あのにますトライバル

君の気持ちは君の中でだけ育てていけ。

書いてみた 「長年付き合った彼氏と破たんしているのを認められない友人Aが、別の友人Bが前彼と別れてすぐに結婚したのを快く思っていません。AによるBへの悪態をできるだけ想像してもらえますか?」

 タイトルが長い。シチュエーションが面白かったので書いてみた。以下完全にオリジナルで相談内容のAさんBさんとは一切関係がありません。

 

topisyu.hatenablog.com

 

【前提】

Aさん……長年付き合っていた彼氏がいるが、うまくいっていない。

Bさん……前に付き合っていた彼氏と別れた後、縁あってすぐに結婚することに。

 

【想定される会話】

A「結婚おめでとう」

B「ありがとう、何だか先にごめんね」

A「いいのいいの気にしないで。私も後を続くから~」

B「へぇ~ぇ(含)……ところで、最近(彼氏とは)どうなの?」

A「それがね。何だか順調の途中にある乗り越えなければいけない場所っていうか……なんとなく、そんな感じ」

B「そうなんだー」

A「そうなの、私が結婚式場の下見に行こうって言っても忙しいとかまだ早いとかなんか言っちゃってさあ……今度Bちゃんの結婚式でまた勉強させてもらうね」

B「それは彼氏が煮え切らないって感じだね」

A「そうなのよーもう私たちだってイイ年じゃん?それなのに何だか落ち着かないっていうか、オマエもイイ年なんだから落ち着こうよって感じでさ(笑)」

B「そうそう」

A「そうなの、この前もさりげなく指輪売り場の前で買ってよってアピールしたのに素通りとか、マジで女心わかってない」

B「あー、最悪だね」

A「ホント最悪最悪。私以外もらってくれる人いないっしょ、絶対?」

B「(そうかなあ)そうだね」

A「それなのにさあ、なんなのいつも!? また今度とか? 今日だって急に仕事が入ったとか言って伝説のチーズケーキ食べに行く約束なくなったとか、ホント意味わかんない」

B「一回、ちゃんと話し合ったら?」

A「Bちゃんに言われなくても話し合ってるよ」

B「うん」

A「いつも言うんだよ、好きだとか愛してるとか」

B「うん」

A「だけど最近愛を感じないっていうか、私がダメになっているのかも」

B「うん」

A「彼のためにもっと頑張らなきゃって思うんだけど、どうすればいいのかな」

B「うーん、そこは二人で話し合って決めるところだと思うけど」

A「話し合いで決まったら苦労しないじゃん」

B「だけどさあ……」

A「大体ね、Bちゃん何でそんなに上から目線なの?」

B「そ、そうかなあ?」

A「そうだよさっきから話し合えとか別れろとか」

B「そこまで言ってないよ」

A「さっき言ったじゃん」

B「まあ、そうかもね」

A「ひどいよ、自分ばっかり幸せになるからって私を見下して楽しい?」

B「そんなこと(ちょっと思ってる)思ってないよ!」

A「まぁそれなら、いいけどさあ……」

B「どうしたの?」

A「だって、世の中不公平じゃん?」

B「そう?」

A「私なんかこんなに頑張って彼氏に貢いで愛を注いで結婚の条件だって多少妥協してやってるっていうのに、向こうがタラレバ男すぎてうまくいかないっていうのに、何で前の男を捨てたBちゃんのほうが幸せになるわけ?」

B「捨てた、なんて言い方ちょっとひどいよ」

A「何言ってるの捨てたでしょアレは!?」

B「どの辺が?」

A「だってBちゃんのこと好きだったじゃない!」

B「でもお姉さんのほうが好きとか言ってデートすっぽかす男だったよ!」

A「それでもBちゃんのこと幸せにするって言ってたじゃん」

B「絶対ありえない」

A「あったって! それなのに新しい男に乗り換えてすぐ結婚って……普通の人ならドン引きだよ」

B「でも今彼さんもいい人だよ」

A「どうせまたマザコンとかシスコンとか見つかって別れるんでしょ?」

B「そんなことしないって」

A「まだ籍入れてなくてよかったね、結婚式の前って相手の本性が見えるって言うじゃん? なんかひどいことないの?」

B「まぁ、ちょっとは」

A「ほぉら、じっくり長く付き合わないですぐに決断するから痛い目を見るの」

B「だけど、そんなの誰だってそうだし」

A「シスコンでも?」

B「それとこれとは話が別」

A「別じゃないよ、簡単に別れる人が結婚なんてできるの?」

B「Aちゃんには関係ないじゃん」

A「そんなことないって。その点私はちゃんと長く付き合ってるから彼氏のダメな本性も含めて愛してるけどね」

B「じゃあ別にいいじゃん」

A「だからそういう上から目線が嫌だって言ってるんじゃん」

B「そんなつもりは」

A「そんなんだとすぐ今の旦那さんと離婚するよ?」

B「まだ結婚もしてないのにするわけないでしょ!」

A「前から思ってたんだけどさ、アンタのそういうとこ結婚に向いてないよ」

B「何言ってんの」

A「一人の人と長くお付き合い出来ない人が結婚なんてしてもうまく行くわけないって。子供出来た後に離婚とか別居しても知らないよ」

B「あなたに私の何がわかるの」

A「わかるに決まってるじゃん、何年付き合ってると思ってるの?」

B「でもそんなに仲良くないよね?」

A「仲良くないの?私たち?」

B「そういう話をする人と仲良くなろうと思う人はいないと思うよ、普通」

A「そうやって普通普通ってあなたはいつも言い逃れをして」

B「え、さっきAちゃんだって言ってたじゃん」

A「言ってないし。変な嘘つくのやめて」

B「はあ……」

A「とにかく、義理で披露宴には参加させてもらうんだからご祝儀なんて期待しないでね。義理で行ってやるんだから」

B「はあ」

A「あとね、引き出物は伝説のチーズケーキとかそういうのがいいと思うよ。それにね、プチギフトに変な小細工とかされると腹立つからやめてね、あとはお色直しの退場で両親に感謝とか冷めるからやめてねそれからブーケトスは……」

B「はあ……(帰りたい)」

 

≪以下フェードアウト≫

 

【あとがき】

 Aさんに「恩着せ」という属性をつけて結婚できない部分を煮詰めていたらひどい人になってしまったけど、きっとAさんは彼氏には世話焼きのいい奥さんになるに違いない、と、思う……。あと伝説のチーズケーキ、名前のインパクトだけで出してみたけど実は食べたことがない。多分「今度食べる」と言って食べないまま終わりそう。

オンラインショップ | ガトーよこはま

 

半年後には一面の春~短歌の目二期・1月の巻~

 すべりこみ短歌。

 

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tankanome.hateblo.jp

 

1.編

 無意識に三つ編み作る癖が出るときはいつも俯いている

 

2. かがみ(鏡、鑑も可)

 「はやくして!私の分がなくなるわ!」「アンタかガミガミうるさい奴は」

 

3. もち

 緑色した目できっと眺めてるあの子の気もち多分土砂降り

 

4. 立

 あの頃はこんな場所に立っていることすらきっと夢幻で

 

5. 草

 草まくら乾かぬ袖の置き場所は旅路の果てに我が懐へ

 

テーマ詠「初」

 初雪の便りを片手に立ちつくし半年後には一面の春

 

 気づくころにはもう傷ついているものなんです初恋なんて

 

 餅持たせよろける孫を見るだけで目じりも下がる古希も目前

 

 はじめてをすごしたひとはたくさんのおんなのにおいがするひとでした

 

 知ってるよ、お兄ちゃんのがかわいいの。だけど私も長女なんだよ。

 

『ど根性ガエルの娘』を読んで思った家族についてのこと

 巷で話題の『ど根性ガエルの娘』の最新話と、大体のあらすじを追った。以下結構内容と関係のない家族の人間関係の話です。西野? あれは触っちゃなんねえ。

 

togetter.com

 

 なんて言うか、15話を読んで「つらいなあ」と思ったのは「あまりにひどい話は読者が読みたくありませんから」っていう台詞かな。これは非常に真っ当な意見だし実際その通りでもあるけど、ちょっとミクロな視点で考えると辛い思いをした人が辛い気持ちを吐き出そうとしても「あまりにひどい話は誰も相談なんてされたくありませんから」ってことになるのかな、と。

 

 実際世の中には下を見たらキリがないもので、『ど根性ガエルの娘』が最底辺だと思わないほうがいいほど、いわゆる「普通」の人にはどうしたって理解できない経験をしている人が本当にたくさんいるわけで。この15話の「間違ったことを言ってはいけない」という感覚は非常によくわかる。この手のエピソードは私たちの身近にあふれているけど、ただ「普通」の人たちにはそのアンテナがないので感知出来ないだけだと思う。

 

 個人的にこういった話を聞くと、いつも例え家族であろうと許せないことは許さなくていいと思っている。「家族だから」というだけでハラスメントを仕掛けてくる人と付き合い続けなければいけない義理はない。そうならないように「普通」の感覚の人は無意識で相手を思いやり、個々が気を遣い合ってしっかり関係を維持していく。

 

 ところがそういった関係維持をすることができない家庭は誰かの思いやりを犠牲にしたり思いやりを思いやりとすら思わないように仕向けることで「一見まとも」な関係を作り出す。だから外からは「仲良しですねえ」と言われるけれど中に入るとボロボロなんてことはたくさんある。

 

 じゃあそういう人をどうやって救済するのかと言われると、おそらく「普通」の人は非常に嫌がると思うのです。何故なら、己の気力を犠牲にしてきた人はしばしば常に己について精神的に傷つけることをしたり逆に他人の犠牲を前提にして話をしてくる。つまり、目の前でひたすら無意味な自虐を聞かされたり非常にワガママな態度をとられたりするわけで、そうなるとこっちの気力のリソースが持たない。だから「普通」の人は離れていく。そして同じような人と傷のなめ合いが起こり、悲劇は連鎖して聞く。

 

 本来であれば「普通」の側の人が「大変だ、何とかしなくては」と行動をしなくちゃいけないんだろうと思うのです。現在はACの自助グループなどはあるのですが社会的に「救済」とまではいっていないのかなと思っています。もっと目に見える形で「支援」っていうのがあればいいのになあと思うことはたくさんあります。「子育て相談ダイヤル」みたいに「生きづらさ相談ダイヤル」とか専門ダイヤルがもっと周知されてもいいのになあと思うのです。

 

こころの相談の窓口について|困ったときの相談先|こころもメンテしよう ~若者を支えるメンタルヘルスサイト~|厚生労働省

 

 ただ、やっぱり大事なのは「普通」の人の意識改革なのかなあと思うのです。ある日友人から「私はうつ病だ」と告白されて心の準備が出来ている人はどのくらいいるだろうか。おそらく「私は癌だ」と告白されるより相当戸惑うのではないだろうか。そしてその動揺は敏感に相手に伝わって、余計症状を悪化させる方向に働きやすい。

 

 ここまで書いてきて思ったけど、この話題はポジショントークになるしかないというのが悲しい。この文章を書いている人が「アダルトチルドレン当人」なのか「アダルトチルドレンの支援者」なのか「元アダルトチルドレンの支援者」なのかでこの文の伝えたいことは結構変わってくる気がする。ポジショントークにしてしまえば、「普通」の人の耳には届きにくい。「あ、俺関係ねえよ」ってなる。その「関係ねえよ」が当人をどんどん追い詰めていくんだけど、だからと言ってみんな平等に傷つきましょうというのも嫌な話だ。結局のところ、やっぱり専門の相談員があちこちに設置されるのが一番いいと思うんだけどその存在を周知させる時点で「普通」の人は「見たくないもの見せるな」って言ってきそうだし「そんな特別な支援なんていらない」と思っている当人はたくさんいるだろうし、どうすればいいんだろう。

 

 多分効果は薄くても、今はこの漫画みたいに読んだ人がみんなが少しずつ嫌な思いをするしかないんだろう。その嫌な思いは彼らが今まで支払ってきたものだと思う。キリストはその「嫌な思い」を一人で抱えて逝ってしまった。少しずつ「嫌な思い」をしながらこれ以上の犠牲が出ないことを祈るしか「普通」の人に出来ることはないのかなぁと思う。

 

長い長い感想【主催者という名があったものとして】

 どうしようと思っていたのですがどうにもまとまらないのでまとまらないまま書いていきます。とりとめがないので長いうえに創作論だらけでいつもにもまして理屈っぽいです。ご了承ください。

 

 先月の『短編小説の集い』において、第1回からずっと参加をされているまさりんさんから以下のような作品をいただきました。。

 

masarin-m.hatenablog.com

 

 こちらの作品でこの文章を書いている人、つまり『短編小説の集い』の主催者がパロディとして登場しています。そんなわけで「どうしたものか」と思いながらいたのです。以下完全に文脈が読めない人にはわからない話ですので分かる人だけニヤニヤしてください。

 

 先にまさりんさんの振り返りを読んでもらえると話がわかりやすいです。

第二十六回 短編小説の集い参加作品「サシ呑み」振り返り - 明日は明日の風が吹く 

 

「愛の告白」かと思った

 この作品を読んでのファーストインプレッションはそんな感じです。振り返りでまさりんさんは「内輪ウケを狙ってみた」とのことですが、文章を書く人のタイプとしてまさりんさんは「自身が本心で思ってもいないことは書けない」タイプだと思うのです。

 

 『短編小説の集い』を2年ほど続けていろんな人の作品の感想を書きまくっていてわかったことがあるのですが、小説を書くときに人はふたつのタイプに分かれます。まずは自分の伝えたい気持ちが合って、それを軸に登場人物や展開に肉づけをしていくタイプ。それと登場人物や書きたいシーンを設定して、そこに向かってテーマや全体像を作っていくタイプです。前者は私小説のように作者がなくては作品も成立せず、後者は物語の中に作者を置かないので作者が不在でも困らないのです。どちらが良いというものではありませんしどちらのやり方でも良いものが書けます。

 

 このふたつのタイプで行くとまさりんさんは完全に前者だなあと毎回思います。逆に私は完全な後者で、「自分の気持ちから物語を作る」というのはすごいことだと感心します。そんなまさりんさんが「内輪ウケ」とは言ってもお遊びで私の「名前」を出してキャラクターに仕上げるだろうか、と読んだ時に思ったのです。「これはよっぽどその対象に思い入れがないとやらないことだぞ」と。短編を一本書くために日帰りでも取材旅行に行くまさりんさんが適当にパロディなんてするわけがない。

 

 正直言って、嬉しいですね。「小説の企画だぁやってみたぁい」みたいなことだけ言って参加しなかったり「小説書くの大好き!またやりたい!」とか言って1回か2回で満足しちゃったりとか、そういうのにめげそうになるくらい世間の逆風は強いのですがその中でまさりんさんはこの会の主催者を「人格のあるもの」として捉えているのだなあと温かみを感じたのです。お題を出すbotぐらいに考えている人、きっといるもの。

 

 それだけまさりんさんの中でこの『短編小説の集い』及び私の存在が大きいのだなあと思い、「これってもしかしてラブレターなのではないだろうか」と思ったわけです。愛の告白って、何も性的なつながりに限定されるものではないと思っています。これはファンレターよりも重い、「ぼくのかんがえたさいきょうのしゅさいしゃさま」なんですよ。つまりラブレター。ちょっと重いです。

 

作者と作品の間

 そんなわけでこの作品の構造を素直に読み解けないのです。作品の中で「主催者様」は筋肉質で身長は190cm以上ある亀ちゃんという主人公の旧知の仲という設定になっています。振り返りでもあるように、もちろん現実の私はそんな肉体を持っていません。もしそんな肉体だったらマッドマックスのコスプレして立川に行きます。立川の極音上映いつか行ってみたいなあ。

 

 で、ここで思ったのが「現実の人物をパロディにする」ことなんですよね。おそらくまさりんさんは面白おかしく「デフォルメ」のつもりで筋肉質という設定にしたというのもあるのでしょうが、筋肉質になった「主催者様」に中の人は確実に存在しているのです。そこでデフォルメの方向を「筋肉質」にした理由は何なのだろうと。普通に考えれば私の「ストイックさ」を表現したのかなと思うわけです。まあストイックですし。己に厳しく他人にも厳しい。個人的に作品に対してはそういうところあります。実際には亀ちゃんのキャラクターのほうが先にありそうですが、そんなことを考えてしまいます。

 

 この作品を読んだ時に真っ先に思い出した作品があります。新井理恵の『×-ペケ-』に収録されている「夜明けのダザイスト」という4コマ漫画です。とあるバンドの硬派なボーカルがふわふわな恋愛小説がヒットしている現状を嘆き「これなら俺の方がうまく書ける!」と「来夢みんと」というペンネームで恋愛小説を投稿したところバンド以上に人気作家になってしまうという連作で、その中にまさしく亀ちゃんのような体型のキャラが登場します。そして「来夢みんと」は「自分が書きたいものと売れるものを書くというギャップ」や「読者の思い描く作者像と現実」という理不尽に苦しめられ、最終的に××××になってしまうというものすごくブラックな作品でもあります。短い連作ですが、本当にラストのオチが悲惨すぎて逆に笑えると言う秀逸なブラックジョークになっています。

 

 そんなわけで「作品のひとつひとつとは別に独立した作者の人格がある」というのがやっぱり大前提であるわけなのです。私の場合なのですが、確かに小説を書くために登場人物の造形を行うわけで、それはどうしたって自身の分身であるはずなのです。だけど出来上がったキャラクターを見れば見るほど「自己」とは別の存在で「ここにいるのは確かに俺だけれど、それなら俺を眺めている俺は一体誰なんだ」と粗忽長屋の如く不条理な感情を抱かずにはいられないのです。

 

パロディと内輪ウケについて

 そういう前提で話をすると、まさりんさんの最初の話に現実のパロディを加えた結果少し歪な構造があるのかなという感じです。物語の中で「主催者様=亀ちゃん」が筋肉質である必要はないですし、このオチにするならば最初から下の方を工事してシリコンでも入れていたほうがインパクトはデカいし「かつての同性の旧友がなんと」という展開においては説得力がある。

 

 それから、後で「主催者様」要素を入れたので間に合わなかったのかなあと思うのですが「主催者様」の話し方など含めて私のパロディではないんですよね。もし私がまさりんさんのパロディキャラクターを作るなら、「まさおくん」という名前でまさりんさんの文体を意図的に真似して「きっとまさりんさんのことだな」と読んだ人にニヤリとしてもらうことを狙います。ここに作者と読者の共犯関係が成立して、「こいつはわかってやっている」と読者は興味を持ちます。

 

 要は「内輪ウケ」というのはどれだけコンテクストがわかっている人が面白がれるのかというところスレスレを狙って行けるのかというのが大事なわけです。つまり内輪ウケを狙うには説明を究極まで省く必要があります。例えば私は『病』の作品の最後におまけとして『hagex脳患者』という言葉を使ったのですが、これは意味を開くと「ネットなんかでよく見かける家族のいざこざで特に育てられ方が悪かったために不都合が出てくる物語を真偽不能であるけれど創作だと割り切って好む連中」くらいの意味合いですが、私はこれを説明する必要がないと思いました。わかる人だけわかってくれと。それにこの言葉の意味が分からなくても作品のことは作品内で説明されているので補足はいりません。つまるところのこれが「内輪ウケ」なわけです。

 

 今回のまさりんさんのお話は「内輪ウケ」を狙いに行っているにも関わらず、背景の説明が多くて「現実のパロディ」ではなく「いつも通りのまさりんさんの世界」になっていると感じるのです。そしてその世界では「主催者様=私」が「主人公=まさりんさん」に告白をしているという。この辺の構造がイビツなのです。

 

 ちなみに「短編小説の集い」で内輪ウケが好まれないのは、この企画そのものが「客観的に自己を分析してみよう」というところから始まっているので主観メインになる内輪ウケの要素を入れる隙があまりないからです。あと互助会が好まれないのは「内輪ウケ」が嫌なのではなく内輪ウケにもならない客観的に自己を分析する気のない低クオリティの文章であふれているからだと思います。個人的にこういう文章の世界では「己を上手に説明する努力もしないでわかってくれとかどれだけ甘えているんだ」とやっぱりストイックに思っています。文章以外の世界ではやさしいです。たぶん。

 

 結局文章っていうのは誰にも見せない日記以外、「誰かが読む」前提のものなのですね。それを個人的で主観だらけのものを書いて「理解されない」っていうのは当たり前で、他者の視点が入らないとそれは文章として成立しないのです。そして文章を文章と認識しない人たちが中身を理解しないまま「面白いですね」「参考になります」とコメントをつけていく構造。多分この世に地獄があるなら、それは意思疎通がままならない世界です。『ジョニーは戦場へ行った』に近い世界が身近にあります。まあネットに限らずこういう世界はありふれた話なのですが。

 

おわりに

 あと何か他にも言いたいことがあったような気がするのですが、思い出せないのでこのくらいにしておきます。おそらくまさりんさんは実生活においても敢えて分類すると「真面目」にカテゴライズされるほうだと思うのです。作品に対しては常に自己を出して全面に向き合っているところがすごいなあと思うのです。うすっぺらい自己なんて出したら死んじゃうわたしにはとてもまねできない。それではどこまで行くのかわからないのですが、魂を預けられたからにはもう少し頑張ってみようと思います。

 

 それから毎回この企画の作品を読んでくださっていると思われる奥様にもよろしくお伝えください。

 

どうしようもない旦那の事態を改善する方法はないものか

 すごく力強い増田について少しだけ。

 

子育て絶対無理よ

右手をご覧ください。増田名物の「家事のできない糞みたいな男に引っかかった女性投稿」です。足元に行きますと「何でそんな奴と結婚したのか」というトラバ、そして頭上には「離婚しろ」一択のブコメです。

2017/01/13 09:22

 

 これを読んで普通にどう考えても「離婚」の文字しか出ないんだけど、無理矢理「離婚しないルート」を考えてみたらどうなるだろうと考えてみました。以下非現実的で机上の空論でしかない理論です。現実しか受け入れられない方はお帰りください。

 

トラブルシューティングを作成しておく

今日だって帰り遅くなるってLINEしてきただけで、俺は先にご飯食べればいいの?待ってたらいいの?全然わかんないし。

 

  大多数の既婚者であれば「相手の帰りが遅くなる」という出来事から「自分の夕飯」の他に「配偶者の夕飯」にも考えが及びます。またLINEを入れる状況で相手が忙しいのかそうでないのかを判断して、これからの行動の相談をします。「じゃあ先に何か作って食べておくよ」と返事をすれば「今夜の夕飯の心配をする必要はない」という意思表示になるし、「遅くなるなら何か用意しておこうか?」と返事をすれば配偶者に対する気配りにもなります。おおよそこういったことはそれまでの経験から判断して無意識にしている人の方が多いでしょう。

 

 ところがこの増田旦那は「配偶者の帰りが遅くなる」という事実から導き出した答えが「俺の飯は?」だけでした。「夕飯の心配をする増田」や「残業で疲れているだろう増田」を思いやる余地がない。

 

 自発的に思いやることはおそらくできそうにないので、先に起こり得る事態を書きだしておいて、いざというときはそのパターンで動いてもらうということを事前に決めておくとこういったトラブルは大分防げると思います。

 

 今回の場合ではあらかじめ「いつも通り」「少し遅れる」「大幅に遅れる」という時間設定と「夕飯になるものが家にある」「夕飯になるものが家にない」という在庫状況を組み合わせておきます。「少し遅くなるので待っている」「家にあるもので何か作ってもらう」「弁当を2人分買ってくる」「外食で済ませてもらう」「それ以外の緊急対応」と行動パターンを作成したら「今夜は遅くなる」だけではなく「今夜はパターン3でお願い」と連絡しましょう。

 

獅子は我が子を谷へ突き落した後、滅茶苦茶褒める

家事は女がやるものという考えで育てられ、食器の上げ下げから家事炊事洗濯も私。いくら遅くなっても。今日は結局帰ったの21時で、家帰ったら旦那はゲームしてて、シンクには弁当箱(ゲームを買ったときに洗う約束をした)、おかえりの二言目はお腹空いた。

 

 これは結婚前に義実家の状況を確認できなかったのがまずかったですね。この辺は増田旦那がどうのこうのというより、増田旦那の環境がまずかったという事例だと思われます。もう40ということで改善は非常に難しいけれど、まずは「自分のことは自分でやる」ということを徹底してみたらどうだろうか。「赤ちゃんじゃないんだから、自分のことは自分でやりなさい」と突き放してみましょう。意外と人間って甘えられないことがわかると渋々行動し始めたりするのです。

 

 そしてここから先が重要ですが、小さいことでも家事をしたら「嬉しい、助かった」とオーバーに接してみましょう。増田旦那は家事をして褒められた経験がないので、「やったら損」と思っている可能性もあります。「一緒に気持ち良く生活のできる環境を作ってくれてありがとう」という言葉をかけると何かが変わる可能性が、多少はあります。これで解決できればいいですね。

 

増田旦那の思考回路を把握する

結婚するときは、子どもが出来たらーって話ちゃんとしてたのになぁ。
考えが変わったんだと。無理だと悟ったんだと。

 

 すごく残酷な話をすると、上記のことなどから増田旦那は悪意があって「子供が出来たらー」の話をしたわけじゃないと思う。まだ増田を騙す気で結婚したのであればさっさと三行半を突きつけるだけのだけれど、結婚する前は本当に真面目に話をしたと思う。それと一緒で「その時はそう思ったんだけど後で忘れちゃう」というのがかなり多いんじゃないだろうか。ゲームと弁当箱の話なんかかなりその典型。

 

 こういうタイプの人、よく周囲を観察すると身の回りにいる。「その場ではいいことを言うけど、後で実行しなかったり言ったことを忘れていたりする」のは信用問題に関わるのですが、どうしてもできない人がいるのです。もうこれはどうしようもないことなのです。

 

 例えば、宿題をやるのを忘れていたのに「やったけど家に忘れました」と小さく嘘をつきます。それで「時間をあげるから家に取りに帰りなさい」と言われると宿題をやっていないという嘘がバレてしまうので「実は昨日家に泥棒が入って宿題を盗まれた」などとオーバーな嘘をついてしまうような感じです。何故こんな嘘をつくかというと、とにかく自分のことをよく見せて叱られることを回避しようとするからです。つまり「自分をよく見せたい」という欲求を通すために「あることないこと」を言う傾向にあるわけです。まとめると「朝三暮四な考えであとから破綻する人」です。

 

 増田の例でも、結婚前は増田に合わせて「理想の結婚像」みたいなのをいろいろ考えて「あることないこと」を言っていたのでしょう。ただ、厄介なのがこの時点では「嘘をつこう」と思って話していないと言うことです。結果的に約束が達成されないだけで彼らは最初から嘘をつこうと思っていません。そもそも「あることないこと」言ったことを忘れている場合も多いので、「そんなこと言ってない」と逆に怒ることも多いです。

 

 こうなってしまうと、もう増田が増田旦那に合わせるしかないです。対策としては「増田旦那の話は大体半分くらいに思っておく」「増田旦那に何かを期待しない。やってくれたらラッキーくらいに考える」「大事な話し合いは必ず記録をとっておく」「決定事項は紙に書いて張り出しておく」「話し合いにはホワイトボードなどを活用して論点を視覚化しておく」などです。とにかく「有言不実行」だけでも撲滅していきましょう。この辺の方法や対策などは以下の本が詳しいです。

 

私って、甘えてますか?

私って、甘えてますか?

 

 

おわりに

 なんでこんな記事を書いたかというと、コメントではひどい言われようになるだろうけど、増田旦那だって好きでこんなクズになったわけじゃあないと思ったからです。おそらく生まれつきか生育環境などから何らかの生きづらさを抱えていて、そのせいで今まで苦労することはたくさんあったと感じます。もちろん増田が増田旦那の全てを背負う必要はありませんしどうせ大変なのは目に見えているので遠慮なく逃げてもいいと思うのですが、そんなクズになってしまった増田旦那に同情するくらいはあってもいいのかなと思うのです。この話はおしまい。

 

 あと余談ですが、最近スマホ変えたので数年ぶりにケータイショップに行ったのですがそこで担当者に番号を伝えるのに当然のようにブギーボードを出されて「未来だなあ」と感じました。

 

キングジム 電子メモパッド ブギーボード  BB-2 ブラック

キングジム 電子メモパッド ブギーボード BB-2 ブラック

 

 

 前からちょっと欲しいと思っていたけど、未だに何に活用できるか未知数なので買ってません。買い物とかちょっとしたTo do タスクとかどうでもいいメモは基本的に裏紙とか使ってる古いタイプの人です。鉛筆大好き。

 

笑うことについてのメモ

 なんかお笑いの話で笑えないと言うのが盛り上がっているのですが、PCも大事だけど「笑い」というものそのものについての問題提起でもある気がしたので少しだけ。よくまとまっていないので誰か続きを書いてくれると嬉しい。

 

 最近では「涙活」「笑活」なんて何でも揚げりゃいいってもんじゃないよって思うようなことが増えました。それって感情のアウトプットまで外部委託しないといけなくなったんじゃないかなあと思うのです。つまり自分の感情を見失っていて、「これって泣いていいんだよね」「笑っていいんだよね」と確認し合って、それで周囲の合意を得たうえでカタルシスを得ると言う何だか変な話になってくるなあと思うのです。

 

 泣くことに関してケチをつける人はそれほどいないけれど(「こんな低レベルな映画で泣けるとは」なんて言う人もいるけどね)、笑うことに関してはかなりケチがつけやすい。「この笑いが理解できないとは(笑)」という見方もあれば「こんなのを笑っていて情けない(笑)」という見方もあり、もうそこまで含めて「笑う」という感情がこもっている。

 

 実は「笑う」という感情ひとつとってもさまざまなニュアンスがあって、赤ちゃんが初めてつかまり立ちができたときの笑いと上島竜平が「押すなよ!」と言っているにも関わらず熱湯風呂に落とされたときの笑いでは感情の方向が全く違う。また臨時収入で不意に3万円ほどもらったときもどうしようもない借金で首が回らないときも「笑い」が生じる。それを「笑い」という同一言語で表現しているから今回のようなことになったのかなぁと思います。

 

 常に話題にはコンテクストが付与されています。上島竜平の例を挙げると、まず彼が「リアクション芸人」という属性を持っていることを知っていることが大前提になります。さらに「押すなよ!」と言いながら「押してくれ」と言わんばかりの体勢をとり、言っていることと行動が違うと言うギャップでおかしみを表現し、更に実際に熱湯風呂に落とされた時に大げさな表現をするというところまで含めての「笑い」が生じます。ここで「リアクション芸人」というコンテクストを共有できない人には肥後とジモンが竜平をいじめているようにしか見えない。そして「これの何がおもしろいの?」となる。

 

 これと逆の現象が「日本エレキテル連合」の「ダメよ~ダメダメ」だと思っている。「ダメよ~ダメダメ」のコントを見ると、朱美ちゃんは壊れたダッチワイフで彼女を抱こうとしている男とのズレっぷりを楽しむというブラックジョークとしか言いようのないものだ。正直このコントで笑ってしまうとどこかに後ろめたいものを感じてしまう。特に「仮出所妻さゆりちゃん」のほうはそのリアルなアクティブさが更に面白さを出している。だけど、おそらく「ダッチワイフ」というコンテクストがなくても「ダメよ~ダメダメ」という強烈なリフレインだけで面白さが出てしまい、流行語にまで選ばれてしまった。コンテクストの欠落が純粋な笑いにつながったのだと思う。

 

 で、例の件の個人的な見解は「コンテクストが共有できなかった」「別のコンテクストを採用した結果、笑いではない感情が発生した」というものだと思うのです。つまりはコンテクストの取り違えですね。大勢に向けて発信する人はコンテクストを明確にしておいてもらいたいし、受けてもなるべくコンテクストを理解してほしい。「ああ、これはこの文脈なんだ」と一人一人が理解できれば発信する方も楽なんだろうけど、現実は全くそんな風には出来ていないどころか、明確なコンテクストも理解しないで取り違える人が「このアレは間違っている!」と突っかかってくる場合もある*1。大勢に向けて発信するメディアは近いうちにそれ自体が誰かを傷つけ続ける装置と認定されるのではないかと最近思うのです。テレビが終わったら次はインターネットが終わる。

 

 この辺について見世物の観点から考えてみたいけど、自分の知識では太刀打ちできそうにないから誰か代わりに考えてほしいなぁ。近代まで身体障害者を見世物として扱っていた代わりに「見世物」というアイデンティティを付与していたという出来事を2017年の現在で当てはめたらどうなるんだろうか。エレファントマンは理解のない群衆に「僕だって人間だ!」と言った。現在のエレファントマンは姿こそ我々と同一だけれど、様々な点において「見られる」立場にある。ダンボになれなかった彼らは一体どうすればよいのか。あと、宮廷お抱えの道化師っていうのは現代だとネットの匿名掲示板がその役目を果たしているのかなぁとか、そんなことを考える。

 

 本当にとっちらかっているけど、まとめると「笑う」という行為にはコンテクストが非常に重要ということと、「見る(笑う)」「見られる(笑われる)」の関係はメディアの変容によって質が変わるではないかと言うことです。全然中身がないなあ。おわり。

 

*1:今回の事例ではありません。

ハーゲンダッツが気になって仕方なかったんだ

 体調も戻って忙しさも一区切りを迎えたので増田めぐりを再開しています。そこで見つけた、ちょっと百字では表現できなかった増田について少し書いておきます。

 

長文となりますが、同様の経験を持つかたのご意見をお待ちしております

すごく律儀なお返事に訳もなく不安になる。完璧にやろうとしすぎると多分今の生活もどこかでおかしくなる。あと律儀に毎回ハーゲンダッツじゃなくてたまに大福とか煎餅でも嫁さんが好きなら喜ぶと思うよ。

2017/01/11 09:40

 

 この増田を見てすごーく不安になった。何が不安かというと、日々の生活を「マネジメント」と表現しているところや自分の生活サイクルの「印象」を今後のためにとアンケートを取っているあたりに増田筆者の「自己」というものが大きく欠落している印象を受けたのです。客観的事実を書いたからそうなんだろう、という見方も出来るのですがそれにしてもこの増田の生活には「自己」がない。だから「他者」の目線を想像できない。そんな感じ。

 

 はてな匿名ダイアリーにはたまに「子育て大変だけど嫁さんには感謝」的な惚気系の増田が見られる。その意図はやはり「こんな幸せを誰かに知ってもらいたい」というものがあって、同じく愚痴エントリも「こんなに大変なのを誰かに知ってもらいたい」というものだ。「俺の考えって合ってるよね(間違ってるかな)」というのも十分何かを書いて発表する意図としては十分だ。ところがこの増田のエントリにはそういった「何かを知ってもらいたい」という意図が見えてこない。あくまでも客観的にアドバイスを求めている。

 

 そもそも子育てという行為そのものが非常に個人的で主体的なものであるため、こういった究極に客観を極めた子育てについての文章を見ると不安になるのかもしれない。「うちではこうやったよ」「うちでも参考にしてみよう」と結局「うち」の事情が全てになるため、完璧な育児法など存在しないしある程度の有効な方法から「うち」に合ったものを選ぶことになる。育児のノウハウは経験の積み重ねであり、完全に一般化することは難しい。別に「ノウハウで楽をするな」と言っているわけじゃあないです。「うち」に合っていると思う情報があれば試してみてもいいんです。ただその情報が個人全てに最適化されているわけじゃあないということです。

 

 おそらくこの文章の外に増田筆者なりの感情や増田妻の笑顔、子供とのかけがえのない思い出というのがあるのだろうけど、この文章からは全く見えてこない。ただ増田がソシャゲのデイリークエストのように日々のタスクとして子供や妻と接しているようにしか見えない。それを強く感じたのがこの二文。どうしてこの文が必要なのか考えたとき、増田にとっての「妻」の存在は何なんだろうと思ったわけで。

 

また、ハーゲンダッツのミニカップを週に3度くらい買って帰ります。

平日は自由がほぼないと思われる妻の意向を最大限に尊重し、例えば買い物などに同行します。

 

 ブコメでも言及したけど、すごくこの「ハーゲンダッツ」が気になってしまった。嫁さんの機嫌取りという文脈でしばしば登場するハーゲンダッツ。客観的に行動を書こうと試みている増田だったら「嫁さんの好きなお菓子をお土産にする」と書くに違いない。確かに世の女性の9割以上はハーゲンダッツが好きだろう。だけど、わざわざ「ハーゲンダッツ」でなければいけないのだろうか? 世の女性の9割以上は同様にスーパーカップだって好きだろうし赤城練乳も好きだろう。非常に個人的なことを言えば、いくら配偶者からのお土産でハーゲンダッツが大好きでも、週に3回も買って来られたら「お前それしか能がないのかよ世の中にはもっとたくさんの種類のアイスがあるじゃねえか」と思うわけで。

 

 この現象は「母の手料理をうまいと褒めると連続してその料理が出てくる現象」「帰省すると毎回必ず好物が出てくる現象」に似ていると思うのです。自分は魚卵が大好きなので、帰省するたびにデカい筋子が買ってあって毎回ごはんに乗せて食べることになったので(他の家族はあまり食べないので食べきらないといけない)「流石に毎回は食べきれないよ」と10回目くらいではっきり断ったものです。それで3回に1回くらいに筋子の頻度は減りました。

 

 あと「ハーゲンダッツ」と言えば記憶に残るのが「育児に疲れたら冷蔵庫に高いアイスがあると嬉しくなるんだ」という内容のブログを読んで「そうか!妻の機嫌をとるには高いアイスを買って帰ればいいんだ!」と解釈をした方がプチ炎上したことがありました。ちゃうねん、そういう問題じゃないんや。

 

 そういうわけで「お土産」にしたいのであれば、増田妻がハーゲンダッツの海に溺れて死にたいってくらい好きなら構わないと思うけど、たまにはマクドナルドとかいちご大福とかバリエーションをつけたほうがいい。「ハーゲンダッツ」に固執することはない。むしろその「固執」が怖い。この生活が崩れたら、増田はどうなるんだろう。まだ子供が幼いから全ては増田と増田妻の思うとおりに動いていると思う。それがこの後小学生、中学生になったときに子供とうまくコミュニケーションとれるかどうかだと思う。

 

 そこで下の「平日は自由がほぼないと思われる妻の意向を最大限に尊重」がまた気になったのです。よく読むと、この文おかしいです。「平日は自由がほぼないと思われる」は増田の推測ですが「妻の意向を最大限に尊重」になると増田妻が「平日は自由がないから買い物に付き合って」と言っているように見えます。「はたして増田妻は本当にハーゲンダッツを欲しているのか、買い物に付き合ってもらいたがっているか」というのが非常に疑問なわけです。話し合いの結果であれば問題ないのですが、下手をすると「増田妻の気持ちをわかっている(つもり)俺頑張ってる」になりかねない。また、増田の生活もかなりタイトであるため一度破綻すると取り返しがつかないレベルで崩壊しかねない。どこかで生活の「あそび」を作っておいた方がいいと思う。完璧を求めることは自分一人の世界で完結させるように努力したほうがいいと思う。

 

 増田がショートスリーパーだとか子供との独特の生活時間については「人それぞれだからなぁ」という印象なのですが、これだけを読むととにかく増田妻のメンタルが心配。そして今後自我が芽生えてくる子供たちが心配。増田妻は増田に合わせて無理をしていないか? 子供も増田の生活に最適化しようとして無理をしていないか? こういう疑問を常に心に置いておくと不測の事態の時に対応しやすいと思う。

 

 不測の事態と言うのは、あまり考えたくないことですが例えば子供が大きくなって不登校になってしまったりいじめや万引きなどをしてしまったりした場合にどれだけ親として対応が出来るかということです。親が子供を最適化しようとしていた場合、そうなってからよくある例として「計画が狂った、そんなつもりで産んだんじゃない」と子供を完全否定したり「私が間違っていました神様ごめんなさい」と宗教に走ったり「私は悪くない(子供は悪くない、ではない)悪いのはみんな社会だ」と学校に殴りこむなど暴走をすることがあります。事物を客観的に見ようとしている増田に限ってそんなことはないと思うのですが、増田妻はどうでしょう? 増田妻は好き好んで増田と一緒になっていると思うので心配はあまりないでしょうが、「私はこうしたいがあなたは私に合わせてばかりいないか」という確認を普段から定期的にしておいたほうがいいですね。子供がある程度大きくなったら、子供にももう少し柔らかい感じで確認したほうがいいです。

 

 子供だって増田妻だって一人の人間なんですよ。全て最適化されて、合理化された生活もそれはそれで気持ちいいのですがどこかで緩めてあげないと増田自身も「何が本当の自分か」わからなくなって下手をすると上の例みたいになってしまうかもしれないです。

 

 そういうわけで全体として「生活をマネジメントしようとしすぎない」ことが大事だと思います。基本的にやりたいようにやって、させたいようにさせて、不都合があるときは話し合って妥協したり譲れない気持ちをぶつけたり、そういうのが家族じゃあないのかなぁと思うのです。とりあえず書き捨て言い捨てのブコメに律儀に返信するあたりからもう少しいい加減になってもいいんじゃないかと思うよ。