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説話についてあれこれ雑感(長い)

 ちょっと面白い記事を見たので書く。なお自分が書きたいから書くので「言及ありがとうございます」とかお礼スターとかお礼ブクマとか機械的なものは要りません。せめて人間らしく。

 

www.yanmei.club

 

 この記事では「中国人の妻が言うには、日本の昔話には教訓がない(中国の昔話には必ず教訓がある)」ということを主張し、それに対して筆者は「日本の昔話は教育ではなくストーリーを楽しむのが目的なのでは」という感想を述べています。

 

 とりあえず自分が何のオタクなのか考えたときに「説話オタク」だろうなと思うくらいのオタクだなぁと思うのでこの記事を読んで思いついたことをつらつらと書いていきます。説話などに興味がない人は退屈だし、逆に説話についての知識がある人なら大したこと書いてないなと思うと思います。ちなみに専門家じゃないです。ただのオタクの一視点だということで読んでもらえると幸いです。というか、もっと詳しい人にもっと詳しく教えてほしい。

 

 以下大体の内容です。長いので興味のある人だけ読んでください。

 

〇中国の昔話が教訓オンリーというわけでもなく、世界的にみても昔話は必ずしも教訓があるとは限らないし、どちらかと言えばないことも多い。

〇昔話には当時の人々の世界の見方を伝える働きがある。

〇科学の発展した現代でもこういった話は生まれている。

 

中国の昔話は本当に必ず教訓があるのか

 ブコメでも指摘されていましたが、おそらく筆者の妻が「昔話はこうあるべきもの」と思いこんでいるだけのような気がします。必ずしも中国で作られた物語が教育を重視してストーリーを軽視しているかと言うと、そうでもないです。例えば『西遊記』や『金瓶梅』などの長編小説は明らかに物語を楽しむためにあるようなものです。『聊斎志異』など怪奇譚を集めたものも存在しますね。

 

 中国の昔話に教訓あるものが多いと感じるのは、ひとつはブコメで指摘されている通り、絵空事よりも実学を重んじる共産主義の考え方があると思います。単純に言えばきれいな絵を描くより畑に芋を作ったほうが偉いという考え方です。

 

 もうひとつは、中国の昔話の形として「思想を伝える」という役割があったことが大きいと考えられます。その昔中国では思想家たちが自身の思想を各国の王に伝えるために様々な例え話をしていました。「昔、王様が家来に命令をしたところ家来は命令を断りました。怒った王様が理由を尋ねると、これこれしかじかの理由で出来ませんと家来は言いました。感心した王様は命令を取り消しました」という感じの話が教訓めいた昔話として定着しやすかったのだと思います。

 

説話の普遍性

 ここから筆者が「昔話」と呼ぶものは大きく括ると「説話」と呼ばれるものなので、以下こういった話を「説話」と書いていきます。

 

 まず中国の説話で有名なものを挙げると、「七夕伝説」が挙げられます。

七夕物語 中国の昔話 <福娘童話集 きょうの世界昔話>

 日本では「織姫彦星」として有名な話ですね。「仕事をしないでイチャイチャしてると引き離されますよ」という教訓が入っている気がしないでもないですが、「七月七日に会える」ということでそれほどひどい罰がくだったというわけでもありません。また七夕伝説にはいろんなバリエーションがあって、日本ではこんな形で伝わっているところもあります。

犬飼い七夕 <福娘童話集 きょうの日本昔話>

 リンク先では天上についたところで終わっていますが、ほかに婿としてふさわしいか天帝から難題を言い渡されるバージョンなどもあります。

 

 また「浦島太郎は意味不明」ということですが、中国にも竜宮城に近い存在があります。

桃源郷 中国の昔話 <福娘童話集 きょうの世界昔話>

 中国の元々の桃源郷は「政府の圧政から逃れた者の隔離里」という意味がありましたが、俗世から離れた理想郷と言う意味では日本でいう竜宮城とあまり変わらないと考えます。こういう異世界へ迷い込む内容の説話は世界中にあって、名前のついているところだとティル・ナ・ノーグニライカナイなどがあります。名前がなくても「天上」や「海の向こう」または「黄泉の国」など「異界に行って帰ってくる」という内容のものはたくさんあります。日本昔話には他にも「おむすびころりん」なんかは正直者が報われるという内容のほかに「地下の異世界に召喚されて現世に舞い戻った者」という側面も持っています。例に出されていた舌切り雀なんかもこれに当てはまりますね。「竹藪の雀のお宿」も異世界に当てはまります。

 

 何故異世界が語られるかと言うと大きな要因として「死んだらどうなるの」などという問いに答えるためというものがあると考えられます。現代のように科学の発展していなかった時代でも素朴で普遍的な問いは存在しました。そこで「死んだら天国に行くんだよ、天国と言うところはね……」など物語を作って昔の人は世界を見ていたわけです。よく「迷信なんて古臭い考えは捨てるべき」なんて言うのですが、自分は「迷信こそ信じる必要はないが存在は大いに認めるべき」と考えています。あの宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』にはバージョン違いが存在して、そこに終盤登場するブルカニロ博士がこんなことを言っています。

 

「ああわたくしもそれをもとめている。おまえはおまえの切符をしっかりもっておいで。そして一しんに勉強しなけぁいけない。おまえは化学をならったろう、水は酸素と水素からできているということを知っている。いまはたれだってそれを疑やしない。実験してみるとほんとうにそうなんだから。けれども昔はそれを水銀と塩でできていると言ったり、水銀と硫黄でできていると言ったりいろいろ議論したのだ。みんながめいめいじぶんの神さまがほんとうの神さまだというだろう、けれどもお互いほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだろう。それからぼくたちの心がいいとかわるいとか議論するだろう。そして勝負がつかないだろう。けれども、もしおまえがほんとうに勉強して実験でちゃんとほんとうの考えと、うその考えとを分けてしまえば、その実験の方法さえきまれば、もう信仰も化学と同じようになる。けれども、ね、ちょっとこの本をごらん、いいかい、これは地理と歴史の辞典だよ。この本のこの頁はね、紀元前二千二百年の地理と歴史が書いてある。よくごらん、紀元前二千二百年のことでないよ、紀元前千二百年のころにみんなが考えていた地理と歴史というものが書いてある。
 だからこの頁一つが一冊の地歴の本にあたるんだ。いいかい、そしてこの中に書いてあることは紀元前二千二百年ころにはたいてい本当だ。さがすと証拠もぞくぞく出ている。けれどもそれが少しどうかなとこう考えだしてごらん、そら、それは次の頁だよ。
 紀元前一千年。だいぶ、地理も歴史も変わってるだろう。このときにはこうなのだ。変な顔をしてはいけない。ぼくたちはぼくたちのからだだって考えだって、天の川だって汽車だって歴史だって、ただそう感じているのなんだから、そらごらん、ぼくといっしょにすこしこころもちをしずかにしてごらん。いいか」

宮沢賢治 銀河鉄道の夜

 

 説話というものもその時代の人がどう世界を見ていたかを表す重要なものだと考えています。そして今でも受け継がれている話には人類の普遍的な思いや問いが存在しているのでしょう。浦島太郎の話には「海の中には何があるのだろう」という根源的な問いが隠されています。

 

 また、浦島太郎のもらった玉手箱は「タブー(禁止)」と呼ばれる要素のものであると考えられます。説話にはしばしば「絶対に~してはいけません」という禁止事項が出てきて、そしてそれを破ることで(たまに守り抜くことで)物語が展開します。日本昔話でいうと代表例は先ほどの記事でも取り上げられていた『鶴の恩返し』で、このパターンの話は世界中に存在します。

 

 ちなみに記事の中で「何故ツルは帰ってしまったのか」という話があったのですが、この辺は「異類婚姻譚」と呼ばれるジャンルの話になります。日本の昔話では動物が人間に化けるなどして直接求婚に来るのに対して、それ以外の国では魔法で動物に姿を変えられた人間が求婚するケースが多いらしく、自然由来か人間社会由来かで大きく変わるものと考えられます。

 

日本の昔話はストーリー重視なのか

 説話にはその時代の世界の見方を示す役割があるという話をしてきましたが、実際に昔話でその土地のいわれを示したものや生活の知恵に根差した話で思いついたものを紹介します。

 

まんが日本昔ばなし〜データベース〜 - さだ六とシロ

 こちらは「犬吠峠」という地名の由来を表した昔話です。

 

まんが日本昔ばなし〜データベース〜 - 三合めし四合だご

  こちらは「一度に食べてよいご飯の量」の昔話です。

 

スーホーの白いウマ モンゴルの昔話 <福娘童話集 きょうの世界昔話>

  日本の国語の教科書にも載っている、モンゴルの楽器のいわれについての話です。

 

エウローペー - Wikipedia

 ギリシア神話にある、「ヨーロッパ」の地名の由来とされる話です。

 

 ここに挙げた話はリンク先へ行って読んでもらえればわかる通り、ストーリーの面白おかしさを重視しているというより悲劇的な結末だったり荒唐無稽な話だったりします。上3つに至っては何らかの命が損なわれ、ヨーロッパに至っては誘拐されました、終わりという話です。つまり、説話には国を問わずオチや意味がないものもたくさんあるということです。

 

欲張りだんなと、とんち男 中国の昔話 <福娘童話集 きょうの新作昔話>

 そしてこちらの中国の話は権力のある者に対して知恵のある者が対抗するタイプのものです。このタイプの説話に教訓などはなく、ただ相手をやり込めてスカっとするなぁというものです。日本でも一休話や吉四六話、彦一話などとんち話はたくさんありますし、外国の有名なところではディズニーランドのスプラッシュマウンテンで有名な「南部の唄」のキツネどんとウサギどんの話があります。

 

現代に説話の意味はない?

 じゃあ科学の発展した現代でこういった世界を説明するホラ話などはいらなくなったかというと、今この瞬間も「説話」と呼べるようなものが生まれています。例えばこういったものです。

 

 飛行機のエコノミークラスである白人女性が騒いでいた。

「ちょっと、私の隣に黒人の男が座ってるの! 失礼しちゃうわ!」

 そこへ乗務員が飛んできて頭を下げた。

「これは大変失礼致しました。こんなお客がお隣では不愉快でしょう、幸いファーストクラスの席がひとつ空いておりますのでご案内致します」

 席についている人は皆ファーストクラスへ案内される黒人男性をにこやかに見送った。

 

 この話もブラックジョークとしてよく語られるものですが、構造としては人種差別を根底に弱者が強者へ逆襲をするというものに近いです。つまり吉四六話などと似たような性質があります。

 

 もう少し砕けた話だと「口裂け女」なども現代の説話と言えるでしょう。

口裂け女 - Wikipedia

 詳しくはリンク先を見てもらうとして、噂のいわれには「夜道を歩くのは危険であると親が子供に教えるために生み出された」という有力な説があり、「夜道」という普遍的な恐怖の対象を具現化した存在と考えてもいいと思います。実際「子供が放課後道を歩いていると現れる現代妖怪」は人面犬やひきこさんなどバリエーションが豊富で、そこには夜道の暗さ以外に現代特有の得体のしれない他者への恐怖もあったと思います。この辺面白そうなので、またそのうち別記事で考えようと思います。

 

 つまり、「物語には作者がいて展開をコントロールしている」とブログの筆者は考えているようでしたが、作者が明確な物語を皆が楽しむと言う考え方は近代的なもので、それ以前は物語は自然発生的に誕生してあちこちで派生や進化を遂げるものであったという視点を紹介したいということです。現代の例を出すとわかりやすいのが口裂け女で、地域によって様々な語り口が存在します。

 

 また、「昔々あるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました」の紋切型のように現代のTwitter上では「~とマックで女子高生が話していた」という形で本当か嘘かわからないような話をするタイプの話があり、これもストーリーの明確な作者の不在と考えて良いかと思います。最近ではこのようなタイプの話を「嘘松」と断じてしまう動きもあり、「嘘松」の概念によって噂や都市伝説、広く観れば説話というものがどうなるかはちょっと興味があるところです。

 

 

nogreenplace.hateblo.jp

 

最後に

 だらだらと書いてきましたが、何が言いたいかと言うと「こういう物語をつなげるのすげー楽しい」ということです。いつもこんな感じでアレコレ考えているのでこういう形でバーッと書き出すの楽しいです。「現代妖怪が生まれた背景には見知らぬ他人への恐怖があるのでは」という視点は今回書いていて気が付きました。そんな感じでまたこの辺に関しては考えていきたいなぁと思っています。次回がいつになるかわからないけどね! それでは長くなったので終わりです。