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さよならドルバッキー

この世の裏を知ったドルバッキーは世を儚んだ。

「嫌い」と抑圧

雑記

 最近の一連の何だかんだを見ていて、結局すれ違っているのは「嫌いを表明すること」と「嫌いという感情を持たないこと」をごちゃごちゃにしているからだなぁということを思うのです。

 

 正直、嫌いなものを好きになれというのはかなり難しい。いくら正しいことであっても、嫌いなものはどうしようもない。風呂に入るのが嫌いな人に「不潔だから入れ!」と言っても根本的に入浴が好きになる訳ではない。しかし風呂に入らないままでは社会的に問題がある。そこで「妥協できる範囲で風呂に入ってくれ」とお願いするしかない。

 

 ここで大事なのは「風呂嫌いなんていうのがおかしい、気持ち悪い」と風呂嫌いであることを認めないことなんだと思う。「こいつは風呂が嫌いなのは頭がおかしいから、無知だからであり私たちが風呂の素晴らしさを説いてやるのだ」とか「風呂が好きな私たちは風呂嫌いより上の存在なのだ」とか、そういうことを背景にしてはいけない。風呂嫌いには淡々と「風呂が嫌いなのはわかった。だけど風呂に入らないと周囲が迷惑するので迷惑をかけない範囲で入ってくれないか」と言うしかない。そこで「周囲に迷惑をかけたいから風呂に入らない」なんてこじらせている場合は大変なことだと思うけれど、「お願い」をされたら大体は妥協点を見つけてくれると思う。

 

 これはいじめ問題でも当てはまって、「悪いことだからいじめをしてはいけない」とだけ言っていてもいじめはなくならない。まずはいじめ加害者の言葉にならない不快感をどうにかしないかぎり再発したりターゲットが変わるだけだったりと根本的な解決につなげることができない。嫉妬や傲慢といった負の感情を抱えた加害者サイドの感情を探して、その感情をしかりつけて消すのではなく「その感情と向かい合いなさい」と諭すのが理想的ないじめの解決策だと思う。誰にでも多かれ少なかれ嫌な奴を消したいと思う気持ちはある。それに気づかないで行動に移してしまうといじめに発展する。まずは「嫌な奴だ」と思うのは悪いことではないというところから始めたほうがいいのだと思う。

 

 全てのパターンに当てはまる訳ではないが、「嫌い」という感情を抑圧されればされるほど、行動で「嫌い」を表現しようとする気がする。嫌いなものはどうしようもない。それを無理に好きになれと言ったり嫌う人がおかしいと言ったことになると、自己肯定感が低くなって関係ない人に八つ当たりをしたり卑屈な態度をとって人を不快にさせたりする。今問題になっているモラハラの加害者サイドの行動はこういった抑圧の末の行動という感じがする。「~しなければならない」を自分だけでなく他人に拡大して、周囲の人に「私は悪くありません」と繕う。いじめやモラハラの加害者を庇うわけではないが、彼らを罰するだけでなくどうにかして救うことが根本的に被害者の救済にもつながると考えている。

 

 政治的に正しくても抑圧は抑圧であり、汚い本音をなかったことにしてしまえばその歪みはいずれどこかで爆発する。問題のない優等生だった良い子がいきなりキレて加害行動に出ることはよくある話だ。ありのままの姿を見せたら「そんな汚いありのままを見せないで頂戴」と叱られる、なんて笑えない話だよなぁ、ほんと。

 

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