めるところだと思うけど」

A「話し合いで決まったら苦労しないじゃん」

B「だけどさあ……」

A「大体ね、Bちゃん何でそんなに上から目線なの?」

B「そ、そうかなあ?」

A「そうだよさっきから話し合えとか別れろとか」

B「そこまで言ってないよ」

A「さっき言ったじゃん」

B「まあ、そうかもね」

A「ひどいよ、自分ばっかり幸せになるからって私を見下して楽しい?」

B「そんなこと(ちょっと思ってる)思ってないよ!」

A「まぁそれなら、いいけどさあ……」

B「どうしたの?」

A「だって、世の中不公平じゃん?」

B「そう?」

A「私なんかこんなに頑張って彼氏に貢いで愛を注いで結婚の条件だって多少妥協してやってるっていうのに、向こうがタラレバ男すぎてうまくいかないっていうのに、何で前の男を捨てたBちゃんのほうが幸せになるわけ?」

B「捨てた、なんて言い方ちょっとひどいよ」

A「何言ってるの捨てたでしょアレは!?」

B「どの辺が?」

A「だってBちゃんのこと好きだったじゃない!」

B「でもお姉さんのほうが好きとか言ってデートすっぽかす男だったよ!」

A「それでもBちゃんのこと幸せにするって言ってたじゃん」

B「絶対ありえない」

A「あったって! それなのに新しい男に乗り換えてすぐ結婚って……普通の人ならドン引きだよ」

B「でも今彼さんもいい人だよ」

A「どうせまたマザコンとかシスコンとか見つかって別れるんでしょ?」

B「そんなことしないって」

A「まだ籍入れてなくてよかったね、結婚式の前って相手の本性が見えるって言うじゃん? なんかひどいことないの?」

B「まぁ、ちょっとは」

A「ほぉら、じっくり長く付き合わないですぐに決断するから痛い目を見るの」

B「だけど、そんなの誰だってそうだし」

A「シスコンでも?」

B「それとこれとは話が別」

A「別じゃないよ、簡単に別れる人が結婚なんてできるの?」

B「Aちゃんには関係ないじゃん」

A「そんなことないって。その点私はちゃんと長く付き合ってるから彼氏のダメな本性も含めて愛してるけどね」

B「じゃあ別にいいじゃん」

A「だからそういう上から目線が嫌だって言ってるんじゃん」

B「そんなつもりは」

A「そんなんだとすぐ今の旦那さんと離婚するよ?」

B「まだ結婚もしてないのにするわけないでしょ!」

A「前から思ってたんだけどさ、アンタのそういうとこ結婚に向いてないよ」

B「何言ってんの」

A「一人の人と長くお付き合い出来ない人が結婚なんてしてもうまく行くわけないって。子供出来た後に離婚とか別居しても知らないよ」

B「あなたに私の何がわかるの」

A「わかるに決まってるじゃん、何年付き合ってると思ってるの?」

B「でもそんなに仲良くないよね?」

A「仲良くないの?私たち?」

B「そういう話をする人と仲良くなろうと思う人はいないと思うよ、普通」

A「そうやって普通普通ってあなたはいつも言い逃れをして」

B「え、さっきAちゃんだって言ってたじゃん」

A「言ってないし。変な嘘つくのやめて」

B「はあ……」

A「とにかく、義理で披露宴には参加させてもらうんだからご祝儀なんて期待しないでね。義理で行ってやるんだから」

B「はあ」

A「あとね、引き出物は伝説のチーズケーキとかそういうのがいいと思うよ。それにね、プチギフトに変な小細工とかされると腹立つからやめてね、あとはお色直しの退場で両親に感謝とか冷めるからやめてねそれからブーケトスは……」

B「はあ……(帰りたい)」

 

≪以下フェードアウト≫

 

【あとがき】

 Aさんに「恩着せ」という属性をつけて結婚できない部分を煮詰めていたらひどい人になってしまったけど、きっとAさんは彼氏には世話焼きのいい奥さんになるに違いない、と、思う……。あと伝説のチーズケーキ、名前のインパクトだけで出してみたけど実は食べたことがない。多分「今度食べる」と言って食べないまま終わりそう。

オンラインショップ | ガトーよこはま

 

半年後には一面の春~短歌の目二期・1月の巻~

 すべりこみ短歌。

 

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tankanome.hateblo.jp

 

1.編

 無意識に三つ編み作る癖が出るときはいつも俯いている

 

2. かがみ(鏡、鑑も可)

 「はやくして!私の分がなくなるわ!」「アンタかガミガミうるさい奴は」

 

3. もち

 緑色した目できっと眺めてるあの子の気もち多分土砂降り

 

4. 立

 あの頃はこんな場所に立っていることすらきっと夢幻で

 

5. 草

 草まくら乾かぬ袖の置き場所は旅路の果てに我が懐へ

 

テーマ詠「初」

 初雪の便りを片手に立ちつくし半年後には一面の春

 

 気づくころにはもう傷ついているものなんです初恋なんて

 

 餅持たせよろける孫を見るだけで目じりも下がる古希も目前

 

 はじめてをすごしたひとはたくさんのおんなのにおいがするひとでした

 

 知ってるよ、お兄ちゃんのがかわいいの。だけど私も長女なんだよ。

 

『ど根性ガエルの娘』を読んで思った家族についてのこと

 巷で話題の『ど根性ガエルの娘』の最新話と、大体のあらすじを追った。以下結構内容と関係のない家族の人間関係の話です。西野? あれは触っちゃなんねえ。

 

togetter.com

 

 なんて言うか、15話を読んで「つらいなあ」と思ったのは「あまりにひどい話は読者が読みたくありませんから」っていう台詞かな。これは非常に真っ当な意見だし実際その通りでもあるけど、ちょっとミクロな視点で考えると辛い思いをした人が辛い気持ちを吐き出そうとしても「あまりにひどい話は誰も相談なんてされたくありませんから」ってことになるのかな、と。

 

 実際世の中には下を見たらキリがないもので、『ど根性ガエルの娘』が最底辺だと思わないほうがいいほど、いわゆる「普通」の人にはどうしたって理解できない経験をしている人が本当にたくさんいるわけで。この15話の「間違ったことを言ってはいけない」という感覚は非常によくわかる。この手のエピソードは私たちの身近にあふれているけど、ただ「普通」の人たちにはそのアンテナがないので感知出来ないだけだと思う。

 

 個人的にこういった話を聞くと、いつも例え家族であろうと許せないことは許さなくていいと思っている。「家族だから」というだけでハラスメントを仕掛けてくる人と付き合い続けなければいけない義理はない。そうならないように「普通」の感覚の人は無意識で相手を思いやり、個々が気を遣い合ってしっかり関係を維持していく。

 

 ところがそういった関係維持をすることができない家庭は誰かの思いやりを犠牲にしたり思いやりを思いやりとすら思わないように仕向けることで「一見まとも」な関係を作り出す。だから外からは「仲良しですねえ」と言われるけれど中に入るとボロボロなんてことはたくさんある。

 

 じゃあそういう人をどうやって救済するのかと言われると、おそらく「普通」の人は非常に嫌がると思うのです。何故なら、己の気力を犠牲にしてきた人はしばしば常に己について精神的に傷つけることをしたり逆に他人の犠牲を前提にして話をしてくる。つまり、目の前でひたすら無意味な自虐を聞かされたり非常にワガママな態度をとられたりするわけで、そうなるとこっちの気力のリソースが持たない。だから「普通」の人は離れていく。そして同じような人と傷のなめ合いが起こり、悲劇は連鎖して聞く。

 

 本来であれば「普通」の側の人が「大変だ、何とかしなくては」と行動をしなくちゃいけないんだろうと思うのです。現在はACの自助グループなどはあるのですが社会的に「救済」とまではいっていないのかなと思っています。もっと目に見える形で「支援」っていうのがあればいいのになあと思うことはたくさんあります。「子育て相談ダイヤル」みたいに「生きづらさ相談ダイヤル」とか専門ダイヤルがもっと周知されてもいいのになあと思うのです。

 

こころの相談の窓口について|困ったときの相談先|こころもメンテしよう ~若者を支えるメンタルヘルスサイト~|厚生労働省

 

 ただ、やっぱり大事なのは「普通」の人の意識改革なのかなあと思うのです。ある日友人から「私はうつ病だ」と告白されて心の準備が出来ている人はどのくらいいるだろうか。おそらく「私は癌だ」と告白されるより相当戸惑うのではないだろうか。そしてその動揺は敏感に相手に伝わって、余計症状を悪化させる方向に働きやすい。

 

 ここまで書いてきて思ったけど、この話題はポジショントークになるしかないというのが悲しい。この文章を書いている人が「アダルトチルドレン当人」なのか「アダルトチルドレンの支援者」なのか「元アダルトチルドレンの支援者」なのかでこの文の伝えたいことは結構変わってくる気がする。ポジショントークにしてしまえば、「普通」の人の耳には届きにくい。「あ、俺関係ねえよ」ってなる。その「関係ねえよ」が当人をどんどん追い詰めていくんだけど、だからと言ってみんな平等に傷つきましょうというのも嫌な話だ。結局のところ、やっぱり専門の相談員があちこちに設置されるのが一番いいと思うんだけどその存在を周知させる時点で「普通」の人は「見たくないもの見せるな」って言ってきそうだし「そんな特別な支援なんていらない」と思っている当人はたくさんいるだろうし、どうすればいいんだろう。

 

 多分効果は薄くても、今はこの漫画みたいに読んだ人がみんなが少しずつ嫌な思いをするしかないんだろう。その嫌な思いは彼らが今まで支払ってきたものだと思う。キリストはその「嫌な思い」を一人で抱えて逝ってしまった。少しずつ「嫌な思い」をしながらこれ以上の犠牲が出ないことを祈るしか「普通」の人に出来ることはないのかなぁと思う。

 

長い長い感想【主催者という名があったものとして】

 どうしようと思っていたのですがどうにもまとまらないのでまとまらないまま書いていきます。とりとめがないので長いうえに創作論だらけでいつもにもまして理屈っぽいです。ご了承ください。

 

 先月の『短編小説の集い』において、第1回からずっと参加をされているまさりんさんから以下のような作品をいただきました。。

 

masarin-m.hatenablog.com

 

 こちらの作品でこの文章を書いている人、つまり『短編小説の集い』の主催者がパロディとして登場しています。そんなわけで「どうしたものか」と思いながらいたのです。以下完全に文脈が読めない人にはわからない話ですので分かる人だけニヤニヤしてください。

 

 先にまさりんさんの振り返りを読んでもらえると話がわかりやすいです。

第二十六回 短編小説の集い参加作品「サシ呑み」振り返り - 明日は明日の風が吹く 

 

「愛の告白」かと思った

 この作品を読んでのファーストインプレッションはそんな感じです。振り返りでまさりんさんは「内輪ウケを狙ってみた」とのことですが、文章を書く人のタイプとしてまさりんさんは「自身が本心で思ってもいないことは書けない」タイプだと思うのです。

 

 『短編小説の集い』を2年ほど続けていろんな人の作品の感想を書きまくっていてわかったことがあるのですが、小説を書くときに人はふたつのタイプに分かれます。まずは自分の伝えたい気持ちが合って、それを軸に登場人物や展開に肉づけをしていくタイプ。それと登場人物や書きたいシーンを設定して、そこに向かってテーマや全体像を作っていくタイプです。前者は私小説のように作者がなくては作品も成立せず、後者は物語の中に作者を置かないので作者が不在でも困らないのです。どちらが良いというものではありませんしどちらのやり方でも良いものが書けます。

 

 このふたつのタイプで行くとまさりんさんは完全に前者だなあと毎回思います。逆に私は完全な後者で、「自分の気持ちから物語を作る」というのはすごいことだと感心します。そんなまさりんさんが「内輪ウケ」とは言ってもお遊びで私の「名前」を出してキャラクターに仕上げるだろうか、と読んだ時に思ったのです。「これはよっぽどその対象に思い入れがないとやらないことだぞ」と。短編を一本書くために日帰りでも取材旅行に行くまさりんさんが適当にパロディなんてするわけがない。

 

 正直言って、嬉しいですね。「小説の企画だぁやってみたぁい」みたいなことだけ言って参加しなかったり「小説書くの大好き!またやりたい!」とか言って1回か2回で満足しちゃったりとか、そういうのにめげそうになるくらい世間の逆風は強いのですがその中でまさりんさんはこの会の主催者を「人格のあるもの」として捉えているのだなあと温かみを感じたのです。お題を出すbotぐらいに考えている人、きっといるもの。

 

 それだけまさりんさんの中でこの『短編小説の集い』及び私の存在が大きいのだなあと思い、「これってもしかしてラブレターなのではないだろうか」と思ったわけです。愛の告白って、何も性的なつながりに限定されるものではないと思っています。これはファンレターよりも重い、「ぼくのかんがえたさいきょうのしゅさいしゃさま」なんですよ。つまりラブレター。ちょっと重いです。

 

作者と作品の間

 そんなわけでこの作品の構造を素直に読み解けないのです。作品の中で「主催者様」は筋肉質で身長は190cm以上ある亀ちゃんという主人公の旧知の仲という設定になっています。振り返りでもあるように、もちろん現実の私はそんな肉体を持っていません。もしそんな肉体だったらマッドマックスのコスプレして立川に行きます。立川の極音上映いつか行ってみたいなあ。

 

 で、ここで思ったのが「現実の人物をパロディにする」ことなんですよね。おそらくまさりんさんは面白おかしく「デフォルメ」のつもりで筋肉質という設定にしたというのもあるのでしょうが、筋肉質になった「主催者様」に中の人は確実に存在しているのです。そこでデフォルメの方向を「筋肉質」にした理由は何なのだろうと。普通に考えれば私の「ストイックさ」を表現したのかなと思うわけです。まあストイックですし。己に厳しく他人にも厳しい。個人的に作品に対してはそういうところあります。実際には亀ちゃんのキャラクターのほうが先にありそうですが、そんなことを考えてしまいます。

 

 この作品を読んだ時に真っ先に思い出した作品があります。新井理恵の『×-ペケ-』に収録されている「夜明けのダザイスト」という4コマ漫画です。とあるバンドの硬派なボーカルがふわふわな恋愛小説がヒットしている現状を嘆き「これなら俺の方がうまく書ける!」と「来夢みんと」というペンネームで恋愛小説を投稿したところバンド以上に人気作家になってしまうという連作で、その中にまさしく亀ちゃんのような体型のキャラが登場します。そして「来夢みんと」は「自分が書きたいものと売れるものを書くというギャップ」や「読者の思い描く作者像と現実」という理不尽に苦しめられ、最終的に××××になってしまうというものすごくブラックな作品でもあります。短い連作ですが、本当にラストのオチが悲惨すぎて逆に笑えると言う秀逸なブラックジョークになっています。

 

 そんなわけで「作品のひとつひとつとは別に独立した作者の人格がある」というのがやっぱり大前提であるわけなのです。私の場合なのですが、確かに小説を書くために登場人物の造形を行うわけで、それはどうしたって自身の分身であるはずなのです。だけど出来上がったキャラクターを見れば見るほど「自己」とは別の存在で「ここにいるのは確かに俺だけれど、それなら俺を眺めている俺は一体誰なんだ」と粗忽長屋の如く不条理な感情を抱かずにはいられないのです。

 

パロディと内輪ウケについて

 そういう前提で話をすると、まさりんさんの最初の話に現実のパロディを加えた結果少し歪な構造があるのかなという感じです。物語の中で「主催者様=亀ちゃん」が筋肉質である必要はないですし、このオチにするならば最初から下の方を工事してシリコンでも入れていたほうがインパクトはデカいし「かつての同性の旧友がなんと」という展開においては説得力がある。

 

 それから、後で「主催者様」要素を入れたので間に合わなかったのかなあと思うのですが「主催者様」の話し方など含めて私のパロディではないんですよね。もし私がまさりんさんのパロディキャラクターを作るなら、「まさおくん」という名前でまさりんさんの文体を意図的に真似して「きっとまさりんさんのことだな」と読んだ人にニヤリとしてもらうことを狙います。ここに作者と読者の共犯関係が成立して、「こいつはわかってやっている」と読者は興味を持ちます。

 

 要は「内輪ウケ」というのはどれだけコンテクストがわかっている人が面白がれるのかというところスレスレを狙って行けるのかというのが大事なわけです。つまり内輪ウケを狙うには説明を究極まで省く必要があります。例えば私は『病』の作品の最後におまけとして『hagex脳患者』という言葉を使ったのですが、これは意味を開くと「ネットなんかでよく見かける家族のいざこざで特に育てられ方が悪かったために不都合が出てくる物語を真偽不能であるけれど創作だと割り切って好む連中」くらいの意味合いですが、私はこれを説明する必要がないと思いました。わかる人だけわかってくれと。それにこの言葉の意味が分からなくても作品のことは作品内で説明されているので補足はいりません。つまるところのこれが「内輪ウケ」なわけです。

 

 今回のまさりんさんのお話は「内輪ウケ」を狙いに行っているにも関わらず、背景の説明が多くて「現実のパロディ」ではなく「いつも通りのまさりんさんの世界」になっていると感じるのです。そしてその世界では「主催者様=私」が「主人公=まさりんさん」に告白をしているという。この辺の構造がイビツなのです。

 

 ちなみに「短編小説の集い」で内輪ウケが好まれないのは、この企画そのものが「客観的に自己を分析してみよう」というところから始まっているので主観メインになる内輪ウケの要素を入れる隙があまりないからです。あと互助会が好まれないのは「内輪ウケ」が嫌なのではなく内輪ウケにもならない客観的に自己を分析する気のない低クオリティの文章であふれているからだと思います。個人的にこういう文章の世界では「己を上手に説明する努力もしないでわかってくれとかどれだけ甘えているんだ」とやっぱりストイックに思っています。文章以外の世界ではやさしいです。たぶん。

 

 結局文章っていうのは誰にも見せない日記以外、「誰かが読む」前提のものなのですね。それを個人的で主観だらけのものを書いて「理解されない」っていうのは当たり前で、他者の視点が入らないとそれは文章として成立しないのです。そして文章を文章と認識しない人たちが中身を理解しないまま「面白いですね」「参考になります」とコメントをつけていく構造。多分この世に地獄があるなら、それは意思疎通がままならない世界です。『ジョニーは戦場へ行った』に近い世界が身近にあります。まあネットに限らずこういう世界はありふれた話なのですが。

 

おわりに

 あと何か他にも言いたいことがあったような気がするのですが、思い出せないのでこのくらいにしておきます。おそらくまさりんさんは実生活においても敢えて分類すると「真面目」にカテゴライズされるほうだと思うのです。作品に対しては常に自己を出して全面に向き合っているところがすごいなあと思うのです。うすっぺらい自己なんて出したら死んじゃうわたしにはとてもまねできない。それではどこまで行くのかわからないのですが、魂を預けられたからにはもう少し頑張ってみようと思います。

 

 それから毎回この企画の作品を読んでくださっていると思われる奥様にもよろしくお伝えください。