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『おもひでぽろぽろ』のお父さんがタエ子をぶった理由

 夕べTVで『おもひでぽろぽろ』をやっていて、そのせいかこんな増田が上がっていた。多くの人が「ジブリ作品だから」と見る映画の中でもかなり難解なこの作品のもっとも難解な場面について考えようというモノです。

 

授業『おもひでぽろぽろ』でお父さんがタエ子を打った理由

 

 実は昨日ちゃんと見ていなくて、帰宅したらちょうど例の「エナメルのバッグ買ってー」というシーンでそこだけピンポイントで観たのでした。そんなわけでつらつら書いていきます。

 

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【全体的に行儀が悪いから】

 突き詰めるとこれに尽きると思うのです。主題は「タエ子のワガママ」ということです。父親の殴打に至るまで、タエ子は実に子供じみた「ワガママ」を言い続けます。

 

 エナメルの新しいバッグを買ってほしい、お姉ちゃんには新しい振袖で私はお古は嫌だ、たまねぎは食べたくない、やっぱり捨てないで、どうしてお姉ちゃんも一緒に行くの、エナメルのバッグなんかやっぱりいらない、わたしがこんなに困ってるのにどうしてみんな薄情なのもう少し優しくしてもいいんじゃないの家族なんだから、やっぱり行く!

 

 タエ子のワガママの特徴は、要求が受け入れられないと不機嫌になるのにその望みがきっぱり叶えられないことがわかると「やっぱり!」と撤回してすぐいい子になろうとするところです。「たまねぎ嫌い、残す、お父さん食べて」と言いながら玉ねぎを捨てようとすると「やっぱり食べる!」と言い出す。同じように「やだ、行かない!」と言いながら「やっぱり行く!」と急に言い出す。この「やっぱり!」攻撃のタチの悪いところは、「やっぱり撤回したんだからいいでしょ!」みたいな形で開き直りが出来てしまうと言うところだ。正しい行為の後出しじゃんけんのようで、勝ちは勝ちだけれどズルい勝ちなのです。

 

 不満があると言う気持ちは非常にわかるけれど、それにしてもタエ子の振る舞いは非常にみっともない。あれもやだこれもやだと口では言い続け、「じゃあ嫌ならいいのよ」となると「やっぱり!」と言い出す。自分で残したのに捨てられる玉ねぎに追いすがったり、お出かけ用のバッグはいらないと言ったのに欲しがったり、お出かけに行かないと言ったのにやっぱり行くと裸足で飛び出して来たりと周囲を振り回す。おそらくこの性格は末っ子ならではのものではないかと思います。

 

 何かと姉たちと張り合おうとしたりするのはタエ子の性格からでしょう。でも年齢差等で叶わないので「こんなに私は頑張ってるのにお姉ちゃんはズルい!」「お姉ちゃんに勝ちたい!」というところで同情を買うような行為に出ているのではないでしょうか。そしてそんな風に普段から姉たちに比べて出来の悪いとされているタエ子にとってこのお出かけは両親を独り占めできる絶好のチャンスだったのです。「どうしてお出かけにお姉ちゃんが一緒に行くの」と不満をこぼしていたあたり、その計画が狂ったことが彼女の最大の不機嫌の原因であると思われます。

 

 お父さんが「裸足で」と口走ってタエ子を叩いたことで「裸足で外に出たから叩かれた」と捉えられがちですが、この「やっぱり!」攻撃の臨界点が「後先も考えず裸足で飛び出してきた」ということに集約されるのだと思います。つまりタエ子のワガママは己の要求を通すというよりも、かなり場当たり的な八つ当たりなのですね。玉ねぎも本当に食べられないほど嫌いと言うわけでもない、へそを曲げて本気でお出かけに行かないというくらいバッグが欲しいわけでもない。ただただ目の前の気に入らない事象に対して不快感を示しているだけで、その周りの人や自分の行動を一切顧みない。そういうことに対して「ぶった」のだと思われます。

 

 何も殴ることはないじゃないか、と思うのですがこんな風に場当たり的な八つ当たりを繰り返すタエ子には口で諭しても効果がないと思ったのかもしれません。実際、タエ子は全体的に場当たり的な性格のようで27歳になっても「田舎に嬉々として行く」ということが「農家の嫁になる」という行為に直結していることを理解していませんでした。この致命的に見通しのなさの子供バージョンが「エナメルのバッグ事件」だと思います。こんなふらふらしているタエ子に「芸能界はダメだ」と言い張ったお父さんは、結構タエ子のことを見ていたのかもしれません。

 

 この夕飯のシーンでおばあちゃんがぽそっと「うちの子はみんなワガママだよ」というのですが、実際姉も母もかなり自分本位というか、周囲の人を気遣うと言う感じではないのです。何なんですかね。

 

【難解な『おもひでぽろぽろ』】

 そもそも『おもひでぽろぽろ』が難しいのは、過去と未来を単純に行ったり来たりするだけでなく、過去が完全に「回想」によって構成されているからで、それは客観的な映像ではないと言うところが大きいと思われます。父親に殴打された後、現在に戻ってきて「あのときはひどく痛かった」と振り返るのですが、それはタエ子の心の痛さと相乗して「ひどく傷んだ」という思い出になっているのだと思います。序盤で空を飛ぶなど、あくまでも過去パートは全部タエ子の心情のみで進んでいて、そのからくりが終盤のアベくんの話に絡んできます。

 

 タエ子の視点の映像ではアベくんに対する罪悪感で終始しているのに対して、トシオはそんな話を客観的にアベくんの立場も考えながら論じます。このアベくんの話、男だからとか女だからとかそういうことではなくて「子供の自分を連れてきた」というタエ子がまだまだ「子供の自分」と客観的に向き合っていないというか「タエ子はまだ幼い子供のまま」という象徴のような気がします。いくらなんでも27歳のいい大人になれば当時のエピソードからアベくんの想いを少しでも汲み取ることはできそうなものですが、車の中で27歳のタエ子は完全に小学五年生の自分そのものになっていたのですね。結婚とか考える余裕もないのです。

 

 そんなわけで、1991年公開とかそういうことを差し引いてもタエ子は27歳にしては非常に幼い。幼いというか、自分の理想の世界に閉じこもって現実を生きているはずなのに思い出の中に生きているような、そんな感じの印象を受けるのです。自分の中で全ての答えを出さなくてはいけないと思っているから、分数の割り算が出来ない。他の人から言われたことはしたくないけど、だからと言って自分でこれがしたいと言うものが決定的にあるかと言えばない。だから場当たり的に八つ当たりもするけれど次の瞬間ケロリとしている、そんな女性です。だからストーリーが見えにくい。基本的に場当たり的な性格の女性の過去と現在を行ったり来たりするから観客はハラハラする。こいつは何が言いたいのか、と考えているうちに映画が終わる。おそらく裏の主題は「田舎アゲ都会サゲ」と言うことだと思うのでタエ子の心情はわりとどうでもいいのかもしれません。

 

 まぁそんなわけで、自分はこの映画を「通しで観たくない映画」だと思っています。全体として話をまとめようとするととりとめがなさ過ぎるだけでなくタエ子の幼さや甘さが強調されて、なんとも微妙な気持ちになるのです。回想パートのみを分けて見ていくならそれほど気にならないのが不思議なんです。いっそひとつの物語ではなく、完全にオムニバスにしちゃったほうがよかったんじゃないかと思っています。

 

 好きか嫌いかと言われれば嫌いのグループに入るのですが、とにかく背景や心情描写が巧みで前半の生理の話やエナメルバック事件など「国語の教科書」に載せてもいいような話は大好きです。つまり子供だけにしておけばよかったんだよなぁ、と思うのです。おわり。