あのにますトライバル

君の気持ちは君の中でだけ育てていけ。

誹謗中傷と過度な讃美とその他いろいろ

 久しぶりに思ったことをとりとめなく書いてみる。大体タイトルに帰結する範囲で終わらせようと思う。

 

 結局夏のファイアーフェスティバルはお決まりの「ネガコメは無視、炎上したらするべき~のライフハック」からの「批判と誹謗中傷を一緒にするべきではない」の定期的に吹きあがる話題で終わりそうです。何度目だこの世界。いつになったらまどかを助けられるんだ。

 

毒になる言葉は誹謗中傷だけではない

 まず、大前提はインターネットの空間は「言葉だけの空間」だっていうこと。だから言葉のみのやりとりになるからその言葉に込める力を侮ってはいけない。だから「掲示板に気軽に詩ねとか言っちゃいけない」というのは古事記にも書いてあることである。ただ、この「言葉だけの空間」が適用されるのは何もネガティブな言葉に限らない。「面白いですね」という言葉も、実は書き手にあまりいい影響を与えない時がある。

 

 今回の祭りの根本的なところに「人をバカにしている」以前に「記事の内容がつまらない」というところがあったと思う。「つまらない」ものを「面白い」と評価すること、これも十分書き手の価値観を歪ませる。心の底から面白いと思ったなら、「どこがどう面白かったのか」を言葉で説明しないといけない。インターネットは言葉の空間だから、言葉で説明できないものは観測できない。誹謗中傷も同様で、根拠もなく「しねよ」とか言うのも言葉そのものはキッツイが、無視しようとすればできないこともない。何故なら言葉に裏がないから。

 

 

 見ればわかるんだけど、これは旧ブログの嫌がらせのためにとられたアカウントだとしか思えない。ただ、これを見たとき「無言ブクマでバカって言いたいだけでわざわざアカウント取得してすごい労力だなー」としか思えなかった。明らかな誹謗中傷を受けたイヤな気分よりなんか軽やかな気分だった。その労力だけでホースディアさんのセンスが嫌いではないので、今後とも愛されるアカウントとして活動されることを期待します。

 

 正直、これがブクマで直接「バカ」って言われていても多分気にしなかったと思う。単発の言葉は弱い。ホースディアさんの場合はその裏に「わざわざアカウントを取得した」という素敵な文脈があったからよかったけど、脈絡のない悪意は観測できない。だから特に気にしない。他の方も書いていたけど、なんか変なことを言っているアカウントがあったら、ブコメページに飛んで過去の発言をチェックする。そうするとブクマ数が4ケタ行かないくらいのアカウントは大体誹謗中傷専用のアカウントになっている場合が多い。遠慮なく非表示にぶっこむ。あと明らかに思想が偏っている人もわかる。ちなみに脈絡のある悪意にはその時その時で対処します。

 

 今の話はネガティブな感情の話だけど、これはポジティブな感情でも同じ話。ただただ「面白い」ということを表現しようとすればその根拠がどこかに見えてくる。自分も単発で「面白い」というコメントをすることがあるけれど、大体「記事の内容が面白い」ということでその書き手まで慮ってないときか、明らかにネタでそういう反応を欲しがっているときである。書き手を尊重するときは「〇〇の××が▲▲」ということをちゃんと書く。何故なら自分がそういうコメントを貰うと嬉しいから。ただ単なる「面白かった!」は言語化されて響いてこない。次回のネタの参考になるくらいである。

 

 まぁブクマコメントなんて個人のメモ帳だから「この記事が面白かった」で充分で、こちらが配慮することなんて全くない。同様にブクマする方も書き手のことを慮る必要はない。このサバサバした空間が好きだからこのサービスが肌に合うなぁと思うのです。面白いと思ったらこのブログにもどんどん「面白い」というブコメをしていいです。それは問題ないです。ただ、それを書き手にダイレクトに伝えることが目的だった場合はもう少し違った形式がありますよってことです。営業したかったら、コメント力もないと死にます。そういう世界です。

 

 インターネットには根拠のない誹謗中傷*1もたくさんあるけれど、それと同様に無責任な讃美も転がっている。だから誹謗中傷を気にして辞めちゃう人もいれば、逆に無責任な讃美に浸って無駄に自意識が肥大化していく人もいる。「何で?褒めるのはいいことでしょ?」と思うかもしれないけれど、叱られずに甘やかされて育った子供が何でも自分の思い通りになると思ってわがままを言いたい放題している図を想像してほしい。

 

 何を書いても「面白かった」「ためになる」「さすが〇〇さん!」って毎日毎日コメントが来たら、讃美を受け入れることに慣れていない人は心が歪む。「あれ、俺ってチョー面白いんじゃないの?」って本気にする。いわゆる勘違いのいっちょあがりである。「何を書いても褒められる俺様は何を書いてもいい!上段から気に入らない奴らに物申す!何故なら俺様は何を書いてもいいからだ!」っていう人がいたなぁ。えーと、うっ……思い出そうとすると頭痛が……何だこの過去の記憶は……?

 

 で、この「面白かった!」という単発コメントを真に受けて自意識過剰ブロガーになっちゃう人、互助会システムで発生しやすいんですよ。だから互助会こわーいって思ってます。面白かったら面白かったと言っていいんですよ。ただ、大体この「面白かった!」は「面白いって言ったんだからうちのブログにも来てくださいね(はぁと」が隠れているんですよ。他サービスに行けばもっと露骨にこういうコメントはやってくる。「面白い記事ですね(^_^)よかったらうちのブログにも遊びに来てくださいURL」とかそんな感じ。はてブだとそれが見えにくい。それで営業コメントを真に受けちゃう、と。

 

 インターネットって面白いけど、基本的に相手を信用しちゃいけない空間だと思っている。「わー面白いですね参考になりました!」っていう言葉の裏に「けっつまんねーんだよゴミが」っていう感情が隠れているかもしれない。だけどそれを証明することは難しい。だから全ての話を最初から割り引いて考えないといけない。誹謗中傷を真に受けすぎると同様に、讃美も真に受けてはいけない。そんなところだと思う。

 

俺は母ちゃんじゃないしお前のことを知らないからな

 書き手とコメントする側の関係を書いてきたけど、コメントする側って書き手のことをどれだけ慮っているのかって思うことはあります。逆もまたそう。

 

これまで、自分に対してご自身の母親像を重ね合わせて好意や嫌悪感を覚えている人は4人は確認しているので、特に、母親らしいことを書いているつもりもないのですが(性別を設定する必要のない文章を心がけています。)、そういう人の琴線に触れる何かが自分の文章にはあるようです。

私はあなたの母親じゃない - 斗比主閲子の姑日記

 

 トピシュさんのキレッキレエントリです。特に「自分に対してご自身の母親像を重ね合わせて好意や嫌悪感を覚えている人」という部分に大変共感いたしました。ネットは相手が見えません。だから自分の知っている範囲での人間関係で当てはめて「この人はこうだ」という判断をするところがあります。だからこそラベルの名乗りや影響力の誇示などが大事になってくるのですが、それはアリュージョニスト的な話になってくるのでまた今度。

 

 トピシュさんはここで「母親」を物理的に人間を誕生させて世話をする人、として使っていますがもうひとつ「汚いところも何でも受け入れてくれる人」という意味も込められている気がしました。要は甘えてもいい存在ですね。自分も過去に特定の人から「この人はすごい(?)から何を言っても許してくれるだろう」として扱われたことは何度かあります。

 

 旧ブログでコメント欄を閉じていたのも「あなたの言いたいことわかるし私もそうだから~(以下しょっぱい思い出が数百字)~私とあなたは同じね二人はプリティーでキュアキュア」みたいな書き込みが今までに何度かあったからです。いやあ、ごめん俺お前のこと知らないわ。お前の身の上はお前のブログでやってくれ。ここはお前のチラシの裏でも「何を書いても構いませんので」でもないんだぞ、と。

 

 多分「この人ならこの思考を共有できる」と思って書き込んでいるのだと思います。それはそれでありがたいのですが、もう一度言わせてください。

 

「いやあ、ごめん俺お前のこと知らないわ」

 

 コメント欄でアピールするのはよいのです。ただ、最初に言った通りインターネットは言語空間です。自分の気持ちを心を込めて文章を書いて、相手に届くと良いなって思うかもしれないのですが、書き手からしたら「よく知らない人からかなり突っ込んだラブレターが届いた、どうしよう」以外の何物でもありません。デパートの「幅広いご意見をどうぞ」の意見箱に「〇Fのレジの子がかわいい愛してる愛してる愛してる結婚したいこんな不細工で無職に微笑んでくれるあの子がいれば僕は何もいらないああ愛しのあの子に会えればいいのでこのデパート最高」とか書かれても困るのです。

 

 確かに、コメントをするほうはブログを隅から隅まで読んで、その人のことをそれなりに知っているかもしれません。でも、双方向のやり取りをしようとするときにそれを前提で出されると大抵ビビりますよね。何年も会ったことのないおじさんに「俺がお前のおしめをかえてあげたんだぞーお前の太ももにはほくろがあるよな?」とかいきなり言われたらビビるみたいなものです。「母ちゃん」は何でも知っていて当たり前、みたいなことはありません。今回のトピシュさんみたいに過去に遡れればいいのですが、そうでないことのほうが多いので。

 

まとめ

 発信されている者に対してコメントをつけるとき、またはコメントを閲覧するときは全て「話半分」で考える必要があります。誹謗中傷にしろ批判にしろ、たとえそれがポジティブなコメントであってもそうです。更に、書き手に対して過度な期待をコメントに込められてもそういうわけで対処が難しいです。逆もしかり。コメントに期待もしない、書き手にも期待をしない。もちろん自分を過信しない過度に卑下もしない。つまり人間関係と行儀の問題です。

 

 ここまで読んで来ればわかると思うのですが、これは理想の世界の話です。どこにもないユートピアの物語です。世の中そんな甘くないことはよく知っています。こんな断り書きがないといけない世界、あたらしいゆーとぴあ。みんながすきかってにはつげんできるたのしいせかい。あれ、ないてなんかないぞ

 

 え、コメントをするのにそんなに考える必要はないから反射的にコメントしてもいいだろうって? 別にそれでもいいと思うんだけど、ブログを稼ぐ手段にするならそのくらい意識しないとねー。おわり。

 

*1:頭痛が痛い表現。