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『ど根性ガエルの娘』を読んで思った家族についてのこと

 巷で話題の『ど根性ガエルの娘』の最新話と、大体のあらすじを追った。以下結構内容と関係のない家族の人間関係の話です。西野? あれは触っちゃなんねえ。

 

togetter.com

 

 なんて言うか、15話を読んで「つらいなあ」と思ったのは「あまりにひどい話は読者が読みたくありませんから」っていう台詞かな。これは非常に真っ当な意見だし実際その通りでもあるけど、ちょっとミクロな視点で考えると辛い思いをした人が辛い気持ちを吐き出そうとしても「あまりにひどい話は誰も相談なんてされたくありませんから」ってことになるのかな、と。

 

 実際世の中には下を見たらキリがないもので、『ど根性ガエルの娘』が最底辺だと思わないほうがいいほど、いわゆる「普通」の人にはどうしたって理解できない経験をしている人が本当にたくさんいるわけで。この15話の「間違ったことを言ってはいけない」という感覚は非常によくわかる。この手のエピソードは私たちの身近にあふれているけど、ただ「普通」の人たちにはそのアンテナがないので感知出来ないだけだと思う。

 

 個人的にこういった話を聞くと、いつも例え家族であろうと許せないことは許さなくていいと思っている。「家族だから」というだけでハラスメントを仕掛けてくる人と付き合い続けなければいけない義理はない。そうならないように「普通」の感覚の人は無意識で相手を思いやり、個々が気を遣い合ってしっかり関係を維持していく。

 

 ところがそういった関係維持をすることができない家庭は誰かの思いやりを犠牲にしたり思いやりを思いやりとすら思わないように仕向けることで「一見まとも」な関係を作り出す。だから外からは「仲良しですねえ」と言われるけれど中に入るとボロボロなんてことはたくさんある。

 

 じゃあそういう人をどうやって救済するのかと言われると、おそらく「普通」の人は非常に嫌がると思うのです。何故なら、己の気力を犠牲にしてきた人はしばしば常に己について精神的に傷つけることをしたり逆に他人の犠牲を前提にして話をしてくる。つまり、目の前でひたすら無意味な自虐を聞かされたり非常にワガママな態度をとられたりするわけで、そうなるとこっちの気力のリソースが持たない。だから「普通」の人は離れていく。そして同じような人と傷のなめ合いが起こり、悲劇は連鎖して聞く。

 

 本来であれば「普通」の側の人が「大変だ、何とかしなくては」と行動をしなくちゃいけないんだろうと思うのです。現在はACの自助グループなどはあるのですが社会的に「救済」とまではいっていないのかなと思っています。もっと目に見える形で「支援」っていうのがあればいいのになあと思うことはたくさんあります。「子育て相談ダイヤル」みたいに「生きづらさ相談ダイヤル」とか専門ダイヤルがもっと周知されてもいいのになあと思うのです。

 

こころの相談の窓口について|困ったときの相談先|こころもメンテしよう ~若者を支えるメンタルヘルスサイト~|厚生労働省

 

 ただ、やっぱり大事なのは「普通」の人の意識改革なのかなあと思うのです。ある日友人から「私はうつ病だ」と告白されて心の準備が出来ている人はどのくらいいるだろうか。おそらく「私は癌だ」と告白されるより相当戸惑うのではないだろうか。そしてその動揺は敏感に相手に伝わって、余計症状を悪化させる方向に働きやすい。

 

 ここまで書いてきて思ったけど、この話題はポジショントークになるしかないというのが悲しい。この文章を書いている人が「アダルトチルドレン当人」なのか「アダルトチルドレンの支援者」なのか「元アダルトチルドレンの支援者」なのかでこの文の伝えたいことは結構変わってくる気がする。ポジショントークにしてしまえば、「普通」の人の耳には届きにくい。「あ、俺関係ねえよ」ってなる。その「関係ねえよ」が当人をどんどん追い詰めていくんだけど、だからと言ってみんな平等に傷つきましょうというのも嫌な話だ。結局のところ、やっぱり専門の相談員があちこちに設置されるのが一番いいと思うんだけどその存在を周知させる時点で「普通」の人は「見たくないもの見せるな」って言ってきそうだし「そんな特別な支援なんていらない」と思っている当人はたくさんいるだろうし、どうすればいいんだろう。

 

 多分効果は薄くても、今はこの漫画みたいに読んだ人がみんなが少しずつ嫌な思いをするしかないんだろう。その嫌な思いは彼らが今まで支払ってきたものだと思う。キリストはその「嫌な思い」を一人で抱えて逝ってしまった。少しずつ「嫌な思い」をしながらこれ以上の犠牲が出ないことを祈るしか「普通」の人に出来ることはないのかなぁと思う。