どうにも心配で仕方なくなった感じなので少し書きます。これは自分が以下の記事を見て書きたいように書いた記事で、できればそうやって思っていると言う人がいるんだよっていうことがわかってもらえればいいかなくらいの記事です。それ以上の意図はありません。
とにかくね、とれいCさんはものすごく追い詰められていると思う。何に追い詰められているのかって言うと、多分潔癖な自分自身に追い詰められていると思う。この記事読んで何か強烈なSOSを発信している気がして、何だか書かずにはいられなくなった。
だって、すげー心配なんだもん。24歳の女の子が家庭内でそこそこ健全な人間関係を築く練習をしないままリアルの人間関係では退職しようとしていて、そして健全とは程遠いおままごとみたいなネットの人間関係の中で変な承認欲求を高めた結果、ある意味正直な世間から大々的に責められているわけだからね。不安になる。「この子大丈夫かなぁ?」みたいな感じになる。これから書くことは親戚に一人くらいいそうなお節介で心配性なおばちゃんが「アンタ大丈夫かい? ちゃんとご飯食べてるの?」みたいな感じで読んでもらえれば幸いです。つまりある程度流してもいいよってことです。
実はとれいCさんのことは炎上前から「大丈夫かなぁ……」と心配していました。具体的に言うとモテコーデの記事から。記事の書き方が完全に憧れのお姉さまスタイルだし、微妙に顔出して女の子アピールしているし、何より人間関係の距離感がちょっと怪しい。下手したらはてなのよく知らなくて気持ち悪いウンコ漏らしオッサンたちのエサになるんじゃないかなーと思っていた矢先の炎上でした。その辺については他の気持ち悪いオッサンたちからいろいろ書かれていたと思うのでここでは繰り返しません。
本題の言及記事についてなのですが、非常に短いのでとれいCさんの想いが端的に伝わっていると思いました。正直言って、文章に脈絡がなさすぎるのです。
「私は私なのだから、自分を一番に大切にするために、そんなもの気にしないでおこう。」
そう思った時点で私はきっと、誰よりその声を気にしています。
そうこうしているうちに、ギスギスと声高に街を歩く「私」が一体何者なのか、わからなくなってしまうような気がします。
この部分は非常にわかるのです。いろんな人の声を聴くと、自分って一体何なんだろうなって思うのは誰にでも経験のあることだと思うのです。だけど、どうしてこの文章に繋がるのかがよくわからない。
きれいな言葉を、きれいな気持ちを、伝えられる人間になりたいです。
街のど真ん中で喧噪に負けず堂々とそれができる人間が、私の理想です。
自分自身がわからなくなってしまうから自分自身を見失わないようにしよう、ではなく「きれいな自分を宣言しよう」に繋がってしまったのが本当に危ないと思いました。
タイトルにも掲げたのですが、「水からの伝言」という話があります。簡単に説明すると「水にありがとうや平和などきれいな言葉をかけるときれいな形の結晶になり、バカとか戦争という汚い言葉をかけると汚い結晶になる」というものです。もちろん非常にバカげている非科学的な話です。これの別バージョンに「果物にきれいな言葉をかけ続けると腐らなかった」というものや「汚い言葉をかけ続けた花のほうが早く枯れた」などというものもありますが、どちらも科学的に根拠のアヤシイ言説です。
多分とれいCさんの心も、過去の記事を少し読ませていただいた限り、「きれいなもの」を欲しがっているのだと思います。それは物でも価値観でもなくて、とれいCさんを否定しないという意味で「きれい」とか「整った」という表現をしているのかな、と思います。そうすると「きれいな気持ちを伝える人になりたい」っていうのは、なんか普通の使われ方と違う気がする。ただのビューティフルな意味ではなくて、ドロドロした承認欲求関係の気持ちが引きずり出されてくる。
自分は人間関係の専門家じゃないから人間関係の距離感がどうのこうのとは言わないけれど、何かを伝えるにおいて「ポジティブなことだけをやたら発信するには訳がある」ということはネットやリアル問わず横たわっている真理じゃないかなと思っています。何かをすれば多少なりとも良いことと悪いことはあります。そのメリットデメリットの差を考えて人は打算的になります。なるべくその差を埋めようとあーだこーだと考えるわけで、何事も「絶対いい」とか「絶対悪い」はないです。そんな中で「これをするとメリットがたくさんだよ!!」と宣伝するのは単にデメリットを隠しているだけのことも多いです。更に言うと、大体メリットだけを歌う奴は何か打算があってやっているわけで、一歩間違えば自己啓発セミナーとかネズミ講とか、そういうのに繋がっていきます。そういえば昨日そんなジェネレータでネタ的に作った画像があるので参考に置いておきます。
ジェネレータを使って「自己啓発系の悪循環」を作ってみました。
http://t.co/ml641lT9d0 pic.twitter.com/x5vb7SJ37F
— 虚無透 (@zeromoon0) 2015, 8月 5
この中で薬物依存的に使われるのが「きれいな言葉」に相当するのかなと思います。いくらきれいな言葉をかけても現実が変わる訳でも、ましてや自分が変わることなどないのです。というか、自分って自分自身の意志で変わるかなり難しいと思うのです。いろんな経験を積んだり、人間関係にもまれて粗がとれて丸くなるのが自然な変化で、人工的に「それっぽい言葉」でヤスリをかけてもなかなか心に響くものではありません。響いているのはそんなつもりになっているだけで、本当に変質しているのなら多分わざわざ人に言いふらすものでもないと思うのです。
つまり何が言いたいかと言うと、きれいなものだけ見てもきれいな人間にはなれないし、汚いものを汚いと思えないときれいなものをきれいって思えないと思うのです。人間関係で苦労したことが今までもたくさんあったと思うのですが、とれいCさんはネットではなくリアルの人間関係でもっと思いやりとか人情とか、そういうのに触れたほうがいいのかなと思った次第です。ただ、ネット経由で「リアルで会いたい」と言う男の人の話は本当に信用しないほうがいいと思います。できれば職場とか街中とか趣味とか、リアルを通して信頼関係を築いて、そこで成功したり失敗したりして距離感を掴んでほしいなと思う次第です。とれいCさんは恋愛を遊びにして駆け引きをする、というタイプではなさそうなので完全に食い物にされると思うのです。
そんなわけで、とれいCさんは「きれいな気持ちを伝える」前に「自分の気持ちを自分の言葉で伝える」ほうが大事なのかなと思った次第です。炎上前の記事は、正直誰かの真似っこだと思うのです。ビックカメラの記事も、周りの友達にやいやいやって雰囲気に流されて書いてしまったものだと思うのです。自分自身にしかないものは、自分自身じゃないと掴めません。そのときに自分の中のきれいなものだけを拾おうとしても汚い気持ちが邪魔をすると思うのです。だから、汚い気持ちもきちんと認めてあげる。そうすれば汚い気持ちは自分の邪魔をしないと思うのです。

ゆがみちゃん 毒家族からの脱出コミックエッセイ (メディアファクトリーのコミックエッセイ)
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ここまで書きながらなんとなく「ゆがみちゃん」を思い出しました。自分自身を抱きしめることが出来るのは、やっぱり自分自身。自分の気持ちと向き合うのは難しいけれど、そこに蓋をすると辛いだけっていう感じかな。漫画は作者さんのnoteでも大体公開しています。
親が無理なら別の信頼できる人に汚い気持ちをぶちまけたほうがいい。私は辛かった、私は悔しかった、私はもっといろんなことをしたかった。ネットの関係は無責任だから、本当にリアルで信頼できる人にしたほうがいい。そうやって自分の汚い感情と折り合いをつけてから、また自分をみつめたほうがいいんじゃないかな。このままだと汚い気持ちが暴走して、心身ともにやられかねない。自分の感情の面倒は自分で頑張ってみてみよう。「そんなの無理」って思うかもしれないけれど、今とれいCさんに必要なのはそういうことだと思うんだな。
まぁ、こんな風に言及したのも何かの縁かもしれないけれど、できれば自分にみえないところでとれいCさんは幸せになってほしい。特に幸せ自慢だけはしてほしくない。とれいCさんだけの幸せは、とれいCさんが独り占めしていてほしいからね。とりあえずここから生あったかく見ているつもりになりますが、特に仲良くしたいとかどうこうということではありません。この辺から距離感を学んでいけたらいいのかなとも思います。
最後になんか湿っぽい気分にしちゃったらアレかなぁと思ったので過去に行った「水からの伝言実験」の記事を貼っておきます。これを読んでバナナの気分になってください。おわり。