あのにますトライバル

君の気持ちは君の中でだけ育てていけ。

満ち足りない ~短編小説の集い~

「お腹すいた」
 私の口癖はそれでした。別に空腹であるわけでもないのに、少しでも満腹感を持続できないと満足できないのです。両親はいくら食べても食べたりないと言う私に困り果てたようでした。当然のことながら私はひどく太っており、昔からよくバカにされました。


「つまんない」
 私のもう一つの口癖はこれでした。両親の買ってくれた玩具に当時流行していたテレビ番組や漫画など、ひとつも面白いと思ったことがないのです。隣で同級生が何かを言っても、私が笑うことはありませんでした。

 

 あれは、私が中学一年生の冬でした。流行していた風邪にかかり、数日寝込んだことがありました。その頃、私は忙しい両親の代わりに日中は祖父母の家に身を寄せていました。小学生の頃は少しでも熱が出ようものなら祖母が飛んできて付きっ切りで看病してくれていました。ところがその祖母が入院することになり、家にいたのは祖父ひとりでした。両親は私を祖父に任せてさっさと仕事へ出かけてしまいました。この頃、両親に期待など何もしていませんでした。私を育ててくれたのは祖母だと思っていたのです。

「お腹すいた」
 熱で食欲などないのに、私は早速祖父に食事を要求しました。食べたい、食べたくないではなく食べ物が近くにないと落ち着かなくなっていました。
「朝飯は食ったのだろう、それで十分だ」
 祖父はそれだけ言うと熱で苦しんでいる私を置いて祖母の世話をしに出かけてしまいました。普段の祖母なら、早速風邪をひいていても食べられるゼリーやアイスなどを持ってきてくれて食べさせてくれるのですが、祖父にそれを期待してはいけなかったようでした。落胆よりも腹が立った私は、台所へ行き戸棚から未開封のクッキーを見つけて半分ほど平らげました。高熱で味覚も麻痺していたのですが、その時は祖父への当てつけに何かをしてやらねば気が済まないと思っていたのです。喉が渇いたので冷蔵庫にあったジュースも勝手に飲み干し、満足した私は布団に戻らず居間のソファに寝転んで教育テレビを見始めました。

 

 その時間頃の教育テレビは非常に退屈で、人形がたくさん出てきて道徳を押し付けるような話を展開していました。他のチャンネルに合わせても大人の見るようなニュースばかりで、仕方なく私は教育テレビを見ていました。大げさな演技で大人が簡単な算数の解説をするのを、当時はひどくバカらしいことと思っていて「大きくなってもこんな風に子供に媚を売るような大人にはなるまい」と真剣に思っていたものです。しばらくして口寂しくなった私はまた台所へ行くと残っていたクッキーを持ってきて、テレビを見ながら貪り食いました。
「こいつ不細工」
「ヘッタクソ」
 テレビに出てくる人に、私は思ったままの感想をぶつけました。それは祖母がテレビを見ているときはよくしていることでした。

 

「何やってるんだ! 寝ているように言ったはずだろ!」
 気が付くと、祖父が鬼のような形相で立っていました。
「だってつまんないし、お腹すいたし」
 私は理不尽に怒鳴られたことに対して不満しかありませんでした。
「こんな不摂生をしていたら治るものも治らんと言うことがわからんのか」
「ふせっせい? 難しい日本語使われてもわかんないんですけど」
 私は祖父の言うことを聞く気などありませんでした。
「何も食べずに大人しく寝ていろと言うことだ」
「じゃあずっとそばにいてよ」
 それまで風邪をひいたときは優しい祖母がそばにいてくれたのです。ずっと冷たいタオルを頭に当てていてくれたし、氷枕だって頻繁に交換してもらえたし、お腹がすいたと言えばゼリーやアイスを出してくれたし、昼食のお粥はひとさじずつ食べさせてくれてもいたのです。
「お前ももう中学生なんだ、少しは自覚をしろ」
 祖父はそれだけ言うとリモコンでテレビを消してしまいました。
「布団に戻れ。そうしないと昼飯はないぞ」
 私は祖父の言うことを聞きたくありませんでした。ただでさえ優しい祖母がいないのが不満で不満で仕方がなかったのに、普段あまり関わろうとしない祖父があれこれ指図してくるのが本当に嫌だったのです。
うるさいうるさいうるさい
 私はその時、祖父が悲しそうな顔をしていることに気付きませんでした。そして本当に祖父は昼食も、夕飯も私にくれなかったのです。お菓子を食べていたためにひもじさはなかった私はそのまま両親に引き渡されました。すっかり両親を何とも思っていない私は家に帰ってきてもお菓子を食べ、布団に入らずテレビの前で寝てしまいました。

 

 その日の夜、熱が急に高くなりました。両親が寝ずに付きっ切りで看病してくれたのですが深夜を過ぎて胸が痛んできたため急患で病院に担ぎ込まれました。そして私の様子を見て、医者が両親に何か言ったようでした。私は胸の痛みと高熱で朦朧としていたため、よくわからなかったのですが数日入院して退院してから、私は祖父母宅に預けられることがありませんでした。その時は祖父が私にひどいことをしたので両親が怒ったのだと思っていました。それよりも祖母の病状が悪化したようで、私以上に皆が祖母の心配をしていたのです。

 

 祖母が病院から戻ってくることはありませんでした。私は悲しくて悲しくて何日も学校を休んで泣き続けました。それからグズグズと学校を休むまま休み続け、気が付けば数ヶ月も学校へ行かずになっていました。慌てて学校へ戻ってもクラスメイトが何を言っているかわからず、恐怖しか感じずにそれ以降ずっと保健室へ逃げ続けました。家に帰っても両親は私のことで喧嘩をしていたので、家にも帰りにくくなりました。何とか中学を卒業した後は通信制の高校へ行き、極力両親の顔を見ないように過ごしました。その頃はまだ祖母の思い出にしがみついているときもあり、外出することもままならない日々でした。

 

 うまく行かないことだらけでしたが、先日やっと成人式を迎えることになりました。式にも晴れ着にも興味がなかった私は、家でささやかなお祝いだけをしてもらいました。月に一回お世話になっている心療科の先生のおかげで何とか無駄な間食の習慣はなくなり、標準に近いところまで体重を落とすことが出来ましたがどうしても人と会うのが怖くて家に引きこもっていることのほうが多かったのです。

 

 両親は「食事に行く」と言って騙して私を車に乗せ、祖父の家へ連れて行きました。私は祖母の葬式以来祖父には会っていませんでした。その時の嫌な気持ちを思い出し、祖父の家に着くなり吐いてしまいました。それでも両親は私を連れて家に戻ってくれず、祖父と私を二人きりにしたのです。
「座りなさい」
 あれからすっかり年をとった祖父が私に命令をしました。私は祖父の言うことなんか聞きたくなかったのですが、足が震えて立つことが出来ませんでした。
「すっかり落ち着いたと聞いていたけれど、まだ早かったか」
 その時の祖父の顔は、私に昼食を抜くと叱ったときと同じ顔でした。それからどうしてよいかわからなくなり、私の頭は真っ白になりました。

 

 気が付くと、過呼吸を起こして倒れた私の手を母が握っていました。
「ごめんなさいごめんなさい」
 母は私以上に顔をぐちゃぐちゃにして泣いていました。父も祖父も必死で涙をこらえているようでした。祖父と父は何事かを相談していました。
「今日は辞めようか」
「今日を逃したら、いつまでも本当のことを話せない」
 やっと私は、これから祖父に関する何らかの秘密を教えてもらえるのだと言うことに気が付きました。それまで私は誰かの話を聞こうと言う習慣がありませんでした。
「大丈夫だから、話して」
 このままではいけない、ということは私自身がよく考えていたのです。しかし、どうしたらよいかわからず私は問題を見ないままにしてきたのです。両親と祖父は顔を見合わせて、私を見つめました。それからしばらく無言の時が過ぎ、祖父がまた悲しそうな顔をしました。
「それでは、どこから話をすればよいのか」
「もうアレを渡しましょう」
 私は母に抱きしめられたまま、祖父から数冊のノートを渡されました。
「ゆっくりでいいから、読んでみなさい」
 それは祖母の日記でした。懐かしい文字を見て私は涙が出そうになりました。急いでページをめくる私を、母は一層抱きしめるのでした。日記にはいくつか付箋が貼ってあり、そこには概ねこのようなことが書かれていました。

 

 祖母は息子である私の父をとてもかわいい息子だと思っており、嫁に当たる私の母に対してよくない思いを抱えていたようでした。今時働きに出ている母は家庭を大事にしない悪い嫁で、そんな女と結婚した父はかわいそうだと言うのです。そして生まれた私も、本当はかわいいなどちっとも思っていなかったようなのです。孫はかわいいはずなのに、私の父をとられたようで非常に憎たらしい存在だと考えていたようです。

 

 しかし、祖母は表だっていじめをするようなことはよくないと考えたようです。どうすれば憎い嫁と孫に対して一矢報いることができるかばかりを考え、日中私の世話を申し出たようです。そして私を徹底的に甘やかして一人では生きていけないダメ人間にする計画を思いついたということが日記に記されていました。その日記の中で私はまだ3歳でした。

 

 私は食い入るように日記を読み続けました。それから祖母は私に対してのべつ構わず菓子を与え続け、ワガママはすぐに言うことを聞く「孫に甘いおばあちゃん」になったそうです。それ以外にチクチクと母の悪口を私に吹き込んで、私が母を嫌うように仕向けていました。当時を思い出すと、確かに祖母は母の悪口を言っていました。「お母さんはこういうことできる? できない、へぇ、こんなこともできないなんて、母親失格だね」「お母さんは自分の贅沢がしたくて子供が寂しい思いをしているのに勝手にお金を稼ぎに行っているんだよ」など、そんなことです。

 

 大好きな祖母が、そんなことを考えていたなんて私はちっとも気が付きませんでした。そして祖父がそんな私を心配していたなど、これほども考えていませんでした。この日記は祖母の死後すぐに祖父が見つけていましたが、あまりにも辛い話だったので私の両親にこのことを打ち明けたのは数年前で、私には精神が落ち着いてきた頃に話をしようと決めていたのだそうです。

 

 私はとても情けなくなりました。祖母に対しての怒りや祖父に対しての申し訳なさもありましたが、そんなに大変なことが周りで起こっていたのに自分が一番不幸だと思って全く他人の話を聞かなくなっていた自分に対して一番怒りがありました。その日、私は母に抱かれたまま泣き続けました。思えば、子供の頃怪我をして泣いていると祖母は「おおかわいそうに、お母さんがいないから怪我をしたんだね」など怖いことを言っていました。母は冷たい人ではありませんでした。父も祖父も私を心配していただけなのです。まんまと祖母の策略に陥っていた自分が情けなくて情けなくて。その日は祖父の家で一晩中泣き続けました。

 

 これから私がどう生きていくかはわかりませんが、まずは両親や祖父と真剣に向き合って行こうと考えています。祖母のことは未だに夢に見るほど好きなのですが、少しずつ忘れていかなければならないことは頭で理解しています。そのためにも、心療科の先生に薦められた支援施設に入所することが決まりました。他人と話すのはまだ怖いのですが、これからは両親と祖父が私を見ていてくれると信じて私も行動しなければと感じています。

 

 私の話はこれでおしまいです。自分と向き合うために、心療内科の先生にこの話をするようにと言われたのでこの話を書きました。この体験談を聞いていろんな人は私をかわいそうだと思うでしょうが、私はかわいそうな人なんかではありません。だけど、私はこれからも失敗をたくさんしてしまうと思います。どうか、こんな私をこれからもよろしくお願いします。

 

≪了≫

 

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 「潮焼きそば」の続きとかいろいろ考えたのですが、結局ド直球なhagex脳患者的な話になっていました。おそろしいおそろしい。