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さよならドルバッキー

この世の裏を知ったドルバッキーは世を儚んだ。

たんぽぽのように

 好きなことを好きなように書く。すっごく楽。なんだけど、それは公共の利益にはならない。あくまでも個人のことを書いても、社会的には何の得にもならない。それが社会的齟齬から発生した個人の出来事であれば耳を傾ける必要があるんだろうけど、個人の感じたままの個人の感想なんて、道端のたんぽぽ以上にありふれている。

 

 ありふれているものに価値を見出すのは難しい。その人物にとって記念すべきものなら、その人物にとって非常に価値のあるものになるだろうけど、実際はそうではない。「お父さん、お花屋さんね」と言って花を並べたメイの行動はお父さんから見れば価値のあるものだけれど、その積んだ花を市場に出せるかと言うとそういう話ではない。

 

 みんな道端のたんぽぽ以下の価値しかない。そりゃもちろん中には道端のクロッカスみたいな人もいるかもしれないけれど、クロッカスは自分の姿を認識できない。自分もたんぽぽの中に混ざっているからたんぽぽだって思い込んでいるかもしれない。そこでたんぽぽが「君はたんぽぽじゃない」と言ってあげることが大切だ。だけど、同様に「そうだよ、僕もクロッカスさ!」と自分の姿を見ることが出来ないたんぽぽに対してもケアが必要なのだと思う。反対に見た目が違うからとクロッカスをいじめるようなことがあってもよくない。

 

 たまに「ただのたんぽぽじゃダメだ、群生しよう」という感じで団子になったたんぽぽも見かける。一見大きくて立派に見えるけど、たんぽぽとしての美しさはない。たんぽぽはまずたんぽぽのことを知るべきなのだ。たんぽぽなりの力で、精一杯咲くのがたんぽぽの仕事だ。たんぽぽは種を遠くに飛ばして、また花を咲かす。その連鎖が花開いていくのが、ネットの姿と信じていた。信じていたかった。まだ夢を見ていたい。夢なんて見るほうがもうおかしいんだろうか。

 

 

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