「うわ、コメホチ虫だ!」
台所の片づけをしていると、コメホチ虫が水道から現れた。
「このっこのっ」
素早く炎上記事をまき散らすコメホチ虫を、僕は叩いて追い出した。
「……そんなわけでさぁ、本当にコメホチ虫は迷惑だよな」
そんなことを行きつけのバーのカウンターで愚痴った。コメホチ虫は急に目の前に現れて、不快な記事を残していく虫のことだ。コメホチ虫は人々の不快な感情をエサにしているので、わざと不快になるようなタイミングで現れるという話もある。
「お若いの、コメホチ虫の話をするのはいけないと聞いたことはないか」
隣に座っているじーさんが声をかけてきた。そう言えば母からも「コメホチ虫の名前を出すと、またコメホチ虫が出るから呼んではいけない」と教わったことがある。しかしただの迷信だと思っていた。このじーさんもそれを信じているのだろうか。
「あるけれど、それが何か?」
じーさんはグラスを傾けた。
「あれはただの迷信ではない。コメホチ虫は、非常に恐ろしい虫だ」
そんな、大げさな。
「コメホチ虫は生存本能で不快な記事をまき散らす。これはコメホチ虫が生きる上では仕方のないことでの。問題はそれを受け取る我々にある。コメホチ虫が出たことによって我々は不快感を得、それを共有したがる。そこで生まれた新たな不快感にも、コメホチ虫は寄ってくる」
「それじゃあ、コメホチ虫がどんどんやってくるじゃないですか」
「その通り。『コメホチ虫が出た』と言うことで既に『コメホチ虫』という言葉が不快そのもの。だからコメホチ虫が出たことを知らない人にコメホチ虫について注意を促したくても促すことができない。促したら最後、またコメホチ虫がやってくるからの」
「コメホチ虫を根絶やしにすることはできないんですか?」
「それは我々が不快感を一切出さないようにすることくらいしかない。コメホチ虫の生態をよく理解して、コメホチ虫を見ても不快感をあらわにしなければ彼らはいなくなる。ところがそれを知らない人に広めると先に不快感が生じて、そこにコメホチ虫が食いつく隙が出来る。このやるせなさを『コメホチのジレンマ』と言っての」
「そんな……ところで、じーさん何者なんだ?」
気が付くと、じーさんの姿はなくなっていた。バーテンにじーさんのことを聞いても、最初からそこには誰も座っていなかったと言う。酔いが回ったのかもしれない。グラスの残りを飲み干して会計を済ませ、帰路についた。
じーさんは「コメホチ虫は不快感を見せなければいなくなる」と言っていた。退治するのではなく、「いなくなる」というところに奇妙なズレを感じる。そういえば、コメホチ虫を殺したという話を聞いたことがない。試しに殺してみるとどうなるのだろうか。
家に帰るとコメホチ虫がいた。俺はコメホチ虫を捕まえると、そいつのIPアドレスを引っこ抜いた。するとコメホチ虫は中の個人情報をばらまき、消滅した。
「なんだ、簡単に死ぬじゃないか」
ところが周囲がざわざわとしているのを感じた。見ると、どこから出てきたのか背後にコメホチ虫が大量にやってきていた。炎上記事は具現化し、家に火の手が回る。
「なんだ、こいつらどこからやってきた!?」
火の勢いは強く、コメホチ虫が何匹か焼け死んだ。するとまた新たなコメホチ虫がわく。
「こいつら、断末魔の不快感を食っているのか……!?」
何とかコメホチ虫をかき分け、家の外に出る。消防隊が駆けつけてなんとか鎮火した後に焼跡を覗くと、たくさんのコメホチ虫の死骸が転がっていた。
「それには触らないでください」
消防隊の人が注意をする。
「最近の火事は大体そいつらが原因で、イタズラに殺すとこうなるんですよ」
コメホチ虫の死骸は専門家によって集められ、どこかに持っていかれた。
「下手に触ると、あなた自身が燃えますからね」
焼跡を見て、改めてぞっとした。この事実を誰かに広めたい。コメホチ虫を殺すと家が燃えてしまう。ところがその虫の名前を口にすると、また大量のコメホチ虫がやってくる可能性がある。恐ろしい。
これがあのじーさんの言っていた「コメホチのジレンマ」か。足元に嫌な気配を覚えたけれど、見なかったことにする。奴を視界に入れないこと。それだけが自衛策のようだ。