さよならドルバッキー

この世の裏を知ったドルバッキーは世を儚んだ。

今月の「短歌の目」反省といろいろ 8月

 この「反省会」の意義をちょっと考えてます。詳しくは反省の後に。

 

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tankanome.hateblo.jp

1.ジャワ
 アスファルト ジャワと弾ける液体はスズメの涙と気付かぬ若人

 ジャワとくれば原人なのですが、この壮大なテーマを31文字で表現する自信がないので擬音に逃げました、すみません。随分と昔になりますが、学生時代「打ち水大作戦!」とか言って浴衣を着て学校のメインストリートに水を撒く集団がいたのですが、いわゆる「意識高い系」の走りのような集団だったので「ふーんへーほー」って思ったのを思い出したのです。

 

2.くきやか
 白妙に濃紺の帯巻く姿 くきやかなれど声ぞ遠かる

 地味だけど今まで詠んできた歌の中で割と好きな歌です。濃紺の帯を締めているのは大人の女性で、遠い昔に亡くなられています。彼女の帯を締めている姿ははっきり思い出せるのに、声はすっかり思い出せない。それほど年月が経っているのに目の裏に浮かぶ濃紺の帯というコントラストです。

 

3.蝉
 亡骸は思う 羽ばたくきらめきと土に還れぬ蝉時雨の中

 セミは嫌いです。うるさいから。セミは嫌いです。がさがさしているから。セミは嫌いです。2週間しか生きられないから。セミは嫌いです。路上にひっくりかえっているから。セミは嫌いです。車につぶされているから。セミは嫌いです。たくさんの死であふれかえる夏が大嫌いだから。

 

4.冥
 六文の渡し賃を持たされず 冥土に行けず現世に還れず

 死んだ人が三途の川を渡るには六文の渡し賃を払う必要があります。だから死んだ人の棺の中に「六文銭」っていうのを首にかけて入れておくのですね。歌で詠んだ人は六文銭を持っていないようです。つまり供養されていないということですね。遺族が薄情だったのでしょうか、それとも……?

 

5.まつり
 真夜中のセンター街で鳴り響くまつり囃子を聞いてはならぬ

 最初は「百鬼夜行」のイメージだったのですが、突如舞い降りた「センター街」という言葉に「現代の百鬼夜行」をひっかけられると内心ドヤ顔になった歌です。本来は「誰もいないはずの真夜中にまつり囃子なんてこの世のものとは思えない」だったのですが、気が付いたら「真夜中にいつまでも鳴り響いているのは本当にまつり囃子なのか?」というものになっていました。歌の広がりだけは出たかなぁと思います。

 

6.日焼け
 日焼けした顔じゃないからわからないことにしておくあの日の夕暮れ

 句切れなし。この歌はじっくり鑑賞するより照れを込めてざざざっと目を通すくらいでいい。何がわからないのか、どうして日焼けしてないからわからないとか、そういうのは考えないほうがいいと思う。そこに気が付いてしまうと、ただただ苦しくなるだけだから。あの頃みたいに真っ黒に日焼けしてないとか、もう奥さんがいるんだなぁとか、そういうことは考えてはいけない。

 

7.くちづけ
 炎天下 真白き肌にくちづけをすれどもすれども消えゆく貴女

 陽炎のようにゆらめく影を追い求めて恋焦がれる貴女を掴もうとして掴めないとかそういう情景を思い浮かべると幻想的ですが、ただかき氷を食べているだけの情景です。みぞれのかき氷うまいよな。

 

8.風鈴
 テレビからぽぅんと響く鎮魂の合図に構わず風鈴こそ鳴れ

 風鈴ということで聴覚に注目した歌にしようと夏らしい音を探した結果、こちらにたどり着きました。他は甲子園のサイレンとか、海の波とか考えたのですが夏ってダイナミックな音が多くて風鈴の音を引き立たせる繊細な音がなかなかないのですね。日本中が静まり返ったあの日と同じく、風鈴は今でも人間のやることなど気にせず鳴り響きます。できれば風鈴を鳴らすことのできる世界を、これからも。

 

9.菊
「おかあちゃん、蘭の花が好きやったん」「菊と蘭じゃあにぎやかでええね」

 詠み手は東北出身で関西に住んだことはないのですが、この歌は標準語ではダメなのです。「おかあさん、蘭の花が好きなのよ」「菊と蘭ならにぎやかでいいね」だとダメなのです。方言の力は恐ろしい。あと今回の少しズレた感じの字余りはわりと気に入っています。

 

10.【怪談短歌】
 イルカ島 ムラサキカガミ 赤い沼 19歳なの? 残念だったね。

 ムラサキカガミやイルカ島という言葉を20歳まで覚えていると死んでしまうと言う有名な都市伝説から。この歌の怖いところは怪談そのものではなく、「19歳なの? 残念だったね」の部分で、この話を聞いたおそらく19歳の人に向かって「残念だったね」とバッサリ捨てている悪意に背筋を凍らせてもらえたらいいなぁと思った次第です。いつの世も一番怖いのは人の悪意です。

 

 

【最近思うこと】

 「短歌の目」の企画に参加してから自分の歌の反省はずっとしてきました。この記事の意図としては「短歌や韻文なんてわかんないけどとりあえず参加してみよう」と言う人が多角的視点を持つことができればいいなぁというところから始まりました。短編小説の方もそうなんですが、こういう創作をすると言う行為で欠かせないのが多角的視点の有無だと思うのです。

 

 自分の短歌のスタイルは短編小説の延長で、多くが創作エピソードです。今回も2,6,9など思いを込めた歌は架空の人物の気持ちを架空の人物の気持ちとして詠みこんだものです。写実的なものなどは別にして、基本的に「自分がどう思ったか」より「この情景は美しいか否か」で考えてしまいます。それは31文字で表現するべきことなのか? ただの独りよがりではないのか、言葉遊びをしてクスクス笑えるものなのか、しんみりと心の闇を照らしてくれるのか。そんなことを考えながら大体詠んでいます。あくまでも自分のスタンスです。

 

 そんなスタンスで詠んでいるし短編小説も書いているので、短歌の目の感想をつけるのが難しくなってきたのです。短編小説の感想が本職なのでそっちに専念という名目で、「いや、短歌まで感想をつけるのは大変だなぁ」というサボり癖が発揮されているのです。


  わかるのですよ、感想をもらったらめっちゃ嬉しいっていうのが。だけど、その人のスタンスがはっきり見えないと感想って書けない。短編小説なら字数があるのでなんとかスタンスを探り当てることができるけど、短歌はそれがむずかしい。31文字×10首の中で「おまえは何がしたいんだ」を詰め込まなきゃいけない。それが見えないと、うまく言葉に出来ない。だから「感想」を称したモチーフについての個人の雑談をしなくちゃいけない。

 

 この「感想」と「感想と称したモチーフについての個人の雑談」というのは区別がつきにくい。短編小説の集いでも頑張って感想を書いているけれど、たまに個人の雑談に逃げるときがある。そいつが申し訳なくて短歌の感想を書かなくなったと言うのが割と本音。ただの自己満足になってはいないか心配だから。

 

 本来短歌って言うのは短編小説と違って、詠み手の意図と読んだ人の読解力のズレから面白いものが生まれていくのだと思っています。だからこうやって詠み手が「実はこうなんですよー」という反省記事はあんまりよくないなぁと思っていました。ただ、どれだけ「読解」を出来ているのかの目安になればいいなぁと思っていた次第です。一次的な読解で止まっている間は、たくさん積み重ねてもその向こうにはいかないので。

 

 随分と前に主催者の卯野さんとひとつの歌の解釈についていろいろ書いていた時があったのですが、そんな風に「いろんな見方があって、それが面白い」が大事だと思うのです。でも、そこで止まっていてはいけない。

 

nogreenplace.hateblo.jp

 

 佐藤真由美さんの「今すぐにキャラメルコーン買ってきて そうじゃなければ妻と別れて」という歌の解釈についてあーだこーだという内容です。この歌に対して「キャラメルコーンっておいしいですよね」とか「不倫はよくないですね(;^_^)」とか、そういうのはとっても簡単。簡単なんだけど、そっから先がある。それが情念を文字にするということだと思うのです。

 

 そんなことをさらささんの感想を読んで思いました。引用スターだけでも……と思うのですがそれをやっちゃうと自分の場合ちゃんと記事にしなきゃなーという変な義務感が発生するのでなかなかスター巡回というところまでいかないのが現状です、甘えていてすみません。自分ももっと世界を広げなくちゃなーと思います。

 

baumkuchen.hatenablog.jp

 

 ただ「他の人の感想を書くと勉強になるから感想をもっと書いてほしい」というのは本当に思う。おねげぇしますだ。ついでに短編小説の感想ももっと書いてほしいです。