あのにますトライバル

君の気持ちは君の中でだけ育てていけ。

リア充と自己顕示欲と承認欲求とその最果てに

 話題になった増田。そしてその増田を連想させる10年前に話題になった作品。果たして新人類ブロガーは一体どのような末路を辿るのか。いや、多分末路なんてない。どこまでも道は続いていくだけだ。この記事は一連の記事に対する考察を書きとめたものなので「だから何だ」が非常に弱いので注意してください。

 

anond.hatelabo.jp

 

十億アクセスの彼方に(2004)

 

 まず、この増田が創作であるという可能性を十分に考える必要がある。本当にそんなブログハラスメントを受けている奥さんなんていなかったんだ、と考えたほうが世の中楽に生きていける。だけど、この話を笑えない現実があちこちにあるのは周知のとおりである。

 

【「十億アクセスの彼方に」考】

 この作品は10年以上前に作られたものであり、多少誇張されたところもあるけれど現在の「プロブロガー」と呼ばれる人たちの行動をある程度予言し、その誰かを幸せにしているつもりで誰も幸せになろうとしていない世界が表現されている。未見の方は一度一読してほしい。

 

 これを話題になった当時に読んで思った感想は「ただただ怖い」ということでした。その恐怖はお化けとか心霊体験とかそういうことではなく、「身近にいる人間と意思疎通がとれない」というものでした。実際「本当は人間が一番怖い」系の話の何が怖いかと言えば「目の前の人の気持ちを理解できない」というところにあります。

 

 例えば路上で何でもないのに「助けて!殺される!殺される!」ってごろごろ転がっている人を見たら一瞬ぎょっとすると思うのです。実は転がっている人は宇宙人が体内に潜り込んで人間の意識を乗っ取ろうとしていてそれに必死に抵抗しているのですが、そんなこと周囲は知るすべもありません。「理由もなく急に路上で叫んでいる変な人」として認識して、その原因がわからないので気味が悪い。これが「何を考えているかわからない人への恐怖」です。ただ、このケースの場合原因が周知されたところで気味が悪いのですが。

 

 十億アクセスの話に戻ると、家庭の内情がほとんど突き抜けになっていてそれをダシにいじめられる子とそれに気づかない親。こうなると「ブログ」が宗教の様相を帯びてくる。「どれだけアクセスを稼ぐことが出来るか」を競うあまり、大事なものを捧げてしまう。寄進だのお布施だの言って家財を巻き上げていく悪質な宗教と似たような構造である。

 

 大切なもの、とは言うまでもないプライバシーの問題だ。人間全てを大っぴらにして生活はできない。「やましいから隠すんだろう」という人もたまにいるけれど、全裸で街を歩いたら逮捕されるのは当たり前。隠すべきものは隠すのが現代でも常識だと思いたい。例えば収入の話だったり、身体の具体的なサイズやデリケートな問題、個人の信条などはあまり大げさに外に出すものではない。公開するな、というわけではない。ただ公開するにしても配慮を求められる項目だと言うことである。

 

 例えば何か問題のある人が「実は〇〇なんだ」とカミングアウトするのは非常に勇気のいることだし、大変だと思う。それでも「カミングアウト」に価値はある。ただ、これはデリケートな問題でそれを相手が受け入れられるかとかその後の生活に影響はあるかなど考えなければいけないことは多い。だけど、その「デリケート」な部分をすっ飛ばして「公開したんだから!」と変な開き直りをされるとそれはそれで迷惑だ。

 

 勿論人と言うのは一人で生きているわけではないので、何か問題が生じれば大体のことには「自分以外の当事者」が絡むもので、自分以外の当事者がどう思っているかも「問題」のひとつであると考えなければならない。同性愛者であることを両親に告白したところ、「世間の目もあるし、同性愛は受け入れられないが時間をかけて理解していこうと思う」という返事をもらったところで「僕が同性愛であることを両親は理解するって言っています!」って当事者がFacebookで公開したら両親はどう思うかって話ですね。それで何十万イイネが押し寄せて感動エピソードとしてシェア祭りが始まるアレ。そんな息子の一大決断で「親子の絆に感動しました!」とか言われてたら親も辛いだろうよ。

 

 根本的な問題として、こういう場合に「え、俺は平気だから公開してもいいんじゃね?」っていう人が一定数いると言うことなんだと思う。「俺が嫌だと思わないから構わない」「俺は嫌じゃないから嫌とはっきり言わないと辞められない」とかそういう感じ。ソーシャルの問題の前にハラスメントの問題が横たわってくる。

 

 当たり前だけど、何でも公開すればいいというものではない。そしてブログと言うツールは必要以上に「公開」されているものだ。それを知らずに使っているのは多分良くないことなんだと思う。だけど、それを啓蒙するのにはもう手遅れという感じだ。時代は着実に「十億アクセス」に向かいつつある。

 

【ソシャハラと知られない権利】 

 「SNSを執拗に聞き出す」とか「上司が部下のアカウントを監視する、または仲良くなりたいとSNS上で絡んでくる」などをまとめて「ソシャハラ」という言葉でくくっていたと思うのだけれど、今回の事例も「ソシャハラ」に含まれると思う。実際やたらとFacebookに他人の写真を投稿したり、Twitterで夫婦のちょっとしたやり取りを特定できそうな感じで呟いている人とかいる。

 

 

 そうなると、問題は「呟いた本人」だけではなく「話題の対象になった人」に及ぶことを考えないといけない。「こういうことをネットに載せるけれど」という了承をとるのが一番無難だ。相手が「これは身内だから面白いのであって、発信することではない」となれば発信しないほうがいいし、身内のバカを一緒に面白がって拡散させて炎上するならそれはそれで仕方がない。

 

 とにかく、人間は一人で生きているわけではないので話題には必ず「他者」が存在する。生身一人だけで面白い人間はあまりいない。大体は会話のやり取りなどから「面白さ」が発生する。ただ、面白いからと言って丸のまま公開するのはやはりデリカシーに欠ける。うんこの話は確かに面白いかもしれないけれど、「これが今朝の僕の立派なうんこです!」とか言ってインスタにうんこの画像を上げる人はいない。それと同じでいくら面白いと言っても、他人に見せてはいけないものがたくさんある。その分別をわきまえていくのが本来あるべき道なのだと思う。

 

 いくらうんこの話が面白いからと言って、「これボクの奥さんのうんこ。きれいでしょ?」って画像見せてくる奴はアウトだと思うし、奥さんがかわいそうになる。奥さんも自分のうんこが旦那によって世界中にばらまかれていることがわかったらかなり恥ずかしい。というか、過去にあられもない姿を撮影した写真を共有フォルダソフトに潜んだウィルスによってで全世界にばらまかれた女性の悲惨な事件があったけれど、自らそういう拡散に手を貸すことをしている可能性があるということだ。本人は奥さんのうんこだってきれいで自慢したいと思うかもしれないけれど、周囲の反応や何より奥さんの意志を大切にしなければならない。それが情報を発信する側のリテラシーだと思う。

 

 旦那と奥さんを例に挙げてきたけれど、別に自分以外の他者であれば誰だって「知らせる権利」の反対の「知られない権利」がある。簡単に言うとプライバシーだ。この問題は非常に簡単なんだけれど、一番の問題は「プライバシーが何だかよくわかってない人にプライバシーを教えるのが難しい」ってことなんだと思う。

 

「君のブログ、ちょっと家族の内容書きすぎなんじゃないの?」

「そうかなぁ。みんな喜んで見てくれているからいいんじゃない?」

「でも娘さんの誕生日に奥さんが風邪ひいたとかあんまり……」

「うちの相方なら問題ないよ。何も言わないし」

「嫌がってないんですか?」

「まさか。むしろ僕がブログやるのを応援してくれているんですよ!」

「そうですか、それならいいのですが……」

 

 「ブログには何も書いてもいい」というのは建前であって、「極力他人に知らせたくないことは喋らない」という当たり前の上に成り立っていることだと思うのね。そこんところ混同するとよくない。ただの口の軽い人になってしまう。しかも全世界レベルの口の軽い人。本人に自覚はない。やっぱり怖いね。十億アクセスの教訓を忘れたくないね。

 

 ちなみに「身バレを恐れて身元を公開しなければ面白いブログが書けない」というのは、ペンネームで作品を書いている作家さんたちは全て身元を明かさなくても面白いことを書いているのことから考えると、悪魔の契約だと思うので気を付けたほうがいいと思います。おわり。