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さよならドルバッキー

この世の裏を知ったドルバッキーは世を儚んだ。

ジャパリパークという理想郷と再生の物語

 すっかり脳みそを「すごーい」に乗っ取られてはや数日。「流行ってんなー1話だけ見てみるかー」と見てみたら1話だけで頭がさばんなちほー。まずい、これはまずい。

 

 というか、『けものフレンズ』という作品は闇があるとか奥が深いとか優しい世界とか人間という種族を描いているとか、そういうのも非常に魅力的な要素だと思う。それよりも第1話で感動したのが「ちゃんとサバンナ地方の描写入ってる!」ってところで、後の話でも舞台設定をしっかり表現しているところがこのアニメの魅力のもう一つだと思った。

 

 アニメだろうが小説だろうが「これはいい!」と思う条件のひとつに「製作者側が明確に意図をしてひとつのこだわりやメッセージを入れている」というものを持っていて、このアニメではフレンズの特性を描くためにきちんとそこの風土を描ききっている。それだけでこのアニメは成功したと思ってる。サーバルちゃんとかばんちゃんのコンビを描くためのシナリオや土台が丁寧に作られている。そう、脚本と演出が丁寧なのがウリだ。「移動→難題→知恵を出して解決→また移動」というシナリオを繰り返して、物語全体には「図書館に行ってかばんちゃんの正体を調べる」というミッションが課せられている。ゆえにある程度話を見逃しても理解はできる。途中参戦が可能なのもこのアニメの良いところのひとつだ。

 

 で、もうひとつ面白いなと思ったのが「視聴者はかばんちゃんの正体を知っている」ということだ。子供向けのアニメでいかにもバレバレな悪役の変装を正義の主人公再度が見破れなくて「だめだよー、わるものだよー!」などとテレビやヒーローショーなどで語りかけた経験のある人も多いと思う。その心理を『けものフレンズ』の視聴者は共有している。アニメの中でかばんちゃんは「謎のフレンズ」であるけれど、アニメの外に飛び出せば彼女の正体は一目瞭然である。

 

 つまりタキシード仮面様なのだ。「タキシード仮面=地場守」という図式は視聴者にだけ明かされていた。それから視聴者は「タキシード仮面の正体は誰だろう」から「うさぎちゃんが正体を知ったらどうなるだろう」にドキドキをシフトチェンジさせる。純粋な謎ではなく、「作中の謎」になることで視聴者に余裕が出る。そうなると一層続きが気になる。刑事コロンボ水戸黄門のメソッドであり、視聴者を引き付ける要因になる。

 

 そんな作品の魅力とは他に非常に気になるのが、この「ジャパリパーク」とは一体何なんだと言うことだ。バスが使えるとはいえ、いくらなんでも獣が移動できるくらいの距離にサバンナだの高山だの砂漠だのジャングルだの森林地帯だのを詰め込めるのは並大抵の技術ではない。そして「ジャパリ」というくらいなのだからここはおそらく日本なのだろう。日本のサファリパークでも現代の技術でこれだけ多様な環境を再現できるところはないだろう。そもそも「フレンズ化」という現象が現代日本ではないけれど。

 

 その辺から考えると、かばんちゃんが自分の正体を知るよりも「かばんちゃんが図書館へ着く」というほうが大事なのかもしれない。ここから考えると、おそらくその「図書館」はジャパリパークの成り立ちを知るうえで大事な施設だ。ジャパリバスというものが存在したことから、ここには人間がいて動物を見て楽しむ施設だったのだろう。「図書館」とはフレンズたちの暫定の名称で、フレンズ化や不思議なジャパリパークの秘密がわかる研究施設か何かなのではないだろうか。

 

 この辺から邪推すると、ジャパリパークとは種の保存を行う上での閉鎖された環境なのではないかということだ。一種族につき一人、という不思議なフレンズの構図もジャパリパークが遺伝子の保存を目的にしたことなら何となく納得できる。そこで効率的に生き抜くために「互いを尊重する」などの要素を加えて少しのことでも死なないようになっているのだろう。

 

 だからかばんちゃんという「ヒトのフレンズ」が図書館にたどり着くことで、かばんちゃんの乙女回路が眠っていた人間の遺伝子を呼び覚まして復活するとか、かばんちゃんが保有する汚染されていないネット端末遺伝子によって構造化したジャパリパークが本来のあり方を取り戻すとか、そういう最終回もあるのかなぁなどと思うのです。地球の本来の姿とかばんちゃんとどちらを取るかという段になって、サーバルちゃんが「かばんちゃんが決めることだよ」と泣きながら言う最終回とかいいね。それかもう全部夢オチでかばんちゃんが朝起きると普通に人間の世界で、オープンしたばかりのジャパリパークに連れて行ってもらってサーバルキャットを見て何故か涙が出てくるとか、そういう終わり方も嫌いじゃない。

 

 でも最終回として「図書館にたどり着かない」というものありだと思う。図書館が破壊されている、あるいは道中で最終回を迎えて結局かばんちゃんが何のフレンズかわからないけれど「かばんちゃんはかばんちゃんだよ」というサーバルちゃんで終わってほしいという気もする。

 

 よく考えれば「カバン」という道具自体人間の「握って持つ」というアビリティから生まれたものだよなぁと思い、このアイディアを思いついた人はなかなかすごいなぁと思っている。言語情報が少ないのでこれだけわーわー言うことが出来る。すごいなぁけものフレンズ。すごーい! たのしー!

 

 

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