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さよならドルバッキー

この世の裏を知ったドルバッキーは世を儚んだ。

誰も共感しない雑感

雑記

〇寝る前に何か書かなければいけないという謎の衝動に駆られたのと、「この記事は〇分で書きました」というのがやってみたいがために見切り発車で雑感を述べていきます。

 

〇いつもなんとなく根底にあるのが「共感って言葉がなんか嫌だな」ってことです。「共感しました!」というコメントを見ると「お前に何がわかるんだよ」とか少しひねくれたことを思わないでもないのです。おそらく「同意」とか「賛成」くらいの意味で使っていると思うんだけど、「共感」って言われると何だか気持ち悪い。述べたのは意見であって感情ではないってところもある。そもそもあまり自分の感情を書くのが好きではない。世間でみればこの事件はこういう風に受け止められる、という視点で物事を書くことは多いけど、それで自分が楽しいとか悲しいとかあまり関係ないと思っている。できるだけ個人の感情を述べるときは個人の意見ですというのを入れるようにしていて、それは「共感」したがる人は反対の感情を見つけただけで「これは私の敵だ」と認識してしまう恐れがあるからだ。「共感」っていうのはもらって嬉しいものでもあるけれど、「共感」できなかったものの居場所がなくなるという意味で正反対の役割もある。だからあまり物事に「共感」しない。

 

〇物事にたくさん共感していると「あれもいいな、これもいいな」となって最終的に自分が何者かわからなくなってしまうのではないか、という不安もある。この芸能人の言うことは正しい、というところが飛躍すると「私はこの芸能人の一番の理解者だ」という錯覚に陥ることもある。例えばブログだと、「このブログの書き手の意見はいいな」というところから始まり、「このブログの書き手は素晴らしい人だ」になって「このブログの書き手のことなら私が一番知っているはずだ」になる。ネットで文章を発表していると、批判や人格攻撃と同じくらいこの「不特定多数の保護者気取り」が現れるのも恐ろしい。批判ばかりが槍玉にあげられるけれど、過度な賞賛もまた人格の垣根を越えてやってくる。人格攻撃ならぬ、人格過保護だ。過ぎたるは及ばざるがごとしで、これも立派な「ネットのわるいところ」だと思っている。

 

〇結局結論は何度か書いてきたけれど「過度な賞賛は人格攻撃と同じ」と言うところだと思う。「批判する人はよくない」と壊れたラジオのように繰り返す人たちは自分たちで自分の首を絞めて言っている。身内に甘い社会はいつか甘えによって崩壊する。自覚もなしに褒めているのであればただの視野狭窄なんだろうけど、意図的に褒めているのであればそれはマルチで羽根布団を買わされるような空間に送り込まれる一歩前だと思う。マルチ怖いね。

 

〇何かを書かなければならない、という衝動は何かを書けば収まるかと思ったけれど特に収まらない。ただ書くことは上記を見ればわかる通り特にない。ないけど書きたい、ということもある。全く妙な話だ。ただこういう衝動はあまり表に出さないで、心の中で飼わなければならないものなのだと思う。そうして少しずつ貯めて爆発した衝動が、何か化学反応を起こして良いものになるのだと思う。人間ストレスをためるのもよくないけれど、我慢も大事。芸事は我慢も肥やしですね。

 

〇この記事は20分で書きました。これがやりたかった。それだけ。

 

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