ハスカランカの花が一斉に散り始めた。よく晴れた空の下、薄紫の花弁は宙を舞い、濃い緑色の匂いの風に流されてどこか遠くへ運ばれていく。
「まるで絶景だね」
男が傍らにいる少女に語りかける。
「直に綿毛が生えて、また一斉に飛ばされるの」
少女は風に流される緑色の長髪をそのままに、緑と紫と青空のコントラストを楽しんでいた。その髪や日焼けした肌にハスカランカの花弁が張り付き、少女の装飾の一部となっていた。
「カトラはハスカランカを見たことがないの?」
「下界には咲いていないからね」
カトラと呼ばれた男はメガネに張りついた花弁を取り除くと、この光景をしっかり目の奥に焼き付けようと目を大きく見開いた。
「下界にはどんな花が咲いているの?」
「あまり種類はないかな。チトセッタが知らない花はなさそうだ」
「そうなんだ、それじゃあ今日も下界の話をして」
そう言って伸びをすると、少女――チトセッタは緑色の眼を輝かせてカトラに向き直った。
「そうだね、今日は『海』の話でもしようか」
カトラはチトセッタ以上に目を輝かせて、チトセッタの知らない世界の話を始めた。果てしなく広がる青海原や白い鳥、たくさん泳ぐ魚やその上を移動するための船という乗り物など、この閉ざされた山奥の神殿からは見えない風景の話は、チトセッタをいつもわくわくさせるのだった。
カトラがこの地を訪れたのは厳しい冬が終わった直後の、山々が緑に包まれる頃だった。古い遺跡のような神殿に一人で住んでいるチトセッタを見つけ、それから彼女にこの神殿の世界以外の話を聞かせるようになった。最初はカトラを警戒していたチトセッタも、すっかり心を許してカトラに山の話などをするようになった。時間はゆっくりと流れ、山々の恵みと自然に二人は包まれて過ごしていた。
ハスカランカの花弁がすっかり散ってしまった頃、二人の元に汚れた探検服を着た、一人の男が尋ねてきた。
「カトラさん、カトラさんじゃないですか!!」
「ミマツ、お前こそどうしてここにたどり着けたんだ!?」
ミマツと呼ばれた男は息を切らせてカトラの肩を掴んだ。
「考古学会のみんなも心配していたんですよ! この数カ月調査に入って帰ってこないんで、死んだんじゃないかって思っている人もいるんですよ!」
「そう簡単に死にはしないさ」
カトラはミマツの手を振りほどくと、柱の陰に隠れてこちらを覗いているチトセッタに視線を送った。
「大丈夫、こいつは古くからの友人だ。君を傷つけないよ」
おずおずと姿を見せたチトセッタを見て、ミマツは息をのんだ。
「もしかして、『風の民』?」
「僕たちはそう呼んでいたね、彼女はチトセッタだ」
不安そうなチトセッタと目を丸くしているミマツの間で、カトラはどこから何を放せばいいのか思案に暮れていた。
『風の民』とはこの地方に伝わる伝説で、季節の風や天候を操る民がかつていたというものだった。しかし伝承以外に彼らの存在を証明するものはなく、ただのおとぎ話だと断じるものもいる。カトラはこの『風の民』の存在を信じ、考古学学会に所属して各地の遺跡を回っているところだった。カトラの後輩であるミマツは、長い間戻ってこないカトラを案じてこの山の調査を行っていたという。
「確かに伝説のとおり緑の髪、緑の眼ですね」
「しかし、それだけでは彼女が『風の民』という証拠にはならない」
「彼女から何か話は聞けたのですか?」
「この辺りの自然のことは詳しく教えてくれるが、この神殿に関してはさっぱりだ」
ミマツはカトラの案内で神殿の内部を見て回った。長い間風雨に晒されていたようで、建物の劣化は激しく手掛かりになりそうなものはあまりなく、カトラの念入りな調査の跡が空しく残っていた。
「それにしてもおかしいじゃないですか、こんなところに女の子が一人で」
「そんなことはわかっている、だけど証拠がない」
それまでのんびりとしていたカトラの言葉にいら立ちが含まれた。人間が立ち入らない場所に存在する謎の神殿跡に謎の少女、それだけで十分『風の民』の存在証拠になりそうであるが、チトセッタが伝承の『風の民』と同じであるかどうかを決定的に裏付けする物的証拠がひとつもない。チトセッタが自身のことを語ってくれるのが一番の証拠になるが、無理に聞き出すことは難しい。
「証拠がなくても、あの子を連れて山を下りればいいんじゃないですか」
「それが出来たら、とっくにやっている」
カトラには気になることがあった。チトセッタがどうやってこの深い山奥にやって来れたのか、今までどうして一人で暮らしてきたのか、それをチトセッタが語ろうとしないことだった。語ろうとしないことを含めて、何か訳があるに違いない。カトラはチトセッタが話す気になるまで、いつまでもそばにいるつもりだった。
「でも一度山から降りてきて連絡くらいしてもよかったじゃないですか」
「そうすれば、大規模な調査隊がここに入るだろう。彼女が怯えてしまったら何も話さなくなってしまう」
「そうですが……」
ミマツはそれ以上カトラの心境に踏み込むことができなかった。
夜になり、いつもは火を怖がるチトセッタがたき火を囲むカトラとミマツの元へやってきた。
「あの、次の朝日が昇ったら、私、大人になるんです」
「それはめでたいね。君はいくつなんだい?」
「はい、15になります」
暗がりでチトセッタの顔はよく見えなかったが、声がこわばっていた。
「それで、お願いがあるんです」
「何をするんだい?」
チトセッタはひとつ深呼吸をした後、叫ぶように言った。
「私の、私の成人の儀を見届けてください」
思いつめたような申し出に、カトラは困惑した。
「それは、僕たちも何か手伝うのかい?」
「いいえ、ただ見ているだけでいいんです」
チトセッタはそれだけ言うと、その場からすぐに走って行ってしまった。「いよいよ『風の民』の秘密がわかるんですね!」というミマツの声をどこか遠くでカトラは聞いたような気がしていた。
翌朝、カトラはいつものようにチトセッタが行く泉へ行ったがそこにチトセッタはいなかった。チトセッタが「成人の儀」が何なのかを具体的に語らなかったので、カトラはまずチトセッタを探すところから「成人の儀」の謎を解かなければならなかった。遺跡の屋根の上、お気に入りの木陰、更にチトセッタの寝床まで探したが彼女はどこにもいなかった。
「あと残すところは……」
カトラはチトセッタと過ごした場所を思い出していた。アオミミズクの鳴き声を聞いた森、スノゲバナの開花を見た野原、泉から伸びる小川のせせらぎ……まるで険しい山奥であることを忘れるような景色の数々が頭を過って消えて行った。
「ハスカランカの花!」
カトラは花弁を散る景色を眺めた丘へ駆けて行った。丘の上に、確かにチトセッタはいた。しかしそのチトセッタは、カトラの知っているチトセッタではなかった。
「君が大人になるっていうことは、そういうことか」
『はい、今まで黙っていてすみませんでした。あなたが風の民を探していることは知っていましたが、真実を告げることが私も怖かったのです』
チトセッタの身体を通して、朝日がカトラに降り注ぐ。緑色の髪、緑色の眼、そしてしなやかな肢体が次第に景色に溶けていく。
『私たち風の民は普段は人間の眼には見えませんが、確かに存在しています。この場所は私たちの成人の儀式の場所で、立派な風になるために肉をまとい育つ場所です。肉体を得て自然と触れあい、風の恵みを肌で感じるために一度人間の姿になるのです』
カトラは消えゆくチトセッタを黙って見つめていた。
『この場所に人間が来たことで私は成人の儀が邪魔されると思いました。今まで教え聞かされてきた人間というものは邪悪で、風の恵みをないがしろにするものだと聞いていましたので。しかし、あなたは私の邪魔をすることはなく、こうやって私を祝福しにここまで来てくれました』
チトセッタの声はだんだん小さくなっていった。
『私はあなたに会えてよかったと思っています。これから私は風になって、あなたが話してくれた場所へ行きます。人間の街や雪の降る大地、そして大きな海。たくさんの世界を知る喜びを教えてくれたのは、あなたです』
「待ってくれ、僕はそんな大層なことはしていない」
『ありがとう、カトラ。私の一番最初の風を見てください。ありがとう』
その後最後に彼女は何かを呟いたようだったが、その声は風にかき消されてカトラの耳には入らなかった。突如として舞い上がった風が丘を駆け抜け、ハスカランカの綿毛が一斉に飛び立ち始めた。まるで雪のように舞い散る綿毛を、カトラはただただ見つめることしかできなかった。
「大丈夫ですか、カトラさん」
ミマツの声でカトラは我に返った。
「ああ、確かに彼女は『風の民』だったよ」
ハスカランカの綿毛のひとつひとつを、チトセッタが運んでいく。姿こそはもう見えないが、彼女は確かに「ここ」に存在している。
「そうですか」
ミマツはカトラの頬に流れるものに気が付いた。
「カトラさん、やはりあなたは『風の民』ではなくチトセッタが」
その言葉の続きは突如吹いてきた風によってかき消されてしまった。その風はハスカランカの綿毛をどこまでもどこまでも遠くへ運んで行った。
≪了≫
今月は「たまにはファンタジーを書いてみよう」ということで精いっぱいのファンタジーにしてみました。ロリコンファンタジーです。
特に今回の固有名詞は「ファンタジーっぽいの」というだけの勝手なネーミングですが、チトセッタだけ『みどりのゆび』からとりました。その結果結末まで『みどりのゆび』っぽい気がします。『みどりのゆび』のラストはかなり好きです。そんな趣味です仲良くしてください。
- 作者: モーリスドリュオン,ジャクリーヌ・デュエーム,Maurice Druon,安東次男
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