さよならドルバッキー

この世の裏を知ったドルバッキーは世を儚んだ。

ものすごく知らなくてあり得なく当たり前な話

 簡単に思ったことをまとめておく。書かない後悔なんてなくて書いた後悔はあるんだけど、それでも残しておく。今からする話はもう自分の中で結論は出てしまっている話で、結局感性とか文化資本とかそういうので表される「何か」の絶対的な断絶がこの問題の根本的原因だと思っている。だから解決とかそういうのはない。溝が深まるだけだ。

 

 そもそも「互助会問題」で統括されやすい問題は身も蓋もないことを言うと「つまらない人がつまらないことを面白いと囃したてる」「面白い人が『それはつまらない』と指摘する」「つまらない人が『上から目線だ』と反発する」という構図だ。便宜上「面白い人、つまらない人」という言葉を使ったけれどこれは現象をわかりやすくするために使った言葉であり、誰かを揶揄するために使った言葉ではない。こんな断り書きが必要な世界が既におかしい気がするんだけど。

 

 例えばあるところにとても貧しい少年がいたとする。父親は不在、母親は朝から晩まで働いて少年の相手をしてあげられない。少年はおもちゃで遊んだことがない。ゲームなんて見たこともない。そんな風にして初めてできた友達の家へ行ってきれいなおもちゃや面白いゲームを見て、こう言うんだよね。「何コレ、すっごく面白い!面白いよコレ!」と少年ははしゃぐ。しかしそれを見て友達は気まずそうに言うわけだよ。
「それ、ずっと前に買ってもらったから飽きちゃったんだよね、あげる」

 

 これを聞いて貧しい少年はどう思うか、っていうところに全てはかかっている。「お互い飽きたものをシェアすれば空間も広がるし欲しいものも手に入るしwin-winの関係ですね!」とかいうのは今回考えないとして、ほとんどの場合において少年は嫌な気持ちになる。「何故うちにはこんな面白いものがないのか」「他の家はいいなぁ」「飽きたとか上から目線ムカつく」という感じになるということにしておこう。それではおもちゃをあげると言った友達に、悪意はあるのだろうか?

 

 もちろん「ふん、貧乏人の雑魚が欲しけりゃ恵んでやるよ」という底意地の悪い発想がないのかといえばそうとも限らないけれど、「欲しいならあげる」という気持ちに正も負もない。友達とすれば「おもちゃを買ってもらうのは当たり前」であり、「おもちゃのない生活」ということが想像できない。それと同様に貧しい少年も「おもちゃがある当たり前の生活」が想像できない。

 

 もし少年の家が貧しくなくておもちゃが日常的にある状態であれば「これいいなぁ」「欲しければあげる」というやりとりに全く問題はない。両者とも「おもちゃがあるのが当たり前」という前提があれば、その中でのトレードは両者の価値観を崩さない。ところが「おもちゃがあるのが当たり前」「おもちゃがないのが当たり前」の価値観がぶつかると、何をどうあがいたところで価値観のぶつかり合いにしかならない。「ある」側の価値観で「今度お父さんに妖怪ウォッチ買ってもらうんだ!」という話を「ない」側にすれば「上から目線の自慢」になるけれど、「ある」側の中で終われば現状報告会でしかない。

 

 子供の貧困問題みたいになってきたけれど、これと似たようなことがネット上で起こっている。「知っていて当たり前、何を今更」という側と「知りませんでした参考になります」という側に分かれていて、その断絶は子供のおもちゃ以上に溝の底が見えないと言うところだ。

 

 「知りませんでした参考になります」側は「ない」前提の考え方だ。この事象を知っている人などいないだろう、初めてこんなの見たよ感動した、すっごいんだこの世界はこんなにも素晴らしかったんだ、犬がワンと鳴いたらかわいいよ、掃除をしたらきれいになるんだ、モノを減らせばスペースが出来るんだよ、すごいね! という発想で思考をする。だから「僕のオススメする面白マンガ第一位は進撃の巨人です」とかそういう記事を臆面もなく書ける。だって『進撃の巨人』しか知らないから。そして『進撃の巨人』を知らない人が「すごいですね面白いですね!」となる。そのコメントに疑問を持つ人はいない。何故なら誰も「知らない」から。

 

 一方「知っていて当たり前、何を今更」側に来ると、「掃除したらきれいになりました!」「きれいな部屋の方が生活が落ち着くでしょ、すごいでしょ?」と言われても「お、おう……」という反応しか返せない。そこで「掃除したらきれいになるのは当たり前だよ」と言うのは先ほどの貧しい少年に「おもちゃがあるのは当たり前だよ」と言うようなものだ。これは基本的に失礼なことなのだ。

 

 ただ、「知っていて当たり前」な雰囲気が出来上がっている空間で「知りませんでした」をやらかしたとなると話は別になってくる。この辺は「半年ROMれと言われた経験のあるオマイラの不在」あたりで何度か書いたことがあったけれど、知っている前提で進んでいる話の腰を折るように「今何の話をしているのですか?」と言われるほど不快なこともない。また「今から点呼をとります、返事してください」というくらいの空間で「よかったねみんないたよ、迷子になってないねすごいね!」と場違いな騒がれ方をされるのも非常に面白くない。

 

 この辺のミスマッチが現状のやるせなさに繋がっていると思う。個人のやりたいようにやればいいんだよ基本的に。ただ、その個人の思惑がぶつかり合って喧嘩しているだけ。それだけ。そして互いのことを分かり合おうとか、そういうのはない。ただただ相手側を憎悪することくらいしかできない。不毛だ。

 

 しかし、「知りませんでした」の側を無条件で認めることが出来るかと言うと、やっぱり無知に付けこんだスパムやニセ科学マルチ商法に新興宗教はたくさんあるので「俺が面白いと思っているのを面白いと言うのが何故悪い!」って全て開き直ることは出来ないと思う。ただその辺の線引きは非常に曖昧で、水面ギリギリのものはかなり多いと思う。そこで「おまいさん墜落するよ」と言えば「批判するほうが悪い」「PVあざーすw」みたいな反応がある。ここが怖い。何が正義で何をするべきなのかわからない。わからない。ただ黙って水没していく界隈を見なかったことにするくらいしかできないのだろうか。

 

 そういうわけで非常に当たり前な話を書いた。「何を今更」にも程がある。結局信じることが出来るのは己だけで、己だけが自分の価値をわかってくれる。そういう世界だから本当に思う。「ブログはひとりで書くもの」だと。

 

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