あのにますトライバル

君の気持ちは君の中でだけ育てていけ。

※これは個人の意見です。

 先日からよくわからない感じになっているので思いついたことを書き留めておきます。暑くて参っている人にはお勧めできない文章です。モヤモヤしか書いてないのでモノ好きだけ読んでください。

 

 何にスッキリしていないのかと言うと、「個人の意見」という言葉の所在についてはっきりしないというか、非常に都合のいい感じで使い倒されているんじゃないかって思ってしまったことです。よくブコメ等で「個人の意見なので思想の自由の観点から批判はおかしい」みたいな感じのものを見かけるけれど、個人の意見なら批判をしてはいけないの? というのか主なテーマです。

 

 最初に感じた違和感としては、「Aという個人の意見に対して反対の意を唱えたBという意見に対して『BはAに対して批判をしているからおかしい』というのはBという個人の意見に対して批判をしているので理屈としておかしいのではないか」という感じです。ガヤガヤしているところで「しずかにしろ!」と怒鳴る人の声が一番うるさいという構造が起こっているわけです。

 

1 国家や社会、また、ある集団に対して、それを構成する個々の人。一個人。「―の意思を尊重する」
2 所属する団体や地位などとは無関係な立場に立った人間としての一人。私人。「私―としての意見」

個人(コジン)とは - コトバンク

 

 この辺の「個人」の意味から考えた場合、「個人の意見」ではなくなる意見と言うのは「集団の意見」だったり「立場上取るべき見解」だったりする。つまりそれらには批判をしていいというか、批判は進んでするべきだってことになるのかというと多分そうはならないんじゃないかなぁと思うのです。

 

 うまいこと抽象化して文を書くのが苦手なんでやっぱり具体例になっちゃうんだけど、たとえば「〇〇小学校の目標は全員皆勤賞達成です」みたいな「集団の意見」に対してよくつくコメントが「遅刻を許さないとか管理社会だ」「お互いに監視し合う関係になって健全ではない」というもの。更に「立場上取るべき見解」とやらも何かの謝罪の記者会見で「深くお詫びを申し上げる」などというのに「どうせ心の中では何も悪いとは思っていない」「ポーズとして頭を下げているだけ」などという言葉が並ぶ。

 

 これらだって「目標は全員皆勤賞」も本当に生徒全員が優良健康児で「個人の意見」の全会一致だった場合、「同数の個人の意見の批判」になりかねない。更に「立場上取るべき見解」を取ると、「その立場にいるからそんなこというのだろう」という見解以前の問題で足踏みをしているときも多いし、「個人的に私は悪いとは思ってないけれど、実際これこれこういう不祥事だったのです理解してね」などと「立場から離れた意見」を言うと、まぁ怒られる。

 

 ここで「個人の意見は批判をしてはいけない」ところに戻ってくる。「個人はOKだけど集団はNG」であるならば「どこからが個人でどこまでが集団か」を明確にしないと非常にアンフェアである。SAMPは個人なのか集団なのか。それともジャニーズ事務所SMAPという集団の中の個人なのか。また「立場上の発言はどこまで認められるのか」というのもある。例えば立場のある人が家に帰ってきて「政敵のあいつ死なないかなー」と風呂場でぽつりと呟いたことが盗聴されてネットにばらまかれるのも、「立場の上の発言」なのか「個人の自由な思想」なのか判断が付きにくい。とりあえず風呂場に盗聴器を仕掛ける奴が悪いのは当たり前ですので、そこ突っ込まないでね。

 

 そんなわけで発言の責任の所在って、「これに責任はない」って決めることはすごく難しいと思うのですよ。だから「発言にはそれなりの責任が個人だろうと集団だろうとある」ってしちゃったほうがわかりやすいと思うんですがね。

 

 なんていうか、「個人の意見だから責任ないのでNO批判」っていうのは男子が女子をからかって男子トイレに逃げ込んで「ここに入ったら男だかんなー!!」って言ってるのとあんまり変わらない気がするんですよ。もちろん最初にからかうのがよくないし、それで女子が男子トイレに入って男子をとっちめると「うわー男子トイレ入ったーおとこんなー!」とか新たな嘲笑にする感じのアレ。

 

 まぁ「個人の意見にだってある程度責任必要だろ何書いたって批判はされないなんてそれこそ『じゃあ俺もお前のこと悪く言うけど個人の意見だから批判すんなよ』という悪質ヒャッハーの思うつぼじゃないのかねぇ」っていうことなんですが、なんかよくわからなくなってきたので誰か代わりに考えてください。それでも多分すっきりした答えは出ないのだろう。もういいや。