あのにますトライバル

君の気持ちは君の中でだけ育てていけ。

青春よ再び漫画かと思ったら物凄いモラハラ野郎を見て書かずにはいられない

 読み切り漫画を読みました。面白かったです。

 

comic-days.com

 

 それで、面白かったついでに「このシーンだけ抜いてもかなりすごいな」と思うところをちょっと書いていきます。

 

 読み切りなので読んで貰いたいのですが、一番気になった箇所は「母親とフットサルで対戦することになった少年が母親に勝つために家を(わざと?)散らかして家事の量を増やして嫌がらせをするところ」です。このシーンだけでこの家庭の問題点がガーっと浮き上がるの、何て言うかすごいなあと思いました。以下家族のそれぞれの視点でこの行為を中心に見ていきます。

 

○息子(圭人)

 彼はなかなか性悪に描かれてますが、10歳という年齢ということもあり第二次反抗期なんだろうと思います。要は親離れの時期なのです。この作品のテーマのひとつが「子離れ」でもあるので、こう言った強烈なギャングエイジ全開の子供が出てくるのはアリかなあと思います。それに弟がいるので、より兄貴っぽく振る舞いたかったのかな。そういうわけで彼自身は成長の一環であるため、この文章書いてる人はあまり憎たらしくは思いませんでした。「ああ、かなりリアルな子供だなあ」って思いますね。すごく上手い。こういういきなりイキる子いる。大体高校生くらいになると落ち着く。


 しかし、例の「おっかあを疲れさせる作戦」は完全に母親に甘えた甘ったれです。すっごい甘えてます。何故こんなになったのかと言えば、それはこれまでの積み重ねもあると思うのです。全体的な描写を見る限り、スポ少ママという存在の悪いところが濃厚に出ているなあとも思いました。


 だって、大体の家庭なら「なんじゃこりゃふざけんなママは片付けないぞワリャこのクソ坊主が悔しかったら自分で飯作れや!」で終わりだもの。そこまで口汚くなくても「自分で出したものは自分で片付けなさい。ママは知りません」で終わり。それがママへの攻撃になるってことはつまり、そこから先をママが「やってしまっていた」ことがここでぐーっと浮き出てくるのね。スポ少ママっておそらく何でもかんでも先回りして子供がスポーツを出来ることに専念していると思うのだけど、あまりにも何でもかんでもやってあげるとそれが当たり前になって、「自分で自分のことをやる」ってことに意識が向かなくなる。成功したスポーツ選手なんかは「僕を支えてくれた皆さんのおかげです」って言えるんだけど、ここで圭人くんは完全にママを下に見ているわけですね。


 じゃあなんでママを下に見てしまったのか、というのは後で書くとして圭人君自体は本当にただの親離れの時期なんだろうなって思った。周囲に引かれてるのに頑として俺は正しいんだムードを出すところとか、本当に思春期入りたて少年で可愛い。キャラの描き方がすごく上手だと思った。すごい。


○母親(成美)

 典型的なスポ少ママだったのだろうなと思う。息子の応援にのめり込んで我を忘れた結果息子にマウントを取られる形を作ってしまい、その挽回のための話がこの作品だったのかな。最終的に息子と和解できてよかった。

 
 犬の躾でよく言われるのが「犬は序列の生き物なので、家族の序列を非常に気にする」ってものがあります。「家族間に序列なんて!!」とアレルギー起こす人もいるかもしれませんが、まあ落ち着いて聞いてください。犬は序列の生き物なので、飼い主の下につけば従順に言うことを聞きます。しかし、自分が一番上だと認識すると人間を馬鹿にして全く言うことを聞かなくなります。そのため、犬の躾は順位をわからせることなんていうのがよくある話です。


 実はこれ、人間でも起きる話です。自分より下の人間には錯覚すると何をしてもいいと思う人間が一定数存在します。そういう人に対処するためには、もうマウント返ししかないのです。「誰がご飯作ってると思ってるの!!」に嫌な気持ちを持つ人もいると思うけど、こうなった時の最適解は多分これなんだと思う。息子がマウントを仕掛けてきたら、ママも絶対的に折れないマウントを取り返す。「ママはサッカーが出来ないバカ」と言われたら「ハァあんたは合気道出来ないでしょうがバーカ」と返すしかない。


 こんな風に書くと「なんて乱暴な」と思われそうだけど、要はママの中にある折れない軸を見せつけて、「自分の身体の延長上に存在する便利な道具」扱いから1人の人間としてママを認識させることが大事になってくると思うって話。主人公サイドの元バレー部のママのボールさばきを見て改めてママのすごさを知る息子っていうシーンと対になるところだと思います。ママも1人の人間なんだって思わせないと。家の片付けさせてる場合じゃないんだよ。片付けは自分でやれ。ママは頑として片付けるな。この仕打ちは「あーそー敵ならママは外で1人で食べてくるから、もう家に帰ってこないから、じゃあね!」くらい言ってもいいんじゃないかなあ。


 いつだか話題になってたけど、こういうとき瞬発的に怒るのって大事かもしれないなと思う。おそらく日々の積み重ねで怒るべきところで怒らなかった結果、ここまで相手を舐め腐った関係まで悪化してしまったのかもしれない。それに気がついて、奮起してここまで関係を改善できたのはすごくよかった。最終的に彼女が頑張ったから、ここまでいいお話にまとまったのだと思う。現実はそうじゃないから。


○父親(圭太郎)

 小物。わかりやすい悪として登場するのですがおそらくこの人全然悪気がありません。だからきっと何が悪かったのか自分ではわからないと思います。今回のことで子供含めてドン引きした周囲が間に入ってくれることで、自分が何をやっていたのかをわからせる必要はあるかと思います。途中でシングルマザーに「ぶっちゃけ離婚案件よ」と言われているところ、これ本人は焼き肉の席で言われたりしているのかな……?


 それに「テスト前だから息子の気持ちをアゲないといけない」っていうのがよくわからなかった。ほぼエキシビジョンマッチのような試合で母親チームに負けたことを引きずるメンタルならそれはそれでプロとしてやっていきたい人ならどうなんだろう……? シビアな人なら最初から「テスト前だろうと現実を見せてやれ」って言いそう。少年スポーツの世界では実際どうなんだろう?


 つまり、テスト云々は口実で単にこの人が母親に負けたくないからメンタルを折るような真似をしても勝ちにいくってことですね。多分この人学生時代からそういうこと繰り返しやってるんだろうな。うーん、小物!


 ここからはこの作品には書かれていない作者の個人的な読みですが、おそらくこの人は寂しかったのだと思います。何故なら、父親ってある一点において母親には絶対勝てないんですよ。だから息子に構って貰いたくてママを共通の敵にしたてることで息子を独占していたのではないでしょうか。つまり、この人も妻にすごく甘えている。


 これ、男親でやるとすごく生々しいのですが女親はそういうこと平気でやりますよね……だからこの人が一概に悪者かっていうとそうでもないよなと思います。みんな、相手にはリスペクトを持ちましょう。


○最後に

 個人的に序盤の「人んちの子供の習い事なんてどーでもいいんですけど正直」っていうのがかなり面白かったです。そりゃそーですよ、ぶっちゃけ人の家の話なんてどうでもいい。どうでもいいのですが……。


 それじゃあ、その人の話を一体誰が聞くというのだね?


 ぶっちゃけ、現代って他人の話を聞く余裕ってないと思うんですよ。娯楽のない昔だったら旅人の話なんかを聞きに囲炉裏端に集まる、なんてこともあったかもしれないのですが娯楽が飽和している今、人の家の愚痴なんてものは聞いても意味がないって思うと思うのです。


 芦原家の問題は、お母さんが一歩を踏み出すことで表面化して救済の道が見えてきました。圭人も今回の件で「君の態度は一般的なものではないし大変格好の悪いことだ」と認識できたと思います。そこで「いや、家庭の問題は家庭で解決してよ」ってなったらそれはそれで彼らは自滅の道しか見えないですよね。やっぱり「人に相談する」っていうのはすごく大事だと思うのですよ。他人に話を聞いて貰えたことで承認してもらうっていのがすごく大事。自分の承認は満たされたいけど他人の話なんか聞きたくないよって人は多いのではないだろうか……?


 母親世代の頑張りや親離れ子離れがテーマに見えて、実はそういう「家庭の悩みを地域で共有する」みたいなのもテーマに入ってるよなあと思いました。他人と関わるのもコストがかかって大変な時代ですが、何とかうまく共有できるといいですね。おしまい。

この記事が面白かった人は高評価・ブックマークよろしくお願いします

 すごくどうでもいい話。

 

 最近何を読んでも何を見てもこのタイトルの文言がついてまわる。いや、わかるのよ。この言葉がないと誰も評価してくれないから機械的に入れているってことくらいは。そして評価がないと人間先に進めないことも知っている。

 

 さて、ネットはともかく私たちってみんなのことちゃんと「高評価」しているんだろうか。リアルだって高評価がないと動かなくなっていく。おいしいお店には定期的に通って「いいね!」を送らないといけないし友人関係も適切な評価の結果がなければ離れていく一方だ。

 

 その一方で、「自分なんかが評価をしてはいけない」と思い込んでいる人もいる。そういう人は他人から遠ざかり、他人を評価する行為を「くだらない」と冷めた目で見る。評価とは世間話などの精神的グルーミングだったり、飲み会などのレクリエーションだったりする。そういうものを遠ざけるとき、多分性に合わないという他に「自分なんかに価値はない」という諦めも付属されている気がする。意外と他人はそこまで気にしていたりなんかしないけど、なんか怖いんだ。他人から低評価を受けるかもしれないと思うだけで、評価の場に入っていくのが息苦しい。

 

 そもそも適切に他人から評価をされてこなかった人は他人に評価をつけるのが難しくなっている。なんでも低評価、もちろん自分が最低の点数。自分よりマシでしょうと相手を低く見積もって人間関係のトラブルに発展。ろくなことがない。

 

 さて、結論はないし絶対的な評価基準なんかないけど、ひとつだけ間違いなく言えることがあって、この記事を高評価・ブックマークしてください! と自分で言ったらいろんなところから怒られるということだ。うーん、ネット難しい! おしまい!

 

 

 

 

「こんなクラスがいいな」への雑な切り分け

余りにも問題が雑然としているので整理してみるよ。

 

note.com

この記事のスタンスは「元の張り紙自体はよくある一般論で、張り紙の存在を責められるものではない」「張り紙にすることの思想の押しつけとは何か」です。元ツイが消えているのでなんともですが……。

 

絶対ダメなこと

当該アカウントの特定、攻撃行為

→論外。

 

ムカつくこと

いらすとやでそれっぽい画像でドヤってる

→図解系クラスタにゾワゾワするのはわかるが、張り紙自体が何かを誹謗中傷しているわけではないので攻撃されるほどでは全くない。

 

だから教師は陽キャの人の心がわからないクズ

→この人はあなたに悪意はありません。落ち着きましょう。

 

話し合えそうなこと

担任の思想の強制になる

→これは非常に微妙。「貼り紙を貼ることで息苦しさが増す」生徒が出ることは予想できるが、それを指摘すると掲示物全部が否定される。図画の展示も「上手な人と比べられて嫌だ」とか時間割や年間計画表も「嫌な科目や行事があると思うと憂鬱になる」と本当にキリがない。張り紙の内容を毎日復唱させて一日で一回も笑わせられなかった奴を帰りの会で立たせて「〇〇くんは一笑が達成できなかったので一発ギャグをやってください」とかやってるならその限りではないけどさ……。よくわからんけど、この張り紙を使って1984年をやってるわけじゃないでしょ……?

 

指示が抽象的で何をしていいか分からない

→実はこれは指示ではない。張り紙から読み取れることはあくまでも「こうなればいいな」でしかない。これを具体的にするなら「私将来ケーキ屋さんになりたいの」という小学生に「それじゃ製菓の専門学校に行って技術を学んだ後に経営学も学びつつどこに店を構えるか考えているかい?」と詰める大人みたいなものである。具体的視点も大事だけど、全体像をふわっと掴むのも同時に大事である。「ルールを守ろう」と言う標語が目に入ると脅迫されている気持ちになって過呼吸になるとか反発心を覚えてつい隣の子を蹴っちゃうとかなら、かなり個別の対応が必要だと思う。

 

達成出来ないと叱られる

→そもそも目標は必ず達成されるものではないということは経験させるべきではないかと個人的に思う。出来ない人もいるという経験こそ大事。目標があると萎縮する子もいるけれど、その為に全体の目標自体の設定をしないのはナンセンス。それでいじめが発生するなら、目標のせいではなくいじめを行うひとの問題。いや、「他人のアラを探しましょう」とかなら別だけどね。

 

個人に寄り添ってない

→そもそも、全体の理想を個人に寄せたらダメでしょ。体育祭の目標を「総合優勝!」にしないで「〇〇君がいるから絶対優勝はできない。三位になれば良しとしよう」とかやらないでしょ。かと言って勝負事なのに「負けても仕方ないし楽しめばよし!」にするのも教育的には違うよね。「プレッシャーに思う子もいるんです!」はわかるけど、それで全体目標を消すならもう体育祭なんかやる必要ないよね。運動会不要論の話ではありませんのでその話は自分のブログなどでやってください。今はその話してないからね。コメントで運動会とか行事の是非の話するんじゃないぞ、自分のブログでやれよ?大事なことだから何度も言うぞ、行事不要論は自分のブログでやれ。

 

いじめの要因になる

→これで指導されるべきは「張り紙ごときを根拠に他者を排斥する輩」であり、張り紙なんかなくてもいじめは起こるので張り紙を躍起になって否定するほうがちょっと心配になる。運動会や修学旅行の班わけがいじめのきっかけになるから運動会や修学旅行を中止しろみたいな印象。殺人と包丁の関係。

 

劣悪な家庭環境の子には酷

→それはそれ、これはこれ。一口に劣悪と言っても「両親不倫してて帰らない」とか「保護者が認知症入ったおばあちゃんしかいない」とか「毎日満足に食べてない」とか「お兄ちゃんが警察の世話になりまくってる」とか「妹が難病で余命幾ばくない」とか、本当にいろいろ。ただ、個人への配慮とクラス経営は別の視点。ここでその視点で話をするのは「この子は手がないからみんな鉄棒の授業をやめましょう」というのに近いと思う。

 

子供のためにならない

→実際に子供からヒアリングがあってトラウマを受けるような何かがあるならともかく、張り紙単体が明確な他害に繋がるとはとても思えない。もしこの張り紙を見て「全て僕が責められている」と息苦しく感じる子供がいるなら、その子は個別の対応が必要かもしれない。

 

 

現実的に検討の余地がある

視覚過敏の生徒は貼り紙が苦手

→これは工夫の余地があるが、あくまでも現状では個別の対応になる。

 

忘れ物ゼロは息苦しい

→外国では学習道具は学校の備品であるため、忘れ物はないそうだ。日本の学校もそうするか。システムから変更になるね。大変だ。多分「忘れ物は報告」というのは「叱るから吊し上げ」じゃなくて「忘れ物を隠すな、報告して指示をもらえ」という意味だと思うけど……。

 

クラス目標の意義を理解させる

→落とし所はここだと思う。「出来る人はやる」「出来なくても出来るように頑張る」「出来る人が出来ない人に理解やフォローを」が一番。それって安心できるクラスと何も変わらなくない?

 

全体主義はダメ

→これはその通り。張り紙を元にした連帯責任などはよくない。しかし一般論の張り紙まで規制するのは逆の全体主義なんじゃないかと思う。もしこの張り紙の主がそんなクラス経営をしているならアウトだけど、この張り紙だけだと何ともねえ。Twitter(X)だと似たような声が多く聞こえるから「自分の味方が大勢いる!」と気が大きくなる人は見受けられるけどさ……。

 

指示を聞きたくない見たくない人の配慮

→某少年革命家も言っていたけど、指示を聞いて行動することを「ロボットみたい」と感じる人は結構多いのかもしれないと思った。「管理されたくない」というのはこの場合「指示通りに動きたくない」なんじゃないかな。もちろん「生意気に振る舞いたい」から「指示が理解できないのを誤魔化している」までグラデーションのある話だから一概にどうこう言えないけど、この辺ケーキの切れないとか闇バイトとかに繋がっていきそうだなと思った。

 

「正しい息苦しさ」は攻撃に転じる

→今回の騒ぎで一番の論点はここかもしれない。正直、張り紙だけなら「そんなんだね」位にしか思わない。ただそれを脅迫的に思い込んで「正しくないからクラスにいれない」「指示通りに振る舞えない自分は最悪(そもそも指示を出していない)」と思い詰めるとよくない方向へ転がる。そこから「こいつは他人を管理して悦に入るサイコパスだ」まで一直線だ。

 

個人的所感

これ、教育現場の問題というより陰謀論とかに近いと思う。何かに脅迫的に追い詰められているところに「そう思わなくてもいいよ、あなたはそのままで素晴らしい」となるとコロっと怪しい思想に転がっていく。「ちゃんと正しく子育てしなきゃ」が「添加物毒物まみれの世の中から我が子を守る」になるし、「ちゃんと感染症対策しなきゃ」が「コロナは〇〇の陰謀で世界を滅ぼすために〇〇!」になる。

 

たかが一般論の域を出ない張り紙ひとつに「教員が子供をコントロールしたがっているに違いない」「出来ない子供を排除しようとしている」とあるのかどうかわからない物語が付属して、張り紙の内容よりも「自分が如何に惨めだったのか」がクローズアップされると一気に張り紙の主に怒りの矛先がいく。「子供を管理しようとしているに違いない!」そりゃ小学校の先生なら、子供の管理しなきゃじゃない……?

 

 

もちろんこの張り紙を毎朝復唱させて「達成出来ない奴は給食抜きな!」とかやってるなら非難も致し方ないけど……元アカウントの雑巾の干し方を問題視している人もいるけど、実際のところがわからないからそこを問題視しても、と思う。それをあげつらって「こうに違いない!」と叩くことこそ安心できる社会にはほど遠い気がする。

 

もちろん「個人的に性にあわないなあ」と思うのは構わないけど、そこから自己否定に陥ったり他害的な思想に行くのは恐ろしい。じゃあ正しいことへの呼びかけを止めるべきなのかと言えば、そうでもない。

 

これが生活全般の張り紙だから反発もあるかもしれないけど、例えば差別撤廃やLGBTへの啓発だったら?掛け算九九暗記のポスターだったら?避妊具使用の啓発に「正しい教員の言うことなんか聞きたくないですよ、僕はナマでやることしか意義を感じないんです」など、色んなパターンを考えた時に何故この張り紙を攻撃したいのか考えるべきなんじゃないかなと思った。

 

子供を管理しようとしているのが気に入らない、という声が多かったけれど集団生活ならある程度規則やマナーの提示は必要なんじゃないかな……ものは片付けるとか、あいさつをするとか、親切にするとか……。

 

「正しさを強要されて傷ついたから学校へ行かない」はあるかもしれないけど、「〇〇くんが傷つくのであいさつは禁止です」「〇〇さんが学校に来れなくなったのでみなさん〇〇さんより楽しく明るくしてはいけません」とか、やってほしい?

 

そもそも、張り紙にして張り出す行為そのものが他人を支配して攻撃していると感じるならSNSなど支配と懐柔の温床じゃないかと思う。要は「子供のためにならない」と言いつつ「私が傷ついたから謝れ消せ!」のムーブメントに近いと思う。

 

繰り返すけれど、この張り紙に反発を覚える生徒児童には個別的な支援が必要かもしれない。張り紙は全体に向かって張り出すもの。その中で個別の支援がある。個と全体の折り合いについてクラス経営は常に心をすり減らす部分である。本当にこの元の張り紙の教員がろくでもない指導をしているならとんでもないけどさ。

 

ちなみにすごく経験とキャパシティと能力があれば、ルール無用のクラス経営もできるかもしれない。しかしルールを守る以前の子供が増えているなら、ルールを撤廃するのではなく余計ルールで縛るしかクラスを守ることはできなくなる。スーパーの「〇〇しないでください」の張り紙が日に日に増えているのを見ると「ああ守れない人がいるんだな」と思う。買い物かごを持っていくなとか、ちゃんと並べとか、自転車ここに止めるなとか……。

 

この前「値引きシールを貼った惣菜の取り合いはやめてください」みたいな張り紙あって、その現場大変だっただろうなと思った。でも他人の買い物かごに手を突っ込んで商品を取っていく人はこんな張り紙見ないだろうし、真面目に読む人はそんなことしないだろう。じゃあ張り紙に効果はないのかと言えば、そんなこともないとは思うけどね。張り紙って何だろうね。この記事自体も思想の押しつけなんだよ。ブコメも押しつけ。言及はみんな押しつけ。おしまい。

ちょっと小説の話

 ちょっと思いついたことを書きなぐります。

 

anond.hatelabo.jp

 

 そもそも小説って何なのかって話なんだけど、文字で他人を楽しませることが第一なんだよね。「うわーおかしいな!」「ああ、なんて悲しいんだろう!」「こいつめ!許さないぞ!」「幸せになってよかったなあ」「なるほど、そういうことだったか!!」「自分の身に置き換えると考えさせらえるな」みたいな、そういう素朴な感情を引き出したら勝ち。単純な勝ち負けとは違うんだけど、それが到達目標、みたいな。

 

 それで、小説っていうのは面白いことを連ねていくだけじゃダメなんだよね。「犬がとっても怖いお化けの勇者」「ネズミがとっても怖いロボット魔王」「コロッケが大好きなヒロイン」「ラーメン大好きな魔法使い」とキャラを思いつくけれど、じゃあそれらをどう配置するかが大事になってくる。つまりは、構造が大事になってくる。

 

 だから、小説を書き写すだけだと構造は見えてこない。小説を書くなら、まずは構造に気を配るのが大事になってくる。ただべたべた写経するより、登場人物の一覧と各章のプロットを自分なりに作ってみるとかなり練習になると思う。例えばこんな感じ。

 

「ごんぎつね」

登場人物:ごんぎつね、兵十、村人

あらすじ

一、ごんぎつねは兵十の釣り上げたうなぎを奪ってしまう(いたずら心)。

二、その後兵十の母が死んだことを知って、ごんぎつねは兵十の家に食べ物を運ぶ(贖罪)。

三、兵十はごんぎつねの正体に気づかない(不満)。

四、再びごんぎつねの姿を見て兵十はごんぎつねを殺す。そして食べ物を運んできたのがごんぎつねだと知る(後悔)。

 

 最初は出来事だけ抜き出して、ついでに登場人物の心境がどう変化するのかも書いておくといいですね。長編小説の場合、場面がどこで変わるのかを見極めるのも大事です。これを小説以外、映画でもアニメでもなんでもやっているとそのうち「話の構造」っていうのが見えてきます。これのストックを作る。大体展開なんて決まっている。恋愛小説ならくっつくか別れるかのどっちかだし、悪者をやっつける話なら最後には悪者はやっつけられるに決まっている。そこに行くまでの過程も、大体は決まっている。この引き出しをどれだけ組み合わせるかというのが現代の小説には大事になってくる。

 

 細かい話をするなら、小説はただあったことを書けばいいってものではない。適当に例文を書きなぐる。これはあったことだけの要素を抜き出したもの。

「遅刻遅刻ー」

 花山英恵は走っていた。急いでいたので前方不注意だった。

 どっしん

「いたたたた」

 交差点で花山英恵は転校生にぶつかってしまった。

「大丈夫ですか」

「はい、いけない、遅刻遅刻」

 英恵は急いで学校へ向かった。

 ひとつのテクニックとして、情景描写ってのがある。小説っていうのは地の文で主人公の置かれている状況や心情を表せるっていう便利な機能がある。例えば上の文を使うなら、「急いでいたので」と書くよりも「花山英恵はスカートの裾を翻し走っていた」と急いでいそうな表現をしていなくても急いでいる雰囲気が伝わってくる。さらに前方不注意と書くより、何か別のことを考えていたほうが今後の展開を読者に想像しやすい。例えば「今日やってくる転校生のことを考えていた」なんて書いておけば、彼女が転校生が来るのを楽しみにしていると読者に伝わる。そんなことをひとつひとつ細かく考えていく。

 

 そう考えると情景描写ってすごく面倒くさいんだけど、小説っていうのはそういう情景描写の塊なわけで。せっかく書き写しをするなら、この文はどんな効果があるのかっていうのを考えながら書き写すといいと思うな。例えばごんぎつねの冒頭の「これは私の村の茂平というおじいさんから聞いた話です」というような文、これだけで「ああ、昔にあった話なのだな」とわかる。別に「昔々あるところに」と書く必要はない。ついでに「これは茂平さんのつくり話かもしれない」「茂平さんが実は兵十なのではないだろうか」など様々な想像の余地を残すことができる。「昔々あるところに」ではできない詩情なのである。

 

 例文に戻ると、他にも考える余地はたくさんある。例えばどのようにぶつかったのか、ちょっと掠る程度なのか、おもいっきり正面衝突なのか、自転車で飛び出してしまったのか。そもそも彼女は遅刻寸前なのにどうして転校生は悠々と歩いているのかという疑問もあるので、「主人公は朝練に遅刻寸前である」という設定をつければいい。そうすればこの話は部活モノにできるかもしれない。そんな風に文章をぐちゃぐちゃとカスタマイズしていくことが小説を書くひとつの楽しみかもしれない。

 

 実はこれ、中学校の国語あたりで「小説の効果」みたいな感じで勉強していることなのだ。小説の勉強するとき、センター試験の国語の小説問題って結構そういう効果を聞いてくるので、小説の構造が見えてくるとしっかり解けるようになったりする。高校入試くらいの国語の問題集を一冊やるだけでも結構違ったりする。漢字とか文法なんかも勉強できるので何から手をつけていいかわからない人には結構おすすめかもしれない。

 

 この情景描写を覚えると、なんでもかんでも情景描写を使わないと気が済まなくなってくる。悲しいシーンは雨が降るし、事件が解決すると晴れてきて虹が出る。ちなみに行間の心情を推測するなら詩を読むのがいいかもしれない。昭和歌謡のヒットソングとか延々と聞いていると「え、それってそういう意味だったの」ということは結構ある。言葉と言葉が結びついて別の意味が生まれるのは小説よりも短歌や詩の領分かもしれない。

 

nogreenplace.hateblo.jp

 

 あとアレっすね。小説家は何もしないと孤独。コメントなんか来ないのが当たり前。この辺のメンタル調節かなり大事。あとカクヨムとかは自分から絡みにいかないとみんな読んでくれない。ツイッターとかで「#RTされた小説読む」みたいなタグでほかの人と絡みまくったり、カクヨムだと自主企画に参加したりして初めて読者ついてくれる。そういうところ。ぶっちゃけカクヨムは投稿サイト風のSNS。読んでほしかったらほかの人の小説に応援つけるとかダンジョン配信か異世界恋愛書かないと読んでもらえない。ちなみにカクヨムならファンタジーとかラブコメ系のジャンルで一人から星もらえるだけでランキング載っちゃうぞ。「小説の勉強しています必ずレビュー書きます」系の自主企画が一番勉強になる気がする。それが無理なら、もうあきらめて自分の好きな表現を追求する、みたいな世界だと思う。あとは投稿サイトを変えてみるとか。今ならハーメルンとかアルファポリス、ノベプラあたりも大人気だし。その辺投稿したことないからわかんないけど。

 

 あとプロットらしきものがあるなら、それを実際に短編で書いてみるといいんじゃないかなあと思いました。300字以内小説みたいに。これ意外と面倒くさいし、すごく辞書使うし勉強になる。人が読みたいのはあらすじじゃなくて、心の変わりようじゃないかなあというのがとある感想です。

 

 まあ小説を書くなんて釣りみたいなもので、どれだけ上等な餌をひっかけてもポイントを絞ったとしても釣れないときは釣れない。だから、小説家は読者が好きそうな餌を仕込む。どれだけ自分の体験を書きつらねても、それが読者に重ならないと読んでもらえない。釣りもそうだけど、最後は経験がものをいうと思う。だからやっぱり先行研究は大事で、それはどれだけ物語体験があるかなんだと思う。そうでないと本格ファンタ、いやなんでもないです。ああ、これは引っかかってしまったかもしれない。おしまい。

スーパーの推しの子

すごくどうでもいい話なのだけど

 

スーパーに行くと流行りの曲がインストで流れてることあるじゃない。あれで今日YOASOBIのアイドルが流れていたの。そんで思ったの。

 

この曲スーパーのインストに合うなーって。

 

スーパーのインストと言えばヨーカドーでサザエさんとかポパイとかビートルズのHELPとかの印象が強い。HELPが流れるとレジが混んでいるというのは本当なんだろうか。

 

ちょっと前、スーパーの有線で物凄く嫌な歌詞の曲があって客として滞在しているだけでも嫌なのに店員として1日中聞いてなきゃいけないのは大変だなぁと思ったことがある。誰が好きとか卒業寂しいとかそういうのじゃなくて、天国の親に送る歌とか犬が死んじゃったとか、そういう奴。しかもがなって歌う系。正直スーパーで聞きたくない。

 

その点インストはいい。曲そのものを知らなければ上記のような悲劇は防げる。「チープな音源の方が売れ行きが良くなる」というのは本当だろうか。

 

話をYOASOBIのアイドルに戻すと、この曲はスーパーのインストにちょうどいい。音に特徴があってキャッチーだから「あ、YOASOBIの曲だ」とすぐわかる。サザエさんとかポパイみたいなものなんだろう。

 

そうすると、やっぱり世の中キャッチーなのがウケるんだろうな。はてなーもキャッチーになろう。アイコンをピンクにしてみるとか、決めゼリフを考えてみるとか、爆発してみるとか……今日は眠いからおしまい。

 

私たちの求めるものは「所属」なんだろうな

ここ最近のTwitterの没落、推し活の隆盛、社会全体に広がる「寂しさ」みたいなのを見ていくと、私たちが本当に必要なのはTwitterでも推しでもなくて「何者なのか」ということなのかな、と思う。

 

アルコール依存症がどうこうという話があったけど、「星の王子さま」には大人の象徴として呑み助が出てくる。彼は酒を飲み続け、酒を飲んでいることを忘れたくて酒を飲むという。子供の頃「じゃあ飲まなきゃいいのに」と心底思った。そして子供の自分にその疑問をぶつけられたら、今でも答えられる自信はない。「何故呑み助は酒を飲むのを止められないのか」。

 

答えは「アルコール依存症だから」なんだけど、子供の頃の自分に依存症の概念が理解できるとは思わない。「そういう病気だから」と言っても「じゃあ病院で治してもらえばいい」くらいにしか思わないだろう。それ以上の絶望や焦燥感、薬物で塗りつぶさないといけない黒い感情の正体を子供の自分にはあまり教えたくない。そして言葉で説明したところで、子供は真の意味で理解できない。目の前が真っ暗で目が覚める度に「寝ている間に死んでいればよかったのに」と思うような気持ちは、知らなくてもいい。

 

とはいえ、我々は大人になって、白い感情も黒い感情も灰色だとして、ずるい汚い人間になってしまっている。あの頃「上から塗りつぶせば真っ白になるのに」と思っていた心の黒ずみはトイレの黄ばみより強力にこびりついて剥がれない。だけど、心が黒ずむことこそがやはり大人の特権で、ただ白いだけのやつには理解できないこともたくさんある。

 

Twitterがなくなったらどこに行けばいいのか。推しが性被害を受けていて、それがずっと組織ぐるみで行われていたら*1。我々は何者かであろうとしてネットでアカウントを作り、ネットでのキャラを作り、ネットで理想の自分を演じる。

 

本当に欲しいのはTwitterの代替のサービスでも推しでもなく、Twitterでフォロワーの投稿を見ていてもいいと思える瞬間や推しについて語っても許される空間なんじゃないかなと思う。呑み助が本当に欲しいのは酒じゃなくて、酒を呑まなくても受け入れてくれる誰か、みたいなものだと思う。

 

自分が常に何者かを証明し続けないといけない時代になったんだろうなと思う。キャラを作り、その通りに振る舞うことを周囲が望む。タレントでなくても、Webでの振る舞いはタレントのそれと酷似する。

 

私たちが本当に欲しいのは、多分情けない部分もまるごと受け入れてくれる誰か。寂しさを忘れさせてくれる何か。黒を塗りつぶしたと錯覚させてくれるような白い何か。フェミとか陰謀論もそうだと思う。

 

みんな寂しいんだろうな。寂しいよね。

寂しいに根本的な解決策なんかないし。

じゃあね。

*1:正直そういうのはJだけじゃなくて他の事務所でもあるんじゃないのと思っているので私はアイドルという存在自体が苦手なんだと思う。

食洗機の話

ブコメでよく食洗機の話が出るので、食洗機について思うことなど。

 

食洗機のすごいところ

最近食洗機を導入したんだけど、やっぱり便利だね。1番いいなと思ったことが「洗った食器をしまう場所が増えた」というところ。

 

食洗機の導入前は洗いカゴに食器をどう積むかのパズルゲームを毎回やっているような気分になっていた。「ここに平たい皿だから先にお椀を洗って次にコップで……」みたいなことをやるのがいちいち手間だった。個人的に食器洗いで一番面倒なところだと思う。

 

それを食洗機は解決してくれる。何しろ洗っておける食器の量が食洗機にいれる分増えるんだぜ?今までコンロに置くしか無かった鍋も洗いカゴに突っ込めるんだぜ?すごいだろう?

 

ついでに食器洗いにかける時間も減った。皿さえ入れられれば数分で終わる。すごいぜ食洗機。

 

食洗機の大してすごくないところ

まず時間がかかる。人間なら10分くらいで終わるところが1時間とかかかる。その分丁寧にやってくれてるので文句は言わないけど。

 

それから、これはどうしようもないけど結局皿を入れるのが面倒くさいし洗った皿をしまうのも面倒くさい。疲れ果てている時には食洗機に入れることすらしたくない。もう食卓の上から自動で皿がキレイになればいいのに。

 

更に食器を買う時に食洗機対応かどうかいちいち見ないといけなくなったのも新しいコストかな。食洗機の恩恵を考えれば大したことはないコストではあるけど。

 

要は家事って管理だよね

結局食洗機があっても皿を出したりしまったりするのは最終的に人力なわけで、皿の収納は人類がやるしかない。

 

コンピュータ食器棚とかで「OKグーグル、28番の小皿を3枚」とか言ってピーっと排出されるみたいなのが普及しないとこれは解決しない。くら寿司のテーブルみたいに皿を回収する穴に入れると自動で洗浄してくれるみたいなの、できないかなぁ。

 

そんなことを考えてて思ったのが、結局何でも一番面倒なのは「管理」なんだよなぁということ。洗濯も干したり畳んだりよりも何処に何を干すとかどうしまうかとかの方が面倒くさいし、衣替えも面倒くさい。よく「名も無き家事」として挙げられる消耗品の管理も意外と面倒くさい。シャンプーの詰め替え用がもうすぐないとか、ティッシュが残り数枚だとか、柔軟剤は来月安くなるとか、そういうのは果てしなくて面倒くさい。何より終わりがない。毎日着る服の管理。衛生用品のストックの有無。散らかしたものの片付け。冷蔵庫の中身の把握。ああ畜生面倒くせえよお家事じゃねえよ家庭管理だよ畜生が!!!

 

だから

「家事を手伝ってるのに妻が不機嫌だ!」という奴、多分「管理」はやってないんじゃないかという視点の提示をしたい。家事は作業じゃないんだよ、家庭の管理職なんだよ。

 

そんなことを食洗機見てると思う。食洗機はお利口さんだなあ。あとうちの15年ものの炊飯器と洗濯機がそろそろ……洗濯機が先かな……なんかベルトきゅるきゅる鳴ってるし……おわり。