夏休みだし、少し書いてみよう。
とても苦しそうな文章だと思った。自分で自分がよくわからなくて必死でもがいているけど、自分自身を形にできていない。そんな印象。
で、増田には残酷な話をするけど「文章を書くことは苦しいことだ」とは思わないんだな、これが。多分今でも文章を書く人たちはそんなことは思わない。文章を書くのは息をするのと一緒だから、別にどうってことなくバーッとなんか書いてる(いまもそう)。
じゃあ増田は何が苦しいのかと言えば、それは増田の中で長々と述べたけど、ひとことで言えば「出来上がった自分の文章を見るのがイヤ」なんだと思う。歌を歌う人って、自分の声を聴いて嫌にならないのかなと思うけど多分歌手の人はそんなこと思わない。ジョギングが趣味の人も「変な走り方してないかな」と思いながら走ってる人はいないと思う。それと同じで、文章を書く人は自分の文章を読み返すことに何の感慨も抱かない。ずいぶん昔の自分のブログを読んで「とんがってるなあ、バーカ」くらいは思うけど、恥ずかしいとは思わない。文章下手だなあとかは思うけどね。
そんで増田は「自分の脳内の思考と文章が乖離していて気持ち悪い」ってことが言いたいんだと思う。こういうことが言いたいのに、うまく書けない! ってこと。そういうわけで、ブコメにも書いたけど増田には「俳句」をお勧めする。短歌でもいいぞ。
なんで「俳句」なのかと言えば、文字数が極端に少ないのにそこに情報をガンガンに乗せなければいけないから「自分の考えは~」とかやってる暇がなくなると思うからなのだ。とにかく現実を描写する、心情を書き留める、17字だから途中で投げ捨てるとかできない。詠んだら詠みっぱなしでもいい。とにかく身の回りのことをガンガン書いていく。歳時記とかはあとでいい。今は17字を淡々と積み重ねていく。
そうやっているうちに、おそらく「表現しやすいこととしにくいこと」が見えてくると思う。それから表現にも型があって、ある程度のパターンがあることに気が付いてくる。それは全部「積み重ね」という膨大な自信に後押しされる。自分が表現できるもの、表現できないもの。少しずつより分けて積み重ねて、自分自身を形作っていく。おそらく増田に足りないものは輪郭で、言葉を嵌める枠(言語化)が機能しにくいから言葉が後から後から零れ落ちているのだと思う。
言葉には言葉を入れるお皿がある。寿司桶にバターチキンカレーを入れてもいいし、醤油皿にフライドポテトを乗せてもいい。でも、それは文脈の違うもの同士の組み合わせで居心地はよくない。ひとりでラーメンを食べるなら鍋から直接食べてもいいけど、友人に振る舞うならどんぶりは必要になる。つまり、誰かに見せる文章であるなら書くものや読む人にあった文脈というのが必要になってくる。
言語化しきれない、というのはおそらくお皿の数や種類が十分ではないのかもしれない。和食を出したいのにケーキ皿しかないとか、大人が集まる席なのに幼児用のメラミンの器しかないとか、逆に小さい子供の会合でバカラのグラスを並べるとか、そういう不具合があるのかもしれない。そこでうんうん唸っているより、新しい皿を買いに行った方がいい。つまりは、インプットをもっとしたほうがいいかもしれないということだ。
インプットは「文章の書き方」という本ではなく、書きたいジャンルの文章をたくさん読むことで習得できる。俳句のようにそれを積み重ねて、言葉遣いに敏感になって、段落構成や展開について読む。文章の裏を読むと作者の主張がよく読める。ここまでできれば、多分増田も少し楽になると思う。
ただ、至らない自分と向き合うというのは往々に苦痛を伴うものである。文章なんて仕事で書かないなら別に上手じゃなくてもいいと思うので、「苦しくない」を目安に少しずつコンプレックスが解消されるとよいな、と思いました。まる。