あのにますトライバル

君の気持ちは君の中でだけ育てていけ。

おはようこんにちは殺します

 人間関係って、そんなに優しいものばかりじゃないと思ってる。この人に認められたいとか、あの人と同じになりたいとか、そういうことは誰しもが少なからず思っていることだし、それはとても残酷な感情になる。

 

 認められたいという欲求は割と根源的なものだと思うし、認められたくないと思う人はそんなにいないはずだ。「認められるのが怖い」と思うのは「期待以上のものを背負わされたくない」ということで、等身大の存在をヨシヨシしてくれる存在に対して普通は敵意を感じない。傷ついた子猫は最初かみついてくるかもしれないけれど、子猫の存在を認めてヨシヨシし続ければ大体なついてくれる。そこにあるのは信頼関係で、それから先は多少ふざけてても信頼関係は崩れない。そんなもんだと思う。

 

 だけど、実体の分からないヨシヨシをされたら大体人は困惑する。「奥さんどうですかキレイですねキレイって褒めたんだからこの40万の羽毛布団を買いなさい」という感じだ。その「キレイですね」にはこれっぽっちも「承認」は入っていない。その時「キレイですね」って言われて嬉しい人はあまりいない。むしろ不快に思う人が多いと思う。だけど等身大の自分を見失っている人は「私はキレイだから布団を買わなくちゃ」と思ってしまう。こんな感じで新興宗教や自己啓発セミナーが儲かっているわけだ。おそろしいおそろしい。

 

 等身大の自分というと「ありのままの」という言葉が去年流行ったけれど、これは「良いところも悪いところもひっくるめて自分を認める」ということが大事になる。いいところを見つめるのも大事だけど、悪いところを知っておくのも大事なことだ。どちらか片方をおざなりにしていると、それは「ありのまま」とは呼ばない。いいところだけ都合よく解釈するのもダメだし、悪いところだけ見て卑屈になるのもよくない。人生バランスのよい食生活が大事だ。

 

 何でこんなこと書いているかと言うと、先週強制的に参加させられたセミナーで「どう見ても感動ポルノですありがとうございました」というエピソードを紹介され、しかも業界の人が見れば一発で作り話とわかるくらい杜撰なもので「こうやって善意に付け込むの!?」と唖然としたからです。

 

 ちょっと調べると、最初は伝聞形式で語られたものだったのでおそらく最初は例え話のつもりだったのでしょう。だけどこのご時世、そういう話は「本当にあった泣ける話」として消費されてしまう。なんか動画とかになって拡散されている。いやあ、これ信じちゃダメだろうと。だけど「こんなのあり得ない」というと「そういうのは野暮だ感動したから問題ない」とか言われてしまう。エピソードを例え話として受け取ることが出来ないと、変な承認欲求に巻き込まれるんじゃないかってちょっと思った。目の前にあるもの全てが真実ではないけれど、その向こうに本当に言いたいことが隠されている場合もある。そこの切り分けがうまくできないと、本当にネットを使うことは難しいなぁと思うのです。

 

 「おはよう」と「こんにちは」と「殺します」の境目が曖昧で、「こんにちは」のノリで「殺します」という言葉を使っている人もいる。自分で自分が何を言っているかよくわかっていない。つまり等身大の自分と向き合ってないなぁと感じるのです。それは単に言葉が足りないということかもしれないけれど、ブログをやっている自覚があるならそういう言葉には敏感にならないと辛いと思う。

 

 あと、最近ブログのスター外しました。真面目に使っている人には申し訳ないけれど、やっぱり「既読」という意味でスターをくれたり何個も連打をしていく人を見ると「奥さんキレイですねうちの羽毛布団買ってください」に見えるし、目に入るのも本当にしんどくなってきたから外しました。本人はそういうつもりはないんだろうけど、どうもふわふわなコメントからもぼったくり羽毛布団の匂いがして辛い。御冷ミァハは、こんな世界を憎悪したんだ。