さよならドルバッキー

この世の裏を知ったドルバッキーは世を儚んだ。

けものフレンズという神話

 けものフレンズ最終回を見た。泣いた。自然と涙があふれた。「ああ、我々が見たかった世界はここにあった」という気分になった。以下実りのない話なので実益を良しとする方はお帰りください。

 

 もともとけものフレンズにハマったのは騒ぎになった5話以降で、それから一挙放送などで全話を急いで確認したくらいのニワカだけど、それでも「これは傑作だ!」と思わずにはいられない。そもそもけものフレンズを忌避していた理由は冬アニメ一覧で使われていた一枚絵が1話の「たべないでくださーい」でサーバルちゃんがかばんちゃんを押し倒しているシーンだったので「あっ(察し」なアニメだと思ってしまったのが残念だったからだ。アレじゃなかったら1話も見てたかもなあ。

 

 ケモノ属性が自分の中にあるのは間違いなくて、古の『ジーンダイバー』なんていうけしからんアニメともともと動物好きという側面からそういったものは非常に好んで見ていたので、それも相まって「けもの」が全面に出てくるアニメは警戒していた。「どうせケモナー釣りの低クオリティアニメなんじゃないの?」という疑念があったからだ。だけど、話題になってから見た1話に描かれていたのは「猫耳の女の子たちがキャッキャウフフする話」ではなく、完全に「動物としてのヒトの生態」を端的に描いたものだった。獣たちに比べて強力な筋肉や瞬発性はないけれど、持久力は抜群にあったり暑さや寒さに耐えやすい身体だったり、指先が発達していたり紙飛行機を作ったりなどを観ているうちに「これはケモノであるヒトの物語なんだ」という結論に至って、なんか盛り上がったわけです。

 

 巷では「すごーい」「たのしー」の肯定が心地よいアニメとされているけれど、個人的には「ヒトという生き物の肯定」であるような気がした。ヒトという生き物は動物のように明確な縄張りは持たない。しかし、他者との関係性から自己を強くすると言う特徴がある。ヒトはひとりでは生きられない。だけど、誰かの助けがあったら何倍にも強くなる。それが最終回の具現であって、かばんちゃんが成し遂げたヒトとしての功績なんだと思う。「つながる力が俺の力だ!」みたいな感じ。知恵とは目に見えないものだけれど、それによってコミュニティを広げるのは多分ヒトだけなんだろう。

 

 そういうわけで「けものフレンズの原作は動物」との言葉通り、細部を極限にそぎ落としたアニメとして成立した。「IQが溶ける」という言葉は「細部を説明されないために目の前の情報をあるがままに受け入れるしかない」ということに通じていると思う。けものフレンズの強さはこの「細部を言葉で説明しない」ということに尽きる。たまに見る民放のドラマなどにはまだ「この登場人物はこんな人なんです」という台詞が根強く残っている。このやりとりで「物語」ではなく「登場人物」に視点がクローズアップされてしまい、キャラクター商法になってしまう。それはそれで良いのだけれど、それが蔓延すると「全て説明されなくてはいけない」みたいな視聴しかできない視聴者を生んでしまう。

 

 物語の説明なんて全てする必要はないと思ってる。ただ作者の思い描いている世界の断片を感じ取るのが我々視聴者としてあるべき姿なのだと思う。例えばミライさんのメッセージを真剣に聞いて理解しようとするかばんちゃんの横ではサーバルちゃんが「よくわからなかったねー」と言っている。これは「視聴者は全てを無理にわからなくてもいいよ」という暗喩になっていると思った。わかるフレンズもいて、わからないフレンズもいて、みんながどったんばったん大騒ぎして、わからないフレンズがわかるフレンズに「君をもっと知りたいな」と言える。そんな世界がジャパリパークだ。

 

 情報過多になった現代は、「知らない」ということが脅迫的に人を不安にさせるような側面がある。だけど知らないことは怖いことではない。そんなメタメッセージをけものフレンズから感じた。

 

 あとこれだけは言いたいということが、「けものフレンズはすごーいとか考察班だけがすごいアニメではなく、動物のチョイスと吉崎観音先生のキャラデザがそもそも秀逸!」ということ。正直擬人化したフレンズを観ているだけで楽しかったので(特に鳥のデザイン)アプリ版復活しないかなぁ……。

 

 それからどうして自分が動物好きなんだろうとルーツを少し考えた結果、ドラえもんの『ドンジャラ村のホイ』とか『オオカミ一家』『モアよドードーよ永遠に』の話が好きだったなぁと思い出したのでドラえもんは情操教育に本当にいいなぁというのもついでに書いておく。『ドンジャラ村のホイ』は本当に好きだった。エリマキカエルがいないかちょっと探してしまったこともあるくらい。

 

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