さよならドルバッキー

この世の裏を知ったドルバッキーは世を儚んだ。

異類との遭遇 ~チトセッタ解体論~

 普段書いたら書きっぱなしなのですが、いくつか感想を読んで「おお」と思ったところがあったので久しぶりに自己解体していきます。

 

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nogreenplace.hateblo.jp

 

【異界のモノと出会う時の話】

 今回念頭にあったのは「異界との遭遇」です。異界というとまるで違う世界のように感じますが、この作品の場合「手に取ることのできない世界」として登場します。風の民は人間の目に見えないだけで、風の民の秩序がそこにあります。人間は人間として人間の秩序の中で生きています。このふたつがときに交わることがあっても、本質の違うものは同じ空間で生きられないのです。

 

 本質の違うものとして登場させる異界の住人は、やはり絵になる妖精のような女の子がいいなぁと思うのです。それで現実世界の登場人物はどうするかというと、彼女の引き立て役でないといけないのです。そうすると女の子と相反する立場にあるのは大人の男性なのです。出来ればオッサンがいいです。こうしてロリコンファンタジーは必然的に出来上がりました。ちなみに自分の想定するカトラ氏の風体は『Dr.WHOOにならない春居筆美』みたいな感じです。

 

 

異界の住人と出会うお話。古くからある話です。が、ゼロスケさんの話の面白いところは、境界の人が(たぶん)おっさんだということです。境界とは、人間界と異界の境界です。通常、この位置にいるのは子どもか美少女なんです。

ナウシカがそうですね。ETもそうです。子どもは異世界の住人と偏見なしに付き合えるからです。女性の場合、最終的に異世界への供物になるからです。

では、このおっさんは何を意味しているのか。普通に考えれば、「筆者の分身」か、「筆者の体験」です。私は、ゼロスケさんは、このような異界の人と出会う体験をしているのだと思います。つまり後者です。宇宙人と会いました? 宇宙人ではない? そのルポルタージュをお待ちしています。

第八回 短編小説の集い 感想集 - 池波正太郎をめざして

 

 まさりんさんの指摘の通り、伝説の中で異類と出会うのは女子供と相場が決まっています。「子供は七つまで神様のもの」という言葉のとおり、生まれたばかりの幼い子供は大人よりも「あの世」に近い存在とされました。また神様の言葉を届けるシャーマンは卑弥呼のように、基本的に女性でした。

 

 つまり、異類と仲良くする物語にするのであれば現実側の人間は女性や子供なのです。しかし、残念ながらこの物語は最終的に異類から緩やかに拒絶される物語なのです。「私は大人になったから、大人のあなたとは一緒にいられない」という悲しい話です。『北極のムーシカミーシカ』で、ホッキョクグマとアザラシでも幼少期は仲良く遊んでいたのに大人になると「僕たちと君たちは住む世界が違う」とホッキョクグマはアザラシに拒絶されるのです。そんな世界です。

 

北極のムーシカミーシカ (新・名作の愛蔵版)

北極のムーシカミーシカ (新・名作の愛蔵版)

 

 

 ちなみに「宇宙人にでもあったのではないか」ということでしたが、残念ながら自分は宇宙人にあったことはありません。宇宙人にあったオッサンと言えば『未知との遭遇』ですね。あれは現実と向き合えなくなったオッサンの悲哀を異世界への憧れに昇華させた感じのお話だと思うのです。

 

 

【カトラ氏の涙の話】

 ラストで何故カトラ氏が涙を流していたのかということですが、「チトセッタが好きだったんだろこのロリコンが!!」という単純なお話ではないのです。ここから話がちょいと複雑になります。そもそも『風の民』とは何だったのかというところにまで戻ります。

 

 作中では書きすぎると間延びしてしまうため、あまり触れませんでしたがカトラ氏はおとぎ話の存在を現実と信ずるようなパーソナリティです。「トロイは本当にあったんだ!」とか「ラピュタは本当にあったんだ!」みたいなそんな言いぐさは実際に見つかったからできるもので、実在しなかった場合は「在りもしないものを信じた愚か者」でしかありません。つまり『風の民』という存在を本気で信じるには、彼自身の精神は「現実」よりも「異界」に近い位置にないといけないのです。簡単な言葉でいうと「子供の心を持った大人」というところでしょうか。

 

 そんなわけでカトラ氏はチトセッタを見つけ時間を共有することができたのですが、カトラ氏はあくまでも「現実世界」の人間なので、物的証拠がないとチトセッタを受け入れることが出来ないのです。ここが「現実世界」と「異界」を隔てている越えられない壁で、物語の帰結は「壁があった」ことを思い知らされる形になっています。

 

 早い話、「カトラ氏は心が子供だったからチトセッタに会えた」のであって、「チトセッタと会えなくなったことで大人になることができた」から涙を流しているわけです。「大人になって嬉しいな」ではなく「もう子供に戻ることはできないんだな」という涙です。『風の民伝説』はカトラ氏の中の柱であり、中心軸でした。それが目の前で消えていくわけですから彼はどうしても「大人になる=風の民の実在を証明できないと認める」ことをしないといけないのです。いわば心の故郷のようなものを消さないといけないわけで、もちろんカトラ氏にはチトセッタ個人が消えて悲しいという気持ちもありますがそれ以外の心情もかなり大きいと言うわけです。

 

綺麗な話なのだが、一方で人というものの狭い判断力が垣間見える不思議な作品。考古学という学問は地球全史という巨大な岩に小さな針で傷をつける程度のことしか検証できていない。これを学ぶ彼らは圧倒的無知の世界に潜り、過去の遺物であったりその地にいた王侯貴族であったりを推察し、僅かに残った史実とつきあわせて実際はどうであったかを検証しなければならない。考古学は絶望の学問とも言える。

なんとも泥沼王者な作者である。あ、主催さんの作でしたか、今頃気がつきましてどうも。

感想 - ブログ小説晒すはてな 

 

 そんなわけで、この「グミ。の人」さんの指摘は非常に核心をついているのです。「考古学は絶望の学問」というフレーズが好きです。いわば考古学と言うのは絶対に知ることのできない過去に対する叶わない片思いでしかなく、もうここにはいない恋人のバラバラになった手紙をつなぎ合わせて、褪せて読めない字を必死で解読すると言う非常に途方もない夢物語なのです。そんな裏テーマをさらっと読み解く「グミ。の人」さんは素敵だなと思いました。あと「泥沼王者」と言われてちょっと気分がいいです。正にそういった思考のメビウスや無常観を意図していたので、書いてもらえるととっても嬉しいですね。

 

終わりに

 毎回解体するのも辛いのであまり解体はしないのですが、今回はズバリな指摘をいただいて非常に嬉しくなって勢いで書きました。物語自体はサラッときれいな感じで終わらせたのですが、裏側にあるこの泥沼具合を読みとって頂ければ幸いかと存じます。おわり。

 

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