あのにますトライバル

君の気持ちは君の中でだけ育てていけ。

リトルハーツ -sideY-

 夕焼け空がオレンジから濃い青に変わると、公園の電灯がバチバチ音を立てながらひっそりと灯る。そんな時間まで団地の公園でボールを追いかけている人影がふたつあった。
「ミキオ、はえーよ」
「ヤッスンが遅いんだよ」
 少し伸びたスポーツ刈りの二人はボールを奪い合い、そして共にボールを追いかける。暗くなってボールが見えなくなるまで、ボールにつられて広場を行ったり来たりを繰り返した。
「じゃあ、また明日な」
「うん」
 また明日、と康則は声をかけたが明日からはいつも通りの明日が来ないことをわかっているつもりだった。それでも、明日になればまたいつも通りランドセルを背負って学校へ行けるような気もしていた。この胸騒ぎは杞憂に終わる、という淡い期待と大きな不安ばかりが星空の下に残された。

 

 * * *

 

『いやだぁ、やっぱりこんなの嫌だぁ』
 康則は幼馴染の美樹の声が頭から離れないでいた。美樹と別れて団地の階段を駆け上がるたびに、美樹の泣きそうな声がどこかから聞こえてくる気がした。明日から康則と美樹は中学生になる。それまで一緒にサッカーをしてきた美樹が、明日からスカートをはいて学校へ行かなければならない。

 

 それは少し肌寒さが残る初春の日曜日だった。両親の仲が良かった康則と美樹は家族と共に注文していた制服の引き取りに洋品店にやってきていた。「男の子は大きくなるから少し丈が余っていたほうがいいのよ」など勝手に少し大きめのサイズに仕上がってきた学ランに袖を通して、康則はくすぐったいような照れくさい気分になった。父も母もとても喜んでくれて「おばあちゃんに写メ送らなくちゃ」と早速ケータイを取り出していた。ところが隣の試着室ではいつまでも美樹が出てこようとしない。「ぴったりだから脱ぐ!」と何やらごねている美樹に康則はちょっかいを出したくなり、本当に何の気もなく試着室のカーテンをめくってしまった。

 

 試着室にいたのは、確かにいつも一緒にサッカーをしているスポーツ刈りの美樹だった。だけど、いつもの男の子みたいな格好の美樹ではなくそこにいたのはセーラー服にスカートを身に着けた美樹だった。美樹の顔が引きつっているのを見て、康則はカーテンを慌てて元に戻した。その後「女の子の着替えているところを覗くなんて!」とたっぷり両親に叱られた。それまで康則は美樹を「女の子」なんて考えたことはなかった。幼いころからずっとサッカーをしてきた「友達」だった。

 

「第一、オンナ扱いすると怒るもん、アイツ」
 康則は階段の途中で、誰にともなく呟いた。康則の知っている美樹はサッカーが大好きで、オンナモノのグッズが大嫌いで、クラスの女子とは遊ばないで男子に交じって遊ぶ方が好きな変わった女の子だった。「美樹」という名前も好きではないらしく友達には「ミキオ」と呼ばせているくらいだ。わざと髪を短くして、男らしい恰好を好む美樹といると康則は安心した。それが、試着室の一件から妙に康則の心をざわざわさせていた。あの引きつった美樹の顔と、カーテン越しに聞こえてきた「嫌だ」という声が片時も康則の頭から離れない。それまで美樹には何でも話せた気がするけれど、あの瞬間から美樹はそれまでの美樹でなくなったような気がした。

 

(女の子、なんだよな……)

 

 あの試着室で見てしまった美樹のスカート姿を思い出して、康則は頭を振った。半ズボンから覗く素足とスカートから覗く素足は同じはずなのに、スカートを履いていたほうが何だか特別という感じがした。「嫌だ」という美樹にきっぱり「スカートなんて似合わない」と言えればいいのかもしれないけれど、心のどこかで美樹にスカートを履いてほしいと思ってしまったことを康則は後悔していた。

 

(でもミキオはミキオだ)

 

 康則は家のドアをくぐると、真っ直ぐ風呂場に向かった。泥だらけになって帰ってくる康則に合わせて風呂が用意されている。洗濯かごに衣服を放り込んで、さっさと湯船につかる。明日から始まる中学生活に期待しないわけでもないが、やはり頭からセーラー服の美樹が離れない。

 

(明日、ミキオになんて言おう)

 

 一緒に学校に行く約束はした。まずはいつも通り「おはよう」と言おう。それから制服について何か言った方がいいのだろうか。それとも何も言わないで学校の話をするべきなのだろうか。いっそ黙っていたほうがいいのだろうか。それともオトコらしくエスコートでもするべきなのか。

 

(何でアイツに気を遣ってるんだろう)

 

 康則は頭のてっぺんまで湯船につかる。セーラー服姿の美樹を頭から追い出そうとするが、なかなか離れてくれない。この前まで一緒にグラウンドを走っていた美樹の姿が思い出せない。一緒にお互いの家に何回も泊まり合ったし、海にもスキーにも一緒に行った。そう言えば美樹もスクール水着には何にも言わなかったような気がする。水着だって男と女とで違うのに、どうして制服はあんなに恥ずかしがるのだろう。康則は不思議に思ったが、それを誰かに尋ねるのは恥ずかしい気がした。

「ぷはっ」

 湯船から顔を出して、大きく息を吸う。息を吸えば吸うほど、美樹のことばかりが頭をぐるぐるとまわっていく。今日は中学に入る前の最後の日だからと、美樹を誘って二人で思い切りサッカーをしてきた。美樹とは同じ小学生のクラブチームで練習をしてきたが、中学に入ったらどうなるのだろう。中学に女子サッカー部はないし、サッカー部は男子しか入れないと聞いている。美樹は違う部活に入るのだろうか。そのことを聞こうと思って、今日は美樹に会いに行ったはずだった。しかし、気が付けば二人でずっとボールを追いかけていた。これからのことを話すと胸が苦しくなりそうで、別れるまで目の前のボールしか見ることが出来なかった。

 

(明日からのことなんて、考えたくもない)

 

 風呂の外から「いつまで入っているの」という声がした。康則は慌てて風呂から飛び出た。身体を拭いていると鏡の向こうの自分が美樹よりも細いことに気が付いた。明日美樹を「デブ」とからかってやろうかと一瞬思ったが、すぐにセーラー服の泣きそうな美樹が脳裏によみがえってきた。どうしてそんな意地悪なことを思いついたのか、康則は自分で自分を殴りつけたくなった。その代わりに壁に一度頭をぶつけて、鏡を見ないようにして着替えを済ませた。それから食べた夕食の味はよくわからなかった。「明日から中学で緊張している」と両親は話すが、康則はそれどころではなかった。どうすればよいのかわからないまま時間は流れていき、結局布団に入っても何もよい考えは思い浮かばなかった。

 

 そして、そのまま中学へ初めて登校する朝を迎えてしまった。

 

 * * *


 その日の朝はよく晴れていた。康則は真新しい制服に身を包み、一人で駅に向かっていた。学校までは二駅の距離だが、登校時間の混雑は慣れるまで時間がかかりそうだ。何とか人ごみをかきわけて電車を降り、学校へ真っ直ぐに向かう道へやってきた。
「おはよう」
 急に声をかけられて振り向くと、そこには同じ学校の制服を着たショートカットの少女がいた。

 美樹だった。

 

「びっくりしたよ、同じ学校だって聞いてたから」
「まあ、そういうこともあるでしょ」
 康則はなるべく平静を装い、声が震えているのが美樹に伝わらないことを願った。この辺りの女子サッカー部がある高校はこの辺りだけだというだけで、康則は志望校を決めた。他にもっともらしい理由を並べて志望動機は作成したが、本当はここになら美樹がやってくると思っていたから康則はこの高校に入ることを決めた。そしてその予想は当たり、久しぶりに自然と美樹とゆっくり話をしている。

 

 結局中学に入ってから康則と美樹はクラスが離れ離れになったこともあり、小学校のときのように一緒にいることができなくなってしまった。更に美樹の家が団地から引っ越したことや女子サッカーをするために離れた場所にあるクラブチームに通うようになったことなどから遊ぶことはもちろん会話をする機会も少なくなり、一緒にいても次第に気まずい雰囲気ばかりが続くようになっていた。そのまま中学の3年間が終わり、高校初日の朝を今迎えている。

 

「ヤッスンは高校でもバスケやるの?」
「やらない」
 康則は中学に入ってサッカー部に入ったものの、夏休み前にクラブチームの友人たちと一緒に辞めていた。そして学校では必ず部活動に所属しなくてはいけなかったため、それぞれ別のスポーツ部に入部していた。美樹は外部のクラブチームでは部活動として認められず、籍だけ花道部に置かせてもらっていた。康則はなんとなくバスケットボール部に入って、中学生活を何となくすごしてしまった。

 

 サッカー部を辞めたのには様々な理由があったが、康則にとって美樹と一緒にやらないサッカーに面白さが全く感じられなかったというのが一番の大きな理由だった。美樹のいないところでは面白みのない顧問の怒声に耐えたいとも思えなかった。何故サッカーを好きだったのかと問われれば、それは美樹が一緒にいたからだと康則は気が付いた。しかし、あのセーラー服の美樹を見てからもう二度と以前のように美樹とサッカーをすることはないのだろうと思っていた。それなら、サッカーまで好きでいる理由はない。サッカー部を辞めるときに顧問から「お前は薄情だ」と罵られたが、サッカーに対する情熱が消え失せていた康則には至極もっともな説教のように感じられた。

 

「みんながみんな、ずっと何かを好きでいられるわけじゃないしさ」
「そうかなー」
 美樹は少し癖のある短い髪の毛を押さえた。向かい風が吹いてきて、学校の周りに植えられている桜の花びらをもぎ取っていく。
「オレはサッカーひと筋だし、ヤッスンもそうだと思ってたんだけどなー」
「そーゆうもんだろ」
「そっかー」
 中学に入学する前の「オンナのコスプレ」のような子どもの姿はそこにはなく、美樹はスカートを履きこなしているボーイッシュな出で立ちの少女に成長していた。この前まで美樹のほうが背が高かったのに、康則は美樹よりも上の目線に立っていることに気が付いた。

 

「でもなぁ、やっぱりヤッスンと練習したいわ、久しぶりに」
「俺が女子サッカー部に入れってか?」
「うん、まあ、それもアリか」
「ないだろ、ないない」
 美樹はスカートを履いて笑っていた。つられて康則も一緒に笑う。二人で笑い合ったのは本当に久しぶりだった。それだけで、もう本当に春が来たような嬉しさがこみあげてくる。


「いいねえ、ヤッスンは」
「それってどういう意味だよ」
「なんだろ、一緒にいると安心する」
 一瞬、康則の心臓がドキリと音を立てる。美樹は笑顔のまま続けた。
「なんか家に帰ってきたみたいな感じで」
「俺はお前の実家か」
「また今度遊びに行くわ。おばさんによろしくね」
 他愛のないやりとりを続けながら、康則は以前からなんとなく思って来たことを再確認していた。一体どうすればこのサッカーバカにサッカー以上のものを与えることができるのか。また夕暮れの公園で一緒にサッカーボールを追いかければよいのだろうか。それとも、美樹のサッカー人生を応援し続ければ良いのだろうか。それとも……。

 

「そう言えば、ミキオって呼んでいいのか」
「やめてよ、黒歴史ー」
 真っ赤になる美樹を見て、康則はどこか安心した気持ちになった。先ほど美樹が言っていた「安心する」の意味が何となくわかったような気になり、ますます桜の花びらを身体に浴びている美樹から目が離せなくなった。
「じゃあ、何て呼ぶ?」
「……ミキさんで」
「うわ、普通」
「いーじゃねえかよぉミキオよりマシじゃん」
 間もなく学校に到着する。康則は美樹を何と呼ぶかについて、もう少し考えることにしようと決意した。

 

≪了≫

 

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