あのにますトライバル

君の気持ちは君の中でだけ育てていけ。

潮焼きそば ~短編小説の集い~

 海に浮いている。波に揺られて上下するリズムが心地よい。上の方は青空が広がっていて、雲ひとつ見当たらない。夏の日射しが海に浸かっていない肌をじりじりと焼く。時折火照った肌に海水をかけると、塩気が肌に張り付く。低い位置にあった太陽は高いところへ昇り、今少し傾き始めている。こうして今日も、海の上で太陽を眺めて終わる。

 

「いつまで、こうしているんだろう」

 

 全身の血潮が海に溶け出すのではないかと思うまで、空気の入ったマットと海に身体を預けていた。すっかりふやけて、日に焼けた美幸(みさち)が陸に上がるころには日は随分と傾き、浜辺に来ていた親子連れはすっかり姿を消していた。代わりに増えてきた花火を持っているカップルを見て、美幸は苦々しい顔をする。歩いて浜辺の民宿まで戻ると、この宿の主人の和子(かずこ)が返却された浮き輪を洗っていた。民宿とは別に、この宿は海水浴客向けに遊具のレンタルや軽食サービスなども行っていた。どちらかと言えば本業はそちらで、民宿は格安で提供されるおまけのような営業振りだった。

 

「あら、お帰りなさい」

 

 美幸は和子に軽く会釈をすると、店の前の蛇口で足の砂を落としてから数日滞在している部屋に戻る。それからシャワーを浴びて、髪も乾かさないまま部屋の窓を開けた。窓の外には海が広がっていて、先ほどまで美幸の全てを受け止めていてくれた。夕日の色に染まった海は美幸を受け入れることはなく、ただ潮の香りだけを風に乗せて部屋に運んできた。静かに寄せる波がキラキラしてきれいだ、と美幸は思う。あのキラキラの中に入れたら、もうこんな思いもしなくていいのに、とも思った。

 

 ゆるやかに死んでいくのに、きれいなものになれたら素晴らしいじゃないか。

 

 美幸がこの浜辺にやってきたのは、仕事にも恋愛にも全てにおいて望みを絶たれた数日後のことだった。死ぬことを思い立ったら、後は早かった。家の中で死ぬのはいろんな人に迷惑がかかると思って、美幸は身の回りの物をまとめて外へ出た。そしてせっかく死ぬのだからどこか知らない、きれいなところで死のうと思い直した。そんな気持ちで電車に揺られ、たどり着いたのがこの海辺の町だった。

 

 まだ夏休みの始まっていない浜辺は海水浴客はまばらにいるけれど、それほど賑わってはいない。それに浜辺からは高く突き出た岩場があって、真下が浅い磯になっている。頭から落ちれば命はないだろう。誰も岩場に登ることはなかったが、その不穏なオブジェも美幸の頭にこびりついた「死」を想起させた。夕方に近い時間帯の浜辺は人も少なく、傾き始めた日の光すら美幸には血の色に感じられた。

 

(あそこから飛び降りよう)

 

 後は決行するだけだ。遺書も何もない。未練も汚い思い出も何もかもをこの世に置いて、きれいな心持ちであの世に行きたかった。死ぬための心の準備が整えよう。そう思いついた美幸は、浜辺の店の前へふらふらと歩いて行った。死ぬ前にお腹一杯食べるものは何にしよう。海の家の焼きそばがいいかな。そうしよう。

 

「ごめんね、焼きそばは売り切れなの」

 

 海沿いの露店でその目論見はあっけなく崩れてしまった。数個並んでいる会議用テーブルとパイプ椅子。その奥に鉄板と冷蔵庫が見える。店内にはマジックで書かれた「浮き輪あり□」「水着レンタル」の文字が躍っている。その店内の楽しそうな装いに自分には場違いな場所だ、と美幸は内心嘆いた。

 

「ところであんた、泊まるところあるの?」

 

 じゃあいいです、という言葉を告げる前に露店の主人にそう言われ、美幸は反応に困ってしまった。

 

「見たところ遊び道具のひとつも持っていないようだし、体一つで遊びに来たって言う感じかい?」

 

 そうです、と答えることで美幸は精一杯だった。まさか死にに来た、ということも出来ないし、何より初対面の人と話すのが苦手だった。

 

「で、どこに泊まるんだい?」

 

 それから美幸は何を話したのかよく覚えていない。気が付いたら、この店は民宿も兼ねているからそこに泊まって行けと言う話になっていた。一泊二千円と格安な値段で泊まることを勧める女主人の和子に、断る理由が思いつかなかった美幸は「はい」というしかなかった。

 

「いつまで、こうしているんだろう」

 

 それから何もしないわけにもいかず、水着と空気マットを借りて美幸は岩場を眺めていた。遊泳区域の中でふわふわと浮いているのは楽でいいけれど、他にすることがあるだろうと自分に言い聞かせる。例えば遊泳区域を仕切るブイの向こうへ行ってしまうとか、浜辺に落ちているガラスの破片で皮膚を傷つけるとか、いろんな方法があるはずだ。だけど、そう思ってもすぐに波のリズムが死にたいという気持ちを押し流してしまう。

 

 とにかく夏の日射しと潮の香りが美幸の心を鈍くさせ、死にたいという欲求を波に乗せて隠そうとする。手入れのされている宿の部屋だったが、どこか畳まで潮でべとべと湿っている気がする。敷きっぱなしの布団の脇には、持ってきた荷物が乱雑に散らばっていた。夏の頭にせっかく買った高い日焼け止めは、今はもう使っていない。スマートフォンも、電源が切られたまま部屋の隅に転がっている。

 

(そうだ、私は死にに来たんだった)

 

 腹の虫がぐう、と鳴いた。今朝から何も食べていない。泊まった翌日の朝などは和子がサービスしてくれた朝食などを食べていたが、どうせ死ぬのに食べても食材が無駄になると思うとひどく申し訳ない気がして、今朝は勇気を出して断ったのだ。「あら残念」と和子はぽかんと言っただけだった。そのまま顔を合わせるのが気まずくて、美幸はすぐに浜辺へ向かった。それからずっと波に漂っていたり浜辺に座り込んだりしていて、なんとなく夕方になるのを待っていた。そういえば水も飲んでいない。目の前が黄色くなったような気がした。

 

(今なら死ねる気がする)

 

 胃袋が空っぽの状態で死ねば、摂取した栄養も無駄にならない。そんなどうでもいい考えが美幸の頭を支配していた。美幸は薄手のパーカーを羽織ると、部屋を飛び出した。そっと忍んで岩場まで行こうと思ったのに、店の前でまだ和子が浮き輪を洗っていた。美幸は何か話しかけられるのではないかと戸惑った。美幸がおどおどしている間に、和子が美幸に気が付いた。

 

「あら、ミユキちゃん。どうしたの?」
「ミユキじゃなくて、ミサチです……」

 

 やはりこの和子という女性は苦手だ。平気で人の領分にずかずかと踏み込んでくる。頼んでもいないのに宿を提供したり、朝ご飯を出してくれたり、そしてこんな大事な時にも人の邪魔を平気でする。美幸は内心の嫌な気持ちを押しとどめることで精いっぱいだった。

 

「あらあらごめんなさいね。こんな時間にどこに行くの?」
「ちょっと、そこまで散歩です」

 

 何とかうまく誤魔化せたと美幸は思った。店から出てしまえばこちらのものだ。こんな汗をかくような気持ちとも、永久にさよならができる。

 

「それならちょうどいいから、そこに座っていなさい」

 

 美幸は内心毒づきながら、パイプ椅子に腰かけた。きっぱりとここで「いいえ」と言えればいいのに、言えないことでずっと損をしてきた。小学校の先生には「もっと自分の意見を言いましょう」と言われ、ずっといろいろと損な目にあってきた。せっかく久しぶりに自分の意見で行動しようとしているのに、またしても自分の意見が言えないために死ぬことすらできなくなっている。

 

「何をするんですか?」
「サービスよ、サービス」

 

 和子は浮き輪を並べ終えると、調理台の方へやって来た。冷蔵庫から手際よくキャベツの玉を取り出すと、芯を取り除くこともせずザクザクと切っていく。

 

「あたしもねえ、こう見えてもあなたと同じくらいの娘がいるの、今年で二十三よ。だけどね、高校を卒業したらナントカの専門学校に行くんだって言って出て行って、それからずっと帰って来ないのよ。年に何回かは顔を出すんだけど、夏の間はあたしが忙しくてね。思えばゆっくり娘と夏休みを過ごした記憶がないのよ」

 

 だから何なんだ、と美幸は腹を立てていた。私はオバサンの世間話を聞きにここに座っているのではない、自分の意志と反するところで縛り付けられているのだと言う不快感で顔色がどんどん変わっていく。

 

「そしたら今年は孫が生まれたから夏の間久しぶりにこっちに帰ってこようかななんて言うんだよ。あの子は昔はウチの家業を嫌っていたのにね。好きな男の子が夏休み明けに『おまえんちの母ちゃんのラーメンうまいな』言われて、それが何だか知らないけれどダメだったみたいなの。ホント子供ねぇ」

 

 和子は手を動かしながらクスクスと笑った。美幸は話の笑いどころがわからなかった。

 

「まぁあたしたちも人様に顔向けできる立派な仕事をしているわけでもないし、こうやってお客から金を巻き上げている商売なんて思われても仕方ないわよねえ。でもあたしはこの仕事が好きなのよ。いろんな人に出会えるからね」

 

 美幸は和子の話を聞きながら、店の外を見ていた。夏の長い日はまだ空にしがみついていたが、夕方の涼しい風に帰りの海水浴客たちは上着を着込んでいた。

 

「まだ時期が早いからお客もいないけれど、もうすぐしたら遠くから波乗りどもがやってくるんだよ。昔からの馴染みの奴らでね。何日かウチに泊まりこんで朝から晩まで塩漬けになってるんだ。気持ちのいい連中だよホント」

 

 和子は野菜を刻む手を止めて、美幸をじっと見た。美幸はその目を見ていないふりをした。

 

「それからね。ミサチちゃんみたいな子もたまにやってくる」

 

 美幸は聞こえないふりをした。

 

「何をしに来たんだかよくわからない子。そういう子は海に来る恰好をしていないからすぐわかるんだ。水着もビーチサンダルも持っていない。しかも一人でやってきている。昔からね、何度かあったんだそういうことは」

 

 美幸はドキリとして和子の方を見た。和子は刻んだ野菜を熱した鉄板の上に置いて、じゅうじゅうと炒め始めた。

 

「わかって、いたんですか?」

 

 カラカラに乾いた声が美幸の口から漏れる。この計画は最初から失敗だった。いつまでもグズグズ死ねなかった美幸の負けだ。

 

「そりゃねえ、今にも死にそうな顔をしたお嬢さんが一人でふらふらやってきて『焼きそばください』なんて、滅多にあることじゃないよ。だから、あの時は嘘をついたの。何が何でもあんたをここに置いておかなければならないって思った。それから海で遊べば気分も変わると思って、水着とかを渡したの」

 

 美幸は目の前がくらくらと白んでいくような気分になった。それ以上私の心を暴かないで。これ以上みっともない姿をさらしたくないの。

 

「後はあんたに任せるしかないって思ったの。それでも決心が固い人をあたしが止めるなんて、少しでしゃばった話だからね。でも、少し元気になったみたいだから、今日は嘘をついたお詫び」

 

 鉄板からソースを焦がす香りが漂ってきた。じゃあじゃあとヘラを使って和子は器用に鉄板の上で麺をほぐし、ソースと野菜を絡める。

 

「はい、大盛り焼きそばお待ちどうさま。お腹が空いたでしょう」

 

 美幸の前に出来たての焼きそばが運ばれてきた。和子は更に売り物のラムネをケースから出して、脇に置いた。

 

「ウチでよければ、気が済むまでいていいのよ。もちろんお金は気が向いたときに払えばいいから」

 

 美幸は震える手で割り箸を割ると、急いで焼きそばをかき込んだ。海の味がする、しょっぱい焼きそばだった。一口食べると、体が焼きそばを求めて箸が止まらない。カラカラの喉にはラムネが沁みた。甘いはずなのに、ラムネまでしょっぱいような気がした。

 

「そうだ、よかったらこの夏の間ウチの手伝いをしないかい。それで焼きそば代はチャラにしてあげるから。早速明後日から海の男どもが来るからありがたいね」

 

 和子の声が遠くで聞こえた。アツアツの焼きそばの湯気で視界が見えないのでもない。ぼたぼたと何かが終わったように美幸の目から海が溢れていた。いつの間にか外は暗くなっていて、店の前の街灯が音を立てて光り始めた。そうして美幸が岩場に行く機会は永遠に失われてしまった。

 

≪了(4906字)≫

 

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 邦画っぽいのを目指しました。何か「うまそうなものを書こう」と思うと、高確率で焼きそばか屋台のものになるのは何らかの心的要因が選ばせているのだろうか。