あのにますトライバル

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『山月記』のこととなると黙っていられない

 読みました。確かにこれはひどい

 

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 ここで言及されている元記事に乾いた笑いしか出なかった。真面目に国語教師をやっている人が見たら漏れなく怒るレベルだと思う。これ、ひどさは「おまけ」が本番なんだけど、ヴィジュアル系の改変がかなーり適当なのも気になった。「わかりやすさ」を重視するのであれば、内容は変えちゃあいけないよ。

 

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 この『山月記』の改変をした著者は「自身のわかりやすさ」を追求するために余計なものをいれてしまった。それは改変した著者の脳内補正であって「作品の追求」ではない。『山月記』本文にはほとんど出てこないのに、改変の文章に何度も出てくるものは、「家族と愛情」である。

 

 この改変を読んでまず抱いた違和感は山月記は家族の物語じゃねええええ!」というところです。改変中の文章にしつこく「反対して追いすがる妻子」の様子が出てくるのですが、そんなの『山月記』にはないからね! ないからね! トラのマスクを被って通行人を襲って刑務所に入る、というのはまぁわかる(ことにしておく)んだけど、それだと「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」の説明がしにくいんじゃないの? これを『山月記』の導入にするにはミスリードを招く恐れがありすぎて怖いよ! しかも最後バッサリカットされてる! 何で!? なんで??

 

 で、この改変をした著者の「おまけ」を読むとどうしてこんな演出をしたのかがわかる。「なぜ主人公は虎になったのか」について、著者なりの模範解答例を示してあるのだけれど、これが既にミスリードすぎてお話にならない。

 

「なぜ主人公は虎になったのか?」という問いに対し、よくあるのが「臆病な自尊心と尊大な羞恥心のため」で、彼の詩には「愛情」が足らなかったと答えるものだ。ただ、名作「山月記」がそんなありきたりの教訓話なのだろうか?

 

 残念ながら、『山月記』には「李徴の詩には愛情が足りない」なんてどこにも書いてないので「よくある解答」っていうのが謎。どこの教科書会社だよそんなガイド作ってるの。「李徴自身には愛情が足りないから虎になった」ならまだわかる。

 

 確かに李徴は妻子より己の詩業を優先する男だから虎になったのだと最後の最後で自嘲する。でも李徴はそれより前に「おれの場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これがおれを損い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、おれの外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えていったのだ」と言っている。尊大な羞恥心があり、更に愛情が足りないから虎になった。これ以上虎になった理由に何を求めると言うのだろうか?

 

実際、作者の中島敦の人生と照らし合わせれば、そんな単純な話ではないことが分かる。妻子を犠牲にして虎になったのは中島敦自身であり、誠実に答えるなら、虎になったのは「中島敦が作家になることを決断したから」が正解だろう。

 

 設問はあくまでも「何故主人公が虎になったのか」である。もしこの設問が正解になるならば、「この作品が書かれた背景を論じなさい」という設問でなければおかしい。あくまでも現代文は「本文中の根拠」から解答を探す学問である。本文に中島敦の名前は一度たりとも出てこない。つまり「中島敦が作家になることを決断したから」は完全に解答者の「妻子がかわいそう! 李徴って自分勝手! ぷんぷん!」という妻子を起点に考えた独りよがりな発想からの帰結に過ぎない。これが改変にも影響を与えているから妻子のシーンが増えたのだろう。

 

 その後、この解答の根拠が書かれているのだがあまりにも本文から逸脱している。これは完全に主観であり「読書感想文」としては優れているが「なぜ主人公が虎になったのか」の解答としては不適切である。

 

そもそも「自尊心」や「羞恥心」は誰でも持っているので、多少敏感だろうが大きな障害ではない。そして「愛情が足りない」というのもよくあることで、むしろ「俺は愛情いっぱいだ」と言う人の方があやしいだろう。むしろ彼に足りなかったのは、山月記の虎のように、あらゆる動物をかみ殺す、勝負の世界に生きるための非情さに踏み切る覚悟ではなかったか。

例えるなら、作家になるとは虎になることである。世間の人気という不安定なものを多数のライバルと奪い合うのだから不安も多い。そして作家になる覚悟を語ったのがこの作品であると、私は思う。作家は登場人物に自分を投影するが、中島の人生を見る限り、虎こそ中島自身である。妻子よりも作品を第一とし、作品が認められない絶望のなかで、死ぬこともかまわないと覚悟したのだ。

小説の最後、「(虎は)再びその姿を見なかった」という句からは、虎の強い意志を感じる。長年作家に専念するか悩んでいた中島敦はこの作品を経て、とうとう虎になったのだ。その後、勤めていた女学校に、彼はその姿を見せなかったのだろう。

 

 それに、ここまで中島敦に言及したいなら『人虎伝』にも言及しないと中途半端になってしまう。『人虎伝』は『山月記』と内容はほぼ同じだが、虎になった理由を己の内面がどうのというものではなく完全に天罰として描いている。そこに中島敦は現代人としての視点を盛り込んでいるし、これは芥川龍之介が『今昔物語』などの話を現代風にアレンジしたものたちと一緒である。

 

だから「なぜ主人公は虎になったのか?」という問いに対し、私は「中島敦が作家になることを決断したからだ」と答えたい。

 

 いやさ、「私は答えたい」じゃなくてこっちは「本文中の根拠を元にした解答」を求めているわけ。おそらく「文学的背景視点で語る私一歩リード」って感じなんだろうけど、中途半端にピカソを理解した気になってデッサンもロクにできないのに中途半端にキュビズムの模倣した絵をデッサンの時間に仕上げるようなものだよ。絵に罪はないけど、今はデッサンの時間なんだからちゃんとデッサンしようよって話だ。

 

 現代文で一番大事なのは「今は何が求められているか」を正確に読み取るということだ。今問われているのは理由なのか具体例なのか、あるいは筆者の結論なのか自分なりの意見なのか。全ては設問読解にあると言ってもいい。だから下手に作問をすると、設問自体が意味をなさない問題も存在する。

 

 そもそも「主人公はなぜ虎になったか」という設問も非常にぼんやりとしたもので、これを著者の想定する自由筆記にするには高校生レベルでは無理だし、何より採点基準が不明確で試験で出題するには設問として不適当にも程がある。せめて選択肢問題にするか、「李徴の独白を手掛かりに」や「本文中より六字の言葉を2つ抜き出して」など解答を限定する必要があるわけで、この辺の事情もよく知らずに以下のようなことをぬけぬけと書いてしまう精神が信じられない。

 

【教師がバカな場合の解答例】

「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」のためです。

と書いておきましょう。通常、「尊大」なのは自尊心、「臆病」なのは羞恥心のはずですが、山月記ではこれを反転させ、より深みを持たせています。そのようなレトリックが国語教師は大好きなのです。

 

 そもそも教師の出来不出来に関係なく、設問と言うものには必ず適切な解答が与えられるわけです。まずこの解答の導き方が「中島敦がレトリックを用いてなんか深いこと言っているから正しい」という時点で根拠が一切なく、お前が見下している国語教師よりバカじゃねえのバカじゃねえのってなるわけです。

 

 もしこの著者がこういう風に教えられたというなら、その教師は精神的に向上心のない者だ。ただ、この場合著者が主題を無視して「山月記は家族愛の足りなかった男の話だ」と解釈しているので著者の受け取り方に問題があったと考えたほうが自然かもしれない。

 

 とりあえず次回もあるみたいなんだけど、現代風改変は山月記を見る限りネタにもなっていないし虎につなげる場面も「MAN WITH A MISSION」の突然の出現に無理があったし、おまけを見る限り解釈もかなり微妙なので慎重にやってもらいたい。というか、山月記の記事は炎上狙いではなく真面目に書いたのだったら後半のおまけは訂正を入れるか削除したほうがいいと思う、マジで。

 

山月記関連】

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